痔になりやすい生活習慣とは?

私はよくインターネット等で天智天皇は百済の王子の翹岐王だったとか
蘇我氏は名前が渡来系っぽいから百済人や藤原鎌足は豊璋だとか言っている人を見ます
そこで疑問があります。

まず、いくら王子だからとはいえ日本の属国であった百済の人間が
まして国外追放されて亡命してきた翹岐王や人質としてやって来た豊璋のような人間たちが
頑張ったとしても、朝献をする国の外国人が日本のトップである天皇や
その側近に成れるものなんでしょうか?
名前を隠して入れ替わろうにも周りも馬鹿じゃないんだからバレて入れ替われないでしょうし
普通は周りの人間が大反対してそんな地位にはなれないんじゃないでしょうか?

倭が391年以来、海を越えて襲来し、百済や新羅を破って服属させてしまった。 (広開土王碑)
新羅百済は倭を大国と崇めた (隋書81巻東夷倭国)
新羅の4代目国王の昔脱解は日本人 (三国史記 新羅本記)
百済の王が王子を人質として倭国に送る (三国史記 百済本紀)
新羅は倭国に奈勿王の子未斯欣王子を人質に送る。 (三国史記 新羅本紀)

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A 回答 (5件)

『日本後紀』延暦二十三年四月二十七日条の和朝臣家麻呂薨伝に、「蕃人入相府、自此始焉」(渡来系の人として公卿になったのは、家麻呂が最初である)とあります。


桓武天皇の母方のコネで、渡来系氏族からようやく中納言や大納言に昇ることができたわけです。

ましてや律令制以前の世襲的に職掌の継承が行われる時代であれば、渡来人は差別を受けて、高官に昇ることはほぼ無理です。マエツキミ(のちの参議にあたる議政官)クラスでも、秦河勝ら数例しかありません。彼らは、基本的には技術官僚として貴族層に搾取される側の人間でした。
外国人が天皇に成り代わるなんてのは不可能です。

インターネットでそういったトンデモ説をご覧になり、疑問を持たれたとのことですが、みんなが皆、疑いを持つとはかぎりません。高校の日本史ですらまともに勉強してこなかった人や、おもしろければなんでもいい人、思想的に偏っている人など、さまざまな人たちがいます。

そういった、インターネットで見かけただけで、あっさり洗脳されてしまいそうな人もいるのですから、教えて!gooのようにネット検索の上位にヒットする場でこのような質問をされるのは控えていただけないでしょうか。
知らずに一生を終えるであろう人にまで興味を持たれて、トンデモ説が広まってしまいます。
無視が一番です。
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この回答へのお礼

そうですね無視が一番だなと思いまし

そして誰一人日本の政権の中枢に属国の外国人が入った事を証明する
資料を提示せずに自分の妄想歴史を語られる人が多いことに驚きました

漢人と属国百済を一緒にするのはちょっと
それに秦氏はしっかりと渡来系であると名乗っていますし

お礼日時:2013/09/23 11:10

 だいたい、生粋の日本人といえる人がこの時代にあったのかどうか疑わしいですよね。

時代を遡れば、先住民とされる縄文人がいてそこに弥生人がやってきてさらに時代が下り、朝鮮半島や中国大陸から人がやってきて住み着いたわけですから、色々な文化・風習をもった民族が島の中に住んでいてもおかしくない。

 金達寿さんという韓国の研究者さんの著書にあったのですが、古い吉備郡史には「大和の如きは事実上漢人の国、山城は事実上秦の国」という言葉があるそうです。漢氏も秦氏も有名な渡来系氏族です。高松塚壁画古墳が発見された檜隈は今でも漢氏族の氏神となっていた於美阿志神社が、氏寺となっていた檜隈寺跡があり、於美阿志神社の境内には、宣化天皇の檜隈宮跡であったという石碑があるそうですよ。漢氏と宣化天皇の関係があるのかどうかは解りませんが、なんかクサいなあと思います。
 この内容が事実かどうかは別として、大和の大王家自体が生粋の日本人の家系なのかはっきりしてないのに、一概に外国人が大和政権の要職につけないとは思えません。

 話が変わりますが、ローマの共和政を帝政に変えたユリウス=カエサルは貴族じゃないし属州民出身だそうです。チンギスハンが建てたモンゴル帝国は征服した地域や国の有能な人材を有効活用したそうです。
 あなたの着目点は鋭いと思います。でも信じる信じないはあなた次第です!

