プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

20代男です。

昔学生時代いじめられた事があります。


主に同級生数人にいじめの行為を受けていたのですが、
その輩達以外の上級生、後輩達にも屈辱的な事をされてました。


今でも当時の事を思い出すと腸が煮えくりかえるぐらいです。


もう今は当時から7、8年経っているのですが、
正直未だにその当時の記憶に苦しめられる事があります。

記憶に苦しめられるというより、その加害者ですね。


当時は、いじめの行為をしてきた同級生の加害者達から受けるいじめが
エスカレートしないように、次第に自分は何かやろうとする時に、

「この行為をすると、あいつらは嫌うだろうか?
またさらに酷いいじめをしないだろうか?」

「これをすると馬鹿にするだろうか? 嘲笑うだろうか?」

と、わざわざ「そいつらの考えを基準に」決断を下すように
なってしまっていきました。


要は先回りして、何かされるのを未然に防ごうとしたのです。



そんな時期を長期間過ごしてしまったからなのか、
もう今は当時から何年も経つのに、何かやりたいと思った時に、

「あいつらだったら馬鹿にするだろうか....?」

と考えてしまう事があります。



今はそいつらと自分は全く関係無くて、かかわる必要も全く無いので、
こんなことを考える必要性は全くありません。


というより、仮にそいつらと今も何らかの関わりがあるとしても、
そもそも何も言われる筋合いはありませんが。


でも、僕の記憶に

「あいつらに嫌われたり馬鹿にされたりしたらまたひどい仕打ちを受ける」

というのが刷り込まれているからなのか、何かやろうとする時

「これはあいつらだったらどう思うだろうか...?何か嫌がらせしてくることになる行動なのだろうか?」


みたいな事を考えてしまうのです。


実際問題は、今そいつらにどう思われようが、本当にどうでもいいです。


仮に今の生活を見られて馬鹿にしてきたとしても、本当に、本当にどうでもいい。

無視して終了の話です。


当然の事ながら、僕が当時やろうとしたこと、そして今やろうとしていることは
何も悪い事ではなく、自分がやりたいこと。

その性格が最悪な、捻くれものの加害者達に
何もとやかく言われる筋合い等無いことです。


よって、僕は自分が何かを考える時や決める時に、
そいつらを意識の中に介入させる必要性は全く無いと言えます。



皆さんも何か考えたりやろうとする時に、
誰か嫌いな人や性格悪い人のことを思い浮かべて

「あの人だったら私/俺がこんなことを言ったりやったりしたら馬鹿にするだろうか?」


なんてこと一切、ほんの一秒たりとも考え無いと思います。
やりたいと思うことに胸を躍らせたり、
期待したりしながら考え、行動しますよね。


しかしながら、僕の潜在意識の中に入ってしまったからなのか
どうなのかわかりませんが、未だに、もう何年も経った今も
考えてしまうことが多々あります。



これをどうにかしたいと思っています。


そこで皆様に質問です。


この

「何かやろうとする時に誰か嫌いな人や性格悪い人のことを思い浮かべて、
当時の輩だったら私/俺がこんなことを言ったりやったりしたら馬鹿にするだろうか?」


と考える事がいかに必要の無いことなのか、
馬鹿げていて時間、思考、労力を無駄にすることなのかというのを、


きちんとした文章で、論理的に説いて頂け無いでしょうか?


それを毎日自分に刷り込むことによってのみ、
その必要の無い思考癖が取れると思うのです。


過去にこの症状を治すべく、カウンセラー、精神科、心療内科に
全て行きましたが、基本的に薬を出そうとするか表面的な会話で終わってしまい、
結局何一つ改善しませんでした。


よってもう「いかに必要無いか」ということを
毎日頭に刷り込み続けるしか、この症状を治す方法は無いと感じております。



ですので皆様のお力を借りたいと思います。


回答お待ちしております。

A 回答 (4件)

