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 最近、「体罰はOOだからあってはならない事だ」というような感情的な話題をよく見聞きしますが、体罰の定義と、そのメリットデメリットをしっかり議論しているところを見たことがありません。

 たとえば、いじめのようなものや、些細なことによる純粋な暴力、あるいは昔からある規則違反による罰等をひっくるめて考えているような気がします。そもそも刑法での禁固刑や死刑は体罰とだと思いますので、学校での体罰がなぜいけないのかと思うのです。いじめや単なる暴力はよくないと思いますが、すべての体罰が悪いとは全く思えません。定義が大切だと思います。間違っているでしょうか、教えてください。
 また、体罰は本人にメリットがない、という話はよく聞きますが、体罰の効果は第3者に対する抑止力だと思っています。この事も学校以外での一般社会での刑罰の目的の一つだと思うのですがなぜ体罰で議論されないのでしょうか。ご存知の方は教えてください。

A 回答 (16件中1~10件)

>社会的な傷とは、停学・放校あるいは刑事罰などの経歴に傷がつく処遇を受けることの意味で書きました。



 そのために未成年は保護されています。凶悪犯罪でも、原則として実名報道すらされません。刑法的な処遇はそうなっています。

 義務教育では退学はありません。高校でも、よほどのことがない限り退学がないのは衆知されている通りです。停学は復学を前提とした処置です。どうやっても就学不能という事態とは何でしょうか。それを考えれば、それに対応したものが社会にあることはご存じのはずです。

 殺人という極端な場合でも、未成年では成人とは比べ物にならない程の緩やかな処罰しかありません。処罰と言っても、教育という前提での処遇となります。知るには覚悟が必要ですが、「女子高生コンクリート詰め殺人」でネット検索すると分かります。これほど非道で冷酷な殺人者でも、未成年だったことで成人では考えられない緩い処分となっていますし、出所後は社会復帰もしています。

>(暴力でなく)体罰には、少なくとも一部の子供たちに対してはその様な処遇に至らないようにするための緩衝作用を期待できるのではないかと、個人的に思う次第です。

 なぜ体罰に頼る必要があるかということになります。それは、プラスの効果を生む可能性はあります。しかし、マイナスの効果も予想しておかねばなりません。

 さすがに相手を殺すつもりで殴ることはないでしょう。しかし、傷害というレベルのことが発生していることは、知られている通りです。体罰を是として行う者は、その辺りを罰の上限と考えているわけです。そこを頂点として、相手を虐待するわけです。体罰を日常的な行為と認識して行使するということは、厳罰主義ですからね。非日常的な行為だという認識なら、知られているような常態化は起りません。

 例として学校ということにしましょうか。要は閉鎖的な社会環境です。高校生になっても、学園内が社会のほとんど全てのように感じていることが少なくないことは、私個人の経験に照らしてもそうだし、フィクションでの扱いや鑑賞者の態度や感想を見ても、明らかです。そういう環境で常態化した体罰がある。

 それが、どういうことになるかを示唆する心理学的な実験はいくつもあります。代表的な2例をご紹介しておきます。

「ミルグラム実験」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AB% …

 個人が他人を害することについて、どういう行動を取るかを示す例となっています。字手が絶叫するほど苦しんでいても、加害行動を続けてしまうことが、誰にでも見られるという現象です。確かに、そばに続行するよう迫る者がいるわけですが、学校であれば成果を求める保護者や学校管理職がいます。こういう状況は、どこの学校でもあるでしょう。

「スタンフォード監獄実験」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF% …

 強い権限を持つ側が、従う者に対する態度を典型的に表す例です。看守と囚人という役割分担ですが、もちろん双方は演技としてそうするという認識があります。そうでいながら、実際の監獄以上に看守役は酷い行動に出ており、囚人役は従わざるを得ない感覚に囚われています。

 確かに囚人役で抗議する者はいたものの、常識的には正当防衛を行使すべき状況でも、そうしようとしていません。外部から介入があって実験は中止されましたが、放置していたら死者が出てもおかしくない状況だったと考えざるを得ません。暴力を禁止する条件を了解して始めたにも関わらず、看守役はそれを破り、実験中止に対して不服まで唱えたわけです。

