中村元の本を読み終えたところです。
からは良い学者だ。
それはともかく。
釈迦は社会に対して自己を説明しようとして、あなたが考えている通りの私ではない。
すなわち社会から認識された自己は当人にとって本物の自己ではない。
私はあくまで私なのだ。
私の心は「無」言わば空にありその心情に達し私を知るには同じく心を空にする必要がある。
君達の考える私はいないと言う意味で無我であり、私の心は無を信じる事にあると言う意味で無我である。
こんな心情を無我と説明したのではないか。
釈迦曰く、「私の無の謎を知るには自らを滅却しいっぺん死んでみる事だ」そんな余計な信仰を伝道したとも言える。
それはともかく
それならば
かつての質問、無の悟りは信仰心を表し大乗はあやまりである↓
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7755513.html
これなんかで説明した無の信仰の一部であり、
有無の分別
彼我の分別
この手の事柄に随伴する心情では無かったのか。
釈迦に関して私からの大きな批判は、彼は仏陀の信仰を知れと、自らの信仰を押しつけた事だ。
そうで無く、誰もが自らの信仰を知ればよい。
これが私の考えなんだが、その点にもご意見ください。
主題は無我についてなのでそれについて主にご回答を期待しています。
一言いえば、自らの信仰を知ることに、助けてくださいとか、救ってくださいは、無いだろう。
無だ。
テメーで何とかしろ。
この大乗に対する批判に関してもご意見募集です。
私から一つ言えば、社会性を人間が生きるための行いとして認めれば、それは善であり、助け合いは肯定できるだろうが、信仰の連帯に踏み込むことはその社会性に含まれるかどうかには、見解は色々あるだろう。
A 回答 (5件)
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No.1
- 回答日時:
Flareon様、こんばんは。
「「誤解」(であるにも関わらず、それ)が広く、まかり通る」というようなのが、私が最もイカンとするようなところで。
・・・知った上で、その上で、という判断が「ソレ」なのだとしたら、もう知らない(ただし、人権侵害は、しないでね)という他は無い。
この回答への補足
私は思索を一人で進めるタチでね、、酒を飲んでサル踊りを見物しながら愉快に哲学しておる。
今回はそんな中で備忘録として書くよ。
中村元の書物によると、自己を認識するための哲学は、仏教の初期から大いに研究されていたようだ。
そこで旧来の自己についての認識を(アートマン)、旧来の誰かの認識で無く、社会の風潮や流布している宗教に焦点を当て、その社会で認識してている、自己に関する認識は、受け入れられない、誰にも侵害されない自己こそ自己であり、君達の考えるアートマンは私に当てはまらないからこそ無我だ。一切無と言う考え方が示すように、自己の本質(魂とか)は、ない故に無我であり、まさに釈迦は無を信じ、自己すらも無であり無我だとそのような考え方をしていたのだろう。
代案を示して考え方を進展させるような事は迷いだけを産むとでも解釈したのだろうか。
それともう一つ、社会生活を営むにあたって神の社を立てる事は文明がどこでも行っている事であり、神に関する見識と信仰は文明を特徴づける重大な要素だ。
そんな前置きの上で、人の備える善性とは、文明が農耕から始まったように、自分以外の生命を育むことで、自らも又生きる。そして人と人がお互いに生かし合う事で社会を形成する。このように善をお互いに計らい共同生活を送るのが善性だ。
自らが生きるために他者を生かし共に生きる事だ。
これを人は備えているが、信仰の在り方によって善に対する見解も誤差があるのだろう。そこで見解が異なる善意に対しては、極端な話として悪だと断定する。
他者の善性を悪と辱め人間以外だと虐殺する。
もちろん悪と決め付けた方がより悪だ。
信仰の共有と文明への帰属がそのようにさせるが、それは虐げられる立場からすると神が悪いと解釈されかねないが、実際は滅亡に向かう人類の信仰の在り方のみが完全なる悪である。
社会生活を営む以上は、信仰は個人的な問題ではないかもしれない。
