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 徹底的に批判しきっておきたいと考えます。
 ニーチェの亡霊をもほうむっておきたい。

 すでに 批判がなされています。ところが 次のヰキぺの記事においても どこかまだ その《永劫回帰》なる考えにしても なんらかの思想性があるかに思われるというような評価さえが残っている。

 質問者は 次のくだりをめぐって 批判を明らかな結論が得られるようにおこない切りたい。
 ご見解をお寄せください。


 ▲ (ヰキぺ:永劫回帰) ~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%8A%AB% …

 § 3 永劫回帰批判

 ・・・
 ( a ) 永劫回帰は科学的に確定される現象や政治思想としてではなく、あくまでも実存主義の構えの柱の一つであり、個人の心的現象内によって発生しうるものなのかもしれない。
 
 ( b ) ニーチェは、個人幻想の枠内ならば、人間は因果律も時間軸も超えられることを叫び、個人幻想の絶対的自由を主張したかったとも解釈しうる。これについて、永井均は永劫回帰は思想と言うよりも、ある日突然ニーチェを襲った体験である点を強調している。

 ( c ) 永井均はニーチェ哲学とは徹底した「問い」であると指摘している。確かにニーチェ哲学は狂気をはらんでいるが、それは無知や短絡的思考からくる狂気ではない。一般人なら適当なところでやめてしまう疑問を問い続けた結果であり、哲学的思索を徹底したがゆえに発生する狂気なのである。
 ~~~~~~~~~~~~

 (あ) 次の命題は 意味がない。

  ▲ ( b ) 個人幻想の枠内ならば、人間は因果律も時間軸も超えられることを叫び

 つまり 《人間は いかようにもその想像力の翼をはばたかせて自由に空想を成しうる》と一般論を言っているに過ぎない。ゆえ。

 (い) つまりそれを

  ▲ ( b ) 個人幻想の絶対的自由を主張したかったとも解釈しうる。

 と解釈するのは ばかばかしい。想像力の自由さ・ゆたかさは 特に主張をするものではない。
  
 (う) これをもって

  ▲ ( a ) 実存主義の構えの柱の一つであり

 という気が知れない。想像力があれば 《実存主義の構えの柱の一つ》になれるのか? ならすべての人が 実存主義者だ。

 (え)  ▲ ( a ) 科学的に確定される現象や政治思想としてではなく、・・・個人の心的現象内によって発生しうるものなのかもしれない。

  ☆ 《心的現象として発生したもの》なら 思想だというのだろうか? 何らかの気持ちをいだいたという心的現象が そのまま《実存主義の構えの柱》になれるのか? ちゃんちゃらおかしい。

 (お) ▲ ( c ) ニーチェ哲学は狂気をはらんでいるが、それは無知や短絡的思考からくる狂気ではない。一般人なら適当なところでやめてしまう疑問を問い続けた結果であり、哲学的思索を徹底したがゆえに発生する狂気なのである。

 ☆ ここには このように《発生する狂気》が 何らかの思想的な意義を持つと言わんばかりである。んなばかな!
 ▲ 一般人なら適当なところでやめてしまう疑問
 ☆ というのは 無意味と知ったからやめるのではないだろうか?

 (か) すなわち 永劫回帰については 次の説明がある。

 ▲ (同上ヰキぺ) ~~~~~~
 § 1 概要
 ( d ) 「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち、無限の時間の中で有限の物質を組み合わせたものが世界であるならば、現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。

 ニーチェにおいて、この世界の円環的構造は、たんに存在論的なものにとどまらず、自由意志の問題と結びつけられる。
 ~~~~~~~~~~~~
 このどこが 《ニーチェ哲学》というように《哲学》なのか?
 どこが 《哲学的思索》なのか?

 (き) ▲ 「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち
 ☆ この前提がおかしい。のではないか? なんで時間が無限なのか?


 (く) ▲ 現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。
 ☆ という内容についての次の説明が どういう考えから出て来たものか 解明していただきたい。

 ▲ ~~~~~~~~~~~
 § 1 概要

 永劫回帰は生への強い肯定の思想であると同時に、「一回性の連続」という概念を念頭に置かねばならない。つまり、転生思想のように前世→現世→来世と‘生まれ変わる’ものでは決して無く、人生とはカセットテープのように仮に生まれ変わったとしても‘その年その時その瞬間まで、まったく同じで再び繰り返す’というものである。

  仮に2006年、あなたはブルーの服を着て、白いズボンを履いて14:45に目黒駅前の明治学院行きバス停でタバコを一服していたとしよう。命尽きて生まれ変わっていたとしても、2006年、あなたはブルーの服を着て、白いズボンを履いて14:45に目黒駅前の明治学院行きバス停でタバコを一服している。リセットしてカセットテープを巻き戻しただけの状態になる。

 これが「一回性の連続」である。それを永遠に繰り返す。

 故に、己の人生に「否」(いな)と言わず、「然り」(しかり)と言う為、強い人生への肯定が必要なのである。

 ツァラトストラは自ら育てた闇に食われて死して逝く幻影を見る。最高へは常に最深から。超人は神々の黄昏に力強く現れる。闇を知り、闇を破し、死してなお生への強い「然り」を繰り返す。今、ここにある瞬間の己に強く頷く態度、それこそが超人への道であり、永劫回帰の根幹である。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この哲学の貧困について その由来が知りたいと思いますので ご見解をのべておしえてください。
 その内容こそが ニヒルではないか?

A 回答 (32件中21~30件)

Ano.11にショーペンハウアーとニーチェ、両方の文章を引用してみました。



ショーペンハウアー 
「意志と表象としての世界」 中公クラシックス 西尾幹二 訳

ニーチェ
「道徳の系譜」 ちくま学芸文庫 信太正三 訳 

なんだか似ているような気がします。

ショーペンハウアーの「生きんとする意志の肯定と否定」の思想を
ニーチェがどう扱ったのかは私には、わかりません。
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この回答へのお礼

 No.11における逐語コメントにて だいたい応答し得たかと思います。

 すでにそれでよいかと思います。どうでしょうか?

お礼日時:2012/11/29 17:08

ショーペンハウアー 意志と表象としての世界 



われわれが世界を超克したかの聖者たちに、自分自身の経験のなかで出会えるなどということは、もちろんめったに恵まれないことであろうが、しかし彼らについて記録された物語や、内的な真実さという印象を押されて保障ずみの芸術作品が、かの聖者たちをわれわれの眼の前に髣髴とさせてくれることと思う。そこでわれわれは本初の以上のような仕方に従って、これら聖者たちの生涯や行状を考察して、無にまつわるあの暗い印象を払いのけなければならない。この無こそあらゆる徳ならびに精進の背後に、その最終的な目標としてただよっているものであるというのに、われわれは子どもが暗闇を怖れるように、この無を怖れているのである。
あのインド人たちにしてからが、神話だとか、意味の空っぽな言葉をつかって、梵(ブラフマン)への参入と仏教徒たちの涅槃(ニルヴァーナ)への帰入とかいって、無を回避しているのであるが、われわれはこれを回避することすらしてはならないのである。―

