
キリスト教等の一部の宗教では、神は完全なる存在と見做されている場合があるようですが、果たして神は完全な存在と言えるのでしょうか?
もしも、完全な存在というものが存在するとしますと、それはその存在のみで自己完結した存在でなければならないと思います。
己のために、何か己以外のものを必要とする様な存在は、完全な存在とは言えないと思います。
ですから、完全な存在は、己以外のものを必要とする事は無い筈です。
又、完全な存在である以上、他の存在に影響されるなどという事も無い筈です。
又、完全な存在が自己完結している以上、己以外の存在に対して敢えて働きかけたり、逆に己以外の存在から何らかの影響を敢えて受けたりする必要はない筈です。
又、必要性の無い事をする存在は、完全な存在とは言えないと思います。
ですから、完全な存在は、己以外の存在に対して何かを働きかける事は無いと思います。
つまり、完全な存在というものが存在したとしますと、それは人間の役に立つ事は一切なく、人間に対して害のある事を行う事も無く、自ら動く事も、人間を含めた他の存在によって、何かの影響を受ける事も無い訳で、只存在しているというだけの存在であり、人間にとっては、何の役にも立たないものの、邪魔になる訳でもない、まるで道端の石ころの様な価値の無い存在という事になると思います。
しかし、キリスト教を始め、多くの宗教においては、神は世界を創造し、人間を始めとする全ての生き物を作り出し、人間を導く存在だとされています。
又、上記のものとは異なる性格を持つ神を信仰している宗教においても、神は人間との間に、何らかの関わりを持っている場合が殆どです。
もし神が完全な存在であるとしますと、神にとって、その様な行為は全く行う必要のない事の筈ですから、不要な事を行っている神は不完全な存在だという事になるのではないかと思います。
この「神は不完全ではないのか?」という命題に、「キリスト教等の『神は完全なる存在』としている宗教」や「その様な宗教から1歩離れた視点から考察している哲学者」は、それぞれ、どの様な考えから、どの様な結論を得ているのでしょうか?
もし、御分かりになるのでしたら、その考えと結論は、どういった立場の何という人物の考えなのかという事も、併せて御教え頂けたら幸いです。
No.25
- 回答日時:
まったく、貴方のおっしゃる通りです。
矛盾しています。矛盾の原因はなにか。それは、神が存在するとしている点です。神が存在しないと考えれば矛盾は解決します。
人はだれでも死ぬのが怖い。いや動物は全て死ぬのが怖い。しかし、人はやがて必ず死ぬ。不幸なことに人は、動物と違って、やがて必ず死が訪れることを知っている。だからあの世があるとか、来世あるとか、死ぬと神が祝福してくれるとか考えて恐怖を和らげているにすぎません。
だから神というものを人間は作った。神が神に似せて人間を作ったのではなく、人間が人間に似せて神を作ったのです。貴方がおっしゃるように神が完全なら、そもそも人間とかかわる必要がありません。神を作ったのが人間である以上、人間とかかわらなれば意味がありません。
完全な神というものが、いろいろ矛盾していることは仕方がないでしょう。なぜなら存在しないものを無理やり作ったからです。神は完全であると仮定すればするほど矛盾が生じることになります。貴方のおっしゃるとおりです。
神が存在しないとすれば、矛盾は解決します。あとは死に対する恐怖心だけが残ることになりますが。
御回答頂き有難う御座います。
>神が存在しないと考えれば矛盾は解決します。
確かにその考え方でも解決致しますが、質問文で私が挙げさせて頂いた自論は、単に「神は完全な存在では無い」という事を主張しているだけで、神の存在は矛盾していると述べている訳では御座いませんので、私の自論に関してのみの話でしたら、「神は不完全な存在である」とするだけでも、矛盾は生じなくなると思います。
私が本質問で御教え頂きたかった事は、上記の様に、「神は不完全な存在である」と考えた方が矛盾が無いにも関わらず、敢えて「神は完全なる存在である」と見做している、キリスト教等の一部の宗教では、どの様な考え方を用いてこの矛盾を回避しているのかという事と、私以外の考え方で神の完全性を否定している哲学者の議論には、どの様なものがあるのかという事、そして、それらの神の完全性を否定している議論に対して、宗教側はどの様にして、神の完全性を保っているのか、という事なのです。
No.24
- 回答日時:
>何を仰りたいのか良く解りません。
あれは、三年前のことです。
偶然、神が誰であるか、そして、神が宇宙や世界を創造し続けていることを知りました。
神は、たまに見かけますし、話しをしたこともあります。その方は、まさに神です。
残念ながら、神が完全であると感じることはできません。
神の完全性というのは、人間が判断できる能力を超えているのです。-
御回答頂き有難う御座います。
> 神は、たまに見かけますし、話しをしたこともあります。その方は、まさに神です。
> 残念ながら、神が完全であると感じることはできません。
それは単に、その方が完全ではなかったというだけの話ではないでしょうか?