 これらの実験には互いにほぼ対等な成人が参加していて、このような結果になっています。最初から権限も年齢も実績も格差がある状況では、推して知るべしというほかありません。

 身体的行為に及ぶことを是認するのであれば、医療行為での医師のような厳格さが必要と申しました。それは、こういう状況を出来る限り防ぐには、それくらいは必要だということです。また、衆人環視という状況下でないと危険です。

 さらに、虐待する者を調べると、虐待経験を持つことが知られるようになってきました。さまざまなハラスメントもそうですし、いくつかの依存症でもそういう現象が見られます。次代へ、あるいは同世代へ連鎖するわけです。そして、過剰な行為に苦しんで、治療を開始しても、ずっと苦しみ続けます。加害者と被害者が不可分になってしまっています。この連鎖を止める有効な方法は、未だに分かっていません。

 一罰百戒ということは、有効な方法として知られています。それは、非常に限定的なものなのですが、どうもいつでも使える手段と誤解されているようです。

 古くは孫子。その故事として、呉王に後宮の多数の美姫を兵として調練したことが有名です。命令に従わない美姫らに対し、二度教えても従わないと、呉王の寵姫二人(隊長役であった模様)を死刑に処したところ、全員が命令通りに動いたというものです。

 これは戦争という非常事態が前提であるからです。軍紀が厳正でないと損害が大きくなるため、規律を維持するには極刑をためらうことができません。孫子は同時に「卒(兵士)を視ること嬰児(赤ん坊)の如し」としています。そして、最も大事な孫子の思想は、戦争をしないことです。戦争は禍々しいと述べ、百戦百勝は良くないと言い、戦う前に勝ってしまえと強調しています。

 命がけという緊張は、たとえ普段は非常に大事にされても、長期にわたって維持することができないのです。戦争が常態化していた孫子の時代でもそうであったわけです。そういうことを強いれば、破たんします。平和が常態化している、今の良い社会では言うまでもありません。

 そして、処断されるのは責任者です。一兵卒ではありません。諸葛孔明は、泣いて馬謖を斬りましたが、その部下らの責任は追及していません。スポーツなら、選手がうまくやれないために体罰を必要なら、まず監督やコーチが体罰を受けるべきでしょう。

 土壇場に追い込むのが日本では好まれるようです。確かに実力以上のことができることもあります。よく言われるのが「背水の陣」でしょう。もう後がないなら、死力を尽くすものだという風に受け取られています。

 それは韓信という名将が用い、戦勝後にもそのように語ったとされています。しかし、実際の戦闘は、全く違います。詳細は説明しませんが、城にこもる攻めにくい敵を城外におびき出し、野戦に持ち込めば必勝となる状況を事前に作り上げています。そして、わざと兵法で必敗とされる水を背にした陣を敷いて、それを侮った敵をおびき出して勝っています。

 そうしたことが知られずに、闇雲に土壇場に投げ込めばいいという、まさに兵法に反することを美化してしまっています。常識外れと言っていいでしょう。死地に放り込まれたら、逃げたくなるのが当たり前なのです。孫子でも死地では戦う以外ないとして、勝つ方法を示せないでいます。そういう戦闘では、全滅に等しい敗戦例ばかりがあります。だから、兵法では背水の陣を敷くなとなっているのです。

 体罰を頂点とする、暴力と虐待はそうしたものです。良い影響もないし、良い連鎖も生みません。古今に名言は多数ありますが、名体罰は伝え聞きません。体罰を受けても良い結果だという体験談をよく聞いてみると、体罰の後の口頭や模範を示した指導が良かったということでしかありません。

 何が功を奏したか、どこが要点なのか、誤解しているのです。有名な故事を引き合いに出すのも、恣意的に都合よく歪めています。

 殴ったこと自体に学んだのではなく、殴られて停止し、聞く態勢になり、聞いて、見て、それが効果を出したわけですが、ではなぜ殴る必要があったのか。怒鳴りつけても、普通は止まるものではないか。

