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神社の起源は山や大木,巨岩のよな大きいものを崇拝する事か始まり,そこに社が造られ,祭神をもうけることで”神社”となったとされています。

現在,約10万社があると言われていますが,その祭神を大別すると現在の皇室の系統の「天孫系」と天孫系に国譲りをした「出雲系」になります。

天孫系の八幡宮(祭神は応神天皇,神宮皇后,謎の比売大神)は源氏の守り神になったために全国に広がったという幾分例外的な背景がありますが,他の天孫系神々を祭った神社はかなり少ないです。

一方,天孫系により討伐された出雲系神々である素戔嗚尊や大国主命,建御名方神を祭った神社が圧倒的に多く全社中で60~70%を占めると言われます。
天孫族である大和朝廷にとって出雲系は敵であるはずですが,出雲系の神社はお膝元の大和や近畿を始め九州,四国,中部,関東,東北と全国的な広がりを持ちます。歴史学者は出雲は神話であり架空の話として,余り触れたがりませんが,ある高名な学者は著書の中で大和国家が成立する以前には出雲の支配勢力が全日本に及んでいたと述べています。私はこの説に納得するのですが如何でしょうか。

また明治天皇は明治元年に,素戔嗚尊を祭った氷川神社を武蔵国の総鎮守神に定めると同時に行幸されています。これも謎です。

A 回答 (7件)

私も詳しくは知らないのですが、10月の神無月には全国の神社の神が出雲に集結すると聞いてます。

という訳で、貴方の仮説は正しいと思いますね。でも、邪馬台国が出雲にあったとは考えにくいですけど。自分の調べだと九州っぽいです、邪馬台国。つまり九州→出雲→奈良へと移行していったのではないでしょうか?あくまでも推測ですけど。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとう御座います。
出雲大社で10月に行われるのは「神有月」でであったり,四柏手(宇佐神宮も同じですが)とか他社と異なる事があります。
邪馬台国・九州説には同感ですが,出雲経由には疑問を感じます。
この問題は証拠がないですから,最後は信じる,信じないという事になりますが。

お礼日時:2007/01/11 21:35

学者でもわからない事を質問されているので私の空想になります。


多くの歴史書が編纂されたのは奈良平安時代です。その当時は呪いや言霊などが今からは想像ができないほど信じられていた時代です。鎮魂の為などで滅ぼされた側のオオクニヌシを祭っても不思議では無いような気がします。別な意味でも、現在でもそうですが、中国などと違い日本は死んだ人に鞭を打つという事を忌み嫌う民族なので丁重に祭るというのも含まれているのではないでしょうか。
敗者が祭られている神社などは他にも色々とあります。歴史の過程でそれが祭られる側かそうでないかはいくらでも変わっても不思議ではありません。

私の空想を纏めると、国を取られたオオクニヌシの鎮魂から始まり、オオクニヌシ様をお祭りしておけば呪いが防げ全てが安泰だと考えられていたのではないのでしょうか。逆な意味、全ての災いはオオクニヌシがもたらすと考えられていたのかもしれませんね。私としてはオオクニヌシそのものは架空だと思いますがモデルになった人物や大和朝廷成立以前に出雲みたいな国は存在していたと思います。
>他の天孫系神々を祭った神社はかなり少ないです。
私が思うに天智、天武天皇以前は頻繁に乗っ取りがあったと思います。天智、天武の系統が応仁天皇から始まっているのではないかと、これも私の空想です。現在に残る後世に残された天皇の系譜などを見ると明らかに不自然な個所なども見受けられます。
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この回答へのお礼

ご回答有り難う御座います。
専門家でも解らない事ですが,その系時的な解読の変遷を知るのも楽しいではないでしょうか。
学問の神として祭られる天神社は菅原道真への鎮魂から始まる事は殆ど否定されません。大国主命を祭る出雲大社も鎮魂の意味があると感じます。
王朝交替説については私も同じように感じていたのですが,この2~4年前に続けて発行された安本美典氏の関連本(5冊)を読みますと感じ方にグラツキが出てきました。

お礼日時:2007/01/11 21:53

結局、自分が信仰していた物までは変えられなかった。


ではないでしょうか?

または、いきなり民衆の信仰まで変えれば、地方豪族を抑えきれなくなる。こう言う判断ではないでしょうか?