No.2
- 回答日時:
私の思うところでは、自己破産や、ホームレスの方々は、
無我の境地に至っている可能性があるのではないでしょうか。
たしか、お釈迦様も、ホームレスであり、自己破産(放棄)を
したと、きいております。
とすれば、かれらも、やはり自力で生きているのですから、
なまじっか財産を所有している者よりは、無我に近いと
思えてしょうがないのです。
この回答への補足
備忘録だよ。
自己をアートマンだとする説に、社会性の中に放り出された共通認識である限り、そのアートマンはすでに自己ではない。
自己とは侵害されず確固としており、釈迦の悟った者としての信条では「迷う筈がない」その確固とした自己は釈迦にも不明であったようだが、迷いがない事だけを証拠に、アートマン論と言うのは煩悩の産物であり自己たりえない。
したがって当時の信仰の論議に自らの哲学を表明した釈迦の立場では、我はアートマンとは別である。
それは無我でありゆらぎがない。
こうかもな。
迷う筈はないは私にもわかる。
その通りだ。
自らが迷うのではない。
他者の言葉に迷うのだ。
コレはうらやましいとか、ねたましいとかいう負の感情に現れていて、他者から感化され我を忘れる現象だ。
そして他者の望みをくみ取り、自分以外を望む。
これが欲望だよ。
自らが確固としていれば、望みも自らの物として確固としており、望みにゆがみがない純粋なものである。
他者を横目で見て、自らの望みと錯覚するならば、欲望である。
この欲望に関して、それを良心を他者に手向ける形になれば解消可能だろうと検証していて、猿回しの議題の一つだ。
馬鹿が何故馬鹿なのかこれを試そうとしている。
ありがとうございます。
美化しているよ。
何もとらわれる事に無い生活の最もたるところと幻想するのだろうが、彼らは常に腹をすかせていて、さらには社会保障からもドロップアウトているため健康に常に不安を抱えているだろう。
彼らの生き方は、人を生かす事がないゆえに自らも生かされることはないと言う原始状態だろうさ。
自給自足同然の生活は生活破綻者でなくても、超田舎に行けば割と見かけるよ。
そう言う人は君の夢想に近いな。
No.3
- 回答日時:
コメントをありがとうございます。
おっしゃることは、よくわかります。
実は私が考えたお釈迦様は、わりと生きることに
貪欲だったのではないかと思うのです。長生きしたと
きいておりますので。
たとえば、お布施ももらい放題で、コレステロールの低い
鶏肉なんかは好んで食べたのではないでしょうか。
私はしろうとなので、よくわかりませんが、食品から
十分なエネルギーの素を摂取しないと長生きできないそうです。
それから、もし、当時パチンコ屋があったとしたら、そして
知り合いにパチンコ好きな人がいて、もし誘われたとしたら
あるがままに、パチンコをしていたかもしれない
と、思いました。だとしても、1円パチンコでしょうけれど。
このどん欲なまでの生きようとする力が湧き出る状態で
生きるための智慧を身に着けたのではないでしょうか。
もし違っていたら、お釈迦様の研究は、やめにします。
とくべつ興味があるわけでもないので。
この回答への補足
私は仏と言う言葉を現代語訳するとな、人間と言う言葉だと考えていて、仏陀なんて言い回しも俺は人間だと言っているだけだと考える。
ところが神のごとく、その仏をまつりあげる君達は人間のなり損ないだと言う事になる。
人間が人間として生きていなければ生きる屍だろう。
最近自分の考えだけでなく仏教から裏打ちを取ろうとしていて本も読んでして、釈迦は悟りの内訳を一切話さなかったという言葉を見つけた。
割と一般常識らしい。
その悟りとは類推するのは簡単で、彼は神を見いだした。
そして、それは語る言葉はなく、語るとすれば無であると言った。
そして信仰をもつ自らは、それでこそ人間であり、それを仏陀といった。
神を語らなかったのなら、語る言葉は自らの事であり。人間について語ったのだ。
ここでの結論は仏陀は神ではないと言う事だ。
そして、人間を信じることは可能だよ。
その場合は信じ合ってこそだ。
ありがとう。
おもしろいね。
釈迦を主人公に君が創作した童話だ。
人の過去の生きざまにはそれで楽しめばいいんだよ。