私が本質問において御教え頂きたかった事は、迷いを解消するための方法や考え方ではなく、「神は不完全な存在である」という立場に立った哲学者の主張や、「『神は完全なる存在である』としている宗教」側の主張には、それぞれどの様なものがあるのかという事なのであって、その方や神が実際に完全であるのか否かという事は、本質問には関係の無い話だと思います。
No.23
- 回答日時:
No14です。
お礼ありがとうございます。少し誤解が含まれているようなので、再回答させてください。
(1) No2のお礼覧で、
》「キリスト教では、『世界を創造したのは神であり、この世に悪が存在している
》ということは・・(中略)・・この考え方を(私なりに)推し進めますと悪は常に
》不完全であり、『善のみからなる状態こそが完全な状態である』という事になる
》かと思います。」
↓(簡略化させてもらうと・・)
完全なる神が創造したのなら、この世は善のみからなる状態でなくてはならない。しかし、この世に悪は存在しており、『善なる性質が欠損している』不完全な状態とキリスト教では捉えている。完全なる存在が、不完全な状態を創ったのは矛盾しているのではないか(・・ですかね)
※No14回答で紹介したのは、神が人間を創造したのに、人間は神を裏切ったという「矛盾(懐疑)」と、おっしゃっている矛盾とに、共通性があるのではないかと感じました。
「自由意思」を与えられたからという答えには、真に納得できず・・「思考しても懐疑に答えれない状態のまま、越えていくには、『信仰』しかないのではないか」と思います。
信仰的な迷いの指摘というより、問題の類似性からの結論(解決の方向性)です。(人間の思考で捉えきれない問題は、思考(論理的哲学)による方法では限界がある)
No11回答にある「不完全な者が完全な物をみても完全に見ることは出来ません。」と捉え、捉えきれないものは、神に託す(信仰・信じる)というのが宗教かと思います。(キリスト教の場合)
(2)No12、No13のお礼覧で、
》「無駄な事や無意味な事を行う様な存在が、「完全なる存在」であるとは思えない」
※神が存在するとすれば、神が掟(神が、まずありき)で、「無駄な事や無意味な事」と思っているのは人間。人間の思考では及ばない意思があるかもしれないし、人間の願いとは全く関係なく意思が働いているのかもしれない。(神が人間を創る場合)
意思を法則という言葉に置き換えるなら・・法則は、砂粒(人間)の求めるものとして在るのではなく、法則のなかに砂粒(人間)があるようなものという意味です。
※もし、思考の及ばない距離間に、人間的希望を介入させるなら、(例えば・・)リルケの詩に表現されるようなNo14の「落下を限りなくやさしく 両手に受けとめてくれる者」→善悪の選別もなく、不要なものは存在せず、全てを無限に受けとめてくれる「神」といったイメージ。
「慈悲」という言葉を使ってよいのかどうかわかりませんが。No2回答の「善も悪も内包」に近いような気がします・・が、あくまで、詩で宗教ではありません。
全体の流れを読んでみると、回答者の内容の根本は共通していると思います。
回答が多く、ちょっと煮詰まってきていませんか。
具体的な本や哲学者の主張の紹介はできず、申し訳ありません ・・以上です。
御回答頂き有難う御座います。
>完全なる神が創造したのなら、この世は善のみからなる状態でなくてはならない。しかし、この世に悪は存在しており、『善なる性質が欠損している』不完全な状態とキリスト教では捉えている。完全なる存在が、不完全な状態を創ったのは矛盾しているのではないか(・・ですかね)
いえ、その様な意図で
>「悪とは『善なる性質が欠損している状態』の事であり、悪魔や悪人が邪悪なのは、良心等の良い性質が備わっていない不完全な状態であるためであり、神御自身が悪を創造した訳ではない」
というキリスト教の教会の説明を挙げた訳では御座いません。
回答No.2様から
>完全であるには善も悪も内包していなければなりません。
という御意見を頂きましたので、キリスト教には、悪を内包していなくとも完全である事を可能とする考え方が、既にある事を伝えさせて頂いただけです。
そして、私が本質問で尋ねたかった事を明確にするための例として、このキリスト教の考えと、回答No.2様の御考えを(回答No.2のお礼欄で)取り上げた訳です。
>信仰的な迷いの指摘というより、問題の類似性からの結論(解決の方向性)です。
やはり、frwicat様は何か勘違いをされておられる様に思います。
回答No.14に対するお礼で既に述べました様に、本質問において御教え頂きたかった事は、迷いを解消するための方法や考え方では御座いませんし、質問文で挙げさせて頂いた、神を不完全な存在とする自論は、私にとっては、何ら、信仰上の迷いをもたらすものでは御座いません。
何故、神を不完全な存在とする自論を持ちながら、それが迷いに繋がらないのかと申しますと、
