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高校時代からずっと思っていることなのですが、人生における幸福の量、ある一定の幸福を得るための努力の量、「幸福である」と感じられる幸福の度合いは不平等で、しかも、生まれつき決まっているようなものですよね?
だったら、生きていく意味ってなんなのでしょうか?

発展途上国でその日暮らしをしている人たちからすれば、どんなに貧相な食事であっても、一日三食食べられれば途方もない幸せなのに、多くの日本人からすれば、一日三食貧相な食事、というのは不幸な部類だったりしますよね。

金持ちの家系に生まれてくれば、極端な話、親のお金で働かなくても食っていけますが、その一方で、どんなに働いても成り上がれずに貧乏人のまま一生を終える人はたくさんいます。

超進学校では地方の国公立大学に行く人は負け組扱いされて、本人もコンプレックスを抱えながら生きていきますが、その一方で、地方の国公立大学に行きたくても行けない人が山ほどいます。

馬鹿でも金があれば毎日自堕落に遊んでいるだけでも大学に行けますが、一方で家庭の事情などで努力をしても大学に行けない人、優秀なのに家にお金がなくて、大学に行かずに働いて家にお金を入れなければならない人も確実にいます。

容姿端麗でスポーツ万能で成績優秀な人もいれば不細工で運動音痴でアホな人もいます。
後者がとんでもない努力を積んでも、前者と同じくらいの幸せを得られる可能性は途方もなく低いです。

他人は簡単に努力すればいい、死ぬほどの努力をしない奴がごちゃごちゃぬかすな、などといいますが、自分が相当な努力をしなければ得られない幸福をほとんど何の苦労もなく手に入れていく人間がいるという事実は確かですよね。

努力すればいい、というのは努力が報われる勝者の論理に近いと思います。
世の中には努力が報われない人間は山ほどいる。
それとも、報われなかった努力は努力ではない、とでもいうのでしょうか?

「身の丈に合った幸せ」、などと言いますが、人が皆、生まれながらにして押し付けられた「身の丈に合った幸せ」のレベルに合わせて生きていかなければならないのであれば、そのレベルが低かった人間が、そのことに気づいた後も生きていく意味ってなんなのですか?
ある意味人生自体が一種の敗戦処理みたいなものになるわけですよね?
生まれながらに押し付けられた、華やかな人生を送る人たちに比べれば遥かにちんけな「身の丈に合った幸せ」を必死にありがたがって生きていく人生なんて、惨めなものでしかないと思うのですが。

うまくまとめられないのですが、どなたか意見をお聞かせください。
よろしくお願いします。

A 回答 (15件中1~10件)

世の中は,もともと不公平で不平等で不条理なんですよ。


人間も含め,全てのものはこの世に生まれた時から,それぞれ幸せの量というものがあって決まっています。(運みたいなものです)
努力は無駄ですが,きっかけにはなります。
ではなぜ人は努力し生きるのか…
それは、死ぬまで自分の幸せの量(運)が分からない人が大半だからです。
それと死ぬのが怖い(怖くないという人もいますが…)からです。
惨めと思えば惨めですね。
でもそれが現実です。
無駄な努力はせず,それなりに気楽に生きてる人達も大勢います(貧乏ですが)。
貴方様の場合は,自分のスタンスを早めに決めて,今後の人生,生きていけばいいと思いますよ。
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No13の者です。

文章下部、「私は間違いなく前者を選ぶ」ではなく、「後者を選ぶ」でした。申し訳ないです。
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生きている意味はないですよ。

あなたはそれを欲しているようですが、人生は無意味です。

まぁ繁殖するという目的を遺伝子が個体(我々動物)に果たさせようと働きかけてきますが、繁殖したところでどうなの?っていうところで無意味です。哲学者はみんな人生なんか無意味なのは知っています。

