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 徹底的に批判しきっておきたいと考えます。
 ニーチェの亡霊をもほうむっておきたい。

 すでに 批判がなされています。ところが 次のヰキぺの記事においても どこかまだ その《永劫回帰》なる考えにしても なんらかの思想性があるかに思われるというような評価さえが残っている。

 質問者は 次のくだりをめぐって 批判を明らかな結論が得られるようにおこない切りたい。
 ご見解をお寄せください。


 ▲ (ヰキぺ:永劫回帰) ~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%8A%AB% …

 § 3 永劫回帰批判

 ・・・
 ( a ) 永劫回帰は科学的に確定される現象や政治思想としてではなく、あくまでも実存主義の構えの柱の一つであり、個人の心的現象内によって発生しうるものなのかもしれない。
 
 ( b ) ニーチェは、個人幻想の枠内ならば、人間は因果律も時間軸も超えられることを叫び、個人幻想の絶対的自由を主張したかったとも解釈しうる。これについて、永井均は永劫回帰は思想と言うよりも、ある日突然ニーチェを襲った体験である点を強調している。

 ( c ) 永井均はニーチェ哲学とは徹底した「問い」であると指摘している。確かにニーチェ哲学は狂気をはらんでいるが、それは無知や短絡的思考からくる狂気ではない。一般人なら適当なところでやめてしまう疑問を問い続けた結果であり、哲学的思索を徹底したがゆえに発生する狂気なのである。
 ~~~~~~~~~~~~

 (あ) 次の命題は 意味がない。

  ▲ ( b ) 個人幻想の枠内ならば、人間は因果律も時間軸も超えられることを叫び

 つまり 《人間は いかようにもその想像力の翼をはばたかせて自由に空想を成しうる》と一般論を言っているに過ぎない。ゆえ。

 (い) つまりそれを

  ▲ ( b ) 個人幻想の絶対的自由を主張したかったとも解釈しうる。

 と解釈するのは ばかばかしい。想像力の自由さ・ゆたかさは 特に主張をするものではない。
  
 (う) これをもって

  ▲ ( a ) 実存主義の構えの柱の一つであり

 という気が知れない。想像力があれば 《実存主義の構えの柱の一つ》になれるのか? ならすべての人が 実存主義者だ。

 (え)  ▲ ( a ) 科学的に確定される現象や政治思想としてではなく、・・・個人の心的現象内によって発生しうるものなのかもしれない。

  ☆ 《心的現象として発生したもの》なら 思想だというのだろうか? 何らかの気持ちをいだいたという心的現象が そのまま《実存主義の構えの柱》になれるのか? ちゃんちゃらおかしい。

 (お) ▲ ( c ) ニーチェ哲学は狂気をはらんでいるが、それは無知や短絡的思考からくる狂気ではない。一般人なら適当なところでやめてしまう疑問を問い続けた結果であり、哲学的思索を徹底したがゆえに発生する狂気なのである。

 ☆ ここには このように《発生する狂気》が 何らかの思想的な意義を持つと言わんばかりである。んなばかな!
 ▲ 一般人なら適当なところでやめてしまう疑問
 ☆ というのは 無意味と知ったからやめるのではないだろうか?

 (か) すなわち 永劫回帰については 次の説明がある。

 ▲ (同上ヰキぺ) ~~~~~~
 § 1 概要
 ( d ) 「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち、無限の時間の中で有限の物質を組み合わせたものが世界であるならば、現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。

 ニーチェにおいて、この世界の円環的構造は、たんに存在論的なものにとどまらず、自由意志の問題と結びつけられる。
 ~~~~~~~~~~~~
 このどこが 《ニーチェ哲学》というように《哲学》なのか?
 どこが 《哲学的思索》なのか?

 (き) ▲ 「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち
 ☆ この前提がおかしい。のではないか? なんで時間が無限なのか?