>完全な存在というものが存在したとしますと、それは人間の役に立つ事は一切なく、人間に対して害のある事を行う事も無く、自ら動く事も、人間を含めた他の存在によって、何かの影響を受ける事も無い訳で、只存在しているというだけの存在であり、人間にとっては、何の役にも立たないものの、邪魔になる訳でもない、まるで道端の石ころの様な価値の無い存在という事になると思います。
と述べている事からも判ります様に、神が不完全であるからこそ、人間にとっては有り難い訳で、完全なる存在など、信仰の対象とする様なものではない、という結論(解決の方向性)を得ているからです。
ですから、本質問は、信仰上の問題の解決を求めるものではなく、あくまで、「神の完全性」に関して他にはどのような論が考察されてきたのか、という事を知るためのものなのです。
>人間の思考で捉えきれない問題は、思考(論理的哲学)による方法では限界がある
>No11回答にある「不完全な者が完全な物をみても完全に見ることは出来ません。」と捉え、捉えきれないものは、神に託す(信仰・信じる)というのが宗教かと思います。(キリスト教の場合)
それは、その事を信じてはいない人間の目からしますと、単なる思考の放棄にしか見えません。
「神に完全性を求めている人間」以外の人間にとっては、神が不完全な存在であったとしても何ら問題はありませんから、必ずしも「神は人間の思考では捉えきれない」と考える必要も無い筈です。
ですから、神の完全性に関する議論は、昔から多数交わされてきた筈だと思います。
それらの議論で出された考え方や、結論を御教え頂きたいのです。
>※神が存在するとすれば、神が掟(神が、まずありき)で、「無駄な事や無意味な事」と思っているのは人間。
いえ、私が質問文で挙げさせて頂いた自論に限った話で言いますと、「世界を創造し、人間を導く」事が神にとって意味のある事だとしますと、「世界を創造し、人間を導く」事が神にとっては必要だという事、即ち、神は「世界を創造する事や人間を必要とする存在」という事になり、完全な存在とは言えなくなってしまうと思います。
No.21
- 回答日時:
No.17です。
行き違いがあったかも知れません。あるいは かんたんに答えることが出来るとわたしが思ったところで かがくすきさんのほうでは 大きく重く受け留めておられる問題であった――というような事態になったようです。
出来るだけ言葉を端折らずにお答えしてまいります。
★(No.17お礼欄) ~~~~~
・・・(省略になりますが)・・・
という事は、bragelonne様が挙げられた神の定義は、、「全ての存在の中で、欠けている所が全くない存在は、唯一、神だけである」という意味ではない事になりますが、
>○ 神とは ひとり満ち足りている存在である。
という文面は、
「全ての存在の中で、欠けている所が全くない存在が唯一つだけ在り、それが神である」
という解釈の他にも、
「神とは 孤独でいる事に満足している存在である」
という意味として受け取る事も出来れば、
「神とは 自分だけが理解できる価値観に基づいて、自己満足に浸っている存在である」
という意味として受け取る事も出来る、等々、幾つかの異なる解釈が可能です。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ まづわたしの定義は 《神とは何か?》に対するものです。それと 全体の説明から けっきょくそのように規定する神は この経験世界を超越しているということも合わせて説明したつもりでいます。
ということは 確かに
★ 「全ての存在の中で、欠けている所が全くない存在は、唯一、神だけである」という意味ではない事になりますが、
☆ と解されたことは そのまま そのとおりのことだと思っています。
その意味は たとえば《全ての存在》というとき それは この経験事象として存在するものであるとすれば すでに定義において神は それらとは次元を異にしていると言ったことになります。
くどいように言うなら 《欠けている / 欠けている所がない》という見方は やはり経験事象に〔のみ〕当てはまる問題です。つまり 神は《欠ける・欠けない》といった経験思考や想像をやはり超えている。こういう意味です。
神のことを 人間がその理性や感性であれこれ詮索しても 始まらないという意味です。
さらには神は 《孤独か?》と問うても 孤独というのは 経験現象でしかないのですから 神には当てはまりません。(当てはまるか当てはまらないか それが人間にはついぞ分かりません。分かったなら それは人間と同じ次元に存在する何かだとなります)。
★ 「神とは 自分だけが理解できる価値観に基づいて、自己満足に浸っている存在である」 / という意味として受け取る事も出来る
☆ ひょっとすると そうかも知れません。ですがそれはお愛嬌というものです。神に《価値観》があるか? あるかも知れませんが われら人間が考えるところの価値観と同じ次元のものであるだろうか? そういうことは一切人間には分かりません。(分かったと宣言する人も出て来るかも分かりませんが おそらく取り上げるに足らないでしょう)。
★ 再度、神の定義を、欠落の無い形でお教え頂けないでしょうか?