出雲周辺からは銅鐸が盛んに出土します。
銅鐸、銅矛文明からすると、天皇は銅矛文明なのではないでしょうか?
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/doutaku.htm

>出雲の支配勢力が全日本に及んでいたと述べています。
日本書紀では、天皇が出雲と関係が深いのだと盛んに述べています。
また、因幡の白兎では、天皇は荷物持ちです。

日本書紀が正しいのなら、天皇の住んでいた宮崎は、文明も無い
ど田舎。
つまり、どー考えても天皇は出雲と無関係。

また、ヤマタノオロチだと言って、酒を飲ませて8人ぐらい同時に
やっちゃった可能性もあります。

日本書紀でも、大和に九州から戦で入ったと言ってます。
でも、邪馬台国は大和朝廷で、大和が有力なですね。^_^;
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この回答へのお礼

私も,消えた銅鐸族は出雲に繋がるのではと思えます。
只,神社の祭神についての起源は書記にも記載されていますが,伝承というあやふやな由来に依存する事が多く,つまり大和が築かれた以前に出雲の神様が祭られていたのかどうかかがです。出雲系神様が最も多く存在する諏訪神社の祭神は天孫族に追われた建御名方神ですので,少し辻褄が合わなくなります。
邪馬台国・東遷説は同感です。

お礼日時:2007/01/11 22:14

邪馬台国以前は出雲の支配勢力が強かった可能性は十分にあると思いますが、出雲系の神社が広まったのはむしろ出雲が没落した後ではないかと思います。



菅原道真公を祭った天満宮同様、鎮魂(あるいは祟り避け)の意味があるのではないでしょうか。あと、出雲を追われた人々が広めた可能性もあると思います。諏訪大社も出雲系ですが、確か出雲から放逐された人々が諏訪に大社を建てたと言う伝説があったように記憶しています。諏訪大社も御柱を立てますが、古い出雲系の神社は木の丸太を建てることにこだわりますよね。三内丸山遺跡にも丸太の柱の跡が出土していますが、はるか縄文時代の風習だったのでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとう御座います。
出雲を追われた人達が拡げたのではとのお説に共感します。天孫系は渡来系のため神,神社という風習に馴染めなかったという仮説も成立するかも知れません。

お礼日時:2007/01/11 22:26

明治政府は有名な「廃仏毀釈」で仏教・寺を潰しただけでなく、


国家神道として神社を管理強化するため「神社合祀令」で、
数多ある神社の数や種類をばっさりと切り捨ててます。

>神社の祭神は出雲の神様が多いのは何故か
近世に意図的にそう改造させられたからでは。
http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%BF%C0%BC% …
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この回答へのお礼

ご回答有り難う御座います。
失礼ですが,あまり納得できません。

お礼日時:2007/01/11 22:35

 古代に出雲系列のシャーマンが全国を旅して出雲信仰を広げていったというたぐいのことを、


有名な専門家の松前健氏がおっしゃられています。

個人的には眉唾ですけど、たとえば『風土記』でも、
出雲の枠を越えて出雲神の記述があるのを見ると、
「そうなのかな…?」と思ってしまいます。
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この回答へのお礼

惜しくも亡くなられた松前健氏は数多くの著書のなかで”出雲神話の実在性”を説かれています。松前氏の努力には敬服しますが,専門家の評価は今一歩です。
一方,近年にはこの分野の著者には根拠もなく単なるセンセーショナルな目的とした本も横行しています。嘆かわしい事です。
出雲の神が全国に分布するのは原倭人が渡来系の支配に対する抵抗敵運動とも考えられますが如何でしょうか。

お礼日時:2007/01/12 23:34

 原始神道信仰を持っていた出雲族が日本列島へやってきて、もともと居た土着の人々と上手く同化していった。


 出雲族の一部は新天地を求めて、列島各地へ散っていった。同じように土着の人々とも上手く同化していった。
 そこへ、原始神道信仰を持っていた天孫族が日本列島へやってきた。多少の争いはあったが、最終的には同化する形でおさまった。
 征服者側が多数の土着民族側に同化していった例だと思います。
 天孫系が出雲系をことさらに敵視するということではなく、征服者側として慰撫、鎮撫しているような形だと思います。それに自分達の信仰する神とは違っていても、神に対する畏れの心や、祟りに対する畏れの心があったんでしょうな。
 形は大分違いますが、少数の征服者が多数の被征服者側に同化して行く例は中国大陸にもありました。
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございます。

神道とは日本の民俗的な信仰体系であり、日本固有の多神教の宗教であると思いますが。神道の祭神は祭るべき人の死後に神として崇めるのでないでしょうか。

出雲系も天孫系も渡来系である事は同感ですが,記紀の神話編で出雲の国譲りとして平和的に政権交替したと書かれていますが,近世以前に武力なくして政権交替があり得たでしょうか。記紀では神武東征でも戦闘の様子が記載されています。この神武東征に立ち向かった時に抵抗した勢力が出雲の人と解釈しますが如何でしょうか。それは激しい戦争であったと思います。

激しく争って政権を獲得した大和国家は当時としては破格の大きさである「出雲大社」を建設して怨霊を鎮めようとしたのでないでしょうか。

お礼日時:2007/01/14 09:54

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