この回答への補足

自分もいきなり日本人が何も無いところから生まれたとは思っていません
人類は元を辿ればアフリカから生まれ世界へと旅立っていったのですから

大和の大王家自体が生粋の日本人の家系なのかはっきりしてないのに、
一概に外国人が大和政権の要職につけないとは思えません。

では何故百済の難民達は王族にもかかわらず
要職につけなかったんでしょうか?
そして百済人が要職についたと仮定しても
カエサルのように何故百済出身の何々と書物に書かれていないのでしょうか
名を変え身分を隠す必要があったのでしょうか?

補足日時:2013/09/23 10:47
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図書館で聖徳太子に関する本を見ていたら、石上(いそがみ)神宮の国宝七支刀(しちしとう)と言うものが日本にあり、物部氏に関係しているとの記述がありました。


その前に韓国で作成されたドラマ 百済王(クンチョゴワン)というのを見た後なので少なからず衝撃をうけました。恐らく史実に基づいて製作されたと思います。
当時の文化はどう見ても朝鮮半島の方が進んでいたと思われるし、七支刀があるということは百済にとって兄弟国というイメージがあったものと思います。 それも破壊されずに現存するということはそれなりの意味もあると思います。 
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-6/2012_10_28.htm

古代では何かが入れ替わることはあったのではないでしょうか。時代が違うかもしれませんが「国譲り」 の言葉も残っているくらいですね。 また、歴史上に出てくる方々の名前の表現も大きく変わった時期がありましたね。 あるいは2つの名前が残っているなど。
それ以上に関しては想像の域を出ません。

この回答への補足

古代では何かが入れ替わる事があったのなら
その事が書いてある資料を見せてもらって良いでしょうか?
ドラマ以外で

あと日本と百済が兄弟国?そうは思いません何故なら
三国史記「新羅本記」に慶州を倭兵に包囲されたと言う記録がある

満州にある碑文に倭国が海を渡って百済と新羅を臣下にしたと書いてある。
  
中国の歴史書の宋書に倭国が朝鮮半島南部を支配した記録がある

と完全に百済は日本に支配されていたというこれだけ資料があるのだから
兄弟国というのは少しおかしい気がしますが? 

それに文化も中国の歴史書の魏志倭人伝に既に3世紀から倭国では鉄の鏃を使ったと書いてありますし 
中国の歴史書の随書にも倭国は産物も豊かで鉄の鏃で武装した軍隊を持つ。
百済と新羅は倭国を大国として敬ったと書いてあるんですが
これでもまだ百済の方が日本より文化的に優れていたというなら
その事が書いてある資料を提示して頂いて良いでしょうか?

補足日時:2013/09/23 02:37
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それが出来たんだよ 古代には




人は歴史を見るとき どこかに現代の価値観を取り入れてしまう
現代で無理なのだから古代でも無理なのだろう…と

それが歴史の真実を隠す大きな要因ではないだろうか?

この回答への補足

古代ではそれが出来た理由
そして、そのように外国人が古代日本の政権の中枢に入った例があれば
ソースと共に教えて頂いて良いでしょうか?