イエスさんなんかも、過去の人でありながらいまだに処刑が繰り返されている。
そこで自らを主人公にした童話を書くなら、信仰の道を我が大道として歩むと言える。
No.4
- 回答日時:
本を読んだところで、人から説明を受けたところで、貴方には関係ありません。
貴方が貴方自身で『無』を経験する以外『全て無駄になります。』その理由は、貴方の疑問は貴方自身が発生源だからです。従って貴方が何故そういう疑問を感じているのか?その根本に行き着く時『貴方の疑問は解消します。』それが悟りの功徳です。
動画で自分の『涅槃』に至った経験を語っているものがありますので、貼って置きます。貴方にその時が訪れることを願っています。
URL:
飽くまでも貴方自身の経験が、眼目です。他人の経験は、カンケーネーの世界です。
この回答への補足
考察を進めるためのメモだよ。
>
一切無と言う考え方が示すように、自己の本質(魂とか)は、ない故に無我であり
この辺はな自己の本質は隠されず明らかであると言う意味だ。
それが無だと言ったお釈迦様だがそれはともかく。
脳の研究は割とおっかない方向に進んでいてな、医者なり学者なりの研究者は現代でも、脳全体には自己の本質は無く、脳の中枢に自己の本質が隠されているのだろうと期待して、その自己を解き明かすために研究していると、そんな著書を残したものもいる。
コレは中村元の説明によると「ミリンダ王の問い」と言う仏典で太古から示されていた、本質が部分に集約される間違いの現代版そのものだ。
間違いだからと言って私は考えを捨てないよ。
猿回し形式思索法として動物実験しながら、人間の知性の所在を研究するよ。
人間が研究材料だ。
そう言えば人権蹂躙などといわれたがな、それはある意味でその通り。
君達を猿と見なしているからこそできる実験だ。
ありがとうございます。
動画には脳の話が出てきたねありゃー自己の研究としての哲学と同一視してはいけない。
説明は簡単になるがね。
No.5
- 回答日時:
こんばんは、ANo.1の者です。
>「代案を示して考え方を進展させるような事は迷いだけを産むとでも解釈したのだろうか」
むしろ、「固執して代案を拒む」というようなことを否定したのでは。
>「社会生活を営む以上は、信仰は個人的な問題ではないかもしれない」
論理学を学ぶと「確からしさ」というものがあると思います。
「太陽が、東から昇って、西へ沈む」、これとて、99%以上といっても100%とは言えない。
・・・とすると?、
「社会生活を営む以上は、信仰は個人的な問題」かもね
この回答への補足
備忘録だよ。
テメーで何とかしろを理解して、君達が自らの信仰を我が大道として歩む決意をしたとしよう。
その時点で共通の信仰が成立するとするなら、信仰は社会で共有できる事になる。
この場合は小乗仏教的だろうがそれはどうでもいい。
テメーで何とかしろの根拠は、君達は自らが信仰を持たずさまよう生きる屍で、完全なる滅却を経て生に昇華される、しかし無の悟りに思い悩むなら、無を悟る事は釈迦の言葉を悟る事であり、滅却の内訳は、自らの信仰に生きる生への昇華では無くて、自らの信仰を捨てるさらなる死への昇華だ。こうして君達は無の悟りを望む事が死の悟りを望む事と同一視する。
コレは、釈迦が見出し長らく語られ続ける無の哲学の内訳の一つだ。
死の悟りとは釈迦から聞いた言葉ではないよ。
君達から聞いた言葉だ。
おそらくインドの修行法がそのような傾向があるからだろうから、少しは冷静になれや。
ありがとう。
信仰を個人の問題に集約するのは「テメーで何とかしろ」だよ。
それは解っている。
しかしだ、共同体に信仰が入り込むのはどうやらごく当たり前のことで、そことの関連付けを考察しようとしているのだ。
そうすると君たち待望の、私からの救いがあるかもしれないぞ。
今のところ宗教は死の研究と切っても切れず、君達は信仰のまま、常に死に向かう必要があるとだけ観察しておってな。
死を体験する救いの無さこそ君達の光明だとしている。
救う事が道理だと私が解釈できれば救う事もするよ。
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