 しかし、そうならないわけですね。体罰を行使する者に聞いても、殴るしかなかったと言訳をする。それは、常に威嚇的に怒鳴りつけているからです。普段は穏やかに話しているからこそ、相手は怒鳴ると驚いて止まる。怒鳴ることは相手に圧迫感があり、緊急事態という認識を生じます。ストレスを受けます。それすら常態化しているわけですね。

 そんな状況がいいんでしょうか。指導者が未熟なだけじゃないでしょうか。私は、そんなことは解消したいと強く思います。
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この回答へのお礼

大変な長文ありがとうございます。

 ミグラム実験につきましては知りませんでしたが、スタンフォード監獄実験については聞いたことはあります。いずれの実験でも、また実際の教育現場でも、あなたの言われる通り社会的に閉鎖された環境であることが原因だと思います。その点で教育は改革されるべきで、話はそれますが、教育改革は喫緊の課題だと常々思っています。
 また、あなたの仰る教育者の未熟性は、ニュースや現場でしばしば感じます。この点でも教育の改革が必要だと思います。あなたも言われているように暴力の連鎖の問題などから、単に知識や技術による教員評価だけでなく、(問題があると思いますが)出自にさかのぼっての評価も必要ではないでしょうか。
 それらの改革が実施された上でも、なお且つ、統制された限定的な体罰は許されるべきと考えます。仰る孫子の例や2つの実験例でも従属させるという目的で、体罰(殆ど虐待ですが)の有効性が示されていると思います。また重大事態を示す緊張度としても、体罰は口頭注意よりも大きいと思います。平常時での緊張度域値の高さの如何にかかわらず、そのことは変わらないと思います。もちろん常態的に怒鳴るような状況は、体罰のオプション選択の確率を高めるため、絶対だめだと思います。

 個人的な経験として、5歳ころ近所のあまり関わりの無い地域の子供たちに公園で、殴るけるではありませんが、いじめられたことがあり、今振り返って考えると十分死の危険もあったと考えます。口頭での抑止は全く効果がなく、力による抑止のオプションを当時持っていれば、安全を確保できた可能性を痛感しています。

知識や考え方などで、大変勉強になっています。大変ありがとうございます。

お礼日時:2013/03/02 08:14

>しかし、未熟な子供にないし、一生涯続く社会的な傷を負わせるような手段をドライに実施するするというのは抵抗があります。



 これは体罰を氷山の一角とする虐待がもたらしているものでしょうか? ここまでなら、不明瞭な文とはいえ、そのように受け取れなくもない。しかし、

>(ただし、体罰がその様な状況を減らしているという根拠があるわけではないですが)

となると、そういう虐待を指していないようです。

 ドライに実施され、一生続く社会的な傷を負わせる行為が何を指すか不明です。

 「未熟な子供にないし」も「未熟な子どもには無い」のか「未熟な子どもに、あるいは」なのか、それとも別の意味なのかも不明です。

 社会的な傷ということも具体性を欠いていて、上記とも相まって意味不明です。

 解釈不能なことを書かれるのは困りものです。質疑だからまだいいのですが、議論でこういうことを言い出すと、つまみ出されます。曖昧性や多義性のあることを言うのは、マナー違反ですから。

 閑話休題。それは、誰が行う、誰に対する、どんな行為で、結果として何を残すのですか?
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この回答へのお礼