補足日時:2013/09/22 21:29
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日本は後進国でしたから、朝鮮半島で優位な情勢を維持できていたかは大いに疑問です。


ただ、戦闘の局面で日本が勝つことはあったでしょうから、特に当時の朝鮮では海の向こうにそこそこの武力を持っている国があるとは知られていたでしょう。

日本が優勢であったから、豊璋が人質として来た、というのは間違いです。

百済は、朝鮮半島で自分の覇権を維持しようとすると、どこかと組む必要があった。
組む相手が、高句麗であり、新羅であったこともあります。
朝鮮半島内の合従連衡以外の道とすると、唐と組むか日本と組むかが選択肢として当然上がります。
競争相手の新羅が唐と組めば、百済としては日本と組むしかなかった、というのが実態だったのではないでしょうか。
日本は非力でありながら百済の要請によく応えています。
国際関係無知の天智天皇は百済支援軍を送り白村江で新羅・唐の連合軍に大敗を喫し、日本国滅亡の危機を招きました。
唐・新羅間の関係がおかしくなってきたことで日本は救われました。

豊璋が人質であったことは間違いないですが、人質は人間性を無視された扱いを受ける、との理解は間違いです。
人質兼外交特使ですから、受け入れ側も格別な接待をしており、人質がいずれ故国に帰った時、日本びいきとなることを期待していました。
しかし、そういう立場の人でしたから、日本人から、あまりうちとけるようなことは少なかったと思われます。

この人質は李氏朝鮮時代、朝鮮から清に王子クラスが送られています。
清も昔の日本と同様な対応をしたようです。
清の方が圧倒的に社会が成熟し、文化度は高かったようですから、清贔屓になった王子もいたようですが、百済と日本の関係とは違って、朝鮮が蛮族と卑しんでいた清【女真)
に国土を蹂躙された朝鮮側の屈辱感は強く、清贔屓になった王子は帰国後枢要な地位で活躍したことはなかったようです。

この回答への補足

中国の歴史書の随書にも倭国は産物も豊かで鉄の鏃で武装した軍隊を持つ。
百済と新羅は倭国を大国として敬ったと書いてあるんですが
それに満州にある碑文に倭国が海を渡って百済と新羅を臣下にしたと書いてあり
  中国の歴史書の宋書に倭国が朝鮮半島南部を支配した記録があるわけですから

百済は間違い無く日本の属国だと思うんですが

補足日時:2013/09/23 10:50
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お二人の評価については、ちょっと分からないので「正統説」を知る方法について回答してみたいとおもいます。

>歴史学会で「正統」とされているものだけ、なるべくなら読みたいです。

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中には、なんらかの資格(博士号とか修士号とか)が必要な学会もありますが、多くの学会は意外とオープンであり一般会員を受け付けているところも沢山あります。
日本史では、「日本歴史学会」と「歴史学会」が主流の二本柱であると言えるかと思います。


http://wwwsoc.nii.ac.jp/jhs/link.html
http://www.yoshikawa-k.co.jp/nihonrekisi.htm
http://wwwsoc.nii.ac.jp/rekigaku/index.html


本屋の棚には玉石混合であり、なかなか素人では「トンデモ本」であるかどうかを見分けるのは難しいです。
ですが、定期的に学会が発行する冊子や論文集などはその学会での「正統説や有力説」とみて間違いないと思います。
また、「一冊の本」よりも「5本の論文」の方が学術界では資料価値は高いです。
なので、歴史本をよむより学会発行の雑誌論文のほうが有益かもしれません。

また、学会発行の雑誌は図書館に縮尺版や纏められたモノがありますので、過去の論文ならタダ(他館から取り寄せや印刷を頼んだ場合は、印刷代や郵送料がかかる場合がある)で読めます。
また、大学図書館の中には一般会員を募集してるところも出始めているようです。
公共図書館・大学図書館等を活用すれば、資料収集の幅が大きく広がりますよ。
また、CiNiiで論文を探して、近くの図書館や国立国会図書館で複写を依頼することも出来ます。
また国立国会図書館では、ネット申し込みと郵送サービスがありますので、活用してみてください。

http://ge.nii.ac.jp/genii/jsp/index.jsp
http://www.ndl.go.jp/jp/information/guide.html

お二人の評価については、ちょっと分からないので「正統説」を知る方法について回答してみたいとおもいます。

>歴史学会で「正統」とされているものだけ、なるべくなら読みたいです。

との事ですので、一つの方法として学会に入会してみてはいかがでしょうか?
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Q宮内庁はなぜ日本史の解明に非協力的なのか

