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 これはボクの一生のナゾかもしれません。

 よく「いじめられる方に原因がある!」「どんな理由があれいじめる奴が悪い!」
 
 と、対極の意見をよく聞きますが、本当はどっち悪いor正しいのでしょう?

 自分はいじめられる側に居たのでもちろんイジメはよくないよ?と思うのですが…いじめられるに原因があると考える人たちと口論になると、簡単に論破されます(汗)

 しっかりとした芯のある考えを持つためにも、これは決着をつけねばならないと思いました…!
 
 どちら側の意見でもいいので多くの人たちに聞いてみたいです。
 様々な意見、よろしくお願いします。

 PS.

 個人的なお願いなのですが、あんまり強い口調(悪口系)はしないようにしていただきたいです。
 メンタル弱めなので(笑)

A 回答 (23件中1~10件)

まず、「悪い」という言葉を絶対的なものだと捉えすぎると


判断がつかなくなるのではないでしょうか。

悪い=それを打ち消さねばならない義務を、社会から
     負わされる言動・思想。

と捉えるか、

それを打ち消さねばならない義務を、個人から要求される
言動・思想。

と捉えるかが、頻繁に混同されて使われます。

社会、というのも大きくは世界であり、少し小さくなって国家で
あり、地域社会、会社や学校、ご近所、グループ内、と「悪い」を
判断するのは誰かということも随分とレベル差と規模の違いが
あります。

ついつい、悪いことはどこに行っても悪い!と言いたくなるけれど、
それをかなりの他人が頷いてくれなければ、社会の判断ではなく
個人の欲求となってしまいます。

更に言えば、社会、というものがいつも同じ判断を下すとも
言えません。

司法が判断する。政治家が判断する。行政組織が判断する。
メディアや世論が判断する。

夫々について、皆声高に正義を叫びますが、同時に反論もまた
多い。それもまた、判断を構成する意見です。

被害者を悼む気持ちからは、加害者を擁護する側の考えは
「理」ばかりを掲げて気持ちとして受け入れがたいものがありますし、
被害者を擁護する側の考えは「情」であるとして反論者には
どうしても納得できない、という。

以前、犯罪者の人権擁護の立場をとっていた弁護士が、
犯罪に巻き込まれて被害者になった時、それまでの考えが
いかに理想論に過ぎないものであったかを悔やんで、
その考えを変えてしまったことがあります。

その弁護士さんは、長いこと加害者の虞犯少年との接見を
通じて、その家族や生い立ちなどが辛く、惨めであることが
非常に多いことに同情し、彼らの人権を守ろうと活動して
きたわけですから、ネットの情報をかいつまんで丁半博打を
やるような一般人とは異なり、より深く彼らに寄り添ってきたとも
言えます。

その彼をしても、実際に被害者になってみると「自分は何も
判ってはいなかった」と悔いた・・・その位、被害者の心に
沿えるかどうか、という問題と加害者の人権に沿うのかと
言う問題は、あやふやでデリケート・・・言ってみれば、どこから
見るのかによって正反対にもなってしまうということです。

虐められる側に原因がある、と主張する人間も虐める人間は
悪くない、と言う人間は少数です。

虐めは悪いけれど、虐められる側にも原因があると考える人は
子供のイジメなんだからそんなに糾弾する程悪くないでしょ?
それより、内向的でウジウジしてたりする卑屈さが堪らなく嫌だ、
っていうのは大人だって同じなんだから矯正されたのは自業自得
じゃない?というような考え方を大なり小なり口にします。

所が、こんどはいじめっ子擁護派の人を虐めると、ビックリすることが
多いものです。 何故?何故私が?と驚くようです。
自分は正しくて、多数派で、自分の考えは社会の主流だと多くの人が
考えたがっている、ということです。
だから自分が少数派だと指摘されることは猛烈な敵意=危機感を
感じるのです。
そして、自分が攻撃対象にされて初めて、今まで自分が絶対視してきた

「弱い人間は自分が悪い」

「内向的な性格協調性が無いから悪い」

「明るく元気で前向きなのが正しい」

という拠り所が、自分を守ってくれる守護神などではなく、自分もまた
弱くて、自分の考えに拘る内向性を持っていて、明るくもなく、元気でも
無い、という社会の評価に愕然とすることになるのです。

