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悟りへ転換した後の真実の世界は何か?

A 回答 (19件中1~10件)

僧侶です。



仏教は「縁起」の思想です。さまざまな全てのモノはどこかで影響しあって存在しているといえます。

「悟る」とはこの縁起の法に疑いなく完全に気づくということです。ですから悟ることによって全てのものを平等に見ることができ、自他の区別がなくなり、他の人や動物、さまざまなモノに対して疑いのない慈悲の心を発するのだと思います。

ですから、真実の世界とは、縁起の法に裏づけされた平等なる世界とでも呼べるのではないでしょうか。
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悟っても世界は変わりませんよ。

内面だけ大きく変化して変わった気がします。幸せを知ることが出来ます。苦労すると苦労を味わいますがあながち無意味ではないと思います。人は適応能力が誰にでも備わっていますから、その先にあるのは自分を取り巻く素晴らしき世界です!(^^)!これは体感しないと分かりませんね。
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少し付け加えます。


最清浄法界より・・・出世心は生じる、について

座禅をしてゆくと、自分というものが段々に丸く小さくなってゆきます。
しまいには小さな点(種子)となってしまいます。
この点に法界(宇宙)の自然な働きかけが作用(加わり)して、智慧を得る(仏が生じる)というものです。

道元禅師の、法が仏を行じる、という言葉も全く同じだと思われます。
現代風に言えば、宇宙の自然な働きかけにより深い智慧に至る・・という事になるのでしょう。

三力成仏の三力を分ければ
我功徳力、如来加持力、法界力になりますが
座禅による法界力の感得は同時に深い智慧の覚醒でもあるのでしょう。
般若智の世界に入るものと思います。

座禅は密教から見れば、三密の中の一密行(身密)になりますが
仏教の実修面においての基礎となっている事は広く確かなものです。

より深い智慧に至れば、自然と向下門の教えの内容の如きになっていくのでしょう。
下り坂の世界です。
仏が世に出る・・という事になります。
法界が(宇宙が)仏を生み、行じてゆくのでしょう。
そうした事も自然なのかもしれません。
また、その世界の内容は、子供が大人の世界を理解できないのと同じように考えられると思います。
私達一般人が仏の世界を理解できないものの如くでしょう。
ただ、大人が子供を慈しむように、仏も私達を慈しんで下さっているように思えるのですが・・・・・(目に見えないところで)

ご参考になれば何よりです。

この回答への補足

現在、上田 義文先生の 「摂大乗論講読」を購読中です。

補足日時:2009/12/13 00:25
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この回答へのお礼

玉城康四郎先生の説によればこの問題に関しては明快な回答は得られていないということのようです。
先ほど仏教学の専門家に聞いてきました。

お礼日時:2009/12/13 12:08

悟りへ転換した後の真実の世界は何か?



心の闇の向こうに太陽が燦燦と輝く青空があるのですね。その青空の下から闇の世界を通じて現世を見るというような心境ですね。
しいて言えば、夜に船出した船が朝焼けの太陽を見て、太陽の存在とありがたさを実感するということですね。そこで気付くことは太陽はいつでも燦燦と輝いているということなんですね。
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最清浄法界という言葉につられました。



以前にTVで玉城康四郎さんの唯識の解説の中で
最清浄法界に顕れたるところの聞薫習の種子より出世心は生じる・・・
とありました。

三力成仏の中の法界力の作用について述べられたものです。
宇宙という法界の自然な働きが、人の心に作用して高度な認識をもたらす・・・・と解釈しても良いように思いました。

そこに見えてくる世界とは・・・・推測になりますが
ありのままの世界ではないでしょうか。
ありのままでありながら、認識の深さによっては大分趣が変わってくるような気もいたします。

最清浄法界という宇宙の働きかけを得て見えてくる世界とは
山河大地草木瓦石皆これ己の本分なり・・・(夢窓疎石)
といった感じかもしれませんね。
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すみません、NO:12ですが、



言葉足らずというより、 私自身が逃げているかのような思索の世界がありました。

輪廻転生の世界なのですが、

通常のその考え方は 本当には私は肯定できないでいます。

脳死とともに 意識のすべも(一時的には  というふうに表現可能であるのかも解からないのですが)消えてしまうとしか思えないからです。

夢など見れない臨死状態の意識状態もあります^^(笑いごとではないですが)。(この説明は ここでは省きます)