よく宮内庁は皇室の歴史が明かされるのを嫌う傾向にあると聞きます。
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皇室関連の質問をここでしたりすると、「皇室は千年の歴史があり、最も由緒ある皇帝でありそれは世界的に認められていて世界で唯一イギリス王室と並立する歴史的権威が云々・・・」という人たちが必ず現れます。そういう保守的な人たちはもちろん、現皇室は基本的にそういう立場というかそういう建前があって成立しているのですね。これは明治維新以降の皇室の歴史的かつ政治的な立場です。そして宮内庁はそれを「守る」立場にいるわけであります。それを否定してしまったら皇室の存在意義そのものが問われてしまいます。

で、そういう立場からすると、過去の「作られた歴史」が暴かれてしまうことは権威の根拠に関わってしまいます。例えば、天皇家というのは実は朝鮮半島から渡ってきた騎馬民族の末裔ではないかという話があります。倭国(日本)は百済の支援をして当時の倭国としては大軍事力を半島に派遣して白村江の戦いで敗れてしまいます。なぜ倭国が百済に過大なまでの支援をしたのか、単なる同盟関係であっただけではなく、実は百済が天皇家からみると「本家」で、倭国は百済の分家ではないのかという話があります。
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もし仮に「皇室はかつて朝鮮半島からやってきた渡来一族の末裔である」ということが明らかになってしまったらどうなるでしょうか。嫌韓のネット右翼がなんと言い出すかどうか考えただけでも恐ろしいですね。今のところ皇室半島渡来説は荒唐無稽で根拠のない話ということになっています。なぜなら、日本書紀にも古事記にもそんなことは書いていないからです。しかし、日本書紀も古事記も時の権力者にとっての「大本営発表」なので歴史の削除、捏造、針小棒大などは当然あるわけです。あるけど、ないことになっている。それが我が国の古代史に対する学会の立場です。古代史は天皇家についてはアンタッチャブルの領域なのです。

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宮内庁の仕事は、現在の皇室の伝統を次代に繋げることです。皇室にはなんとかの儀、かんとかの儀、と年がら年中しきたりだらけなのですが、それを続けることが最も重要なんですね。伝統の継続というものの頂点にある存在といってもいいでしょう。「歴史的に見て正しい」かどうかはむしろ邪魔なんですよ。まあ宮内庁関連の人といったら公家の末裔とか松平家の末裔とか父は貴族院議員とかそんな人たちばっかりですからね。しもじもの者が入りたいといっても入れてはくれません。

皇室関連の質問をここでしたりすると、「皇室は千年の歴史があり、最も由緒ある皇帝でありそれは世界的に認められていて世界で唯一イギリス王室と並立する歴史的権威が云々・・・」という人たちが必ず現れます。そういう保守的な人たちはもちろん、現皇室は基本的にそういう立場というかそういう建前があって成立しているのですね。これは明治維新以降の皇室の歴史的かつ政治的な立場です。そして宮内庁はそれを「守る」立場にいるわけであります。それを否定してしまったら皇室の存在意義そのものが問われてしま...続きを読む

Q中臣鎌足とは何者なのか???

中臣鎌足とは何者なのでしょうか?
『蘇我本家を滅ぼしたクーデター「乙巳の変」では、暗殺の計画から実行までの中心人物として活躍した。』と日本書紀には事細かに記述されています。
しかし、それ以外となると、ほとんど業績らしきものが書かれていないのです。
知名度からすれば、奇妙な感じです。

百済救援軍が白村江で唐・新羅連合軍に惨敗し、国家存亡の危機を招いた時にも活躍が見られない。
たまに出てくる記事を見ると、唐の将軍が送ってきた使者に贈り物をし歓待しています。
鎌足というのはそういうよく分からない人なのです。
偉人伝には珍しいことではないが、出自も粉飾されたという説が有力です。
中臣氏であることは疑いないにしても、元からの中央豪族ではなく、常陸出身で都に上ってきたらしい。
(藤原氏の氏神、春日大社の4柱鎮座する祭神のトップが常陸の鹿島神宮の神であることもこの説を裏付ける。)