つまり、吊し上げられて沢山の人から責められないと中々自分が
強くも正しくもない、ちっぽけな一人の人間に過ぎない、ということを
実感できないものです。

・・・自分は何か他人とは違う素晴らしい内面を秘めた、それでいて
多くの人と同じ正しい考えと感覚を持ち、協調性のある明るくポジティブな
「正しい」人間だ、と盲目的に信じながら生きている人が非常に多い、
ということでもあります。

と同時に自分でも内心「どうも欺瞞的だな、私は良いカッコしてるな」と
ちゃんと自省出来る人と、色んなことを深く考えるのが苦手で、勢いだけで
言動に及ぶ人と、その両極に様々なパターンで分布しています。

男女関係には弱いけど喧嘩には強い人。

理屈っぽくてプライドが高いけど、面と向かっての議論には弱い人。

自分の子供がいじめっ子なので、いじめられっ子を批判する母親。

自分が虐められた経験から、いじめっ子を憎む子供達。

皆、それぞれ自分の立場 (自分の安全と快適さ) を守ろうと、それぞれの
主張をするのですが、結局どれも個人としての価値観に過ぎません。

私自身はそれで辛い想いをした経験もありますし、逆にイジメに
参加してしまった経験もあります。

不思議なもので、自分がされて嫌だったことを、つられたり、或いは
感情的になったりして他人にしてしまうことは珍しくありません。
別に自己弁護をする気はないのですが、実際、珍しくありません。

要するに、私も含めて大多数の人々は自分、という小さなのぞき穴から
社会を見て、こんな風に見える、と言ってるに過ぎません。

だから個人の見解のレベルではバラバラな価値観の違いにしか
過ぎないものが善悪という了見です。

しかし、先ほど書いたように、それは同じように感じ、考える人々と
それぞれ集まって「集団の見解」を構成して行きます。

こうなると話が変わってきます。

主義主張がシンプルに一本化されればされるほど、強い発言力を
持ち、反対の考え方を持つ個人に対しては大きな力を持つことに
なります。

政治は数だ、という言葉は、まさにこのことを言っています。

勿論、自分を守ってくれる組織、そこに属する限りは組織の見解から
ずれることは許されなくなります。 それは「裏切り」として組織の
弱体化をもたらしかねない、最も「悪いこと」とされます。

ここでも個人の善悪感と組織の善悪感に食い違いが生じます。

これが更に大きくなり、互いに争ったり反目し合うようになる、
或いは主義主張に賛同していないが、利益が得られるので
付き合ってるだけ、というような傀儡(かいらい)が現れます。

組織は大きくなるにしたがって「体重」が増えて自己崩壊を
起こしやすくなります。 放射性物質が金を超える質量を持つ
ように、です。

だから大きくなればなるほど、組織が瓦解しないように掟が
必要になり、それはやがて「法」という、言わば神格化された
「絶対正義」という考え方に変わっていきます。

そもそもが、正義、という言葉自体、このレベルの組織が
沢山出来て付随して出来たような概念です。
それまでは、各々のムラに長(おさ)がいて、彼がリーガル
ブックであったわけです。

現在でも様々な法律が立法府で審議され、改正されたり
廃止されたりしています。

つまりは全然、論理的に完全な正義など、人類は手にして
いない、ということになってしまう。 現実その通りなのですが。

法律の根幹を成す考え方の中心に「悪い」という概念が
置かれている訳ですが、「悪い」ということについて、専門家や
政治家が集まって綱引きをしながら「今日の善悪」・・・とまでは
行きませんが、その時代その時代の善悪を決めているのです。

さて、ロンリーソウルさんのご出題であるイジメの非は彼我の
どちらにあるか?ということですが、どの視点で語るかによって
絶対的なものなどありはしない、ということになります。

そして、我々個人が個人でしかない以上、全く組織に属さずに
振る舞えることは、稀です。

ただ、組織、あなたが学生さんなら学校やクラス、友達同士の
グループがあなたにとっての社会な訳ですが、その組織に
どういう形でどの程度参加していくか、という部分については
あなたの考え方や意思で自由に出来る訳です。