むしろわれわれはとらわれなしにこう告白しよう。意志を完全なまでになくしてしまった後に残るところのものは、まだ意志に満たされているすべての人々にとっては、いうまでもなく無である。
しかし、これを逆にして考えれば、すでに意志を否定し、意志を転換し終えている人々にとっては、これほどにも現実的にみえるこの我々の世界が、そのあらゆる太陽や銀河を含めて――無なのである。[1]

[1]これこそまさしく仏教徒たちの般若波羅蜜多 Pradschna-para-mita、「一切の認識を超えた世界である」である。すなわちもはや、主観も客観も存在しない地点のことである。
[イサーク・ヤーコブ・シュレミット『大乗と般若波羅蜜多』についてを参照されたし]


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


ニーチェ 道徳の系譜

禁欲主義的理想を他にしては、人間は、人間という動物は、これまで何の意味をももたなかった。地上における人間の生存には何の目標もなかった。「いったい人間は何のためにあるのか?」――これは答えのない問いであった。人間と大地のための意志が欠けていた。あらゆる大きな人間の運命の背後には、さらにおおきな<無駄だ!>というリフレーションがひびいていた。何ものかが欠けていたということと、巨大な空所が人間をとりかこんでいたということ、まさにこれこそが禁欲主義的理想の意味するものなのだ。――人間は自己自身を弁明し、説明し、肯定するすべを知らなかった。人間は自己存在の意味の問題に悩んだ。彼はそのほかにも悩んだ。人間は要するに、一個の病める動物であったのだ。

中略

いまや人間は何かを意欲することができるようになった、――何処へ向かって、何のために、何をもって意欲したかは、さしあたりどうでもよいことだ。要するに、意志そのものが救われたのである。禁欲主義的理想によって、方向を定めてもらったあの全意欲が、そもそも何を表現しているかは、とうてい覆い隠すわけに行かないところである。つまりは、人間的なものにたいするこの憎悪、それにもまして動物的なものにたいする、さらにはまた物質的なものにたいするこの憎悪、官能にたいする、また理性そのものにたいするこの嫌悪、幸福と美にたいする恐怖、あらゆる仮象から、変転から、生成から、死から、願望から、欲望そのものからさえも逃れようとするするこの欲望
――これらすべては、あえてこれをはっきりと規定するなら、虚無への意志であり、生にたいする嫌悪であり、生のもっとも基本的な諸前提にたいする反逆であるだが、これとてもあくまでも一つの意志ではあるのだ!

・・・さて、最初に言ったことを締めくくりにもう一度言うならば、――人間は何も欲しないよりは、いっそむしろ虚無を欲する・・・。

この回答への補足

 お礼欄からつづきます。

 ニーチェ

 (9) ▼ 道徳
 ☆ というのは ニーチェにあっては 決して《倫理規範》のことではないようです。
 
 ○ (ヰキぺ:君主道徳と奴隷道徳) ~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E4%B8%BB- …

 君主道徳では行為が「良」と「悪」に分けられるのに対し、「奴隷道徳」では行為が「善」と「悪」に分けられる。
 君主道徳の主な特徴は自己肯定、傲慢、主動であるのに対し、奴隷道徳は自己否定、謙遜、慈悲である。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ というように言って 善悪を判断する《奴隷の道徳》は 倫理のあり方を考え規範としても捉えようとしていると思われますが 《君主の道徳》は《そのように行動した》というその結果をなるべく一般化した概念で捉えただけのもののようです。《成功した》なら《良》 《失敗》なら《悪》という程度のものらしい。


 (10) ▲ 禁欲主義的理想
 ☆ 《理想》というなら 倫理的な内容をそこに思っているでしょうね。たとえば《思いやり・助け合い・なさけをかける》など。
 その《理想》が 《禁欲主義》によって達成される・または目指されるということでしょうか?

 ○(10-1) 倫理的な理想――たとえば《愛・慈悲》――が どうして《禁欲主義》によって実現されると思うのか? おかしい。自分の欲望も相手の欲望も活かすように思いやる。あるいは 自分の欲望はほんの少しおのれの余裕に応じて控え相手にゆづる。この倫理的行為において 何で禁欲主義が要るのか? ばかばかしくてやってられません。

 (11) ▲ 禁欲主義的理想を他にしては、人間は、人間という動物は、これまで何の意味をももたなかった。
 ☆ ふつうに世の中に生きる・人びとと共に生きる このふつうの生活世界にどうして《欲望の禁止》が必要なのか? それは勝手に出家すればよいだけだ。出家したなら その禁欲が守れるとでも思っているのか? 禁欲主義的理想を持たない人間は 人間ではないだと? ばかばかしい議論だ。

 (12) ▲ 「いったい人間は何のためにあるのか?」――これは答えのない問いであった。
 ☆ 手前が阿呆で 知らないだけ。無根拠において――自然法爾において―― おのれをウンウンと推して社会生活としてよしと思うところを生きるのである。

 (13) ▲ 人間と大地のための意志が欠けていた。あらゆる大きな人間の運命の背後には、さらにおおきな<無駄だ!>というリフレーンがひびいていた。
 ☆ わっかんない。

 (14) ▲ 何ものかが欠けていたということと、巨大な空所が人間をとりかこんでいたということ、まさにこれこそが禁欲主義的理想の意味するものなのだ。
 ☆ 《世の中は 自分〔ひとり〕の思うようにならない――それを〈苦 duhkha 〉と表わした。か?――》ことをもって 《何ものかが欠けていた》と言うのだろうか? それならそれで ふつうのことだ。常識だ。
 《巨大な空所が人間をとりかこんでいた》というのは 分からない。けれども なんでそれが《理想》なのだ?

 (15) ▲ 人間は自己自身を弁明し、説明し、肯定するすべを知らなかった。人間は自己存在の意味の問題に悩んだ。彼はそのほかにも悩んだ。人間は要するに、一個の病める動物であったのだ。
 ☆ 勝手にほざいてろ。

 ○ 手前が 知らないだけ。無根拠において――自然法爾において―― おのれをウンウンと推して社会生活としてよしと思うところを生きるのである。

 というのみ。

 (16) ▲ いまや人間は何かを意欲することができるようになった、――何処へ向かって、何のために、何をもって意欲したかは、さしあたりどうでもよいことだ。要するに、意志そのものが救われたのである。
 ☆ さよか。

 (17) ▲ 禁欲主義的理想によって、方向を定めてもらったあの全意欲が、そもそも何を表現しているかは、とうてい覆い隠すわけに行かないところである。
 ☆ もう ついて行けない。何で《禁欲》か? から説明せよ。次にあるかも知れない。

 (18) ▲ ~~~~~
 つまりは、人間的なものにたいするこの憎悪、それにもまして動物的なものにたいする、さらにはまた物質的なものにたいするこの憎悪、官能にたいする、また理性そのものにたいするこの嫌悪、幸福と美にたいする恐怖、あらゆる仮象から、変転から、生成から、死から、願望から、欲望そのものからさえも逃れようとするするこの欲望
 ――これらすべては、あえてこれをはっきりと規定するなら、虚無への意志であり、生にたいする嫌悪であり、生のもっとも基本的な諸前提にたいする反逆であるのだが、これとてもあくまでも一つの意志ではあるのだ!
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ はいはい そうですか。そういう趣味の方々はそういうふうに生きてください。