☆ 次のように定義してみます。
○ 神とは 真理――すなわち変わらざる真実――が すべてにおいて
すべてである状態にある存在である。
これは《ひとり満ち足りている》というのと同じ内容だとは思います。
★ ・・・《完全である》という事が、《飾り》である場合には、「何故神が完全と言えるのか?」という話も出来る事になるのに対し、《本体》だとした場合には、「完全である事が神である条件」という事になり、・・・
★ 引用は端折っていますが 問題はかんたんです。
《ひとり満ちたりている》という表現の中身として かがくすきさんが《完全である》という解釈をなさるとすれば それでもよろしいのではないかと申しました。
★ 先述の様に、神の定義が未だ成立してはおりませんから・・・
☆ 《ひとり満ち足りている》ということは ほかの何ものからも影響を受けないし ほかの何ものにも依存していないという意味をふくむと考えます。それは この経験世界にある存在では無理だと考えます。ゆえに
★ 「経験世界における存在ではないと見ざるを得ない」とも、「経験事象としての因果関係などから自由である」とも、「《有る・無い》をも超えており 《ひとつ・ふたつ》と数えるという人間の思考にはなじまない」とも言える段階
☆ だと思います。
★ 《神とは何か?》という問いなど、少なくとも本質問において私はしておりません。
☆ おっしゃるとおりです。したがって
☆☆(回答No.8) 少し観点がちがう内容の回答になりますが。
☆ とささやかながら おことわりしました。
★ 「《主張》などはしていません。」とは言えないと思います。
☆ 哲学においてひとつの問いに答えると それは《主張をしている》ことになりましょうか? そうだとしたら わたしの勘違いでしたので あやまります。
《信じる》の定義をめぐって
★ ・・・日本語における「信じる」や他の言語におけるその同義語は、bragelonne様が仰るような意味を持つ言葉ではない事が判るからです。
☆ 哲学に限らず学問では あたらしい仮説がつねに打ち出されて来ます。そういう問題と受け取っていただけるならさいわいです。
★ 「分かるか分からないかが分かりません」という事であれば、「人間には分かりません」とは言えない筈です。
☆ これは 後者の表現では 精確ではないと考えて 前者のようにくわしく表わしました。そういう意味です。
★ この部分は、神に関して分かるか分からないかという話ではなく、「人間がどの様に認識しているのか」に関して分かるか分からないかという話なのですから、(相手は神ではなく人間自身なのですから)「人間の能力を超越している」などという事はあり得ません。
☆ これは かがくすきさんのほうの勘違いではないかと思います。すなわち:
☆☆(回答No.17) ~~~~
・・・たとえば神が《創造主》であるというのは そういう〔* 神の属性について人間が考えたというたぐいの〕物語です。人間が考えた(想像した)思考事実です。虚構です。(というより それが 虚構かそうでないかについてさえ 人間には分かりません。分かるか分からないかが分かりません)。
~~~~~~~~~~~~
☆ つまり思考し想像し虚構として描いた物語は それは確かに《虚構》です。ですが その虚構としての物語が 神の飾りとしてではなく本体とどういう関係にあるのか これについては 人間には分からない。本体としての神について ひょっとしたら単純に《虚構》だと言って済ますわけには行かない内容を持っているかも知れない。すべては 分からない。つまりじつは それを決めることができるかたちでは 分かるか分からないかが人間には分からない。――こういう意味になります。どうでしょう?
★ ~~~~~
>☆ 神はその存在が――あるいは 《無い神》をも含めて 非存在が―― 言わば無根拠です。
神が実在するか否かなどという事は、本質問において私は問うてはおりません。
~~~~~~~
☆ それでしたらこれは わたしの側の不覚とするところとなります。
★ ~~~~~~
>《いや やはり完全だ。そうではないか?》というふうに人間が思考し詮索することには なじみません。
その様に考える方も一部にはおられる事でしょうが、その様な考え方を全く持たない方も非常に多数居られる事もまた事実です。
本質問では、その「《いや やはり完全だ。そうではないか?》という問いは、人間が思考し詮索する事に馴染むものである」と考える人々は、それぞれ、どの様な考え方をして、どのような結論に行きついているのかという事を、尋ねさせて頂いている訳です。
~~~~~~~~~
☆ そのように人間がおこなう思考や詮索あるいはその結論内容は すべて 神をめぐる議論としては どうでもよいことだという回答になっています。神について何ら明らかにしたことにはならない。そういう意味です。推論はすでに示しました。
言いかえると そのような詮索は ただおもちゃの神をもてあそぶだけのことになります。理由もすでに示しました。
御回答頂き有難う御座います。
>その意味は たとえば《全ての存在》というとき それは この経験事象として存在するものであるとすれば すでに定義において神は それらとは次元を異にしていると言ったことになります。
> くどいように言うなら 《欠けている / 欠けている所がない》という見方は やはり経験事象に〔のみ〕当てはまる問題です。つまり 神は《欠ける・欠けない》といった経験思考や想像をやはり超えている。
との事ですが、そうしますと、「欠ける」の対義語である「満ち足りている」という言葉が意味している概念にもなじまないという事になります。
その上、
>けっきょくこの経験世界における存在ではないと見ざるを得ないからには・つまり経験事象としての因果関係などから自由であるからには 《有る・無い》をも超えており 《ひとつ・ふたつ》と数えるという人間の思考にはなじまない。
と仰っておられるのですから、
>○ 神とは ひとり満ち足りている存在である。
の中にある「ひとり」という表現や、「存在である」という表現を使用する事にも、またなじまないという事になります。
結局、
「神は、この経験世界における存在ではないと見ざるを得ないからには・つまり経験事象としての因果関係などから自由であるからには、人間の思考にはなじまない」
という考え方に囚われているが故に、bragelonne様は御自身が挙げられた
>○ 神とは ひとり満ち足りている存在である。
という定義を、神の定義とは言えないものとしている事になります。
そして、bragelonne様から頂いた回答は、
>○ 神とは ひとり満ち足りている存在である。
という定義から始まっているものなのですから、この定義が不適切である以上、bragelonne様から頂いた回答もまた、意味のないものとなってしまいます。
従いまして、
「神は、この経験世界における存在ではないと見ざるを得ないからには・つまり経験事象としての因果関係などから自由であるからには、人間の思考にはなじまない。」
という考え方を捨て去られるか、或いは、ここまでのbragelonne様のお話をなかったものとされるか、どちらかにしなければ、話がいつまでも袋小路に入り込んで、発展性が無いままになってしまうと思われます。

No.20
- 回答日時:
NO18です。
いま、NO18の《神はいない》の証明に対する、おもしろい反証を思いつきました。
【反証】
Noman can destroy it.