厳しい御指摘、恐縮いたします。

「未熟な子供にないし」というのは、「未熟な子供に対し」の誤りです。

社会的な傷とは、停学・放校あるいは刑事罰などの経歴に傷がつく処遇を受けることの意味で書きました。

(暴力でなく)体罰には、少なくとも一部の子供たちに対してはその様な処遇に至らないようにするための緩衝作用を期待できるのではないかと、個人的に思う次第です。

お礼日時:2013/02/27 00:56

体罰を受けてきた世代ですが、良い面と悪い面があると思います。



良い面は、殴ってでもやらなかったことで教訓となり、人生が良い方向にいった。あるいは命を落とさずにいられる。

悪い面は、納得していない状態では憎むだけで、全てがネガティブになることだと私は考えます。

今の子供は、叱られ慣れていないことと、歪んだ考え方をする人が多いことから、体罰を受けると自己保身に走ることから、体罰は有効な手段ではないと思います。

なお、定義を決めたからと言って何も解決しないと私は思います。

定義を決めても、予測しない状況が発生するたびに揉めるだけです。そうなると重箱の隅を突っつくこといなり水掛け論になるだけだと思います。

悪いことをすれば殴ってでも分からせるのがよいのか、口で説明して納得させることができるかだと思います。それには、普段からきちんと道徳と常識,マナーと心の余裕を意識して子供にきちんと注意できる大人になることではないかと個人的には考えています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
現状で、実施可能な体罰の線引きを作っても確かにもめる原因になると思います。ただし議論をするうえでの体罰の定義や分類くらいはすべきだと思います。
大人の道徳やマナー、(社会全体での)子供の教育についての考えには全く同意いたします。

お礼日時:2013/02/26 17:09

 お礼、ありがとうございます。

#11です。

>体罰が一意的に暴力と同一であると考えることが適切なのであろうかと考えています。

 相手が自他を傷つけようとするときは、緊急避難となり、ある程度の限度内で許されます。自分を傷つけようとする人に暴力を振うのに許される場合があるのは、ちょっと奇妙ではありますが、たとえば極端には自殺しようとしていて、それを殴り倒してでも止めることを、画一的に加害と見做すことは、不合理ではあるでしょう。

 罰として物理的にダメージを与えることは、許されていないのです。これは、刑事罰としても許容されていません。たとえば、刑期と引き換えに殴ってもらって出所するなんてことは、日本の法律の認めるところではありません。

 未成年の学生・生徒・児童が法に抵触する行為を行っていて、緊急避難ではなく止めるための教育において、身体的暴力は明示的に禁止されているのは一定の合理性があります。普通の社会通念と、考え方を共有していますから。

 さらに暴力である体罰を禁じることに、非合理性もありません。これも、社会通念と同じです。

 ましてや、何も悪いことをしていない人です。体罰と称する暴力を受けるのが、子どもかどうか以前の問題です。スポーツなり、勉強なり、それを行う人の取捨選択を始めとする自由意思があり、それは尊重されなければなりません。

 もちろん、その自由意思の行使には、たとえ未成年であっても対価は支払わなければなりません。義務教育の修了認定がなされないことを受け入れ、高校以降は退学も甘受する必要がある。そういう責任を伴った自由意思です。したくはないが、それに伴う不利益も嫌だということは自由意思とは認められず、許さなくていいです。

 誰でも、他人を思うままに動かしてよいと考えて強要し、それに逆らうなら身体的苦痛、恫喝などの恣意的な精神的苦痛、あるいは不法な不利益を与えてでもやらせるなら、それは人格を認めない行為です。人格のない奴隷として、相手を扱うことになります。

 他人の心身を本人のために傷つけるかのようなことが許されていることがあります。医療行為です。特に外科手術。それが許されているのは、それを行使する人は一定以上の技量水準を持つことが認定され、どういう条件下で何をどこまで行ってよいかが細かく法で規定されているからです。

 もし、本人のために体罰、さらには精神的苦痛を与えることにメリットが見いだされ、容認するとしたら、その行使について、医療と同様に、厳しい資格認定のシステムと、その行使基準は細かく規定されなければなりません。そして、それに則って行わねば、無法状態になり、害悪のほうがはるかに大きくなります。現状で強行するなら、規定がないために、ニセ医者の害以上でしょう。

 それでも現状で体罰を行使するなら、犯罪と覚悟して行う覚悟くらいはする。そうでないなら、それが安全に行われるシステムを確立する。そうでなければなりません。

>気に障ったようで、ごめんなさい。

 この場はネットで公開されていることを考慮した一般論です。個人的に気にされる必要はありません。

 某元都知事とか、某ヨットスクール指導者みたいな、自らを含めた上位者を盲信し、思考停止の服従を無条件に善しとし、誰にも彼にも強要したがる思考停止な阿呆がいる以上、言っておいただけです。
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この回答へのお礼

お返事遅くなりました。
仰ること、良く分かりました。
しかし、未熟な子供にないし、一生涯続く社会的な傷を負わせるような手段をドライに実施するするというのは抵抗があります。(ただし、体罰がその様な状況を減らしているという根拠があるわけではないですが)

