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以前、何かの文献で、仏教は神道が広まっていたかつての日本で
神道の神様が、仮の形で人々の前に姿を表す事ができるように
仏様として信仰するために布教させた~という内容をどこかでみました。

どこで見知ったのか一切失念しております。
神道が広まっていた日本において
1.上記事柄になにかしら一致するような点は現行の仏教にのこっていますか?
あるいは、上記事柄はまったくのでたらめでしょうか?

2.当時の日本において、仏教を布教させた背景にはどんな意図があったのでしょうか?

なるべくなら、宗教的な観点ではなく、歴史的な観点でご教授いただきたいです。

A 回答 (12件中1~10件)

No.9 です。


昨夜の回答では、分量が多すぎると思い、中間(平安中期~江戸時代)をまるごと端折ってしまいました。

追加でいただいた質問についてですけど…

「神仏集合の状態が一気に失われた」という点については、日本人の「信心」のありようとしては「いいえ」といえるでしょう。
ただ、「神仏習合」を物理的に象徴するような建造物や造形の類は、廃仏毀釈のプロセスでかなり失われています。
「神社と寺の同居状態」の解消と書いたのは、そういう意味です。

また、仏教側について「現在の仏教」とだけ書きました。

実際のところ、「過去の仏教」を見ると、「神道を取り込んだ」ものもありました。
比叡山延暦寺では、平安時代末期から「山王神道」というものが現れました。これは、比叡山の山の神を「山王神」とし、これを「釈尊の垂迹」とみなすものでした。
この「山王神道」は、徳川家康の側近となった天海によって「山王一実神道」とされました。日光東照宮は、この「山王一実神道」で祀られています。
他にも、「天照大神は大日如来の化身」といった主張が、鎌倉時代にはありました。

「仏教の教義」は、インド→中国と伝わってきた経典がベースなので、それは変更されようがありません。
加えて、日本仏教では各宗派の創始者などの書も経典と並ぶ基盤とされています。
ただ、最澄・空海や、鎌倉仏教の創始者たち(法然・親鸞・道元・日蓮など)は、「神道との統合」を意識しておらず、そういう思想を示した文書も残されていません。

「神仏分離」は撤回されたとはいえ、神道は政府自らの管理下で整備されした(いわゆる「国家神道」です)。
また、キリスト教などに対する信教の自由も認められるようになりました。
このような中で、仏教諸宗派は、自らの「宗教」としての「教義」を再確認する必要に迫られました。
その過程で、伝来の経典と創始者たちの書を基礎として「教義の純化」が行われ、「神道の取り込み」の要素などは排除されました。

実際には、たとえば、曹洞宗大本山の永平寺では寺の中にある神社に陀羅尼をあげる習慣が残されているなど、寺の内部でも神道との関わりのあとが残されているところもあるようです。

それと、「仏教が神道を吸収した」というのは、やや誇張した表現です。
実際は、No.10の方が示されているとおり、度会神道、吉田神道といったものも提唱され、「本地垂迹」の関係を逆転させる思想(「神本迹仏説」といいます)も掲げられました。
19世紀に入ると、本居宣長を初めとする国学者が神道を尊重する動きを見せています。明治政府の神仏分離と廃仏毀釈は、この流れをくんだものです。

詳しくは、No.10の方のご回答を参照いただくとよろしいかと。
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ANo.2 です。


お寺に鳥居がある例ですが、私は20代に全国各地を旅行(歴史探訪)しましたが、たまに見かけましたよ。確かに多くは無いですが。

蛇足ですが、私は京都ですが、護浄院というのがあります。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/gojyo-in.htm
説明文では「神仏習合時代の名残」とありますが、七福神なんて神仏習合どころかアジア宗教の混交なので、分離しようとすれば七福神を解散するしかなくなりますね。
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No.3です。