すると、あなたは相手方の視点も、自分が属する社会の視点も、
更にはその上位の社会から見た視点も手にできればより
冷静で客観的でいられるでしょう。

そして、どの段階でも対立する正反対の主張があります。
それぞれに「見えていないこと、理解できないこと」があり、
虐めの加害者にも被害者にもなり切れていないが故の
正義に過ぎないのです。

なれば、あなたがご自分で選ばれた立場、イジメの加害者側に
立つにせよ被害者側に立つにせよ、理屈で相手側を論破しようと
することから視線を引いてみることをお勧めします。

何故なら、そう簡単に組織の見解にまとめることなど出来ない
からです。

相手側が「理解できない部分」をどのように知らしめるか、に
腐心される方が理に叶っているでしょう。

目的を持つことが何よりも大切なことだと思います。

あなたが虐められているならあなたにとってイジメは絶対悪の
筈ですし、誰かが虐められているなら、あなたは三つの立場を
選択できます。

一つは、我関せずと対岸の火事を決め込む。

一つは、加害者に同調する。

一つは加害者に敵対し、虐められている側を助けに回る。

いずれを選ぶのも個人の自由意志です。

自分の罪悪感や自分が標的にされる危険性を考えれば
どれを選ぶにしても自分で選ぶ限りは重い決断です。
簡単に選べないことに気付くでしょう。

誰もが意思では無く、感情的な流れで習慣化しているのです。

そんな中で、何を守るか、何を主張するか、その明確な目的を持ち、
周囲の小さな社会を一本化するべく、価値観の異なる皆の視点を
まとめうる「意思」を持つこと。

それを考えるも決めるのもあなたです。
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あくまでも私の考えです。



まず、いじめる方は悪いです。
どんな理由があっても、許される行為
ではありません。
私も実際、いじめにあった事があり
完全な逆恨みから、存在無視という
態度をされた事があります。

ではいじめられる側はというと、
100%悪くない・・と、言い切れない
時もあるかなと思います。
例えば、高校の時なのですが隣の
クラスのいじめのリーダー格が
クラスメイトの反撃をくらい逆に
いじめられるようになっていました。
自分でまいた種です。

どちらの方が悪いのか、は確実に
いじめ側なのですが、いじめられる側
がいじめ側に何らかの悪意を向けて
いたり、社会的に許されない事を
していて憎まれていたりする場合も
あるので、悪い場合もあるかもしれない。
というのが考えです。

だって犯罪者が服役期間すぎて、
社会に出たときいじめられたら
「いい気味だ」と、思う人、きっと
いると思うんです。

いじめという行為は、絶対に正当化
されないですけどね。
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※非常に長くなります。



いじめっ子と言うのは故意に対象を探していますよね?
対象が何かの理由でいなくなれば、矛先を変えて別の子・・と常に誰かを虐めてませんか?
そうでない人は、いじめっ子ではありません。
虐めの無くならない理由は、いじめっ子の定義、いじめそのものの定義が曖昧だからに尽きます。

時々、人間関係を「弱肉強食」などと動物社会と同一視して表現されることがありますが、いじめというのはコレの頂点ですか・・?

人間は群で生きる動物ではありません。実は、どの動物よりも個人固有の意思や価値観を獲得するのと同時に、どの動物よりも非常に他者に共感、協調的な生き物なのです。
つまり社会性のある一匹狼です。

実際に人間は他の動物に食べられたりもしないし、高度な次元で同じ人間と互いを尊重し合い、生活を保証し合い、人間社会を営んでいます。

人間にとって、その社会性が個人の生活を守り支えるから、一人一人が目的に応じて集まり、努力して、協調しています。
一度集団的な一体感を得ると、その社会的なメリットを損なわないために集団の一体感を乱すもの(=異物)を取り除こうとする心理が働くことがあります。
集団心理です。

この作用のことを、いわゆる「いじめ」と思ってますか?