あなたの気持ちが分かる気がします。


私も似た経験があるからです。

気にしていると言うのは、それだけ当時あなたが辛い思いをしていたためでしょう。
今のように「馬鹿にされるかな。。。」と気になってしまうのは、馬鹿にされて傷つくことを避けるため、あなたの心が知らず知らずのうちに自己防衛しているんでしょうね。
「馬鹿にされる=傷つく」だったのだから、仕方がありません。
でも一歩進んで、その鎧を脱ごうとしているのは凄いです。私はまだその勇気は持てません。

けれど、私は自分を傷つけようとする人たちから離れて、自分を大切にしてくる人たちを見つけたとき、決めたことがあります。
それは、「私のことを嫌いな人や私が大事じゃない人からの言葉は気にしない。私が尊敬する人や私が大事にしたい人からの言葉はどんなに厳しいことでも受け入れよう。」と言うことです。
私を嫌う人、私が大事に思えない人から、私のたった一度の人生をこれ以上土足で踏み荒らされるのは嫌だったんです。

確かに馬鹿にされるのは愉快な経験じゃないし、社会で生きていくには多少は人目を気にする必要もあります。
でも、あなたは今何のために生きていますか?
目標や、将来の夢、頑張っていること。。。全てあなた自身のためにしているはずです。
「人に馬鹿にされないために生きている」のではないんです。
自分の将来の方が、「馬鹿にされないこと」よりもずっとずっと大事ですよね。
例えば資格を取ろう!と思ったときに「馬鹿にされるかな」と心をよぎったら「馬鹿にされるかもしれないけど、自分は資格を取りたいんだから、頑張ろう」「あの人たちは馬鹿にされるかもしれないけど、自分が大事に思う人はきっと評価してくれる」と思ってみて下さい。
すぐには楽にならないかもしれませんが、人は経験を積んで成長します。
色んな自信や経験があなたを変えるはずです。
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 『自分がこうだから、相手が…』、というように、物事の原因を自分と関連付けて考えるのは、視野が狭い幼稚な了見です。

小さな子供は、そういうものの見方をします。もっと広い物の見方を心がけましょう。質問者様がどんな言動を取ろうと、回答者の僕は同じ態度をとり続ける自信があります。
 目を横にそらすと、馬鹿にされたように思う人は多いのです。他人と目が合ったときは、そらすなら下にそらすのです。単に恥ずかしがっているだけと見られ、マイナスの印象は与えないでしょう。気付かないうちに、そのような行為をしていたりして、相手も無意識に仕返しをしているだけだったりするのです。『なぜ俺を嫌うのか?』と問うたとしても、相手もその理由を正確には言えないでしょう。無意識の世界まで、考慮しなければ辻褄の合う理解はできないのです。
 『自分はこうしたいのに、なかなかできない』…(例えば、ひとに優しくしたい)、と自分のことで悩むなら、大いに結構なことです。悩みがなければ成長もありません。しかし、「他人にこんなことをされた」というのは、他人の問題です。他人の問題をいくら気にしても、自分のためにはなりません。たとえ他人があなたをバカにしようとも、それは単に、「その人があなたをバカにした」という事実が存在するだけで、あなたが本当のバカであるというわけではありません。 自分に非がないのなら、そんな人の言うことは気にせず、堂々としていればよいのです。他人をバカにするような人は、おそらく相当に劣等感の深い人です。それはその人の問題であって、あなたの問題ではありません。他人の劣等感まで抱え込んで苦しむ必要はないのです。