お礼にあったこの部分について・・・

>何故なら「金剛明経」には、王が天の子であり、産まれた時から天に守護され民を支配する資格があると書かれているからです。
の点についてはこれは、仏教の経典とありますがこれは仏教の祖ゴウタマ・シッダールタが
シャカ族?の長だった点になにか通ずるものがあるのでしょうか?
無関係ですかね?w

まず先に少しお詫びを。誤字がありました。
「金剛明経」と書いてますが正しくは「金光明経」でした。申し訳ありません。お詫び申し上げます。

「金光明経」の内容と仏陀の生まれの身分の関係についてですが、はっきりとは分かりません。
そもそも、仏陀は紀元前五世紀という遠い昔の人物です。
しかも、当初、仏陀の弟子達には仏陀の説法を文字にする事は冒涜行為だとして記憶によって受け継ぐという事をしています。後には文字にされ経典となりますが、それがどこまで正しく伝わっているのか・・・内容を伝える途中で誤りや悪意無き改編が全く無かったと言えるのか・・・
この「金光明経」は大乗仏教の経典に属しますが、大乗仏教の経典は必ずしも早くに成立したという訳でもなく、一番古くに成立したパーリ語聖典には大乗仏教の経典は含まれておらず、さらに後の成立となっています。
「金光明経」の成立は4世紀頃とも言われ、仏陀の死後、数百年経ってからとも考えられるので、どこまで正確であり、著者の個人的な思想が入っているのか、入っていないのか、分からない部分もあるかと思います。
もしかしたら、「金光明経」の著者が仏陀の生まれの身分を考慮して、そうした内容を盛り込んだかもしれません。
また、著者が当時、どのような国に生きていたか等も影響するかもしれません。
宗教は生き残るため、または発展するために、国の権力者に取り入るために都合よく、教義や経典の内容の解釈を変える事もありますから、著者がそうした行為をしたとしてもおかしくはないかと。

ところで「神仏習合」についてですが、その思想の頂点は平安時代です。
そして、それは必ずしも仏教が神道を吸収するというものでもありません。
仏教者による「神仏習合」思想の頂点とも言えるのが「本地垂迹説」で簡単に言えば神は仏の化身とするものです。
しかし、これに神社側から反発する動きが平安時代末から出始めます。
その先駆けが、伊勢神宮(外宮)の神主家の度会氏が成立させた度会神道です。この神道の主張は神道の神こそが本体で仏はその化身とする「反本地垂迹説」でした。
これに続いたのが室町時代に成立した吉田神道で、神道をもって仏教と儒教の上におき、神道こそ万物の源流であると説きました。この吉田神道の吉田家は時の権力者と結びつき、全国の神社の神祇行政を担う地位にまでなりました。

なお、江戸時代になると幕府は仏教の引き締めを行います。
戦国時代に石山本願寺や一向一揆など宗教勢力が武力を用い脅威になった事を鑑み、寺院法度を発布して全国の寺院を幕藩体制下に起き管理し、寺院の活動を宗教活動に限定させようとします。

そして徳川幕府は朱子学を治国の道とし、儒学を保護、奨励した事から儒教が盛んになり、神道の解釈も儒学的傾向が出てきます。また儒学者の間からは排仏思想も出てきます。幕府の臣で家康から家綱まで四代の将軍に仕えた儒学者の林羅山は「日本は神国であり王道は天神の授けるところ」と述べています。
こうした仏教を排除し儒教をもって神道を解釈する「儒家神道」が江戸時代に出現します。

また同じく江戸時代中期に古学を研究する学者達の間から「復古神道」が出現します。
これは古典の古事記、日本書記を忠実に信じるところから始まり外来思想の仏教、儒教は排除して、純粋な日本民族の信仰を行おうというものです。平田篤胤や本居宣長などの高名な学者によって大成されました。

一般庶民は徳川幕府により檀那制でお寺と結び付けられ宗旨人別長が作られましたが、春秋の田の祭りやお伊勢参りなど民俗神道としての行為を行っています。

さらに「廃仏毀釈」は明治政府が行ったものが有名ですが、実は出雲大社では江戸時代に行われ、仏教系の物が撤去されています。出雲大社以外にも仏教の影響を排除しようとする神社は他にもあり、江戸時代には幾つかの地域で廃仏毀釈が行われています。

