【大喜利】【投稿~9/18】 おとぎ話『桃太郎』の知られざるエピソード

以前、何かの文献で、仏教は神道が広まっていたかつての日本で
神道の神様が、仮の形で人々の前に姿を表す事ができるように
仏様として信仰するために布教させた~という内容をどこかでみました。

どこで見知ったのか一切失念しております。
神道が広まっていた日本において
1.上記事柄になにかしら一致するような点は現行の仏教にのこっていますか?
あるいは、上記事柄はまったくのでたらめでしょうか?

2.当時の日本において、仏教を布教させた背景にはどんな意図があったのでしょうか?

なるべくなら、宗教的な観点ではなく、歴史的な観点でご教授いただきたいです。

A 回答 (12件中11~12件)

1.のご質問の主旨が「現在に残る神仏習合の痕跡」ということであれば、下記のようなものが挙げられます。



・僧形八幡神像
 神様である八幡神(応神天皇)が僧の風体をしている
・寺院に鳥居が建っていたり、神社に鳥居がなかったりする場合がある
 明治の神仏分離で取壊しや移転の被害を受けずに残ったか、後に神仏習合形式に戻されたもの
・日蓮宗の本尊曼荼羅には「天照大神」の名がある
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
私の質問1.については神仏習合(神仏混合ともよばれるのですかね)と読み替えれば
いい訳ですね・・。
>寺院に鳥居が建っていたり、神社に鳥居がなかったりする場合がある
 明治の神仏分離で取壊しや移転の被害を受けずに残ったか、後に神仏習合形式に戻されたもの
しかし、お寺に鳥居がある件に関してまだ現存しているのですかね。
私の地元は神仏混合の地国東半島なのですが、そのような寺などのこっていなかったような・・・。私が知らないだけかもしれませんが・・・。

>日蓮宗の本尊曼荼羅には「天照大神」の名がある
これは知りませんでした。
仏教の一宗派にどうどうと神様の名前をみることができるのですね・・・。

お礼日時:2013/02/04 20:24

仏教と神道の対立は,日本書紀用明天皇(即位年西暦585?)の条に記されており,その後,崇峻天皇(即位年西暦587?)即位前紀には,蘇我氏と物部氏を両派の代表勢力として一大決戦が行われ,蘇我氏側勝利の結果,皇室に仏教が公認された経緯が記されています。


それより以前にも百済経由で伝来はしています。また,各地文化遺産の発掘により,弥生末期には既に九州や山陰各地に伝来していた可能性も指摘されています。
蘇我氏の勝利は,宮中権力闘争の一形態と見れば,記紀の記述もより深く理解出来ると思います。
神道派が敗れ,大仏造営などで仏教色は強まりましたが,建国以来の天皇家祖先神天照大神と各地の鎮守信仰は捨てがたく,それらを両立させる為の日本人の知恵が,神仏習合でした。
明治維新早期に神仏分離と廃仏毀釈が行われ,仏教には権力による徹底した弾圧と破壊がもたらされました。神社の統廃合や格付けも行われましたが,仏教各派の反対と庶民の反感により,程なく修正されます。
維新前までは各社寺に神仏が併祭され(神宮寺)ていましたし,経文を唱える神官や祝詞を唱える僧侶の姿も違和感なく見られましたが,今日では,神宮寺は希有の存在と成っています。神仏分離の状態は今日に至るも回復されて居らず,騒動の間に多くの仏教遺産が失われました。
神葬祭にしろ仏式霊祭にしろ,禊ぎ払い観念や極楽浄土観念など,両者に共通的な材料は少なくないと感じます。
宗教が権力によって利用されることは,筆舌に尽くしがたい混乱と困難をもたらします。
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