お礼日時:2013/02/26 17:02

> そのメリットデメリットをしっかり議論しているところを見たことがありません。



いくらでもありますよ・・。

刑罰も法律であって、法律は線引きです。
法律は「我が国は、ドコで線を引くか?」と言うことで、その線引きによれば、「教育における体罰は違法」としています。

従い、「体罰は刑罰の一種」的な考え方は間違いで、「体罰を行った者が、刑罰を受ける」と考える方が正しいです。
法律論上は、現状は、体罰を受け入れる余地は無いです。

一方、「教育論上、体罰の有効性があるか?」は全く別の話しです。
教育上、体罰の有効性は皆無では無いです。
とは言え、優れた指導者が、適切なタイミングで使用した場合であり、凡庸な教師などが、ルールに則り体罰を使用したところで、それほどの効果は期待されません。

また、あくまで「教育上」なので、指導や教育を達成する目的で用いられる体罰に限定されます。
即ち「体罰の効果は第3者に対する抑止力だと思っています。」などと言う考え方は、全くナンセンスです。

それは刑法上の刑罰の有効性の考え方であって、「学校の治安」や「抑止力」が目的であれば、学校を一般社会化すれば良いだけです。
スクールポリスを配置したり、少年法を改正し、厳罰化などをすれば済みます。

私自身は、教育上、止むを得ない体罰は、存在すると考えています。
但し、止むを得ない領域を判断出来る指導者・教員が、それほど存在しない点が最大の問題です。

端的に言えば、体罰をふるう側の「殴る手の方が遥かに痛い」と言う状況を、両者が共有出来る状況のみでしか、体罰の有効性などありません。

鬼コーチが竹刀を振り回して指導するなど、単なる動物の調教と同じです。
効果はあっても、教育上の意味は無く、それ以外の方法でも、同等の効果が得られる方法はいくらでもあります。
従い、鬼コーチなどと言うのは、指導者のプレースタイルの一つに過ぎず、指導スキルが低い結果、ワンパターンに陥っているだけとも言えます。

また、その止むを得ない領域とは、多くの場合、「教育」と「刑法適用」の狭間に存在します。
体罰を行使するしか、指導・教育する術は無いと言う状況は、刑事・警察が介入すべきでは?と言う状況に極めて近いのですよ。

従い我が国では、教育と刑事・警察を区別し、教育現場においては、教員による刑事的な罰則(体罰)は容認しておらず、もしその様な領域が発生すれば、それは警察によって解決されるべきと言う考え方・線引きと言えます。

また、海外のスクールポリス配置なども、基本は教育と刑事を区別しているとも言えます。

即ち「体罰とは、教員に軽度な刑事権を与えることである」と言う部分があって、それが今度は、教育上の体罰有効性とあいまいになってしまい、その裁量が委ねられる教員の資質や能力によっては、大きな権限を与えるのは、非常に危険なことです。

抑止が目的であれば、恐怖感を与えれば良いだけですが、教育や指導の目的は、恐怖感を与えたり、威圧することではありませんし、本来はそれらは排除されるべき性格のものです。
教師が威厳を持つことと、恐怖や威圧とは、似て非なるもの・相容れないものです。

その威厳が不足する教師が、類似性がある恐怖や威圧を利用し、本来の目的である指導・教育では無く、服従させることを目的にすることが、体罰問題の本質ではないか?と思います。

質問者さんは、教育と刑事を混同しているフシがあるので、まずソコをきっちり考えた方が良いと思いますよ。
教育とは国家の大事ですから、考えることも大事ですが、正しい方向性で考えることが、もっと大事です。
誤った方向性で考えるなら、考えない方がマシなくらい、教育は大事なものです。
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この回答へのお礼