気になるのは、「藤氏家伝」に愛読書が中国の名だたる謀略の書『六韜』とあることです。
確かに鎌足登場を機に、日本史に陰謀が増えます。
入鹿をだまして呼び出した手法、有間皇子・蘇我倉山田石川麻呂らの謀殺など。
中大兄・鎌足コンビになるとやり口が急に陰惨になる。
それは、その後も藤原一族の常套手段となって継続されます。

こうしてみると、日本書紀に業績がないのも、暗い仕事ばかりで書ける話がなかったためかもしれないですね。

中臣鎌足とは何者なのでしょうか?
詳しいサイトなどがあれば教えて下さい。

中臣鎌足とは何者なのでしょうか?
『蘇我本家を滅ぼしたクーデター「乙巳の変」では、暗殺の計画から実行までの中心人物として活躍した。』と日本書紀には事細かに記述されています。
しかし、それ以外となると、ほとんど業績らしきものが書かれていないのです。
知名度からすれば、奇妙な感じです。

百済救援軍が白村江で唐・新羅連合軍に惨敗し、国家存亡の危機を招いた時にも活躍が見られない。
たまに出てくる記事を見ると、唐の将軍が送ってきた使者に贈り物をし歓待しています。
鎌足というのはそ...続きを読む

Aベストアンサー

千葉県の木更津市に「鎌足(かまたり)」と言う地名があります。現在は「矢那(やな)」と言う地名に代わってしまいましたが、今でも付近に鎌足中学校・鎌足小学校などがあり、名前が残っています。
。鎌足の誕生の地という伝説があるようです。

参考URL:http://www.bandou.gr.jp/30.htm

Q自分が在日かどうか調べる方法

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証明)を取れば両親のこともわかるのですか?
母親の祖母が在日で帰化していた場合、その事はどの世代まで表記されるのでしょう?

ちなみに私は両親の戸籍から分籍(転籍)しており、本籍は東京ですが、出身および両親の本籍は大阪です。


在日か調べたい→戸籍を取れ、という解答はよく見るのですが、
具体的な方法が見つからず困っています。


また在日がどうのという質問に非難が集中している様子を見ることがありますが、
まぁ私のアイデンティティを明確化させたいだけですので、今回はご容赦ください。
日本生まれの日本育ち、ここ数世代の直系は全員日本人の日本人!と、
日本生まれの日本立ち、でも曾祖母は朝鮮人だから87.5%はチョッパリニダ!では、
やはりちょっと心持ちが変わるので、はっきりさせたいのです…。

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

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Aベストアンサー

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで韓国併合政策により在日朝鮮人はもとより、朝鮮半島にいる朝鮮人まですべて大日本帝国臣民扱いで法律上、外国籍ではなかった(両者とも本籍は半島にある)。
昭和20年の終戦を迎え在日の多くは半島に帰国しましたが、日本に残ったり、また朝鮮から戻ってくる人達もおりました。
明治時代から昭和26年までの間に朝鮮より日本へ渡って来た朝鮮人達は昭和27年にそれまであった日本の国籍を失って正式に外国籍となる。そして、在日朝鮮人の日本国への帰化が始まったのも昭和27年。

古来からの日本人家系なら苗字漢字に制限なく明治時代からの苗字漢字を継続できます。
在日朝鮮人の帰化が昭和27年に始まり、名前の漢字制限(上記)は昭和23年に始まってますから、朝鮮籍、韓国籍から日本に帰化した者は旧字体漢字で帰化するチャンスがなかったんです。

簡単な調べ方としては『住民票』での苗字名前漢字が旧字体で表記されてるなら明治時代からの日本人家系。
新字体ならば、
「戦前の家系状況が分かる戸籍みせて」と役所に言ってみること。
戦前の家系状況が記されていて朝鮮人を思わせる記述がなければ日本人。
戦前の家系状況が分かる戸籍を見せてくれない場合や戦前の戸籍が日本以外にある場合は帰化人だと判断できます。

