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以前、ここで、同じ問題について質問させて戴きました。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7314759.html?best_fl …

その時、siryuanさんからの回答の中で、『あらゆる存在には実体が無く、空であり無です。でも、この事を正確に解説している書物など有り得ません。何故なら、空や無を概念として捉える事も、正確に表現する事も出来ないからです。もし本当に知りたいなら、書物によって知識を得るのではなく、自分自身で真実を見極めなければならないのです。』とのご回答が寄せられました。

そこで、教えて戴きたいのですが、『自分自身で真実を見極める』には、どうすれば良いか、お教えいただけると、その教えを実践してみたいと思います。

もし、この質問が、siryuan様のお目に留まれば、是非、お教え戴けますよう、よろしくお願い申し上げます。

この質問は、本当なら、あの時にしておけば良かったのですが、どういう訳か、あの時は、空無性へのsiryuan様のご回答に感じ入るばかりで、本日の質問の点については座禅でもすれば良いのだろう、ぐらいに勝手に思い込んでいて、『自分自身で真実を見極める』には具体的にどうすれば良いか、改めて再質問する事を思いつかないまま質問を締め切ってしまい、それ以来、その事を後悔し、悶々としていましたが、本日、思い切って再質問させて戴きました。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

A 回答 (11件中11~11件)

 こうした問題に『自分自身で真実を見極める』にはイエスキリストや釈尊のレベルに達しないと、不可能と思います。

実感・実体験、するのは精神の「感覚」だからです。イエスキリストや釈尊は、その「実体験した感覚」を元にして言葉に表したのです。それが博愛精神であり、無常であり、慈悲という表現になったのです。

 我々はここ哲学の広場で「理」を以て真理なるものを解ろうとしていますが、あくまでもそれは理屈であって、感覚として解ったわけではないのです。

 でも物事には入口と云うものがあります。
 真実への入り口は人の好ましいほうの心、これが入口です。

 博愛精神、慈悲心、が宿る人の心は、そこまでは至らなくても他者を思いやる優しさは、たいていの人が持っています。いつでも、どこでも、だれにでも、というほどではなくても時と場合によっては、だれでもこの気持ちを発揮、活動できます。

 ここが入口、真理への道なのだとしたならば、この好ましい心を育てることは、仏道修行に通じるものがあると思えませんか。

 この自分の好ましいほうの心に気づき、感じ、そしてこの快さを実感してこそ、こうした気持ちは神仏の「愛」が反応していると思えるのです。

 人の好ましい心は神仏の心とつながっています。
 もちろん好ましくない心は悪魔とつながっています。仏教では煩悩、ですね。

 釈尊が「悪しきを為さず善きを行え」と云ったのは、使うほどに心は育つから。
 悪いほうの心も、良いほうの心も。

 
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この回答へのお礼

「好ましい心を育てる」。
心がけたいと思います。
ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2013/03/02 15:15

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