 (19) ▲ ・・さて、最初に言ったことを締めくくりにもう一度言うならば、――人間は何も欲しないよりは、いっそむしろ虚無を欲する・・・。
 ☆ ご勝手にどうぞ。


 おそらく生きるということについての初めの心つもりが ねじまがっている。そのボタンの掛け違いが すべてだ。

 思うようにならないなら そのことをじっくり科学することによって知ればよい。知ることすら出来ないところまで行ったら その大いなる自然史過程をも受け留めなくてはならない。そこで ひとりの人間として出来ることを知って――その世界をすべて引き受けつつ―― 人びととともに生きて行く。のみだ。

補足日時:2012/11/29 15:46
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この回答へのお礼

 かざみどりさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 この投稿No.11では 引用された文章に即して質問者の応答をしるしてまいります。そのあと さらにやり取りする場があるようですから そこで何がしかまとまった議論ができればと考えます。


 ショーペンハウエルは読んでいないので困っていますが 文章に即して考えます。

 (1) ▲ 世界を超克したかの聖者たち
 ☆ 《世界を超克した》――こんな内容をよく勝手に書くなあと思います。これ以前の文脈には説明がありましょうか。
 つまり
 ▲ 聖者
 ☆ は 自明ではないという物言いです。

 (2) ▲ 彼らについて記録された物語や、内的な真実さという印象を押されて保障ずみの芸術作品が、かの聖者たちをわれわれの眼の前に髣髴とさせてくれることと思う。
 ☆ おそらくこのことは 《髣髴とさせてくれることと思う》の《思う》に力点がおかれているのでしょう。真偽のほどは 自明ではありません。
 あるいは仮りに多くの人びとがそれぞれにおいて あの聖者やこの聖者は 《内的な真実さにおいて世界を――つまりその世俗としての無常もしくは虚無を――克服した》と思ったとしても その中身は依然としてどうなのか。果たして互いに共通の理解であるのか。それは 分かったものではない。と考えます。
 往々にして その種の催眠効果にしか過ぎないということがあり得ると考えます。

 (3) ▲ これら聖者たちの生涯や行状を考察して、無にまつわるあの暗い印象を払いのけなければならない。
 ☆ だとすれば 上のふたつの事項は まえがきだったのかも知れません。
 ただし 

 ○(3-1) 《世界の超克》は 聖者たちの生涯においては 《無にまつわる暗い印象》がただよっている。

 と言ったことになる。そのことのほうが へんだ。上の(2)で 聖者たちについての人びとの理解は 互いに共通であり得るか? と問うたことが 何だったのかとがっかりする。

 (4) ▲ この無こそあらゆる徳ならびに精進の背後に、その最終的な目標としてただよっているものであるというのに、われわれは子どもが暗闇を怖れるように、この無を怖れているのである。
 ☆ えっ? 何だって? 

 ○(4-1) 聖者たちが世界を超克したその状態においては 《最終的な目的として 無が ただよっている》とは 何のことか?

 ○(4-2) 世界を超克した聖者たちの最終の状態には 《無》がただよっているが われわれはこの無を《暗闇を怖れるように》は 怖れる必要がない。むしろ 目指すべきである。

 と言っているのだろうか? 

 (5) すなわち ショーペンハウエルは言う。
  ▲ あのインド人たちにしてからが、神話だとか、意味の空っぽな言葉をつかって、梵(ブラフマン)への参入と仏教徒たちの涅槃(ニルヴァーナ)への帰入とかいって、無を回避しているのであるが、われわれはこれを回避することすらしてはならないのである。―
 ☆ 何ですって? 《意味の空っぽな言葉を使って》というところは愛嬌として放っておくとして:

 ○(5-1) 梵我一如なる状態としての《世界の超克》は 《無を回避している》と言う。それは どういうことか? 

 ○(5-2) ニルワーナに到ることは 一方で《灰身滅智》ならば そのまま《死》であり《無を回避せず 無に帰する》ことである。他方で 《死》は言葉のアヤだとすれば そのニルワーナにおいて生きることが目的であろうから それが《無を回避している》ということなのか? 

 ○(5-3) ショーペンハウエルの言う《無》とは 何か?

 (6) ▲ 意志を完全なまでになくしてしまった後に残るところのものは、まだ意志に満たされているすべての人々にとっては、いうまでもなく無である。
 ☆ ん? ショーペンハウエルくん だいじょうぶか?
 
 ○(6-1) 《意志を完全なまでになくしてしまう》って? ばっかぢゃなかろうか。勝手にしろ。その《後に残るもの》だって? あるわけないぢゃん。

 ○(6-2) 《まだ意志に満たされているすべての人々にとっては、いうまでもなく無である》のではなく そうではなく それは狂気というものだ。

 (7) ▲ しかし、これを逆にして考えれば、すでに意志を否定し、意志を転換し終えている人々にとっては、これほどにも現実的にみえるこの我々の世界が、そのあらゆる太陽や銀河を含めて――無なのである。
 ☆ ええっ?
 
 ○(7-1) 《意志を否定する》ことと《意志を完全なまでになくしてしまう》こととは 別である。後者は 死を死ぬことである。または 完全な狂気の状態である。

 ○(7-2) 《意志を転換する》とは どういうことか? ばかやろう! できっこない。そんなことで《世界を超克する》ことが出来るか。出来るというのなら その実際を見せたまえ。

 ○(7-3) 《これほどにも現実的にみえるこの我々の世界が、そのあらゆる太陽や銀河を含めて――無なのである》――だから 《無》とは何なんだ? 《意志を否定せず 意志を無くそうとせず 意志を転換してもいない人間にとって 現実の世界が 無常であるなどということは いろはのいである。一般市民をなめてんのか?》

 (8)▲ これこそまさしく仏教徒たちの般若波羅蜜多 Pradschna-para-mita、「一切の認識を超えた世界」である。すなわちもはや、主観も客観も存在しない地点のことである。
 ☆ こんなものは ただの口先だけ。想像してあそんでいればいいさ。もしそれを実現したと言うのなら みんなに自分の姿でしめせばよいぢゃないか。そうした人間がいままでにいたか?
 口先だけだってことは 誰もが知っている。でも 《聖者》さんたちに遠慮して ごもっともですとか ご立派ですとか 言葉では言えないけれどとうとい内容があるように思うとか 《そのえらいブッダさんの姿が髣髴として見える》とか 催眠術にかかってのごとくおべんちゃらを垂れている。のみ。


 ニーチェについては 補足欄に移ります。

 それにしても これが ショーペンハウエルか。

お礼日時:2012/11/29 15:05

9です。


彼の思想は太宰治の文学と同一で言い逃れや泣き言として若者の哀れを誘い甘やかす効果がある。
取るに足らないかもしれないが、キリスト教世界の中の井の中の蛙が行った無駄な抵抗としては西洋の思想史にとって研究に値する要素もあるだろう。
彼の過ちを知ることにその意義がある。
インドの無駄な修行と相まってその思想から学びとれる超人と言う目指すところを思想とは別に見る事も出来るだろう。
私にとってはニーチェでなく仮面ライダーを引き合いに出しこねくり回すところだ。
無駄な事でも意義があるだろう。
今年の仮面ライダーの敵役は人類を超克した英知を備えた「ワイズマン」と言う方でね、おおむね私の事だ。
モルモットの仮面ライダーがどんな勝利をつかむのか興味深く見守っている。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 総じて言って 《反面教師》は ほんとうの教師ではありません。と言わねばならないでしょう。