 一度しかされていない嫌なことを、一度しか言われていない嫌な言葉を、頭の中で数十回と繰り返しているのは、他ならないアナタなのです。

 世の中には、他人が傷つくようなことを平気で言う冷たい人は、たくさんいます。 あなたのまわりだけでなく、誰の近くにも平等にいるのです。 もしもあなたが、「冷たい人間がいるせいで、自分はいつもストレスを抱えている」と思っているのだとしたら、あなたが幸せになるためには、世の中のすべての冷たい人間を抹殺しなければならないということになります。そんなことは絶対に不可能です。
 愚痴をこぼさず、いつも笑顔で明るく生きている人もたくさんいます。 明るい人のまわりには、冷たい人間がまったく存在しないわけではありません。 ストレスをためるか、ためないかは、まわりの環境ではなく、自分の心のもち方で決まるのです。
 あなたの人間としての価値は、「ひと握りの人にどう扱われるか」によって決まってしまうほど、ちっぽけなものなのでしょうか。 そうでないなら、心豊かに生きたいなら、きょうかぎり、「他人にこんなことをされた・言われた」と腹を立てるのはやめましょう。 他人に対しては、親切や気遣いに感謝だけすればよいのです。
 「他人のあやまちを許せない」という人にかぎって、自分のあやまちには目をつぶり、簡単に許してしまうものです。自分を傷つけたのも人間ならば、喜びを与えてくれるのも人間です。 これまで、怒りで目がくらんで見えていなかった、人の優しさ、温かさに触れることができるでしょう。「私は、他人に感謝すべきことに、きちんと感謝を示しているだろうか。何かをしてもらうことを当然と考えて、感謝の心を忘れてしまっているのではないだろうか」。人は完全にはなりえません。死ぬまでが修行だと言ってもいいでしょう。
 幸せを感じている人は、まわりのすべての人から理解されているわけではありません。 「他人は自分を理解してくれなくて当然、してくれた人には心から感謝しなければならない」と考えているだけです。 不幸な人とは、「他人は自分を理解してくれて当然、してくれない人には怒りを感じる」と考えている人です。「当然」か「不幸」かしかないのですから、いつまでたっても幸せになれるはずがありません。
 どうか、幸せになってください。
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最近、気づいたことがあって。



歴史上で日本の本当の繁栄はバブル付近以前の期間だけになります。

しかし、どうみても今は凋落傾向の国の中にいます。

今までためた遺産で先進国ですばらしいといってますが、うつ病の人も多ければいじめも絶えません。

個人的には宗教とかもすたれて、本当にいい国なのかと思うことがあります。

バブル期のころは日本の習慣が偶然か合理的だと言われました。
でも、摺合せの製造業が活躍できる文化が狭まり、対応できてなく、バブル後延々と不況を脱せない国です。

自分の集団がすばらしく、それに適応できないと自分の価値が下がっているような気がしてませんか。


言いたいことは、いじめなんかやっている反面教師のような連中はそういった背景の国に存在していて、さらにそのような状況の日本の中でも非常に低い、目的観のないそんなことに価値を見出す意味不明な人たちなんです。

私は決して日本をいい国だとは思いません。

PTSDじゃないですけど、心の怪我の回復は必要だと思います。と同時に意味のないことに価値を見出しているしょうもない連中って心に残しておく重要性などないのです。

そんなんで集団を上がれても悲しい集団、悲しい人々にすぎないのです。
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過去のトラウマに悩まされているのですね。



でもあなたは[答え]自体はもう導き出せているようです。

>実際問題は、今そいつらにどう思われようが、本当にどうでもいいです。

>仮に今の生活を見られて馬鹿にしてきたとしても、本当に、本当にどうでもいい。
無視して終了の話です。

でしょ?
本当その通りだと思いますよ。

でも拘ってしまうという事は、本心からそう思えていないのでしょう。


実際問題は、今そいつらにどう思われようが、本当にどうでもいい。……そうなんだけど、気になってしまう。

仮に今の生活を見られて馬鹿にしてきたとしても、本当に、本当にどうでもいい。
無視して終了の話。……なんだけど、無視仕切れない。どうでもいいと割り切り切れない。


考え方の癖を変える必要性があります。


頭で解っていても、心が付いて来てくれない。そんな状況なんだと思います。


カウンセリングが無効だったと仰いますが、どのような内容でしたか。

所謂、カウンセリングの沢山の手法の1つの、傾聴、だったのではないでしょうか。


もしまだプロに頼ってみようという選択肢があるのならば、カウンセラーはカウンセラーでも、コーチングを施術する事が可能なカウンセラーを尋ねてみては如何でしょう。


コーチングとは、考え方の癖を治したり、心の筋肉を付け、理想の未来を築く為のメンタルトレーニングです。

ただ聴くだけのカウンセリングとは180°違います。


ご参考まで。
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