このように必ずしも神道は仏教に吸収されたわけではありません。
「神仏習合」は思想的には神が仏の上か、仏が神の上かの神道と仏教の衝突もありましたが、俗世間的には共存共栄していたと言ってよいものです。ただし、どちらかというと長年権力と結びついて来た事もあり、仏教の力が強く神道が押され気味だったといえます。

なお明治政府の「廃仏毀釈」は神社と寺、神と仏を分ける目的で行われましたが、神官や国学者の思想の暴走、それまで寺側に虐げられた庶民などの怒りが向けられた事もあり、政府の目的から外れ過度に寺側が物的被害を蒙ったと言え、庶民が仏教を捨てたものではありません。

そして現在でも、個人の家庭でも神棚と仏壇を両方祭ったり、地域や風習にもよりますが、初詣や七五三は神社、お葬式はお寺で行うといった形の「神仏習合」は深く人々に浸透しています。
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既にいろいろお答えがあるようですけど、あえて回答を投稿させていただきます。


結論から先に言えば、

1 上記事柄になにかしら一致するような点は現行の仏教にのこっていますか?
あるいは、上記事柄はまったくのでたらめでしょうか?
→ 「神仏習合」という現象は存在していましたが、現行の仏教にはその痕跡は基本的にありません。
 ただし、神道の神社の中には、寺が隣接していたり、祭神が実は仏教の神だったり…というところが少なからずあります。

2 当時の日本において、仏教を布教させた背景にはどんな意図があったのでしょうか?
→ 飛鳥時代から奈良時代にかけては「鎮護国家」という意図がありました。しかし、平安時代以降は、政治と仏教の優越関係が逆転し、むしろ仏教が政治を左右するようになります。

<以下長くなります>
前提として、「神道」を「歴史的」に見ると、(1)各地の素朴な信仰心(山の神・海の神など)に由来している面がある一方で、(2)大和朝廷において「記紀神話」が整理される程度には国家的な面もありました。
「記紀神話」の神々などを朝廷で祀ることは、他の答えにあるとおり「物部氏」が主担当でした。
ただ、朝廷における祭祀が、全国各地まで系統化されていた訳ではありません。

飛鳥時代に入る頃に、「最初の」仏教が伝来します。
この時期の仏教は、「蘇我氏」が「物部氏」に対抗するために活用された面もあります。

その後、「蘇我氏」は滅亡しますけど、仏教は「鎮護国家のため」として引き続き重用されました。
その「仏教による統治」の総決算が、東大寺の大仏と全国の国分寺です。

「歴史的」には、この「最初の」仏教で「仏教伝来」が終わった訳ではありません。
平安時代に入って、遣唐使が派遣された際、留学僧の最澄が天台宗を、同じく留学僧の空海が真言密教を、それぞれ学んできます。
この天台宗と真言宗は、「最初の」仏教に替わって「鎮護国家の法」の地位を得ます。

これらの密教は、奈良時代から既に伝わってきていて、修験僧の伝説も各地にあります。
「白山権現」や「箱根権現」などがそれです。
これらの伝説は、地元の「荒ぶる神」を修験僧が制した上で、「荒ぶる神」という「仮の姿」の裏に「仏」という「本当の顔」があると見抜いた…という流れをとります。
これが「本地垂迹説」の原型です。

この古い密教を「雑密」(ぞうみつ)と言います。
これに対して、中国で当時流行していた「正統派」の密教を「純密」(じゅんみつ)と言います。
この「正統派密教」を学んできたのが最澄と空海です。
彼らの密教が、「鎮護国家」という目的の下で全国展開していく中で、系統化されていなかった土着信仰の神道と接触して、このような考え方が生まれました。