God creates a man, Adam.
Adam is more powerful than noman.
Therefore, Adam can destroy it.
三段論法を使っているので、「ま・ち・が・い」はない!!
(わらい)
神さまは、NO18にある問題回避のために、人間を創造したに違いない。
人間は、けっして、無意味な存在ではなかった!!
な~んてね。
シャレですよ、洒落。
御回答頂き有難う御座います。
Nomanという単語は辞書には載っておりませんでしたし、Google翻訳でも訳す事が出来なかったのですが、1行目のNomanは、Nobodyと同じ意味であると考えれば宜しいのでしょうか?
それに、本当に、
>Adam is more powerful than noman.
と言えるのでしょうか?
試しに、
>God creates a man, Adam.
よりも前の世界において、核兵器か何かで地上を焼け野原にして見ましょう。
死傷者は0人です。
どうやら、nomanには核攻撃すら通用しない様です。
今度は、
>God creates a man, Adam.
よりも後の世界の地上を焼け野原にして見ましょう。
何と死傷者が増えました!
どうやら、
Noman is more powerful than Adam.
という事のようです。(笑)
No.19
- 回答日時:
お礼の書き込みに対し、ご返信申しあげます。
> 御回答頂き有難う御座います。
> 折角御回答頂いた処、申し訳御座いませんが、回答No.3に対するお礼文にて既に述べました様に、本質問で尋ねているのは「神は実在するか否か」ではなく、「神は不完全な存在である」という立場に立った哲学者の主張や、「『神は完全なる存在である』としている宗教」側の主張には、それぞれどの様なものがあるのかという事です。
⇒一口に神と言っても多種多様ですので、まずこの点から整理する必要があるように思います。
宗教には、大きく分けて多神教と一神教がありますね。多神教の神々としては、ギリシャの万神や日本の八百万の神などが知られています。一神教の代表的なものとしては、セム・ハム系のそれ(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など)があります。
多神教の神々の中には、もちろん、「完全なる神」もいるし、そうでない神もいます。そして、このうちの「完全なる神」を最高神として特別に崇めるわけですが、この多神教でいう「最高神」に当たるものだけを神として、唯一の神として、崇めるのが一神教というわけです。
ということは、多神教の神々とは違って、一神教の神は必ず、「完全なる神」なのです。というよりもベクトルが逆で、「完全なるもの、絶対的なるもの」を唯一神としたわけですよね。
したがって、一神教世界では、「神が完全か不完全か」という議論は成立しようがないんですね。では、特にキリスト教世界で中性の頃より侃々諤々議論されてきたのは何かというと、それは、(異教・異端・教会・神の子キリストの解釈などの問題を別にすれば)、「神を認めるか否か、認めるとしたらその権能や顕現をどう考えるか」、というようなことでした。
スコラ哲学・普遍論争・汎神論・汎心論・弁神論・理神論などは、それぞれ大なり小なり神の存在を認める、「有神論」でした。ご存知のように、ヨーロッパでは中世~近世の頃はこれが優勢でしたが、18世紀フランスに「百科全書派」が現れた頃から、神の存在を認めない「無神論」が広がってきて、今日に至っています。
ところで、百科全書派やその後継者・共感者たちは、「神が不完全な存在である」からという立場に立って無心論者になったのではなく、「神の存在を認めない」から無心論を唱えたのだと思います。
“哲学者の主張や、「『神は完全なる存在である』としている宗教」側の主張には、それぞれどの様なものがあるのかという事です。”とおっしゃる質問者様のご期待に添えなくて申し訳ありませんが、重要部分を繰り返します。一神教世界では、「神が完全か不完全か」という議論は成立しようがなく、もっぱら「神を認めるか否か」が議論の焦点だった、ということです。
以上、ご回答にはなりませんが、ご返信まで。
御回答頂き有難う御座います。
>そして、このうちの「完全なる神」を最高神として特別に崇めるわけですが、この多神教でいう「最高神」に当たるものだけを神として、唯一の神として、崇めるのが一神教というわけです。