この作用が働いて、多数が個人に対し共通の嫌悪感を持った。本人のいない所で口々に不満を言い合い、より結束が強まった。もう集団へは入って欲しくないので予防線を張った。具体的には距離を置き、遊ばなくなった。用事以外話さなくなった。面倒な存在だとそれぞれが認識している。

ここまでです。ここまでは集団心理であり、いじめではありません。
この集団がまともであればここから先、その個人の身心を著しく損害する行動へは発展しません。

そんな集団心理ですが、やがてまたそれぞれ別の目的の場所へと心を移し替えて行きます。人は本来、一体(群れ)である前に「個」だからです。

ですから、集団心理では必然的に排除が行われるとしても、「いじめ」がその中で自然に発現するのではありません。
必要性が無いのだから。
虐めとは、実はそうした社会性や集団心理を装ったもので、個人的な選択によって発生している暴力に他ならないわけです。
もともと共感性に乏しい個人が集団真理を利用して、実は嫉妬などの個人的な理由で特定の人の身心に損傷を与えるのが「いじめ」だということ。
全く社会的な行動ではないのです。
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僕は中学生で、不良や何やら面倒なのがまあまあいる学校にいます。

自分はいじめに関わりたくないし、勉強するため無視をしています。なので、中立な立場でいるのですが、自分の場合、いじめはもちろん悪いことですが、ばあいによることもあると思ってしまいます。中立と言ったものの、自分をふくめみんなに嫌がらせした奴が、やり返されていると、ざまあみろと思ってしまいました。長文ですいませんでしたが、悪いことだが、みんなの怒りを買うような原因があれば変わってくるということです
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初めまして。

 「いじめ」という問題を私の息子にどう教えていくかを悩んでいるものです。 私や息子の経験なども書きますので、”自分語りがうざいなぁ”と思われる方はスルーして下さい。

 まず、「いじめ」という定義は人によって違うと思うんです。(暴力など明らかな犯罪は除きますね。)

 一度子供専門の療内科の先生と話した時に先生がおっしゃていたのは、「幼稚園児の世界」にはケンカや、遊びの延長で  の 暴力(集団で一人の子を叩く等も含む)は遊びの延長であっていじめているという意識を持つ子はほぼいないとの事で  した。
 ただ「いじめられた」と思うことは誰でも持っている感覚と言われました。 その場合は先生に言いつけることで解決し、言い つけたことで更にいじめようと考える子供はほぼいないと。→だから幼稚園でもし「いじめられた」と思ったなら先生に言いつ けるのが最善策らしいです。

 この話を聞いて思ったのが、これこそ「いじめ」の本質ではないかと。
 「いじめ」って遊びの一貫が集団意識の発達や体や心の成長によって、より残酷な遊びになりその矛先が肉体的に特徴の ある子だとか目立つ子、仲間意識のある集団に同調しない子等をからかったり、内輪で笑いものにしていったりするうちに
 エスカレートして  遊びだったものがいつしかボスの登場や優越感や、自分は強者の仲間でいたいという意識が芽生えて いくなど をたどって もはや遊びではなく「いじめ」(暴力等も含む)という行為に至るのではないでしょうか?

 完璧に私の主観です。

 大人でも3人以上集まればグループが出来るように、人間の本能的なものなのでいじめはなくなることはないような気がしま す。・集団・いじめの中心になる人・優越感、劣等感等がいじめをより陰湿で悲劇的なものに変えて言っていると感じます。

 いじめられっ子が悪い、いじめっ子が悪いという2極論で考える事のできない複雑な問題ではないでしょうか?

 ここで自分語りに入ります~ 私は女性ですが、体も大きく声も大きく早熟であった為、クラスで1番のいじめっ子でした。
 グループでいると、突然今まで仲の良かった友達が些細なことで悪口を言われ、それに同調しなければ次はその子をター  ゲットにしていくので、ほとんどのいじめられっ子に罪はなかったと思っています。皆さんもきっとそうだったと思います。
 結局誰でもいじめられないために悪いい言い方ですが「生贄」にして自分の身を守っているのだと思います。

 最終的に私もクラスの全員から半年ほど無視されました。


 ただ、残念なことにいじめられて当たり前という人もいるのは確かだと思います。(肉体的な特徴や気の弱い子ではありませ ん)

 長文かつ拙い文章で申し訳ないのですが今現在のいじめというのはいじめではなく明らかに犯罪としか思えないものが増  えてきているから質問者様はこの質問をされたのではないでしょうか?(これも主観です。)