「おらが村の『神様』も『仏様』にすがってる」「あの『神様』は、ほんとは『仏様の化身』なんだ」

…といった感じで、「神道が仏教に吸収される」ような形で「神仏習合」が進みました。
同じ平安時代に、伏見稲荷大社からの稲荷神の勧請といった「神道側の系統化」も始まりますけど、統一的教義を持っていた仏教の方が主導権を持っていました。
このため、仏教の教義にはほとんど修正が加えられぬまま、神道側の対応によって「神仏習合」が成立していきました。
この時代には、神社に「神宮寺」という寺があり、寺に守護神の「神社」がある…という状態が「当たり前」でした。

なお、仏教を「鎮護国家」の手段として用いていたのは、せいぜい平安時代初期までです。
同じ平安時代に、神道の祭式を定めた「延喜式」というものも朝廷によって制定され、神道側も祭祀の体系化が図られました。
以後、仏教は、支配階層や民衆に広く根付き、むしろ「政治に影響を与える存在」になります。

この「仏教主導の神仏習合」状態は、明治維新の際に行われた「神仏分離」と「廃仏毀釈」によって強制的に解体されました。
「神道を優先し、仏教を弾圧する」…という方針により、「神社の神宮寺」は廃止され、「仏様」を祀っていた寺が「神様」を祀る神社に改組されたりしました。
もっとも、一部では寺も残りました。琵琶湖の竹生島にある宝厳寺と都久須磨神社(寺と神社を分割したものです)などがあります。
(あるいは、他の答えにもあった「銭洗弁天」こと宇賀弁財天など、仏教の祭神が神社に残されている例も多くあります)

この「神仏分離」政策はすぐに撤回されました。
とはいえ、「神社と寺の同居状態」は、多くは解消されました。
そして、過去からの「教義」を受け継いでいる「現行の仏教」には、「神仏習合」の痕跡は残っていないと言ってよい状態です。

この回答への補足

よる遅くにご回答ありがとうございます。

ほかの方の回答にもあったのですが、
現在の仏教にその神仏習合の名残が見受けられない点について、

>この「神仏分離」政策はすぐに撤回されました。
このように短期間行われた廃仏毀釈によって
>とはいえ、「神社と寺の同居状態」は、多くは解消されました。
とありますが

それまで、根付いていた神仏習合の状態が一気に失われた理由は
廃仏毀釈が思った以上に致命的だったということでしょうか?

少なくとも飛鳥以降、積み重ねた神仏習合がそんな簡単になくなっても
もんだいなかったのでしょうか?

>…といった感じで、「神道が仏教に吸収される」ような形で「神仏習合」が進みました。
とあります。
仏教の教義に大きな改ざんがなかったようではありますが・・・・
ちょっと釈然としませんね・・・。

補足日時:2013/02/05 00:24
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1、神道は、古代日本の政治のための作法なので、宗教的に広まっていたというのは誤りだと思いますよ。

仏教が日本古来の神々と重なったことは、神仏習合と言われいて、715年に神宮寺という形で全国に作られます。詳しくはwikipediaでどうぞ。

2、仏教は布教させた背景は、完全に政治です。物部氏が当時祭事を仕切っていて力を持っていました。祭事と言っても、当時は国を治めるための一流の科学です。そこに新しい科学として持ち込まれたのが仏教。こっちの祭事のほうが国が栄えるよ、と言って蘇我氏が持って対抗したんですね。結局この争いは蘇我氏が勝って、物部氏は、衰退します。ま、藤原氏と違って、もともと大王家と目される両家なので、お互いの科学のぶつけ合いをしていたというところですかね。何をもって統治するかという点で利用されたのが当時は宗教です。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F% …
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仏教は522年 百済の済明王によって伝えられました


当時の豪族だった蘇我稲目(馬子の父)はたいそう仏教を信仰したそうです

そして息子の馬子は自分の家を清めて仏像を奉りました これが日本最初の寺「法興寺」です
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神道とは、人智の及ばない領域での神の御加護を祈願するものです。