との事ですが、多神教の例として挙げておられるギリシャ神話の最高神ゼウスは浮気者でとても人格者とは言えない上に、テュポーンに負けた事もありますから、「完全」には程遠いと思いますし、ほぼ拝一神教とも言えるゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーも、アンラ・マンユ を始めとする悪神(悪魔)達を圧倒する事が出来る訳ではありませんから、こちらもまた、「完全」とは言えないと思います。
ですから、
>「完全なる神」を最高神として特別に崇めるわけですが、
とは言えないと思いますし、
>一神教の神は必ず、「完全なる神」なのです。というよりもベクトルが逆で、「完全なるもの、絶対的なるもの」を唯一神としたわけですよね。
とも言えないと思います。
従って、
>一神教世界では、「神が完全か不完全か」という議論は成立しようがないんですね。
という事もまた、必ずしも言えないと思います。

No.18
- 回答日時:
NO12&No16です。
お礼、ありがとうございます。
NO12のお礼欄に「カントの話をもう少しして欲しかった」とありましたので、
Wikipediaの記事を紹介します。
神の存在論的証明
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE% …
アンチノミー(二律背反)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE% …
神が存在するとしても、しないとしても、どうせ矛盾しちゃう。
ならば、神について哲学することを止めちゃえ~!!
「触らぬ神に祟りなし」ということで、
カント以降、神は哲学の主題・テーマからハズされました(わらい)。
神の実在性を否定する有名な《存在論的》証明の一例として、
「神は全能である」
「全能であるのだから、神は、絶対に壊わせないものを作ることが可能である」
「しかし、全能なのだから、《絶対に壊せないもの》を壊すことが可能である」
「これは矛盾である。よって、神は全能ではない。神は存在しない」
というものがあります。
如何なる《盾》をも貫ける《矛》と、どのような《矛》をもってしても貫けない《盾》!!
まさに、《矛盾》です。
───この証明を破るのは意外に簡単です。ぜひ挑戦してください───
御回答頂き有難う御座います。
URLも御教え頂き感謝致します。(「アンチノミー(二律背反)」の方のURLが「神の存在論的証明」のものとなっておりましたが)
>カント以降、神は哲学の主題・テーマからハズされました(わらい)。
それは確かに(笑)とするしかありませんね。
良い答えが見つからないから思考放棄するのでは、「考えるまでもなく神は完璧な存在として実在する」としている立場と五十歩百歩で、ある意味哲学の敗北とすら言えるかも知れません。
>「全能であるのだから、神は、絶対に壊わせないものを作ることが可能である」
>「しかし、全能なのだから、《絶対に壊せないもの》を壊すことが可能である」
私も似た様な話を、何かのフィクション作品で読んだ事が御座います。
こちらの方は、「絶対に壊せないもの」の話ではなく、確か「神自身が持ち上げる事が出来ない石」の話だったと思いますが、趣旨は同じです。
その話では確か、「神は全能であるが故に、その石を創造した時点における自らの力を、超える力を後から創造する(或いは身に付ける)事も可能なので、自らが持ち上げる事が出来ない石を創造する事も出来れば、その石を(後になってから)持ち上げる事も出来るため、神の全能性は揺るがない」という様な話だったかと記憶しております。
只、この論理では、「神自身が持ち上げる事が出来ない石」という処を、「神自身が将来的に創造し得る如何なる力をもってしても持ち上げる事が出来ない石」に置き換えてしまうと、無効化されてしまうという欠陥があります。
それから、その話はあくまで全能性を否定するものであって、「全能性を有していない神」の存在まで否定する根拠にはならなかったと思います。
No.17
- 回答日時:
No.8です。
補足要求をいただきました。★(No.8お礼欄) ~~~~
>○ 神とは ひとり満ち足りている存在である。
とは、「全ての存在の中で、欠けている所が全くない存在は、唯一、神だけである」という意味で、上記の定義を述べられたのでしょうか?
~~~~~~~~~~~~
☆ 《神とは何か?》という問いに答えるという単純なかたちにおいてです。
★ ~~~~~~~~
もし、そうだとしますと、「唯一、神のみが完全な存在である」と言っているのと何ら変わりがない様に思えます。
又、「唯一の完全なる存在」というのが神の定義そのものであるのにも関わらず、飾りの中に「完全」が含まれているのは何故なのでしょうか?