戸籍取得方法は先に回答されてる方法をやるといいでしょう。

ただ、例え純粋な日本人でなかったとしても質問者さんが日本が大好きで在日の方々のように反日感情を露わにされるのが不快に感じるなら、心はちゃんと日本人ですよ。

…私も可能性はあるかもしれないんで経済的に余裕が出来れば戸籍を追ってみたいです。


以上、参考程度に

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで...続きを読む

Q古代豪族の末裔

紀国造の称号が現在も紀氏の末裔の方に連綿と受け継がれているということを聞いたことがあります。
いわゆる古代豪族(物部氏・葛城氏・蘇我氏・大伴氏など)は奈良時代から平安時代(藤原氏の台頭)に合わせるように歴史から消えてしまったかのように見えますが、彼らは本当に没落してしまったのでしょうか。名前等を変えて近世まで貴族として残った例はあるのでしょうか。
また地方豪族(尾張氏・上野毛氏など)なども同じころに名前が出なくなりますが、そのまま地方に根を張り武士化して近世に至った例などはあるのでしょうか

Aベストアンサー

ANo.5 です。お礼ありがとうございます。
お礼へのコメントを兼ねて回答の追加をさせて頂きます。
私は「古代豪族」を王権に影響力を行使するような大豪族、例えば質問文にあるような物部氏・葛城氏・蘇我氏・大伴氏などと認識しておりましたので、土師氏のような職能集団は除外しておりました。
ANo.6 さんが既に土師氏を掲げておられますが、土師氏からは後に菅原氏・大江氏が出ます。
菅原氏は菅原道真が出て堂上公家の地位を確立します。本来ならば藤原氏によって潰されるはずなのですが、子孫は江戸時代には数家に分かれて堂上公家として繁栄?します。菅原道真の怨霊を恐れて、子孫が公家社会で厚遇され続けたのでしょうかね。また、加賀藩前田家は菅原氏を称しています。系譜詐称で菅原氏を称しても何の箔もつかないので、恐らく本当なのではないかと愚考します。
大江氏は京都の公家社会では地位を確立できず下級官人で終わりますが、大江広元が鎌倉幕府の創業に参加し、子の毛利季光が戦国の大大名毛利家の始祖です。但し、大江氏の出自、大江広元の出自とも中世の系譜ですら異説が記されており、信憑性には疑問が残ります。
蛇足ですが、大江広元の出自は中原氏とも言われています。中原氏は安寧天皇の子孫を称する橿原市・桜井市付近の小豪族が出自のようです。中原氏は堂上公家の地位を確立できなかったものの、嫡流の押小路家は准堂上として認識されていました。つまり堂上が公家1軍とすれば、中原氏の押小路家は2軍筆頭ということです。で、直江兼続の実家の樋口家が中原氏だったりしますが、こちらも異説があり判然としません。

ANo.5 です。お礼ありがとうございます。
お礼へのコメントを兼ねて回答の追加をさせて頂きます。
私は「古代豪族」を王権に影響力を行使するような大豪族、例えば質問文にあるような物部氏・葛城氏・蘇我氏・大伴氏などと認識しておりましたので、土師氏のような職能集団は除外しておりました。
ANo.6 さんが既に土師氏を掲げておられますが、土師氏からは後に菅原氏・大江氏が出ます。
菅原氏は菅原道真が出て堂上公家の地位を確立します。本来ならば藤原氏によって潰されるはずなのですが、子孫は江戸時代には...続きを読む

Q天皇は朝鮮人という主張する人の考えの原点は何?

先日、別件で質問したところ、今の?天皇陛下は朝鮮人だ等という
質問の趣旨と関係ない回答が寄せられ、人を馬鹿にするな等、おおよそ見当の付かない
罵倒を掛けられました。

何でそんなに起こっているのか。皆目見当が付きません。
そもそも、天皇陛下は朝鮮人・コリアンなどという根拠も理解しがたいものがあります。

自助努力で調べたところ、このサイトにも過去にそんな質問が寄せられていました。
1.日本書紀にて朝鮮人と思われる人の血が入っていると書かれている

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6617838.html

または、検索エンジンで調べると
2.明治天皇が二人いて、本物と偽者(朝鮮人)がすり替わっている
 側近の日記と外国人来客者の日記に登場する明治天皇が似ても似つかないため、
 二人居たとされているようです。