日本人は古来より、「五穀豊穣」「大漁祈願」「夷敵降伏」「子宝祈願」などなんでも片っ端から神に祈ってきたのです。今年も沢山米が採れますように、魚が沢山釣れますようにってことです。なにとぞ神様のご支援をよろしくお願いしますってことです。これが神道という宗教の本質です。そしてめでたく豊作になり、大漁になると人々は酒を飲んで歌って踊りました。心の底から喜んでいる姿を全身で表現して、神様に見てもらうことが、神様への恩返しだと考えたのです。これが祭りなのです。

このように神道はありがたいものなのだけれど、神道は人に普段の心のあり方、暮らし方を教える宗教ではありません。神道は、正否の判断基準を何一つ教えてはくれない。それが「聖地奪回」という大義名分のもと野蛮な十字軍を正当化したキリスト教などの宗教とまったく異なる点です。十字軍は、ローマ教会が主催した窮民救済の公共事業みたいなものです。聖地奪回の美名のもと、虐殺・破壊・放火・略奪といった蛮行を正当化したのがキリスト教の役割だった。

そういうキリスト教の役割は、メロヴィング朝のキルデリク3世を廃してカロリング朝を開いたピピン3世の例でも明らかです。ピピン3世は、時のローマ教皇に問う。「王の称号を持つのみの者と、王ではないが王権を行使する者のどちらが王たるべきか」。要は自分が王になってはいけないのか?とローマ教皇ザカリアスに尋ねたのです。ザカリアスはピピン3世が王になるべきだと答申しました。現代でいえばローマ教会は、諮問機関みたいな役割を果たしたのです。

ところが神社はそういう役割は全く果たさなかった。神社は神を祀って人々の願いを取り次ぐ出張所みたいな役割を果たしたのです。

では仏教はどうなのか。仏教の本質は、災いは煩悩から生じると教えるのが本質です。仏教は、人々が煩悩に囚われるから、自ら不幸を招いてしまうのだと教えます。だから煩悩から解放されなければならない。それが仏の道なんです。そういう風に人々に普段の心のあり方、暮らし方を教えるのが仏教です。

このように神道と仏教は役割が全く異なっていて相互補完的に日本の発展に貢献した宗教なのです。

ところで仏教は後発の外来宗教ですから、神道が土着していた日本に浸透する為には、人々が受け入れやすいように神道になじむ形で仏教を説明する必要がありました。

後発の仏教が、先発の神道と共存する為には仏教は神道と対立するものではないと理解される必要があったということです。

たとえば七福神は、神道なのでしょうか。それとも仏教なのでしょうか。弁才天信仰は神道なのでしょうか。それとも仏教なのでしょうか。

銭洗弁財天 宇賀福神社|鎌倉ツリープ
http://www.treep.jp/kamakura/cate_jinjya/zeniara …

神社というのだから神道なのでしょう。しかし弁天様の仏像は、東大寺法華堂にあります。寺というからには仏教なのでしょう。

これはどういうことなのか。後発の仏教が、神道が普及していた日本に浸透する為には、仏様も神様のひとりなのだと説明する必要があり、そのほうが人々も理解しやすく受け入れやすかったということなのです。

それだけの話なんです。味噌も糞もごっちゃにして区別できない、お馬鹿な日本人は、神道と仏教を厳密に区別して意識していた訳ではないというだけの話なんです。

中世ヨーロッパでは、初期のローマ教会は偶像崇拝が定着していたゲルマン人にキリスト教を布教する都合で、偶像崇拝でなくて聖像だといいはって、モーセの十戒で禁じられていたにも関わらず、偶像崇拝を正当化した為に東ローマ帝国領内の東方教会と対立しました。

日本で仏教が広まったのも同じことなんです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>それが仏の道なんです。そういう風に人々に普段の心のあり方、暮らし方を教えるのが仏教です。