 (く) ▲ 現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。
 ☆ という内容についての次の説明が どういう考えから出て来たものか 解明していただきたい。

 ▲ ~~~~~~~~~~~
 § 1 概要

 永劫回帰は生への強い肯定の思想であると同時に、「一回性の連続」という概念を念頭に置かねばならない。つまり、転生思想のように前世→現世→来世と‘生まれ変わる’ものでは決して無く、人生とはカセットテープのように仮に生まれ変わったとしても‘その年その時その瞬間まで、まったく同じで再び繰り返す’というものである。

  仮に2006年、あなたはブルーの服を着て、白いズボンを履いて14:45に目黒駅前の明治学院行きバス停でタバコを一服していたとしよう。命尽きて生まれ変わっていたとしても、2006年、あなたはブルーの服を着て、白いズボンを履いて14:45に目黒駅前の明治学院行きバス停でタバコを一服している。リセットしてカセットテープを巻き戻しただけの状態になる。

 これが「一回性の連続」である。それを永遠に繰り返す。

 故に、己の人生に「否」(いな)と言わず、「然り」(しかり)と言う為、強い人生への肯定が必要なのである。

 ツァラトストラは自ら育てた闇に食われて死して逝く幻影を見る。最高へは常に最深から。超人は神々の黄昏に力強く現れる。闇を知り、闇を破し、死してなお生への強い「然り」を繰り返す。今、ここにある瞬間の己に強く頷く態度、それこそが超人への道であり、永劫回帰の根幹である。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この哲学の貧困について その由来が知りたいと思いますので ご見解をのべておしえてください。
 その内容こそが ニヒルではないか?

A 回答 (32件中31~32件)

「神」って?



肯定するの?、諦めるの?
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この回答へのお礼

 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 《神とは何か?》――《人間にとって分かるか分からないかが分からない〈非経験の場〉》であるとすでに述べて問うて来てもいます。
 言いかえると 《神は有る》というのも《神はない(つまり 無い神はある)》というのも 互いに同等に自由です。つまり 大きく《神》としては おなじものです。


 あるいは次のような問い求め方もあります。よかったらどうぞ。

 ☆☆ 【Q:神にかんする勘違いが 多いのは なぜでしょう?】 ~~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4219978.html

 《趣旨説明欄》
 これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。その理由をおしえてください。

 A. 神は 精神であるという勘違い。
  ――そうでなければ 精神を持つ人間が そのまま 神であること
  になる。

 B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。
  ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力に
  かかわっている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力
  の一般を けっきょくは信じるというおかしなこととなる。

 C. 同じく 教義を信じるという間違い。
  ――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=
  精神的な能力とその行為成果であるに過ぎない。やはり 精神主義
  的な人間信仰となってしまう。

 D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っ
  ている間違い。
  ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。《人
  間の能力》信仰となる。

 ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見受けられます。
 偶像は偶像として――つまり 信仰内容としてのおしえを取ってみても それは 仮りの表現としての偶像であるのですから その偶像は偶像として―― 扱えばいいのであって 偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。なぜですか?
 ~~~~~~~~~~~

お礼日時:2012/11/25 08:00

bragelonneさん、こんばんは。




極度の肯定は、極度の否定なのですね?


「諦める」ということは、否定することとは違うと思います。
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この回答へのお礼

 くりなるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 極度の肯定は、極度の否定なのですね?
 ☆ たとえば 次のような説明があります。これを言っていましょうか?

 ▲ (ヰキぺ:まえがき) ニーチェは『この人を見よ』で、永劫回帰を「およそ到達しうる最高の肯定の形式」と述べている。

 ☆ そうですね。わたしは《最高の肯定》というその肯定の意味じたいが 分かりません。
 (く)の項目のところに引用した箇所から 次を抜き書きします。
 ▲ 超人は神々の黄昏に力強く現れる。闇を知り、闇を破し、死してなお生への強い「然り」を繰り返す。今、ここにある瞬間の己に強く頷く態度、それこそが超人への道であり、永劫回帰の根幹である。

 ☆ これも 《最高の肯定》をしている事例と見なされているようです。
 意味がありません。分かりません。

 けっきょくこの《肯定》というのは 《それでいい。それがいい。そのままでいい》と言うこと自体を言っているかのようです。そう発言することが 肯定なのだというばかばかしいことではないのか?

 ですから
 ★ 極度の肯定は、極度の否定なのですね? 
 ☆ であるも何も ただのおふざけです。とちがいますか?




 ★ 「諦める」ということは、否定することとは違うと思います。
 ☆ たしかに《時間的な存在》であるということは そのひとつの時点での決断が 絶対的ですべてであるというわけではない。 
 しかも《あきらめる》ことは あらたな機会をうかがっていることにも通じます。

お礼日時:2012/11/24 23:34
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