おおよそ、一般人が意味があるといっているものは、「思い込み」です。

自分は恋人の為に、家族の為に生きるとか会社のためとか国のためとか、自分の為とか。みんな思い込みなんです。だからコロコロ変わります。

家族の為に生きるなんていっていても家庭が離散したら、そこで意味が失われたりしますし、新しい意味をまた探し求めていくだけです。

思い込みってのは、思い込みに過ぎません。幻想です。なので意味なんてないんですね。

だからあなたのいう勝ち組的な幸福な人々もまた「勝手に人生を意味付けして、意味があると思い込んでいるだけ」なのです。

無意味感を知っている人間からみれば、「有意味」に縛られている人々という印象です。意味ないと困るっていう。だから自分の人生を意味をなくすと、脆いです。また新たな意味を見つけないといけないみたいな強迫観念があるのでしょう。

さて、この世界は実に不平等で理不尽な世界なのは周知の事実です。
自分で「生まれたい」という意思表示もできずに、「勝手に」「親の都合で」「無理やり」この世界に誕生させられ、生まれた以上は生きていかねばならぬという「苦行」を押し付けられます。
もちろん、親も社会といった環境、容姿や性格といったものも選べません。「人は自由である。」なんて云う言葉がありますが、片腹痛いですね。出生の時点で遥かに不自由で、選択権など何もないのに。

そして、そんな不平等な環境に生まれたのにも関わらず、あくまで公平に、フェアに戦わないといけない。それが免除され、ハンディが与えられるのは、障害者認定された者だけ。

まぁ残酷なのは自然の摂理にかなっています。


「聞かないほうがおん身ににとって一番ためになることをなぜおん身はむりに私にいわせようとするのか。もっとも善きことはおん身にとってまったく手が届かぬ。それは生まれなかったこと、存在しなかったこと、なにものでもないことなのだ。しかし、おん身にとって次善のことは、すぐ死ぬことだ」(悲劇の誕生)

まぁ生まれてきたのが間違いだったということです。
私は反出生論者ですので、この世界に生まれて得る苦痛と快楽、この世界に生まれずに避けられる苦痛と快楽であれば、私は間違いなく前者を選ぶでしょうし、人間という矛盾に満ちた存在に苦悩する人々の多くが同じ選択を―――どちらかと問われれば―――するでしょう。

まぁ恨むなら、産んだ親を恨んでください。親だってこの世界が理不尽、不条理に満ち溢れていることは知っているはずです。お釈迦さんだって一切皆苦であるといっていますし、それを無視して、理性のたがが外れて繁殖欲に溺れてしまったというのもまた、人間の不条理さでしょう。
だから、生まれてくる子もまた不条理な子どもなのです。だから不平等なのです。

私はもうこれ以上人々が、人間的な苦悩、つまり前頭葉の発達によって他の生物がもたない苦悩によって悲嘆し、その果てには自殺をしてしまう、そんな憐れな姿を見たくありません。
確かに、そのような苦悩を知らずに、幸福な人生を送る人もいるでしょうが、一定数で不幸な人々は生まれてきます。

原発だと僅かな確立でも危険だと判断されれば建設反対したり、廃炉にしろとかいうのに、人間の場合は不幸になる人間が一定数の確立で生まれるのに、出生には反対しないんですよね。それは、その不幸な憂き目に遭うのは、生まれてくる子どもであり、親や大人たちは社会の「労働力」として、「歯車」として産めよ増やせよ、という自分たちに都合のいいことばかりです。そこに、無理やり出生させられ、なりたくもないのに「社会の一員」に強制的に入会させられる「子の主観」は一切入っていないのです。

それで、他人の気持ちになって思いやりを持てだの言っても説得力がないです。

スウェーデンの俚諺に「出生を避けられなければ、死もまた避けられない」という言葉がありますが、まさにその通りで、生まれた以上はいつか必ず死ななければなりません。

食事に少しずつ毒を入れて殺す方法がありますが、そんなのをとらなくてもいつか体細胞が老いて死んでいきます。

つまり出生とは「間接的な殺人」です。我々は望んでも無いのに「死」という生存本能から見れば忌避すべきものを強制的に親から与えられているのです。

まぁ逆に「死」がなければやっていけませんけどね。こんな不条理な世界からオサラバできる、「死」という手段が与えられたことに感謝すべきでしょうか。でも、そもそも生まれなかったら、こんなことを意識したりせずに済んだので、やはり生まれなかったほうが良かったというのは、事実でしょう。
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こんばんは。