 他人(ひと)の振り見て我が振り直せって言いますが そのように自浄能力を持つ場合・自己による軌道修正が出来る場合なら どうということはありません。それに そのときには 何も反面教師がニーチェである必要はありません。

 人は 思うように成らず夢を破られたときにはくよくよしてしまいます。クヨクヨするからと言って ルサンチマンの塊だと言われても はああ?と問い返すのみです。
 ルサンチマンを人間の類型として持ち出して来るには 無理があります。

 残念ながら自分の悲願を次々とあきらめなければならなかった人間が 失意のうちに生を送る。だからと言って なんでそれが《畜群》であるのか?
 そのような規定が 行き過ぎであることは 火を見るより明らかです。反面教師は要りません。


 ★ 彼の過ちを知ることにその意義がある。
 ☆ そのようなアヤマチは 想像し始めたときにただちに分かります。ニーチェという反面教師は 要りません。


 ★ 彼の思想は太宰治の文学と同一で言い逃れや泣き言として若者の哀れを誘い甘やかす効果がある。
 ☆ 理解し得ません。意味がありますか?

 ★ 取るに足らないかもしれないが、キリスト教世界の中の井の中の蛙が行った無駄な抵抗としては西洋の思想史にとって研究に値する要素もあるだろう。
 ☆ ただただキリスト・イエスになりたかった。これだけのことです。そういう阿呆です。要りません。次についても同じでしょう。
 ★ インドの無駄な修行と相まってその思想から学びとれる超人と言う目指すところを思想とは別に見る事も出来るだろう。


 説得されません。
 

お礼日時:2012/11/29 07:15

7です。


あなたの解釈は理解可能であなたにとって正しいのが判る。
そうなんですが、ニーチェの場合克服するのは神でなく自らの狂気であっただろう。
この場合の狂気とは怒りあらぶれる神の、悪魔としてあらわれる姿であっただろう。
そのような神に争いを持ちかけ愛そうとしなかったのが死因であろう。
彼の思想を墓所に封じ込めようとする事には確かに一抹の正義がある。
輝かしい思想ではないのは確かだ。
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この回答へのお礼

 つづいてです。ご回答をありがとうございます。

 ★ 彼の思想を墓所に封じ込めようとする事には確かに一抹の正義がある。 
 ☆ この質問の趣旨は 《ニーチェはその思想が 中身がない》と問うています。
 すでに葬られているのですが それを認めない人びとがいる。ゆえです。
 中身があれば 出して欲しい。これです。

お礼日時:2012/11/28 23:41

こんばんはです。




☆☆☆☆☆☆
ディオニュオス⇔アポロンの対立路線から、「アポロンといえばプラトンだな」と思い、プラトンを調べてみたところ、ありました、ありました、ニーチェの永劫回帰説を読み解く思想が。古代ギリシアには「時間は円環である」という考え方あったようです。

天球の運動が時間であり、「時間は『一種の円』(kyklos tis)であるとまで考えていた。だからこそ彼らの間には、「人事の動きは円環をなしている」という「慣習的な言い方」も生まれたのである(Aristoteles, Physica 223b)。
  斎藤忍随著 プラトン 岩波新書

さらに、Wikipediaの時間に関する項目の円観的時間観には、おもしろい記述がありました。
──────
円環的時間観 [編集]

時間は円環状であり、同じ歴史が繰り返されるという考え。 ユダヤ教、古ゲルマンの宗教なども含めて、現在の宗教にまで広く見られる。
この円環的な時間はニーチェの永劫回帰思想にも見られる。「回帰の環(Ring)」と表現されている。
アンリ・ポワンカレにより証明されたポアンカレの回帰定理が、上記のニーチェの主張におけるような厳密な時間の繰り返しを示したと解釈する人もいる[38]。
──────
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E9%96%93


で、ポアンカレの回帰定理
──────
回帰定理が孤立系の現象の厳密な繰り返しを示したと解釈する人もいる[6]。だがこの解釈には2つの意味での誤解がある。第一に、力学系は初期状態の近傍に戻るだけであり、初期状態そのものに戻るとは限らない。第二に、近傍に戻る時刻(時点)の分布は特別な場合を除けば不規則であり、一定の周期は持たない[4]。ポアンカレが示したように多体問題の解の軌道はカオスになることが多く、その場合は運動が周期的繰り返しにはならないのである。
──────
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%A2% …

ニーチェがポアンカレの回帰定理を知っていたはずがなく、彼が古代ギリシアなどの文献学の研究者であったことなどから考えると、古代ギリシアの円環時間観がその源泉でしょうね。そう考えるのが自然だと思います。


☆☆☆☆☆☆
さらに、斎藤忍随のプラトンには興味深い記述があったので、御紹介します。
──────
キリスト教を批判したニーチェは主張した。「キリスト教は世俗化したプラトニズムである』。ニーチェから見ると超越的な神の国と、地上の国もしくは現実の世界とを二つの世界として対立させた上で神の支配を認めるキリスト教は、つまりは世俗向き、民衆向きのやさしくしたプラトニズムになるのだが、そのキリスト教を彼は攻撃するのであるのだから、攻撃の矛先はもとのプラトニズムに当然波及する。
現実の世界はいつも不完全である。そこで、その中に生き、その中に存在する苦しみに耐えかねて、この世界の彼岸に、あるいはこの世界の背後に、完全な世界を夢見る妄想に憑かれた人間が出てきた。「背後世界」(Hinterwelt)を夢見る「背後世界的人間」(Hinterwelter)は、その世界の妄想に悦楽をおぼえ、それを実在化し、現実の世界を逆に非実在化したのである(Nietzsche, also sprach Zarathustra, Von den Winderhilt)。
キリスト教を、従ってプラトニズムをこのように解釈したニーチェは、当然のことながら「プラトニズムの逆転」の必要を強調して、意欲する生身の人間、その人間の立つ「大地」の意味の回復を叫び、プラトンの世界にも弱い人間、あるいは人間としての自覚や意識の希薄な人間が案出した「ヒンターウェルト」の烙印を押して退けた。
──────

だとすると、「ツァラトゥストラはこう語った」は、プラトンが書いた《ソクラテスの対話篇》へのの挑戦状であり、またそのパロディーということになるんですかね。
そして、アポロン・プラトンvsディオニュソス・ニーチェの対立の構図が浮かんでくのではと(笑い)。
また、ニーチェの《神の死亡宣言》は、アポロン=ロゴス的な神に対して下したものであると考えることも可能なのかもしれません。つまり、ニーチェは無神論者ではなく、ディオニュソスなる神を信じていた。ディオニュソスの象徴はブドウの蔦であり、ブドウの蔦は生命の象徴であって、ディオニュソスは生命そのもの。大地・ガイアと呼んでもいい。また、ディオニュソスは混沌・カオスと言うよりも、《狂気》の神。ディオニュソス自身、ヘラーによって狂わされた経験があるうえ、彼に従う女性たちは狂乱女・マイナディス。ニーチェは、この狂気に人間の生の衝動、強い生への意志を見出した。。。なんてね。
単なる思いつきで~す。学問的、資料的な裏付けはまったくありません。