 人間は平等ではないのでいじめはなくならないと思います。いじめられる方にも原因があるとの考えにはごくごく一部の人は を除いて全く理解ができません。 イジメる側、または大人のの都合のいい言い訳や逃げであって人の気持ちを考える心が 欠如してるのではと思ってしまいます。

 偉そうなことを書きましたが、私は息子にいじめる側になってほしくないのと同じくらい、いじめられて欲しくないという考えが 本音です。息子に「いじめられている子を助けなさい」という言葉を未だに言えません。

 全く回答になっていなくて申し訳ございません。    
 
 
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いじめる側に問題があると思います。

その人にいじめの対応をする目的や原因に正当性は感じられません。

先にちょっかいを出すのはいじめる側です。いじめを受ける側はその人なりに普通に生活しています。誰にも迷惑をかけていないはずです。
おそらくいじめる側は嫉妬心や生活のいらいら、不幸、満たされない心を鬱憤晴らしにいじめる人にぶつけるだけでしょう。
ストレス解消のように利用する気がします。そこに正義も道理も存在しないと思います。単なる個人レベルの言いがかりからの私的嫌がらせです。

学生や友人の間だけではなく社会人、夫婦、親子、先生と生徒の間などでも存在します。しかし例え注意だ、躾だと上手に言葉を変えたところで、継続してその本人が嫌がる事を言ったりし続けるのは、どうみてもその本人のためではなく本題からずれていて正当性を感じられません。私はいじめる側に問題があると思います。

例外的にいじめを受ける側に非があったのだといじめる側が主張するケースにその人が周囲に公害を撒き散らしたという言い分がありますが、問題になれば法やオーソリティが先に動きます。だからそういった問題になる事はいじめていい理由にはなりません。だとすればやはり個人レベルでのやり取りだといえます。ですからいじめる側に問題があるのだと再度思っております。
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こんばんは、早速ですがいじめはする側が悪いですね。



私が考えるいじめの発生ですが解り難かったらすいません。
これは即興劇と同じ物ではないかと考える部分がありますが、いじめられる側、いじめる側は何がきっかけで、何がスイッチで始まるか解らないです。
小さなきっかけ、ほんの何気ない一言が幕開けなのかもしれません。

私自身いじめを受け苦しんだ経験がありますが、壊すには いじめる側、いじめられる側の関係をぶち壊す強さが必要かと思います。
『他人がなんとかする、誰かがなんとかしてくれる』のは無いです。強くならなくては即興劇は壊せませんが、何をどう強くあるべきかは様々ですが一番は意志の強さ、負たくない気持ち、今のいじめられてる現状を壊したい気持ちでしょうか…
自殺する勇気は正直他人を傷つけるより勇気が要ると思います。優しい人ほど自殺をしてしまいますし、考え込んでしまいます。

私の実例で話すと、いじめを止めさせたのは喧嘩でしたが、きっかけは体が大きく鈍くて非力だからと思いこみをされてたのがきっかけでした。
中学時代に自分にとって屈辱的な何かがあったのか、プチっと何かが切れて叫び声で何かを叫びながら相手に飛びかかってました…気が着いたら教室はめちゃくちゃになってるし、クラスの男子ほとんど全員(当時は20人くらいいた)で羽交い絞めで掴みにかかって止めに入られてた感じでした。
相手は殺されるかと思ったと言ってたらしいです。
その事以来ちょっかいもいじめも、自分をからかう人がなくなりました。
即興劇を壊すには自分次第な話になってしまいましたが、不謹慎な言い方かもですが、自分で自分を殺してしまうくらいなら感情のままに怒りを出しても良いかと思います。
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私は、いじめる側が悪いとおもいます。



もしいじめられる側がおかしな行動をして、いじめる側がそれを見ていて、
いじめる側が何もしなかったら終わる話です。

それをいじめる側がそのことについて突っ掛かってきていじめになるのだと私はおもいます。

なにがあってもいじめる側がわるいです!!
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こんにちは。

回答させて頂きます。
過去イジメられていたのにも関わらず「イジメる方が悪い」という意見だけに偏らずに、しかと真実を見極めようとする心意気はとても尊敬できます。様々な意見を、とのことだったので私の意見も載せさせて頂きますね。少々回りくどいかもしれませんがお付き合いください。