(中略)
>「馬鹿でも金があれば毎日自堕落に遊んでいるだけでも大学に行けますが、一方で家庭の事情などで努力をしても大学に行けない人、優秀なのに家にお金がなくて、大学に行かずに働いて家にお金を入れなければならない人も確実にいます。

容姿端麗でスポーツ万能で成績優秀な人もいれば不細工で運動音痴でアホな人もいます。
後者がとんでもない努力を積んでも、前者と同じくらいの幸せを得られる可能性は途方もなく低いです。

他人は簡単に努力すればいい、死ぬほどの努力をしない奴がごちゃごちゃぬかすな、などといいますが、自分が相当な努力をしなければ得られない幸福をほとんど何の苦労もなく手に入れていく人間がいるという事実は確かですよね」

これくらいで、アナタの現状認識のホドが知れます。


>「世の中には努力が報われない人間は山ほどいる。」

これが、それでしょうね。


>「他人は簡単に努力すればいい、死ぬほどの努力をしない奴がごちゃごちゃぬかすな、などといいますが、自分が相当な努力をしなければ得られない幸福をほとんど何の苦労もなく手に入れていく人間がいるという事実は確かですよね」

コレに至っては、なにをかいわんや。ナニが、「事実は確か」なのか。
・・・それは「確か」なんですね、アナタにとっては。


>「うまくまとめられないのですが、どなたか意見をお聞かせください。」

そうやって「現状認識」して、じゃあ、どうすればいいっていうのか。
(逆に)お聞かせください。
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誰でも一度は、不公平や不平等さに憤りを感じることはありますよね。



人から与えてもらってるものに平等とか公平は、ある意味存在しないように思います。
私自身も、今ちょっと金に困っているからと言われて例えば10万ほどをポンと貸せる相手は
親兄弟などであり身近な人だけです。

誰にでも公平に平等に無利息で即座に貸すことはありません。
相手と私の関係性であり、そこに誰にも平等にやれないことは必ず出てきます。
すべての事象において、平等にやっていくことは人間はできないのでしょう。


自分以外の人に与えてもらうというのは、相手が誰であれすべて平等で公平にとはならない。

そこで生きていて何が大切かは、自分が得るために何ができるかを
自分自身が自助努力によって掴むことができる可能性を行使すること。

身の丈は、誰しも自分が自分の中で決めています。
報われる努力というのは、報われる形で努力した人。
自分本位の努力は、大抵は報われません。

与えてもらうことに不満を持つのは、恵まれた者の幼い心理からきます。
適切な努力を試行錯誤しながら、つまずきながらでもやっていくことが
何かを得るということだと思います。

私が特定の誰かを満足させるためだけに人生をささげて生きていないように
誰も私の満足を叶えるために生きている人など居ません。

年齢が上がった今だから分かるのかもしれませんが、与えてもらうのではなく
自分から手にしていくことが大切だと思います。

人に与えてもらえるものは、本当に微々たる物。
自らが手にできるものは、無限の可能性がある。

努力が実るかではなく、努力しないと実るものは何も無い。
あるものは、ただそれだけだと思います。
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>しかも、生まれつき決まっているようなものですよね?



いいえ。
幸福とは人間の外部に存在するのではなく、内部で「感じる」ものです。
したがって、幸福を感じる方法を習得すれば、後天的に幸福になることができます。


>だったら、生きていく意味ってなんなのでしょうか?