これはどうでもいいことなのですけれども、
ローマ帝国内での初期キリスト教では、イエスの姿は、ディオニュソスの姿で表現されたらしいですね。母親がどちらも人間の女であり、死と再生(復活)を司るからなんですかね。


☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 でもアポローンも その出自は あの明晰なるギリシャにとって異邦人であった。母親のレート-は アナトリヤ出身。双子の姉のアルテミスは エジプトかどこかの出。アポローンは 生まれた間もなく 琥珀の道を北へ向かったとも言います。凍河エーリダノスの北の国へ。そのあと 苦労して デルポイの神殿を奪い取った(?)ような。
~~~~~~
アポロンの出自については不明なことが多すぎますが、アルテミスは間違いなくバビロニアの地母神であるイシュタルですね。あるいは、カナンの女神でバールの妹(or姉)のアナト。アナトは、処女神(?)で残虐な殺戮者の一面も持つので、アルテミスにピッタリと符合します。もっとも、アナトはイシュタルのカナン地域の呼び名なので、イシュタルですわね~。
アルテミス、森や産婆さんの女神だけではなく、娼婦の女神でもあるんですよ。これなんかは、古代中近東で広く見られる《聖婚儀式》や《神聖娼婦》の名残りなんじゃないですかね。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 円環的時間
 ☆ これは 次の条件を満たしません。

 ○ (永劫回帰の内容)~~~
 ▲(あ) (ヰキぺ) 同じものの永劫回帰(Ewige Wiederkunft des Gleichen)

 ▲(い) 経験が一回限り繰り返されるという世界観ではなく、超人的な意思によってある瞬間とまったく同じ瞬間を次々に、永劫的に繰り返すことを確立するという思想である。
 ~~~~~~~~~~



 ● (ニーチェのクリスチアニズム観)~~~~
 ニーチェから見ると超越的な神の国と、地上の国もしくは現実の世界とを二つの世界として対立させた上で神の支配を認めるキリスト教は、つまりは世俗向き、民衆向きのやさしくしたプラトニズムになるのだが
 ~~~~~~~~~~
 ☆ こんなあほらしい解釈は 成り立ちません。《神の国と地上の国とは――前者が絶対であるからには――互いに隔たっていますが しかも神の国=すなわち《非経験の場》が 経験世界を覆い包むことにより 互いに――むしろ激しく――からみ合い入り組んでいる》という見方が提出されています。

 ◆ (神の国と地上の国) ~~~~~~~~
 世界( the sphere of politics )とは 相対的で有限なものである。この有限の領域において 世界は 〔それとして〕自律している。ただ 神の国の市民(キリスト者)にとっては まさに この世界の自治ということにおいて それ(世界)とは 無縁ではありえない。

 〔これは〕人間という存在の・世界とのかかわりを見つめることを通しての そしてそれが もっとも熟した段階でのアウグスティヌスの考察の一部を成すものであり これはまた 〔わたしたちが巡礼の旅路を行くその〕世界( saeculum )というものを 

  《互いにあたかも相い容れない神の国( Civitas Dei )と地上の国
  ( Civitas Terrena )とのあいだの 非武装中立地帯( no man's
   land )として》

 見るのではなく 

  《これら二つの国が互いに入り組んでいて むしろその国境は分ち難
  く組み入っており その見分けがつけられるのは 人がただ終末を見
  通しえた時のみであるという そのような現実の中に 位置する或る
  時間帯( temporal life )として》

 見るというかれの理解から 発しているものである。
 ・Robert A. MARKUS: 《 Saeculum :History and Society in the Theology of St Augustine 》1989;
 宮谷宣史・土井健司訳『アウグスティヌス神学における歴史と社会』
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いわば無住処涅槃です。



 ★ ディオニュソスなる神
 ☆ これは 人間の性格か何かを神格化したに過ぎないと見ます。つまりは 狂喜乱舞するというのかどうか知りませんがそのような経験事象を《非経験の場》である神の分身に見立てた。だけのことだと見ます。

お礼日時:2012/11/28 23:37

6です。


その辺は超人がどうとかいったと言う話なんでしょう。
超越ないし超克を求めた。
しかしその超克の目的が神の否定であり敗北した。
知性とは神の泉から漏れるしずくであり、超克と言うかはともかく、その泉から湧き出るしずくを飲み干さなくては人類に進歩は無い。
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 ★ しかしその超克の目的が神の否定であり敗北した。
 ☆ つまりは そのいどむことは おこなうにあたいしない。
 というよりも 《神》は 人間が肯定しようが否定しようが 意味がない。《絶対》とは そういうものである。ということが 分かっていなかった。

お礼日時:2012/11/28 22:38

彼は狂気に襲われなければなしえない事をしたんですよ。


そこに挑みしかし敗北した。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ・・・したんですよ。
 ★ しかし敗北した。

 ☆ けっきょく成し得なかったのですね?
 挑むにあたいしたのでしょうか?

お礼日時:2012/11/28 22:21

こんにちはです。





~~~~~~
 ☆ これは 時空間に見とめられるものが循環していることを言っているのですよね。季節が巡りくる。木々が芽を出し葉っぱが成り実を成らせ花を咲かせることを繰り返している。組織や社会制度についても 破壊と創造などとも言います。
 これらの《背景》は 永劫回帰の内容とは別ですよね?
~~~~~~
と言うよりも、バラモン教やヒンズー教の場合は宇宙の周期説ですよ。物理学の宇宙論で言うと、Cyclic宇宙論と呼ばれるタイプのものです。そして、仏教のそれは、さらに悲劇的なシナリオを描き、現代の宇宙論の宇宙終焉のシナリオに近いです。
 生劫:ビッグバーン、四つの力の分離、物質を構成する(素)粒子の誕生。物質の生成
 住劫:宇宙、物質の安定期
 壊劫:陽子崩壊、ブラックホールの蒸発、ビッグリップなどによる、物質を構成する(素)粒子の消滅
 空劫:宇宙の熱的死、big chillやbig freeze。ただ虚ろな空間、虚空のみが存在する期間
と考えると、分かりやすいのではないでしょうか。


サイクリック宇宙
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4% …
宇宙の終焉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99% …
ビッグリップ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%83% …

宇宙には、宇宙を膨張させるダークエネルギーに打ち勝つだけの質量、つまり重力がない。陽子崩壊やビッグリップが起きる宇宙年齢においては、物質を構成する素粒子は存在せず、宇宙には光やわずかな素粒子のみを残し、ただ冷たい宇宙空間だけが残る。仏教で言う空劫はこのイメージに近いようですね。
そして、バラモン教やヒンズー教のカリ・ユガとも、まったく違うようです。そんなに楽観的なものではない。

カリ・ユガ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AA% …

仏教でも、長い空劫の期間をへた後、バラモン教やヒンズー教と同じく、宇宙は再生しますけれども、M理論でいうところのMプレーン間の衝突、多元宇宙の衝突によって、ビッグバーン現象が起きるんでしょう(笑い)。
物理学もこの辺になると、もうおとぎ話の世界です。神話と何も変わりはしない荒唐無稽の世界です(笑い)。
このサイトで有名人のpさんは、きっと得意ですよ、この手の話。わたくし、眠り猫は、物理学の《ひも理論》やその発展形の《M理論》をまったく信じていないので、ダメですね。
仏教の四劫説についておもしろいサイトを見つけたので、紹介します。
http://tobifudo.jp/newmon/betusekai/hokai.htm