~~~~~~~~~
☆ もしそうお考えでしたら 《ひとり満ち足りている》という表現に《完全である》という内容も含まれると捉えても構わないと考えます。つまり 《飾り》(つまり いわゆる属性)だと見ましたが 《本体》だとしても 特別の不都合はないと考えます。
《唯一》という規定は この定義では特には要らないと考えます。
《ひとり満ち足りている存在》は けっきょくこの経験世界における存在ではないと見ざるを得ないからには・つまり経験事象としての因果関係などから自由であるからには 《有る・無い》をも超えており 《ひとつ・ふたつ》と数えるという人間の思考にはなじまない。したがって 言ってみれば・強いて言えば 《全体としてひとつ》なる存在だということになります。
もちろんそこから《唯一》という飾りも人間は持つようになることも 実際のようです。
★ ~~~~~~~~
>それがただしいかどうかの問題ではなく そのように想定しているという意味です。
この部分は、「『神は完全なのか、それとも不完全なのか?』という事を一切検討する事なしに、『神は完全である』と主張している」という意味なのでしょうか?
~~~~~~~~~~
☆ 《主張》などはしていません。《神とは何か?》の問いに答えたまでです。
経験事象としての因果律を超えていると見るからには 人間がその存在を《完全なのか 不完全なのか?》と詮索することをも超えている。という意味です。
★ ~~~~~~~~~
>どの言語でも じんるいとしては 《かみ》あるいは《しんじる》という語を持っているからです。
ここで述べられている《しんじる》とは、どの様な意味での「信じる」の事を仰っておられるのでしょうか?
「神が実在している事を信じる」、「神が我々人類を愛して下さっている事を信じる」、「神が完全なる存在である事を信じる」、「神は不完全な存在ではあるものの、信頼するに足る存在である事を信じる」、等々、様々な信じ方が考えられると思いますが、どの様な意味での「信じる」なのでしょうか?
~~~~~~~~~~
☆ 《信じる》とは 《神》の具体的な名を心に受け容れるという意味です。
そのときには《実在している》とか《神は愛である》といった思考や思い入れやは ありません。言うなれば そういう属性の認識も 本体――しかしこれは ナゾです――を受け容れたそのあとに人間が勝手に(自由意志において)おこなっているものです。
ブラフマンやヤハヱーやクリストスやアッラーフやの名が無く そしてあるいはひょとして《無い神》といったふうに具体的な名が一切なく ただ《かみ》という言葉をわが心に受け容れる。というのも 信じるに入ります。
《無い神》も 《かみ》のことです。つまり 次に見るように 《かみ》は 人間には非思考なるものだから〔有ると言っても 無いと言っても同じことになるから〕です。
信じるつまり神を心に受け容れたときには そのわが心には 言わば《非思考の庭》が成る。という状態になります。
○ (ワタシなる存在における自然本性の内実) ~~~
非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)
____________________
思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)
感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
____________________
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このようにして 《信じる》と《考える》とが 分けられたかたちとなります。
分けられていますが 《信じる》において受け容れた神にかんしては すでに言葉として捉えており概念ともなっていますから こんどはこれについて《考える》においてそのさまざまな属性を認識しようとするようです 人間は。
ですが たとえば神が《創造主》であるというのは そういう物語です。人間が考えた(想像した)思考事実です。虚構です。(というより それが 虚構かそうでないかについてさえ 人間には分かりません。分かるか分からないかが分かりません)。
また この非思考の庭には ブッダター(仏性)がやどるであるとか 神の霊がやどるであったり そこにはアートマンと呼ばれる霊我がそなわっているであったりするかたちで 一般に《愛ないし慈悲》の物語も編まれているようです。
これらすべては 《信教・良心の自由 さらには表現の自由》という公理において認められています。言いかえると わが心における主観真実は 自由に持つことが出来る。と成っているようです。人間の世界にあっては。
★ 神は 完全か 不完全か?
☆ 神はその存在が――あるいは 《無い神》をも含めて 非存在が―― 言わば無根拠です。
《いや やはり完全だ。そうではないか?》というふうに人間が思考し詮索することには なじみません。言いかえると もし《不完全》であったとしても その《ひとり満ち足りている不完全さ》は 人間の考える完全性をも超えていると――定義じょう――推し測られます。
ゆえに
神のおろかさは 人間のかしこさよりもかしこい。
神のよわさは 人間のつよさよりもつよい。
などと物語られます。
御回答頂き有難う御座います。
>☆ 《神とは何か?》という問いに答えるという単純なかたちにおいてです。
「神とは ひとり満ち足りている存在である。」とは、「全ての存在の中で、欠けている所が全くない存在は、唯一、神だけである」という意味で述べられた定義なのか、という私の解釈の正誤に関する補足要求に対して、肯定されておられないという事は、bragelonne様が挙げられた定義に対する私の解釈が間違っているという御返答だと思います。
という事は、bragelonne様が挙げられた神の定義は、、「全ての存在の中で、欠けている所が全くない存在は、唯一、神だけである」という意味ではない事になりますが、
>○ 神とは ひとり満ち足りている存在である。
という文面は、
「全ての存在の中で、欠けている所が全くない存在が唯一つだけ在り、それが神である」
という解釈の他にも、
「神とは 孤独でいる事に満足している存在である」
という意味として受け取る事も出来れば、
「神とは 自分だけが理解できる価値観に基づいて、自己満足に浸っている存在である」
という意味として受け取る事も出来る、等々、幾つかの異なる解釈が可能です。
これは、bragelonne様が、意味を明確にしないまま曖昧な表現を使用しておられる、即ち、用語の定義を行っておられない事が原因です。
その結果、「神とは ひとり満ち足りている存在である。」という定義は、それ単独では定義としては成り立っておりません(定義とは言えないものとなっています)。
そのため、回答No.8に対するお礼欄において、何という意味で仰っているのかを確認しようとした次第ですが、
>☆ 《神とは何か?》という問いに答えるという単純なかたちにおいてです。
という御返事は、神の定義そのものという訳ではないと思われますので、再度、神の定義を、欠落の無い形でお教え頂けないでしょうか?