丁寧なご回答ありがとうございます。大変参考になりました。

>刑罰も法律であって、法律は線引きです。

その線引きを議論すべきではないかと考えているわけです。


>質問者さんは、教育と刑事を混同しているフシがあるので

なるほど、考え直してみました。「体罰の効果は第3者に対する抑止力だと思っています。」という所だと思うのですが、
あなたの言われる通り、刑法上の刑罰の有効性の考え方でもあるでしょうし、同時に教育的価値も含んで発言していました。
 つまり、ヒトは他者の苦痛を他山の石として学ぶ能力があり、この効果は教育の効果であろうかと思います。ひとは必ずしもすべて理性的な言葉だけで学ぶものではないと思うからです。
 一定の体罰が適切に集団の中で行われることは教育の効率を高めるものかと考えています。その方法を考えるべきではないかと思います。人間を法に合わせるよりも、法を人間性に合わせる方向の議論が適切だと思います。
 もちろん教育者の人間性が適切であることが前提ですので、教育(者)改革は必須だと思います。

お礼日時:2013/02/22 21:12

>しかもその法律(規則)が常に正しいと妄信してはいけないと私は思っています。



 この点についてだけ。

 いかなる法も、たとえ立法時には正しくても、その後の時勢に合わなくなることがあるのは、誰しも知っていることです。

 体罰と称する暴力を容認したいとするとなれば、それは個人に恣意的な暴力を容認することに他なりません。

 国民が同意して国家に委託し、国家管理により行われる刑法上の刑罰においてすら、自由の制限とそれに付随せざるを得ない苦痛はあっても、それ以外の苦痛は避けています。

 死刑においてすら、苦痛の少ない手段にて行われます。苦痛の大きさを以て、刑罰の重さを図ることは行われず、避けています。

 一般論での、ある場合において正しいことを、拡張するのは避けるべきです。特別な場合を、無暗に拡張することは避けなければなりません。

 あえて申しますが、そうできない人は、何かを主張したり、議論したりする資格はありません。基本から考え直せない限り、何かを論じることは避けるべきです。

 議論に加わってくるのはもとより、不勉強のままの質問の乱発も、迷惑なのです。問題を解決しようとしているときに、問題の解決の仕方の基本を教えなければならないというのは、妨害以外の何ものでもありません。それは、その人だけで済まず、模倣者が出て来るからですね。
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この回答へのお礼

興味深く拝見しました。

>体罰と称する暴力を容認したいとするとなれば

とのことですが、体罰が一意的に暴力と同一であると考えることが適切なのであろうかと考えています。

>議論に加わってくるのはもとより、不勉強のままの質問の乱発も、迷惑なのです。問題を解決しようとしているときに、問題の解決の仕方の基本を教えなければならないというのは、妨害以外の何ものでもありません。それは、その人だけで済まず、模倣者が出て来るからですね。

気に障ったようで、ごめんなさい。

お礼日時:2013/02/22 21:24

僕は体罰と暴力は切り離して考えるべきで、かつ体罰自体は悪いと考えていません。



でも刑法と一緒にするのは間違っているとは思います。
懲役や死刑なら体罰、罰金ならカツアゲと取ることができます。
しかしそれは刑法に照らし合わせて、適切な手続きを経て行われるものであり、これを体罰と同列に置くのは無理があるでしょう。
法律と同じように運用するのであれば、然るべき手続きを経て行われる停学や退学であり、その場の裁量で行われる体罰は明らかに法律とは違います。

それと
>体罰の効果は第3者に対する抑止力だと思っています
これはずいぶん危険な思想だと思います。
体罰はあくまでその子のために行われるべきものであり、見せしめとして行われていいものでは絶対にありません。


罪に対して罰は必ず行われなくてはいけないものだと思っています。
大人なら罰として、出社停止、減給、解雇、時として社会的信用の失墜が相当でしょう。
しかし子どもは罰としてのペナルティになるものがありません。
高校以上なら退学もいいでしょうが、義務教育ではそれもできません。
評価を下げる、出席停止や停学も、些細な悪事であれば重すぎるペナルティです。

小さな悪いことをして体罰のようなペナルティが課せられないと、その悪事はどんどん膨らみ、生まれて初めてのペナルティが校則に照らし合わせた退学であり、法律に照らし合わせた懲役になっちゃいます。

必ずしも体罰である必要はありません。
が、それなら体罰相当の微罪の場合、何を以て罰とするのかの議論が必要です。
言葉で諭せば罰を受けなくていもいいなんて理屈は通らないと思います。