~~~~~
 ★ ワーグナーの大作「ニーベルングの指輪」では、神々は最終戦争で全て死に絶えてしまう。ラグナロク・神々の黄昏。そこから、人間の歴史が始まる。
 ☆ という発想とも違うように考えられます。
~~~~~
神々の黄昏・ラグナロクは洒落ですよ。でも、ニーチェがワーグナーの音楽と哲学(?)に大きな影響を受けたのは事実ですよね。そして、のちに、ワーグナーの作品の中に伝統的キリスト教の腐臭を感じ取り、ワーグナーと訣別する。
ワーグナーの作品のテーマは、結局のところ、《愛による救済》や《自己犠牲》なんでね。ニーチェが言う《ルサンチマン》そのものでしょう。ニーチェが目指していたのは、古文献学者らしく、ギリシア精神、特にディオニソス的精神の復活。ニーチェは、それをワーグナー作品の中に見出したつもりだったけれども、アテが外れた。ワーグナーに裏切られた。
ヒトラーやナチスは、ニーチェのこの思想を利用した。
ちょっとその線を出したかったので、あえて、ワーグナーに言及してみました。
なのですが、個人的には、ワーグナー、ニーチェ、ヒトラー・ナチスというのは、当時のヨーロッパのケルティック・リバイバルの思想的潮流の中にあると考えています。



~~~~~~
 質問者としては ニーチェは内容がニヒル(ゼロ)だという見方に立ちます。
 ねむりねこさんは 多少は評価しておられましょうか。
~~~~~~
眠り猫は、ニーチェをまったく評価していません。
独創的な思想家ではあったかもしれませんが、哲学者だとは思っていません。
そして、皮肉屋としてなら、《悪魔の辞典》の著者A.ピアスの方が数段上でしょう。そして、ニーチェよりも、示唆に富んでおり核心をついている(笑い)。



~~~~~~
 ☆ このときわたしは そもそも 《円環運動》がどうした? とまづ問い返す口です。
~~~~~~
理系人・眠り猫は、そもそも出発点である《円環運動》自体を否定します。
かりにCyclic宇宙が存在したとしても、まったく同じ事象は決して起きない。これは量子力学的要請です。世界はそれほど単純なものではない、と考えますね。



~~~~~
 命題(あ)によれば 《同じものの繰り返し》だと言います。
 (い)によれば 《超人的な意思によって》そのような繰り返しを確立すると言っています。アホかと言いたくなります。
 (う)《「およそ到達しうる最高の肯定の形式」》なんだそうです。

 この解説者としてのヰキぺ氏にしても ほんとうに本気でこんなふに受け留めて言っているのだろうか? これが 質問の趣旨です。
~~~~~~
わたしには、ニーチェの《永劫回帰説》を信じること、これこそ《狂気の世界》だと思えますね。Wikipediaのこの項目の執筆者も信じてはいないのではないでしょうか。信じているとしたら、物理学をあまりに知らなすぎると思います。



~~~~~
 たとえば ピカソ。
 むろんさまざまな見方があると言わねばならないのですが それでもピカソには美を感じないという声が この okwave でも満ち満ちているとさえ 一度調べて分かったものですから引き合いに出しますが ただ有名なだけ。これに尽きると思うという問いです。
~~~~~
でしょう。ニーチェの《神の死亡宣告》が刺激的だから、誰もが、特に無神論者がニーチェに注目する。無神論の根拠の一つとして、ニーチェを引き合いにだす。それ以上でも、それ以下でもないのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 ねむりねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 そうですね。もう一度かかげますが:
 ▲(あ) (ヰキぺ) 同じものの永劫回帰(Ewige Wiederkunft des Gleichen)

 ▲(い) 経験が一回限り繰り返されるという世界観ではなく、超人的な意思によってある瞬間とまったく同じ瞬間を次々に、永劫的に繰り返すことを確立するという思想である。

 ▲(う) ニーチェは『この人を見よ』で、永劫回帰を「およそ到達しうる最高の肯定の形式」と述べている。

 というように《同じものが繰り返す》ということと 《人間の意思によってその繰り返しが 実際に確立する》ということ。この二点において:
 ★ バラモン教やヒンズー教の場合は宇宙の周期説 / カリ・ユガ
 ★ 仏教で言うと、成・住・壊・空劫の四劫説
 ★ サイクリック宇宙 / 宇宙の終焉 / ビッグリップ

 ☆ これらの説は その背景になったとしても 永劫回帰の内容そのものではない。と言えると思います。


   ~~~~~~~
   あとで 次のような判断が下されていました。

   ★ 理系人・眠り猫は、そもそも出発点である《円環運動》
    自体を否定します。
     かりにCyclic宇宙が存在したとしても、まったく同じ
    事象は決して起きない。これは量子力学的要請です。
    世界はそれほど単純なものではない、と考えますね。
   ~~~~~~~~~








 ★ ニーチェが目指していたのは、古文献学者らしく、ギリシア精神、特にディオニソス的精神の復活。
 ☆ このことは 一方で
 ★ ワーグナーの作品のテーマは、結局のところ、《愛による救済》や《自己犠牲》なんでね。・・・ ちょっとその線を出したかったので、あえて、ワーグナーに言及してみました。
 ☆ との関連で 取り上げられておられるようですが 他方で
 ★ ヒトラーやナチスは、ニーチェのこの思想を利用した。
 ☆ と言って 取り上げるに値しないと言っておられるようにも思うのですが いまひとつあいまいなように感じます。というのも さらに
 ★ なのですが、個人的には、ワーグナー、ニーチェ、ヒトラー・ナチスというのは、当時のヨーロッパのケルティック・リバイバルの思想的潮流の中にあると考えています。 
 ☆ というかたちで触れているということは どういう意図なのか? です。
 ニーチェの《ディオニソス的精神の復活》の提唱は 意義があるという見方でしょうか?


 これにかんしては 次のようにわたしは考えます。
 結論としては ひとりディオニュソスを取り上げたところで 意味はない。です。

 ○ アポローンとディオニュソス ~~~~~~~~~
 まづ ふつうに人間がいます。その最小限の条件は 《人は死ぬ》ということ・《人間は時間的な存在である》ということ これを自覚していることとします。(寄り憑くアニミズムやそのトランス状態から何らかの現状打開のための指針を見い出して来るシャーマニズムを ともかく抜け出たという意味です)。

 これを スサノヲ市民と名づけます。

 その言葉すなわちスサノヲ人間語は 時間的な存在として・つまり有限な思考において あやまちうるということをひとつの特徴としています。

 これに対して あやまちうる傾向を出来るだけ無くそうと理性をはたらかせ その或る程度の成果を得ている場合が アマテラス公民です。

 その成果は 倫理を究めようとするアマテラス人格語と知識を究めようとするアマテラス科学語です。

 ということは アマテラス語は スサノヲ人間語の中から芽を出し幹が育ち 花を咲かせ実を成らせる。であるはずです。人間存在を離れて 人格の陶冶や科学の探究をいとなむとも思えません。



 かくて 人間は 《スサノヲ人間語(基礎かつ主導)‐アマテラス人格語および科学語(補助手段)》なる連関構造を持ち それらの言葉を用いて主体的にしかも社会において行為して生きる存在である。




 ディオニュソスは スサノヲの《あやまちうるクセに入り浸る――たとえば アニミズムに回帰しようとするような――あやしい動き》を大きく取り上げたその状態を言うように思われる。

 アポロンは たしかに人格語にしろ科学語にしろ そのアマテラス語の明るいところ・じんるいにとっての成果だと見なされるようなところ これを大きく取り立てた状態を言うのかも知れない。

 でもアポローンも その出自は あの明晰なるギリシャにとって異邦人であった。母親のレート-は アナトリヤ出身。双子の姉のアルテミスは エジプトかどこかの出。アポローンは 生まれた間もなく 琥珀の道を北へ向かったとも言います。凍河エーリダノスの北の国へ。そのあと 苦労して デルポイの神殿を奪い取った(?)ような。

 ひとりの人間スサノヲは 存在の全体をあらわす包括概念でありえます。

 その中身として 《スサノヲ‐アマテラス》なる区分を持つ。スサノヲ市民の中にこれを持つ。

  《身体‐精神》。《感性‐理性》。《市民‐公民》。
  《アマテラス人格語および科学語をつつみこむスサノヲ人間語》

 アポローンは 存在全体としての人間スサノヲとしてもよいかも。

 ディオニュソスは スサノヲのみだれ・アマテラスの腐りを表わしているかも。
 ~~~~~~~~~~~