などがそれらの根拠なのかな?と推測しています。

1.については、事実の確認しようもなく、そうであったとしてもかなり昔のことであり、
仮に、今後皇太子殿下が国際結婚されたとしてその子は日本人ではないと言えません。
日本国籍を有しており、日本人ですから、皇位継承者であると思います。

2.については、私が側近だったらなら、まだ若い明治天皇を外国人に会わせて
何かあってはいけないし、当時の尊皇攘夷の観点から、
もしくは、日本が小国と思われないような観点から、
わざと強そうな影武者(偽者)を立てて引き合わせるということもしたかも知れないと思うのです。
または、外国人が天皇なんだからという思い込みで実際に会った中で一番強そうに思えた人間を明治天皇と勘違いしたということも考えられますよね。

また、これらのことはどうも小説家?の人が本にしたり、DVDにしたりと、
布教活動しているようです。私は見てませんが。

本というと、従軍慰安婦の問題でも日本人元軍人がさも事実のような暴露本を出し、
韓国内でも発売されて問題化しました。でも、これは後にウソであったことを作者本人が語っていますし、古墳からウソの土器などが出土したとか、最近では、iPS細胞を使って人間の手術をしたというようなウソを付く人は後を絶ちません。

信じるか信じないかは本人次第なのかもしれませんが、
明確な歴史的根拠をご存じの方、宜しくお願いします。

先日、別件で質問したところ、今の?天皇陛下は朝鮮人だ等という
質問の趣旨と関係ない回答が寄せられ、人を馬鹿にするな等、おおよそ見当の付かない
罵倒を掛けられました。

何でそんなに起こっているのか。皆目見当が付きません。
そもそも、天皇陛下は朝鮮人・コリアンなどという根拠も理解しがたいものがあります。

自助努力で調べたところ、このサイトにも過去にそんな質問が寄せられていました。
1.日本書紀にて朝鮮人と思われる人の血が入っていると書かれている

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6617838...続きを読む

Aベストアンサー

1については、すでに他の回答が出ているとおり、、『続日本紀』(『日本書紀』ではありません)の桓武天皇の母が武寧王10世の孫にあたる高野新笠記述されていること、これが根拠と考えられます。
このレベルの混血で朝鮮人と考えるのは、論理の飛躍という次元を越えています。論理的な思考は望めないでしょう。
2については知見がありませんが、1のこの状態ですから2はさらに根拠が乏しいことでしょう。
どちらにしても、まともな思考の末至った意見ではないでしょうから、相手にするのは時間の無駄です。根拠を示さず、自分の意見だけ押しつける人間は無視したほうがよいかと。

補足のブログですが、「大内家という藩があった」という一文だけでまともな歴史知識がないことが明白です。「この長州藩に朝鮮部落にさせられてしまった元・大内家が混ざっているんでしょう。」と根拠のない推測に推測を重ねていたり、田布施町に朝鮮部落があったと記述しているのに、田布施町出身者を朝鮮部落出身と拡大解釈していたり、1と同レベルあるいはそれ以上の論理飛躍が甚だしい内容ですね。肝心の「大室寅之助=顔の黒い大男」についてどこにも書かれていませんし。
そもそも、滅亡した大内氏の子孫の村を朝鮮部落と想定しているようですが、おそらく根拠は大内氏は百済聖明王の子孫を自称していること。これって高野新笠よりはるかに後の世代です。一滴でも渡来人の血が混ざっていれば朝鮮人という思考回路のようですね。。
願わくばこのような破綻した妄想に騙される人が少ないことを祈ります。
脱線して失礼いたしました。

1については、すでに他の回答が出ているとおり、、『続日本紀』(『日本書紀』ではありません)の桓武天皇の母が武寧王10世の孫にあたる高野新笠記述されていること、これが根拠と考えられます。
このレベルの混血で朝鮮人と考えるのは、論理の飛躍という次元を越えています。論理的な思考は望めないでしょう。
2については知見がありませんが、1のこの状態ですから2はさらに根拠が乏しいことでしょう。
どちらにしても、まともな思考の末至った意見ではないでしょうから、相手にするのは時間の無駄です。根拠...続きを読む

Q最初の天皇はなぜ誕生したのか?