僕の考える体罰は振りかぶりなしのビンタ一発相当です。
流血はもちろん論外ですし、拳や道具を使うのも論外です。


僕の考える悪事というのはシュートの失敗や問題が分からないことではありません(こんなので体罰はしちゃいかん)。
授業妨害など規律を乱したり、法に触れようとすることです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
大凡私もあなたと同じように考えています。

しかし、以下の2点に於いては若干違うかもしれません。

>でも刑法と一緒にするのは間違っているとは思います。
懲役や死刑なら体罰、罰金ならカツアゲと取ることができます。
しかしそれは刑法に照らし合わせて、適切な手続きを経て行われるものであり、これを体罰と同列に置くのは無理があるでしょう。

刑法と体罰はその理念のみ同じ(であるべき)と思っています。また、体罰の実施は規則の運用次第の問題だと思います。

>体罰はあくまでその子のために行われるべきものであり、見せしめとして行われていいものでは絶対にありません。

私自身も大変危険な考え方であると自覚しています。できれば子供のために体罰は行われるべきであると思います。しかし現実の
社会に於いては、罰を見せしめとして利用している事は非常に多いと思いますし、「ひとのふり見て我がふり直せ」と言うくらいですから、スケープゴートにされた生徒は災難ですが、第三者への教育効果はかなりあると思います。

お礼日時:2013/02/22 01:53

 さらに申し上げておくなら、体罰を是として、それを行使するのであれば、正当防衛による当人の反撃、見ていた第三者による反撃(これも正当防衛の一部となる)を無条件に許容するべきです。



 さらに体罰を加えようとした者が一方的に刑事的に処罰され、民事的に賠償責任を負うことを当然のこととして認めるなら、少しは議論する余地があります。犯罪と分かっていて、それでも行うことが前提となるわけです。

 法律で禁じられているということを甘く見てはいけません。法律は、モラルや常識として求められるより、遥かに低いレベルしか規定しません。規定しても穴だらけで不完全で、運用する人に大きく依存もしています。そういうものですら、明示的に禁じているわけです。

 それに加えて、体罰を行使するときに感情が平静であることも大前提です。立腹、さらに激高してのことだと、制御が効くはずもなく、有効な方法やタイミングも選べず、教育のための行為としては失格です。

 腹立ちまぎれに行い、その後で「当人のため」「愛の鞭」「鉄は熱いうちに打て」などと言い訳し、自己の正当化を試み、責任回避をするなら、話になりません。そういう輩は、人間としてクズです。
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この回答へのお礼

いつもありがとうございます

>法律で禁じられているということを甘く見てはいけません。法律は、モラルや常識として求められるより、遥かに低いレベルしか規定しません。

その通りだと思います。しかもその法律(規則)が常に正しいと妄信してはいけないと私は思っています。もちろん間違っていると信じている法律(規則)でも必ず守らなければいけない事に、疑う余地はありません。

>腹立ちまぎれに行い、その後で「当人のため」「愛の鞭」「鉄は熱いうちに打て」などと言い訳し、自己の正当化を試み、責任回避をするなら、話になりません。そういう輩は、人間としてクズです。

全く同感です。

お礼日時:2013/02/22 01:33

普通に考えて、おかしい事だと思いませんか?



体罰は、原則的に学校の規則の中で「禁止」されています。

にも関わらず、このような質問も出てくる訳です。
もちろん、自分にはあなたが仰りたい事の意味は理解出来ているつもりです。

良い体罰、悪い体罰。
愛のある体罰、見せしめや拷問のような体罰。
そもそも、「体罰の定義」とはなんぞや?