 ★ ニーチェの《神の死亡宣告》が刺激的だから、誰もが、特に無神論者がニーチェに注目する。無神論の根拠の一つとして、ニーチェを引き合いにだす。それ以上でも、それ以下でもないのではないでしょうか。
 ☆ キリストなる神は 人びとの心に復活したかも知れないけれど イエスは死んでいるのですが それをわざわざ何度も言わねばならなかったのでしょうか?

 しかも 無神論とて 信仰の形態のひとつです。人の頭の中の・あるいは想像の産物としての《観念の神》は それを持った時点で死んでいます。それをわざわざ神は死んだと言わねばならなかった。としたら よほど人びとの・あるいは自分のあたまの中には 神なる観念が《生きていた》のでしょうか?
 という総括をしえないで ニーチェに注目するというのも 気が知れません。何にも得るものが そこには ありません。

 ニーチェへの注目者は けっきょくニーチェと同じあたまの構造だったのではないでしょうか?
 想像の産物としての神が死んだと宣言しても・また堅く思っていたとしても 何の得るものもない。こう考えますが いかがでしょう?
 神は 人間のことばでころされようが けなされ ののしられようが 痛くも痒くもありません。

お礼日時:2012/11/28 17:13

この考えかたは、最近全年齢版が発売された「Dies Irae Amantes Amentes」という


ゲームにそのまま出てきます。(しかもツァラストラも出てくる)

>その内容こそが ニヒルではないか?

ニヒルというより子供でも思いつくことだと思いました。

> (き) ▲ 「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち
 ☆ この前提がおかしい。のではないか? なんで時間が無限なのか?

物質は有限だというのも疑問に思います。
エネルギーが無限なのかどうかは分かりませんが
対生成で、エネルギーが物質に変化することもあります。
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この回答へのお礼

 あるゑんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。はっきりとしたニーチェ批判の立ち場をのべておられましょうか。


 ▲ (ヰキぺ:対生成) ~~~~~~
 (ついせいせい, Pair production)は、高いエネルギーを持った光子が原子核などに衝突したときに、粒子と反粒子が生成される自然現象のこと。
 量子力学の用語である。
 対生成とは逆に粒子と反粒子とが衝突すると、対消滅が起こる。

 原子核などの光子に対する標的が存在すると、運動量とエネルギーの保存則を両立できるため、対生成が起こり得る。入射するガンマ線のエネルギーが1.02MeV以上、すなわち電子と陽電子の質量の和に相当するエネルギーを超えると、電子と陽電子の対生成が可能となる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このあたりになると よく分かりません。

 ○ コトが モノである。

 と言ってよいのでしょうか。物質も 時空間つまりその動態と或る意味で一体であり言わば連動しているといった見方にもなるのでしょうか。いや よく分かりませんが。




 そのようなモノ=コトの運動と 人間にとっての世界のウゴキとは 要素(つまりモノ)としては同じであっても 見方としては問題が別であるようにも思われます。

 たとえ万一 《同じモノ=コトの繰り返し》が起こったとしても それを見る人間にとっては そのときの境地や取り巻く情況やによってどうなるか 分からないと思われます。
 つまり 一方で《同じモノ=コトの循環である》と仮りに認識したとしても 他方でそのコト=モノが持つ意義は 歴史的に違って来ているはずです。この一方での認識と他方での判断は それらを総合して人間にとっての見方になると思われます。総合するのは 一人ひとりの人間だと考えられます。

 この事例について もし
 
 ▲ これが「一回性の連続」である。それを永遠に繰り返す。
 ☆ と仮りにしても それがどうして
 ▲ 超人的な意思によってある瞬間とまったく同じ瞬間を次々に、永劫的に繰り返すことを確立する
 ☆ ということになるのか?

 ▲ ニーチェは『この人を見よ』で、永劫回帰を「およそ到達しうる最高の肯定の形式」と述べている。
 ☆ いったいどういう内容をもって そう規定するのか?

 何にも明らかにせずに 断定しているに過ぎない。
 と思われます。





 ★ ~~~~~~~~
 この考えかたは、最近全年齢版が発売された「Dies Irae Amantes Amentes」という
 ゲームにそのまま出てきます。(しかもツァラストラも出てくる)

  >その内容こそが ニヒルではないか?

 ニヒルというより子供でも思いつくことだと思いました。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ そうなんですか。検索してみましたが そのゲームの中身までは見なかったのですが 要するにそういった《想像》はあり得ます。人間の想像力が自由に発揮されることまでは 誰もがみとめることでしょう。そのことを ニーチェが《発見》したとでも言うのでしょうか?

 あまりにもおかしなヰキぺ氏の解説です。いえ 《批判》も添えてありますから それでよさそうに見えるのですが それは 見えるだけだと思えます。そうして (く)の説明文(§ 1 概要)は 苦心して解説しているようでいて 中身が何を言っているのか分かりません。

 どうしてこんな《哲学》が まかりとおるのか? 疑問に思えて仕方ありません。
 日本人は 著名なものに義理堅いのでしょうか?