ほかの方も似たような事を回答していましたが、
一部では、仏教は思想だと。

私は、仏門の教え丸っと同意できるわけではありませんが
お盆や身内の回忌で坊さんがまあ、よく仏の教えを説く事があるのですが
きいていると、教えというより、「マナー」ととらえる方がしっくりきますね。


>これはどういうことなのか。後発の仏教が、神道が普及していた日本に浸透する為には、仏様も神様のひとりなのだと説明する必要があり、そのほうが人々も理解しやすく受け入れやすかったということなのです。

この時点で、仏教の祖ゴウタマシッダールタの説いた仏門とはやはりずいぶんかけ離れた
宗教になっていたのでしょうかね・・・。

それでも日本の仏教にはシャカ様がーうんぬん説いてるので
いいところはそのまま残して都合のわるいところは改ざんして・・・って
結構適当なのですね・・・。

仏教を政治的理由に用いていただけあって、実のところ日本人っていうのは今も昔もかわらず
無神論者なのかもしれませんねw。

お礼日時:2013/02/04 21:01

神道という宗教が広まっていたのではなく、日本の文化が神道によるものと考えたほうがいいと思います。


神道には信仰、崇敬があるけれど教義というものはありません。つまり日本そのものなんです。
一方仏教は一部の研究者の中には「仏教は思想であって宗教ではない」と言う者までいる。
なので仏教は確固たる理論武装をしており、神道には全く理論というものはないんです。
だから仏教が日本に入ってきたとき、おおよそ理論攻撃で神道は争いにもならなかった。慌てて神道も理論武道を試みましたが、敵うはずもなかった。
そして仏教は本地垂迹という考えを展開して、日本の神々を取り込んでしまったのです。

権現は仏教に取り込まれた神道の神が仏の化身だという意味です。「権」は「仮の」という意味でまさに仮の姿で現れたという意味です。これに対し「明神」は仮の姿ではなく真に明らかな姿(神)をもって現れるという意味です。
稲荷権現といえば「観音などが稲荷神の姿をもって顕れた」という意味になり、稲荷大明神は「稲荷神が神として顕れた」という意味になります。つまり明神とう神号はあくまでも仏教を視野に入れた考えという事になります。

仏教公伝以前も仏教は中国文化として日本に入ってきていました。当時は災害や異常気象などに見舞われた時代なので、仏教にすがるしかなかったのかもしれません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>一方仏教は一部の研究者の中には「仏教は思想であって宗教ではない」と言う者までいる。
なので仏教は確固たる理論武装をしており、神道には全く理論というものはないんです。

これはすごく面白い解釈ですね。
たしかに仏教には曼荼羅?がありますね。あれは宇宙そのものを説いたものでしたか・・。

そういう意味では、科学の色もあるのですね。


>神道には全く理論というものはないんです。
だから仏教が日本に入ってきたとき、おおよそ理論攻撃で神道は争いにもならなかった。慌てて神道も理論武道を試みましたが、敵うはずもなかった。

なるほど。神道はもともと日本に存在した土着信仰だったため、理路整然としたものでなく
漠然と自分たちの富をただ祈るというものだったわけですね。
たしかに、祈りそのものに思想というか、ことわりはありませんよね・・・。
ただ、己の欲を満たしてほしいということですし。

お礼日時:2013/02/04 20:48

 でたらめではありません。



仏様は神々の一つだとか化身だとかの

思想が生まれています。

まず、奈良時代当初の神仏習合。

これはその前の時代の仏教伝来をなじませる

ためにできる。痕跡としては神宮寺がそれ。

日本の神さんが宿る神社が寺の敷地にある。

 江戸時代にかけて神道も仏教も少しずつ

変身していきますが、すみません、時代的に

は詳しくないので、概略で。

(1) 神々の一つが仏様の考え

(2) 神々が仏様に謝って仏教に帰依したとの考え

(3) 仏様が日本の神々に姿を変えたという考え

と移り変わり、江戸時代の民衆にとっては、

仏教と神道の区別はすでになかったようです。

この辺りで、日本人の正月や結婚式は神社、

大晦日や葬式は寺院でが違和感なくなるのでしょう。

 ところが、明治時代になって、国の元首が天皇

となると強引に「廃仏毀釈」仏像やお寺が壊されて

国家神道として伊勢神宮を頂点とする神道が確立、

全国の神社が息を吹き返します。


2.について(仏教を布教させた背景)