それをどんなに考えても、万人全てが納得の出来る定義などは存在しない。
ただ、行き着く先は「禁止されていると言う事実」だけ。

もっと単純に考えましょう。

本来、体罰の善し悪しを決めるのは、「受け取る側の気持ち次第」だと言う事です。

例え、体罰を行う側にどんなに愛情があったとしても、体罰を受けた側がそれを否定してしまえば悪い事になりますし、その逆に体罰を受けた側の気持ち次第で、自分に取って体罰をメリットにする事も出来る訳です。

しかし、そうは言っても現実的に、体罰を受ける側の感情を「統一出来ない」以上、「原則として体罰は禁止」にするしか方法はありませんよね。

自分としましては、体罰の在り方について議論をするのは良い事だと思いますが、しかしその一方で、決してその事に対して答えを出してはいけないと思っています。

「メリットがあるから体罰を行っても良い」と言うものではありませんし、「禁止にされているから体罰を行ってはいけない」と言うものでもないのではないでしょうか?

あなたが質問の中で

>そもそも刑法での禁固刑や死刑は体罰とだと思います

と仰っているように、基本的に「人間の本能から生まれた感情」を、「人間だけが持っている理性」によって縛りをかけたものが、「刑法」や「法律」の原点だと思っております。

「理性」を重要視するのも当然の事だとは思いますが、本来は動物である人間が持っている「本能」を蔑ろにしてしまえば、いずれどこかの時期に歪が生じる事になるでしょう。

このような質問は、それを防ぐ為にはとても意味のある質問であると自分は思っております。
完全に個人的な持論を展開して見ましたが、参考程度まで。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

大変分かりやすいです。

私の拙い問いかけの真意も分かっていただけているように理解いたしました。

お礼日時:2013/02/22 01:25

まず、質問者さんの主張そのものが、法治国家を根本から否定するものである、と言えるでしょう。



>体罰は本人にメリットがない、という話はよく聞きますが、体罰の効果は第3者に対する抑止力だと思っています。この事も学校以外での一般社会での刑罰の目的の一つだと思うのですがなぜ体罰で議論されないのでしょうか。

刑罰の目的の中に、第三者に対する抑止がある、という部分は否定できないでしょう。
しかし、それを個人が行うのは私刑であり、刑罰でも何でもありません。単なる暴力犯罪です。個人がやると収集がつかなくなって混乱してしまうので、国家機関がそれに替わって実行する、というのが司法の役割です。
そもそも、学校内で犯罪行為が行われている時、なぜ、司法の素人でしかない、そして、本来、何の権限も持っていない教師が、捜査をし、裁判をし、刑罰を執行せねばならないのでしょう? 学校内というのは、治外法権の無法地帯なのでしょうか?
第三者に対す抑止力を期待するなら、体罰などなくても良いのです。警察に通報し、その違法行為をした人間を逮捕してもらえば良いのです。
学校内で教師に殴られたとしても、その場だけの効果です。別に社会的な制裁を受けるわけでも何でもありません。
警察に逮捕され、刑罰が下されれば、それはしっかりと経歴に残ります。その人の人生は極めて厳しいものになるでしょう。
さて、どちらが抑止力になるでしょうか? 私は後者だと思いますが。


勿論、相手が攻撃してきたときに、教師がただ攻撃にさらされろ、というつもりはありません。
正当防衛はちゃんと法律によって保護された行動です。
それも、ちゃんと警察、裁判所などが関与することにより、どちらかの言い分だけでの水掛け論を避けることが出来ると考えています。


最後に、私自身は、「体罰」というのは、肉体的、精神的に苦痛を与える為に行う行動、という考えております。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
 暴力の範囲は難しいと思います。たとえば、掃除を怠慢した者に放課後にトイレ掃除をさせる。授業中騒いだのでバケツを持って廊下に立たせる。を考えてみれば、教師が暴力を振るったとも考えられるし、掃除をさぼった時点で他の生徒に掃除の負担を背負わせたという肉体的精神的苦痛(暴力)を与えたとも捉えられるし、授業中に騒げば授業妨害として精神的苦痛を他の生徒に与えたとして止めさせるために正当防衛として殴ったというのも許されてしまうように思います。ですから、どこまで可能か規定すればよいのではないでしょうか。

>個人が行うのは私刑であり、刑罰でも何でもありません。単なる暴力犯罪です。
その通りだと思います。ならば、度が過ぎない程度に規則を変えればよいと思います。規則が善悪や道徳を作るのではなく、善悪や道徳が規則を規定すべきだと思います。

お礼日時:2013/02/22 01:16

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