お礼日時:2012/11/28 09:34

どうもです。




☆☆☆☆☆☆
ニーチェの永劫回帰説ですか。
ニーチェの、この考え方、理解できないんですよ。
何故、永遠に同じことが繰り返されるのか、ニーチェは説明していないし。
なのですが、ニーチェは一時期、ショーペンハウエルの哲学に傾倒し、それ故に、インドのヴェーダやウパニシャッドの影響を強く受けていたはずです。したがって、永劫回帰の思想の背景には、バラモン教やヒンズー教などの世界誕生→維持→破壊→世界誕生→維持→破壊……と言った時間の循環説があるのではないかと。仏教で言うと、成・住・壊・空劫の四劫説ですね。
 成劫:宇宙が生まれ、生命などが誕生する期間
 住劫:宇宙の維持期間
 壊劫:宇宙の崩壊期間
 空劫:形あるものすべてがなくなった期間
この四つの劫、つまり、四劫の1サイクルの期間が大劫。これが繰り返すという思想です。
ニーチェの時代には、ヴェーダやウパニシャッド、仏教経典がヨーロッパで次々と翻訳され、仏教学が盛んに研究されていたので、ニーチェがこうした仏教やバラモン教の考え方を知っていてもそれほど不思議ではないんですよ。
事実、仏教は、ニーチェ以後のドイツの実存哲学に大きな影響を与えていますし、19世期末~20世紀初頭の西洋哲学や思想のパラダイム転換は、仏教やバラモン教を抜きに語ることは出来ない。

これが
~~~~~~
 (く) ▲ 現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。
 ☆ という内容についての次の説明が どういう考えから出て来たものか 解明していただきたい。
~~~~~~
に対する、眠り猫の回答です。

あるいは、ゲルマンや北欧の神話も関係しているかも知れませんね。
ニーチェは、ワーグナーにも傾倒していましたから。
ワーグナーの大作「ニーベルングの指輪」では、神々は最終戦争で全て死に絶えてしまう。ラグナロク・神々の黄昏。そこから、人間の歴史が始まる。
ニーチェの「神は死んだ」の発想は、ワーグナーの「ニーベンルグの指輪」に端を発しているかもしれない。
時、折しも、ケルティック・リバイバルの時代でしょう。キリスト教という外来思想ではなく、ヨーロッパ本来のケルト思想の中に、ヨーロッパ人のアイデンティティーを求めようとした思想的潮流も関係しているのかも知れませんね。
ケルトの思想というのは、一種の循環思想だそうですから。


☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 (お) ▲ ( c ) ニーチェ哲学は狂気をはらんでいるが、それは無知や短絡的思考からくる狂気ではない。一般人なら適当なところでやめてしまう疑問を問い続けた結果であり、哲学的思索を徹底したがゆえに発生する狂気なのである。
~~~~~~
ニーチェの狂気は、脳性梅毒によるものでしょう。
彼の思想と彼の狂気とは無縁のはず。
これはニーチェを買いかぶりすぎなんじゃないでしょうか。


~~~~~~
 ( d ) 「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち、無限の時間の中で有限の物質を組み合わせたものが世界であるならば、現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。

 ニーチェにおいて、この世界の円環的構造は、たんに存在論的なものにとどまらず、自由意志の問題と結びつけられる。
~~~~~~
円環運動は必然であるのだから、一種の運命論であり、固い決定論でしょう。
なので、ニーチェの永劫回帰説は自由意志とは相容れない思想だ、と思うんですがね。
そうした事実をすべて引き受けることが真の自由意志であるとしても、う~ん、どうなのかな。これを自由意志と呼べるのか。。。。。。
永遠の循環なのだから、それを全面的に引き受けることも過去からの繰り返しであり、それ以外の選択肢はないのだから、自由意志とは無関係だと思うんですがね。



☆☆☆☆☆☆
ニーチェは、警世家としては鋭い観察眼と洞察力を有していると思うのですが、哲学者としてはどうなんですかね。
ニーチェの著作は、「悲劇の誕生」と「ツァラトゥストラはこう語った」くらいしか読んだことがないので、あんまエラそうなことは言えないのですけれども、ニーチェの思想は、結構、論理を飛び越えて、ぶっ飛んでいますよね。
そこがニーチェの魅力なのかもしれませんが、眠り猫、苦手です、ニーチェ。生理的に合わない。その考え方、哲学についていけない。

《ルサンチマン》だ~!!
笑っちまうぜ!!
貴族趣味の思想だぜ!!
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この回答へのお礼

 ねむりねこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ううーん。まだ説得されないですね。

 ★ ~~~~~
 ~~~~~~~~~~~~~
 (く) ▲ 現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。
  ☆ という内容についての次の説明が どういう考えから出て来たものか 解明していただきたい。
 ~~~~~~~~~~~~~

 に対する、眠り猫の回答です。

 〔すなわち〕
 したがって、永劫回帰の思想の背景には、バラモン教やヒンズー教などの世界誕生→維持→破壊→世界誕生→維持→破壊……と言った時間の循環説があるのではないかと。仏教で言うと、成・住・壊・空劫の四劫説ですね。
 ~~~~~~~~
 ☆ これは 時空間に見とめられるものが循環していることを言っているのですよね。季節が巡りくる。木々が芽を出し葉っぱが成り実を成らせ花を咲かせることを繰り返している。組織や社会制度についても 破壊と創造などとも言います。
 これらの《背景》は 永劫回帰の内容とは別ですよね?

 いわく:
 ▲(あ) (ヰキぺ) 同じものの永劫回帰(Ewige Wiederkunft des Gleichen)

 ▲(い) 経験が一回限り繰り返されるという世界観ではなく、超人的な意思によってある瞬間とまったく同じ瞬間を次々に、永劫的に繰り返すことを確立するという思想である。

 ▲(う) ニーチェは『この人を見よ』で、永劫回帰を「およそ到達しうる最高の肯定の形式」と述べている。


 あるいは また曰く:
 ▲(え) ~~~~~
 永劫回帰するのは、終末を迎えることなく時を越えて同一である物にして、且つ万物である。万物斉同。すなわち、永劫回帰は終末における救済というオプティミズムとの対比でしばしばペシミズムと結びつけて語られるが、その一方で、救済されるようにと今の行いを正す、という制約から解放された明るさもある。
 ~~~~~~
 ☆ これだと
 ★ ワーグナーの大作「ニーベルングの指輪」では、神々は最終戦争で全て死に絶えてしまう。ラグナロク・神々の黄昏。そこから、人間の歴史が始まる。
 ☆ という発想とも違うように考えられます。


 

 質問者としては ニーチェは内容がニヒル(ゼロ)だという見方に立ちます。
 ねむりねこさんは 多少は評価しておられましょうか。
 ★ 円環運動は必然であるのだから、一種の運命論であり、固い決定論でしょう。
 ★ 永遠の循環なのだから、それを全面的に引き受けることも過去からの繰り返しであり、それ以外の選択肢はないのだから、自由意志とは無関係だと思うんですがね。
 ☆ このときわたしは そもそも 《円環運動》がどうした? とまづ問い返す口です。

 命題(あ)によれば 《同じものの繰り返し》だと言います。
 (い)によれば 《超人的な意思によって》そのような繰り返しを確立すると言っています。アホかと言いたくなります。
 (う)《「およそ到達しうる最高の肯定の形式」》なんだそうです。

 この解説者としてのヰキぺ氏にしても ほんとうに本気でこんなふに受け留めて言っているのだろうか? これが 質問の趣旨です。



 たとえば ピカソ。
 むろんさまざまな見方があると言わねばならないのですが それでもピカソには美を感じないという声が この okwave でも満ち満ちているとさえ 一度調べて分かったものですから引き合いに出しますが ただ有名なだけ。これに尽きると思うという問いです。

 なぜ有名になったか? それぞれでしょう。あまりにも馬鹿げている場合には ふつうにまともな学者やまじめな社会人も ふらふらとそちらへ靡いて行くのでしょうか? そこらへんも――ニーチェの評価を終えたなら―― おしえて欲しいところなのです。
 むろん 値打ちはあるのだという質問者への批判・反論も歓迎です。

お礼日時:2012/11/28 06:21

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