A) 飛鳥時代では古い豪族の代表である物部氏が
  神々を信仰するのに対し、新しい渡来系の豪族
  を代表する蘇我氏が仏教を広めるために。もち
  ろん、渡来人にとっては仏教こそが正しい宗教
  で日本古来の神々を信じる土俗宗教なんて愚か
  に思ったのだろう。でも何よりも古い豪族勢力
  をやっつけるためには仏教こそがシンボル。
 (飛鳥時代~奈良時代初め、伝染病がはやると、
 旧勢力仏教など入れたから病気がはやるのだと言うし
 新しい勢力はついに大仏を建立して祈願した。)

B) 奈良時代の律令制の強権的な統一国家を全国に
  定着させるシンボルとして仏教が欠かせない。
 (全国に国分寺を建立させたのがそれ。でないと
  各地域それぞれの土着の神さんが崇められた)

C)途中省略、一気に江戸時代
 中世の寺院と神社はそれぞれ大小の差はあれ大名
 などと変わらない領主として君臨。それを一挙に
 没落させたのが織田信長と豊臣秀吉。
  江戸幕府を開き定着させた徳川の家康・秀忠・
 家光のころに日本全国を強く統制する手段に仏教
 を採用した。室町時代からキリスト教が特に近畿
 以西で急速に影響を広げ、特に北部九州があたか
 も宣教師の国の如く見えたので秀吉による弾圧、
 そして江戸時代の初期に天草・島原の一揆があり
 鎮圧に派遣した老中が戦死するなどの威信失墜
 するできごとで完璧にキリスト教を根絶やしに
 する宗教として仏教があった。どの宗派でも良い
 わけではなくて徳川家がまだ弱小大名であった
 三河にも根付いていた浄土真宗を採用、同時に
 日本最大の教団となっていたので内部対立を利用し
 京都に東西の本願寺を認め対立させた。
  ご存じと思うけれど、日本人全員が仏教寺院の
 どこかに檀家として登録せねばならず、仏教勢力
 はそのことで一挙に大勢力となると共に、葬式
 仏教と影で言われるように信仰心を薄れさせた。

 丁寧さにかける箇所ありますがこんなもので
 ご勘弁を。



 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとございます。

>江戸時代の民衆にとっては、

仏教と神道の区別はすでになかったようです。

なるほど。・・・・確かに私の実家は禅宗なのですが、実家には神前があります。
ただ、あまり手を叩くことはありませんが。

>日本人の正月や結婚式は神社、
神前では手を叩くのは神道が担うものがそのようなめでたい出来事をになうからなのですね。

>大晦日や葬式は寺院でが違和感なくなるのでし
仏前では手を叩きませんが、まあこの辺りの神道・仏道でのしきたりは諸説あって
どれが正しいのかわかりませんね。
すくなくとも江戸時代には神仏の違いがみられなかったということから
近代になってでてきたものなのですかね・・・。