生きていく意味などありません。
たまたま得た有限の命・人生(=Life)を楽しむか、楽しまずに無駄遣いするか、それだけのことです。
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極論をいえば、幸福を感じるのに必要なのは、心だけです。


何の理由もなく幸福でいられる人こそが、最強です。

幸福を感じる能力は、環境だけの問題ではなく、
個人においても平等ではありません。

恵まれた先進国に住んでいて、
不満ばかり、不幸ばかり感じる人もいれば、
あれもこれも感謝して生きている人もいます。

不幸になる人は、他人と比べてばかりです。
劣等感の裏返しで、優越感に救いを求める人もまた、本当は不幸な人間です。
本人がまだ気づいていないだけです。いつかは優越感にも空しさを感じる時が来ます。

何かを手に入れてしばらくの間は、高揚感を感じることもあるでしょう。
幸せとは似て非なるもので、一種の興奮状態です。
すぐに当たり前になってしまい、もっと求めて中毒になる人もあります。
つねに右肩あがりに恵まれなければ我慢できない人なんかはその典型です。


幸せを感じる能力は、磨けば向上します。
ギザギザの心が、少しずつ丸くなっていきます。
この点において、努力は報われます。


この世を生きていくのは、
快楽を得るためではなく、感謝の気持ちを磨くためではないでしょうか。
先に書いた、最強の人に近づくために。

それを受け入れる前は最悪にみえても、
従容として受け入れた後は、いがいに悪くないです。


快楽ばかりで生きて来た人ほど、死ぬときの往生際が悪いそうです。
この世の快楽ばかりで生きて来た人にとって、死は敗北でしかありません。
こういう人は、イージーモードの修行をしてる、ビギナーなんでしょう。
前世は灰皿かなんかだったのよ、なんて言う方もあります(笑)
また何度もこの世に生まれ変わり、今度は前の人生よりも少し難しい修行にはいるのだと思います。


終わりよければ全てよし、
死ぬときに、後悔すくなく、この人生に感謝して、
安らかに死ねる心の持ち主でありたいものです。

死ぬ時は、この世で手に入れたもの、なにも持って行けません。
玉のように磨かれた心をもって死ぬこと、
それが人生の成功だと私は思っています。
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人は、生きてさえいれば、何が幸せかはフレキシブルである。


ムチ打たれる事に快感を見出す人もいれば、死ぬほどつらい
冬山にお金と休暇を費やして登りに行く人もいる。
その上で、「最も精神的充足感が(人生を通算して)大きくなる
目的を意志化する」事が、抜本的改善となる。

生きる事を意志すれば、生きる事自体で最大に充足でき、
充足量の最大化につながる。
それは「社会生命としての自覚化=助け合いとしての自律的
社会行動=愛による社会」である。

個人の意識が肉体的自己中心主義ではなく、他我化する時、
個人の成果は全ての人のためであり、その成果は全ての人
の喜びとなる。
逆に全ての人の協調の結果である最大限の社会的成果は、
全ての人に共有され、個々人の最大限の喜びにつながる。
そうした博愛は、肉体的限界(死、有限な能力)を越え、
永遠の未来、果てしない宇宙の果てであっても、他への
信頼の限りにおいて、予め充足され得る。
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人生を勝ち負けで論じること自体が、妥当なのか、という疑問はあります。

私は、もっと奥深いものなのではないかと思うのです、人生ですから。逆説ですが、人生に、勝ち負けではないものを求めているとも言えるかもしれません。
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結果が出なければ意味がないという気持ちはわかりますよ



###########

人は人生に対して何かしらの結果を求めています。
幸せになりたい、お金持ちになりたい、野球の選手になりたい、会社を興したい、等々

逆に人生は人に何を求めているのだろうと考えると、
結果よりプロセスを求めているのではないかと思えるのです。
目の前の事象に対し、何を感じ、何を考え、何を選択するのかその経験値を求めているのではないでしょうか。
人生にとっての価値とはどれだけ経験値を上げられるかという一点ではないでしょうか。
つまり、学びです。

生きる意味が分からないという人がたまにいます。
結果が得られなければ意味が無いというのも分かりますが、もう一つの大きな視点(人生から見た視点)を意識するべきではないでしょうか。
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