初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?
神武天皇は、国王(日本で一番偉い人)みたいなものだったのですか?

Aベストアンサー

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたのであろう。と予測する立場があるんですね。
ですから国家や天皇の成り立ち自体はよくわかっていない中で、神話などの古伝承から国家や天皇の成り立ちを整合性を以って説明できるのでは?と目下奮闘中といった人々もいる。とのあり方が現況では一番進歩が見られるスタンスであり、逆にそのような暗中模索な状況こそが、現在の学界における日本国家成立の研究、ないし天皇支配の淵源の研究などの現状だと思います。

そして天皇(大王)を中心とした国家といった概念が表れたであろうとされるのが、いわゆる4世紀の古墳時代と呼ばれる時代であったことは、考古史料から、特に前方後円墳などの規格性の強い墓制の出現で見当がつきつつあるのですが、そこの詳しい実態は、日本はもとより、3世紀段階における日本の国情を伝えた古代中国の史書などが4世紀時点ではないためよくわからないんです。いわゆる「謎の4世紀問題」ですね。

いずれにせよ『魏志』倭人伝などの記述から、卑弥呼が活躍する前後(3世紀)にあっては「倭国大乱」と評価できる内戦状態が、その規模は別として事実あったのでしょうね。もちろんその戦闘状態は天皇の出現と無関係であるとも思えないんです。その様な中、詳しい経緯はわかりませんが、倭国大乱と呼ばれる混沌とした戦乱の世にあって、統一的国家としてのヤマト政権を樹立するだけの武力ないし交渉力が、4世紀段階における天皇(大王)の祖先にあったことは疑う余地はないのかな?と思いますし、考古史料などが語る結果から帰納法的に糸を手繰りつつ明らかにしようと試みている、3世紀から4世紀にどのような経緯で歴史がつながるのか?といった問題は、識者はもとより僕に限らず古代史に興味を持つ者が一番知りたい部分なのです。

ですから率直に申し上げれば「初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?」という質問については「こっちが知りたい部分です」といった頼りない回答になり、せっかくのご質問に明確にお答えできないことを心苦しく思いながらも、現状をご理解いただければありがたいと思う次第です。

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたの...続きを読む

Q卑弥呼と天皇の関係

邪馬台国が北九州にあったのなら疑問はないのですが、もし畿内にあった場合は
当時、奈良か大阪にいた天皇勢力とはどんな関係だったのでしょうか?
当時の天皇勢力の範囲も限られていたため、邪馬台国とは共栄共存という感じでしょうか?

Aベストアンサー

邪馬台国は、畿内とは言っても、京都、兵庫、大坂の地域に分布した国です。一方、原大和朝廷(天皇勢力)は大和盆地(奈良盆地)にあった国です。両者は棲み分けていました。魏志倭人伝に登場する狗奴国が原大和朝廷のことです。(邪馬台国が畿内にあったのはほぼ間違いありません。)

また魏志倭人伝にある通り、邪馬台国の領袖は女であり、狗奴国の領袖は男(天皇)でした。

両者は国境を接して小競り合いを続け、対立を繰り返し、決して友好な関係ではありませんでした。しかし、邪馬台国が魏朝と晋朝の冊封体制下にある間は、中華皇帝の威光を背景とする邪馬台国の勢力が優っておりました。

武帝が死去して恵帝の時代になると晋朝の内部崩壊が始まり、八王の乱に至って晋朝の権威は地に堕ちました。中華皇帝の威光の凋落は日本にも大きな影響を与えました。邪馬台国の勢力は弱体化し、この時期に原大和朝廷が邪馬台国を制して西日本の統一へ動き出したと見られます。(第八代孝元天皇から第十代崇神天皇のころ)


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