>でも何よりも古い豪族勢力
  をやっつけるためには仏教こそがシンボル。

ほかの方もお答えいただきましたが
仏教伝来当時はやはり政治的キーアイテムとしての色しかなかったのですね。

お礼日時:2013/02/04 20:40

>以前、何かの文献で、仏教は神道が広まっていたかつての日本で


神道の神様が、仮の形で人々の前に姿を表す事ができるように
仏様として信仰するために布教させた~

仏教の布教理由に神道の神を持ち出すのは誤りです。
仏教の布教理由は政治的目的です。

まず神道が広まっていたとい言いますが、これがまず問題です。
政治的な意味での仏教の伝来は欽明天皇の時代の552年(546年という説もあり)に、百済の聖明王から仏像と仏典が送られてきました。
ではこの時代に神道の教典、教義があったかというとありません。
現在、神道として神典とされる二本柱の一つである「古事記」の成立は712年であり、「日本書紀」の成立は720年です。
仏教の伝来よりもかなり遅い時代です。
しかも江戸時代の学者の本居宣長が「古事記を読むと道も無い、教も無い事がわかる。それがわかるのが神道がわかるという事だ」と述べているように、神道には教義が無いと考えられています。
神道は日本民族の古来の信仰習俗に由来する信仰の総称であり、仏教伝来前は体系化されておらず、仏教伝来時は単純素朴な神祇信仰が存在していたと考えられています。

そうした日本の宗教状況の時代に仏教が伝来するわけですが、仏教を信奉するかについては当時の朝廷で蘇我氏と大伴氏が奉仏派となり、物部氏と中臣氏が排仏派となり抗争を繰り広げ、奉仏派が勝利します。
ただし、この頃の仏教信仰は仏の威力や呪力による抜苦与楽、治病済世の現世利益を求めたものであり、自己の繁栄を祈願するものでしかありませんでした。
その後、聖徳太子の時代に仏教は国家仏教としての性格を持ち始めますが、国家の安穏、貴族達の自己の繁栄を祈る呪術仏教であり、民衆への布教は消極的であり、仏教の各宗派はそれぞれの教義を研究する事を重視する学派仏教の性格を強く持っていました。
なお、645年に乙巳の変で蘇我氏本家の蘇我入鹿が暗殺され蘇我氏は勢力を大きく後退します。

その後、仏教を権力強化の道具として大きく使ったのが天武天皇です。
朝廷は国家権力を安定させるのに都合の良い仏教の経典を見出しこれを使用します。
「金剛明経」「仁王経」「法華経」の三つの「護国三部教典」と言われる教典です。
これらの経典は病を免れ天災や戦乱を鎮圧するのに力を発揮すると信じられていましたが、中でも「金剛明経」は重視されました。
何故なら「金剛明経」には、王が天の子であり、産まれた時から天に守護され民を支配する資格があると書かれているからです。これは、天皇は天照大神の末裔であるという話とも合致し、天皇家の権力を維持するのにとても都合の良い事でもありました。だから布教に力を入れます。
天武天皇は677年に諸国に使者を遣わし、この「金剛明経」などを講説させ、その後、諸国に仏像と経典を送ります。
聖武天皇は741年に諸国に「国分寺」の建立と民へ「金剛明経」などを聞かせるよう命じます。
つまり天皇家による政教一致と中央集権化の道具として、権力強化・安定の道具として仏教が庶民に広められる事になりました。

最初は自己繁栄の呪術的目的、その後は権力強化安定のための道具として仏教が使われました。
ですから神道の神のために仏教の布教が行われたなどという事はありません。

そしてさらに時代が進むと僧侶達の間から神道の神々は仏法を守護するものであるという説が出されたり、神々は仏が衆生を救うために仮に神となって出現したもの等の「神仏習合」が広く言われるようになり、民にも受け入れられていきます。

おそらく質問者様の読まれた書物は「神仏習合」の理由について書かれたものだと思いますが、時系列を無視した強引な解釈を主張していると私は考えます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

仏教の布教そのものは時代背景だけに、政治的的理由による布教だったわけですか。
ほかの方が書かれているように
仏教と神道が見ようによっては表裏一体にみえるのは後生の人間にとって
都合がよいようにうまくつじつまを併せたようなものなのですね。

>何故なら「金剛明経」には、王が天の子であり、産まれた時から天に守護され民を支配する資格があると書かれているからです。
の点についてはこれは、仏教の経典とありますがこれは仏教の祖ゴウタマ・シッダールタが
シャカ族?の長だった点になにか通ずるものがあるのでしょうか?
無関係ですかね?w

お礼日時:2013/02/04 20:31

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