その体験からは、そうとしか思えないということです。

が、

誤解を避けておけば、 死後の霊を祭る気持や倫理感の世界をもちろん肯定はしています。

ただし、 それとは別に 存在自体の 不思議さというか、 驚きに満ちた姿、 荘厳さが どこまでも続いているかのような世界性といったふうに言葉では語れそうなところからなのですが、  ともかくそこを考えたら 解からなくても解かる部分あるという感じで、命の永遠性は解かる地点は 必ず感性の進化の道すがらやってくると思ってるわけです。

その時に、 浮かんでくる輪廻と関る時空の真実のことなのですが(これも、ここでは説明は抜きにします)

これを含めて考えると、

私が NO:12で回答した内容は、大きく間違っているところが出てきます。

私たち凡人は それが真実であるとすると、 まさにただ必死で無我夢中に 理屈とかはもう解からないまま 慈悲とか愛の良心の世界に生きる世界しか見えてこなくなるかと思います。  いよいよの何が正しいのかなんて解からないような、盲目性の中に置かれてしまうと思います。

悟りへ転換した後の真実の世界についてなんて、何も言えなくなるかと思います。

が、推理では、これだけは確かに思えます。

ならば、なおのこと、 悟った方がたの責任は重くなる。

そして、おそらく、さらにさらに、私たちの想像を絶するような 頭脳の迷い(自分のためのではないですが)の世界が その生活の真実の世界となるかとは 思うのです。

でも、ほんとうは、この推理すら、   もはや、 解からなくなります。

謎に包まれてしまうということです。


それでもなお、 私は 悟りたくない。

もしかしたら、 kitaroo77さんも、 医学や政治の現実をこそ変えたいと思っている凡人の同志なのかもしれませんね。

その役割は、 悟ってしまったら はたしにくい のではないか? と思うのです。  こちら側からは それしかメッセできません。
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 No.4です。



 ★ 最清浄法界ではありませんか。
 ☆ という名前は知りません。

 ★ 摂大乗論ではどう記述されているのでしょう?
 ☆ これも知りません。
 つまり 知らなくても 《悟りへ転換した後の真実の世界》の実際について その大勢に影響はないと考えます。
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なぜ? 悟ってないと思われる私たち一般の人や哲学者達に その質問をされるのですか?



貴方は 悟りへ転換された方なのですか?

私の場合も、悟っていない人間であるわけですが、悟りについて、それはどういうものか?という点についての推理なら それなりに考えたことがあります。

言葉では どうしても説明が付きがたい、もし言葉を使うとするなら「深い」としか言いようのない感動の世界は 悟っていなくても 音楽や大自然に触れたり 深い優しさに触れたりした時に やってきたりします。

そこから推理される《悟りの世界》とはどういう世界かというと、そのさらに奥の しかももはや消えることのない、 いつも新鮮な 生き生きしたしかも静寂の安らかさにも満ちた状態に入り込んだ世界を まずそこに連想的に推理する者です。

涅槃とかいう境地も そういう静寂さに満ちた感性の極として考えることができたりします。

tumaritou1さんが 指摘されている右脳の世界が活性化した状態とも言えるところかもしれません。

また「永遠の命」という概念も おそらく実感として明確に感じられたりもする世界と思われます。(このへんは、 詳しく書かないと何を意味してるのか解からない人が多いと思いますが、 ここでは貴方が悟られた方と想定して書いているので 説明とかは抜きにしているわけです)

もし、頭では、そういう命の姿をはっきりと捉えても、

また、すべてが過ぎ去る(無常)と、これも頭ではっきりと理解しても、

かつ、 上記 もはや揺るぐことの無い深い感性の中に身をおけるようになったとしても、 それだけならば生物としての苦しみや そこからの恐怖の世界を ほんとうには越えることは出来ないはずです。

具体的には、 私の子どもの頃の体験が解かりやすいと思うのですが、

重い肺炎の中でも、 肺胞が1つ1つつぶれてゆく苦しい肺炎の中、 最後は右の肺胞は全部つぶれ 左の肺胞もあと少ししか残っていない という状態でも意識を失えないでいるような 状態の時    頭で考える何かがその苦しみから少しでも解放出きるものなのか?