法律と照らし合わせれば、もちろんいじめる側が圧倒的に悪いでしょう。
ただ、質問者様が決着をつけたいイジメの白黒は、法律とは少し方向性の違った場所にあるのかな?と感じられました。悪の反逆者から偉大な革命家になる人物がいるように、法律に反した事がのちに正義になることもあります。大仰な例えになってしまいましたが、そういった、世の中の人々が暗にこれと定めている人情的な「正しい・悪い」を知りたい。ということではないでしょうか?

他の回答者様方の仰る通り、実際的にはケースバイケースである。という意見が私の中で一番しっくり来ます。100%いじめる側が悪いケースもあれば、いじめられる側にも多少の原因があるな…と感じるケースもあるでしょう。まれに、いじめられる側が100%に近い大きな原因を持ってる場合もあります。そのイジメに伴う背景に寄って、周囲の人間が「どちらが悪いか」を決めるのでしょうね。
ケースバイケース。これはあくまで基本スタンスとして私の中にあります。

しかし、あくまでシンプルにどちらが悪いかという答えが必要ということでしたら、しなくても生きていける余計なアクションをした「いじめる側」でしょう。
人はただ生きることが生物学的な義務として在ります。自殺が悪いという意見が多いのも、前提的に「生物は当然生きて子孫を残すもの」として人間が在るからなのだと思っています。生きていく上で必要でないことの価値は、必要なことの価値より劣ります。趣味より仕事を優先する人が多いのもその為かと。その上で「いじめる人」「いじめられる人」を比較すると、不必要なことをしているのは「いじめる人」の方になる。「いじめられる人」は罵倒や暴力を受けるだけで、余計なアクションはしませんから。もし「いじめられる人」が何か余計なことをして、それが原因でいじめられるのであれば、それはイジメでなく喧嘩の延長かもしれませんね。
とはいえ、これはあくまで白黒にこだわって申し上げた極論的結論です。
前述の通り、基本スタンスはやはりケースバイケースです(笑)

長々と失礼しました。
ここまで読んで下さりありがとうございました。
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いじめというのは一種の争いと考えるべきでしょう。

何から始まったのかが重要な焦点になるんです。

いじめられる側が悪いと主張する人たちの論理とは、最初に相手がむかつくことをしたから、または見ててむかつく態度だからというものがほとんどになります。

また差別意識もありますね。汚いから(汚くみえるから)、弱いから、よそ者だから、つつけば面白いから、その他諸々です。理不尽な理由も含まれます。

本来はむかつくのは自然な感情ですから誰が誰を嫌いだと言っても構わないことです。

しかし相手を集団で取り囲み、逃げられないようにしておいて執拗に攻撃を繰り返す。際限も知らずにやって、挙句の果ては不登校やら自殺するまで追い込んでしまう。ここまでなるように仕向けることは明らかにやっているほうが悪いことになります。特に理不尽な理由の場合、理由の如何を問わず頭からすべての責任はやっている側にしか生じません。

こうなるともう単なるいじめというよりも、集団犯罪を犯していることと変わりません。最初の原因はどこへやら、それよりも攻撃し続ける方が楽しいわけです。いじめをする奴らは人が弱っていくのを見るのが楽しいんです。そんな奴らの正当性などカケラもありません。自己中なだけです。

許すことも忘れ、相手の存在をひたすら否定し、暴力はおろか、持ち物などの窃盗や破壊、金銭の無心と脅迫行為、酷い場合には相手の家の中に入り込んでまで金品を強奪する。最近は陰湿なやりかたも多いようで、バレても言い逃れをしようと必死になる。親まで出てきて庇い立てをする。成功すればエスカレートさせて繰り返す。それでも遊びだったじゃれあっていたと公言しているのは単なる究極の自己中です。自己中の言い訳など聞く必要はありません。

このような人間たちが今後まともな社会人として生きていけるとは思えません。できることなら少年少女であっても育てた親もろとも全員極刑を望みたいものです。

いじめとは犯罪です。犯罪を許すことをしてはならないと考えます。
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