>☆ もしそうお考えでしたら 《ひとり満ち足りている》という表現に《完全である》という内容も含まれると捉えても構わないと考えます。つまり 《飾り》(つまり いわゆる属性)だと見ましたが 《本体》だとしても 特別の不都合はないと考えます。
それはどういう事なのでしょうか?
《完全である》という事が、《飾り》である場合には、「何故神が完全と言えるのか?」という話も出来る事になるのに対し、《本体》だとした場合には、「完全である事が神である条件」という事になり、「何故神が完全と言えるのか?」という話は意味のない話として思考を放棄せねばならないという事になりますから、大いに不都合があると思います。
> 《唯一》という規定は この定義では特には要らないと考えます。
> 《ひとり満ち足りている存在》は けっきょくこの経験世界における存在ではないと見ざるを得ないからには・つまり経験事象としての因果関係などから自由であるからには 《有る・無い》をも超えており 《ひとつ・ふたつ》と数えるという人間の思考にはなじまない。したがって 言ってみれば・強いて言えば 《全体としてひとつ》なる存在だということになります。
先述の様に、神の定義が未だ成立してはおりませんから、「経験世界における存在ではないと見ざるを得ない」とも、「経験事象としての因果関係などから自由である」とも、「《有る・無い》をも超えており 《ひとつ・ふたつ》と数えるという人間の思考にはなじまない」とも言える段階ではないと思います。
>☆ 《主張》などはしていません。《神とは何か?》の問いに答えたまでです。
《神とは何か?》という問いなど、少なくとも本質問において私はしておりません。
又、私以外の誰かが《神とは何か?》という問いを発した際の答えがそれであったとしましても、その問いに対する答えもまた主張の一種である事に違いはないのですから、「《主張》などはしていません。」とは言えないと思います。
>☆ 《信じる》とは 《神》の具体的な名を心に受け容れるという意味です。
bragelonne様がその様な意味で《信じる》という言葉を使われているのだとしますと、少なくとも日本語においては、その様な意味を持つ《しんじる》という語を持ってはおりませんから、
>どの言語でも じんるいとしては 《かみ》あるいは《しんじる》という語を持っているからです。
という事はないと思います。(おそらく殆どの言語においても同様ではないかと思います)
何故かと申しますと、「神など信じてはいない。あんなものはただの迷信に過ぎない」と考えている人々の中にも、「ブラフマン」や「ヤハヱー」、「クリストス」、「アッラーフ」、「天照大神」といった具体的な名称を知っていたり、概念を持っていたりする人など幾らでもいますから、日本語における「信じる」や他の言語におけるその同義語は、bragelonne様が仰るような意味を持つ言葉ではない事が判るからです。
>虚構です。(というより それが 虚構かそうでないかについてさえ 人間には分かりません。分かるか分からないかが分かりません)。
完全に矛盾しています。
「分かるか分からないかが分かりません」という事であれば、「人間には分かりません」とは言えない筈です。
この部分は、神に関して分かるか分からないかという話ではなく、「人間がどの様に認識しているのか」に関して分かるか分からないかという話なのですから、(相手は神ではなく人間自身なのですから)「人間の能力を超越している」などという事はあり得ません。
>☆ 神はその存在が――あるいは 《無い神》をも含めて 非存在が―― 言わば無根拠です。
神が実在するか否かなどという事は、本質問において私は問うてはおりません。
>《いや やはり完全だ。そうではないか?》というふうに人間が思考し詮索することには なじみません。
その様に考える方も一部にはおられる事でしょうが、その様な考え方を全く持たない方も非常に多数居られる事もまた事実です。
本質問では、その「《いや やはり完全だ。そうではないか?》という問いは、人間が思考し詮索する事に馴染むものである」と考える人々は、それぞれ、どの様な考え方をして、どのような結論に行きついているのかという事を、尋ねさせて頂いている訳です。
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