 その他の極限の苦痛を幾つか知ってきた人間の一人として それは無理だと思ってます。

が、 推理では そういう状態でも ほんとうに悟った人ならば、静かに安らいでいられるということとなります。

Kitaroo77さん、貴方が「悟りへ転換した」状態とは そのような状態なのですか?

ならば それは、私たちにとって、それ自体が 、言葉にするなら「めちゃくちゃなまでに」大きい希望でもあると思いますが、

同時に、 私たちの 苦悩や苦しみをはたして思い出せるのか? そこが疑問となります。

大乗仏教は 慈悲を説いていると聞きます。

摂大乗論は それをまとめた経典とのこと。

私は そのへんにも無学な人間に過ぎませんが、

ならば その経典には、 苦を思い出せなくても 思い出せなくても そこに力があるなら それを無くすための役割を見つけるべきだ、ということが そのどこかに書いてあるのではないですか?(そんなふうな推理が働くということです)

もう あまりにも幸せだけとなった人(それが悟った人と思えるので)は、  

そうすると、 おそらくなんとか その道筋と もちろん「より大勢の人が悟れるようになる」道筋を、 まだ悟ってない人の中に見つける役割を自覚することとなり、

その役割を 天命とするわけでしょうが、 

思い出せない世界が多すぎて、 天命は むしろ知的迷いに満ちていて  おそらく多くの経典や哲学書をその境地から逆に さぐりゆく事となるのかと思われます。 もちろん心理学や脳科学とかも、その最先端はどこにあるのかと、 常に命を捨てるような気持で目をこらしていたりするのでしょう。

が、tumaritou1さんの お話の右脳左脳の方から推理すると、kitaroo77山の場合は、 それでもなお、 うまく左脳(論理的な明確さのある言葉の世界)は うまく操れなくなっている状態なのかもしれませn

》最清浄法界《という言葉は おそらくどこかの経典に出てくる言葉なのでしょうが、

その漢字の感じからは、無学の私にも意味合いは推理されたりします。

まさに、上記の悟った人の状態を示す言葉として捕らえると、とても解かりやすい言葉だとも思えるのです。

が、 これ一言では、私たちは、高い空から真実を眺めているかのように うっすらとしかその意味合いが解からなかったり、 いろいろな解釈が出来てしまったりして、 それそのものの世界が 実際には見えてこなかったりします。

貴方は、言葉は 解かるのですよね。 頭脳はむしろ明晰なのですよね。

ならば、 同時に、 表現の世界を様々に追求されてみることを、私たちの側からお勧めします。

これが、私の方からの回答となります。

さて、

《というよりも、 そう「命令したい」気持になります。》

この《 》内の 言い回しは 理解できますでしょうか?

私たちには、名誉欲とか自尊心とかが絡んだ複雑な自我がありますが、貴方には自我の実感はもう思い出せないと思われます。

そうならば 上から命令しても下からお頼みしても 悟った方(かた)にとっては同じだろうという気持からのものです。

もし

もし、 

そうではなく 悟った人にも、名誉心がまだ残っているのならば、 私は今、ほんとうに失礼なことを書いてしまったと思います。

いえ、 この回答はすべて、 意味が無くなることでしょう。

まったくとんちんかんな回答でしかなかったということになるでしょう。

どうなのでしょうか?

悟っているからこその、質問なのですよね? 

そう 信じたいのですが!!!

もし、そうであるのならば、

「悟りへ転換した後の真実の世界は何か?」という 困り度最大マークのこの質問への 私の方からの回答は 上記のごとくとなります。

ごいっしょに、表現の世界を探究してみませんか?

補足要求質問です。  

以上です。
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一度、悟りを開いたならば、それ以上は無しで、<無欲の世界>だけでしょう。



真実=無欲

それ以上が在ったら、悟りの領域では無しなんですよ。
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 回答番号:No.3でのご補足(皆さんに共通同一の言語)でのおはなしであるならば、ご質問にそのことが判るように書いてください。


 そうしたらそういう知識のない私は投稿する心と決心と労力を、時間を割きません。
 補足に対応できません。
 回答番号:No.3が回答になっていないなら、削除してください。
 よろしいですか、削除するのは管理者でしょうが、それを要求提案してください。
 お願いしますよ。いいですね。
 この質問は一定のところに記録されました。
 あなたが信じなくても、確証も物証もなくても、論証できなくても。
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