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邪馬台国の話がもちあがりました

だれも答えられませんでした

詳しい方 又自説をお持ちの方 

教えて下さい 

A 回答 (4件)

まぁ~ふうてんの寅さんなら「国の始まりは淡路島・・・」で済みますが、大学の先生はそうはいきません。


色々調べたら、中国の古い時代(25年~220年)の歴史書で後漢書と呼ばれる書物に邪馬台国という国が朝鮮半島の向こう側にあると書かれていました。
これは、日本のことに違いない!と、ここまではよかったのですが、日本の何処だということになって、未だに議論が続いています。
これが、邪馬台国論争です。
歴史愛好家の絶好の話題になっています。

現在大学の先生の間では、邪馬台国はどこだ、などということは議論されていません。
一般の人達向けの講演会などでは、話題性が高いので前座話としては良く話されます。
昔は今の一般の人達と同じように、邪馬台国はどこだとやっていました。
現在の大学の先生達は、確かにそのころ日本に沢山の集落があったけれども、後漢書なるものに書いてあることはホンマかいなと疑っています。
それ以外に書かれたものが見当たらないのですから、先生達も困ります。
どうやったら証明できるか、と色々やられています。

自説というのは、後漢書には真実が書いあるという大前提に基づいて、それをどう読むかということと、読み取り方の違いで喧々諤々やっています。
一方で郷土振興、お国自慢の為に奈良県と福岡県の人達が中心になって、オラがくににあったのだとやっています。
中には徳島県だ!といって頑張っておられる方もいます。

よほどマニアでもないかぎり「だれも答えられなくて」当然でしょう。
今時SLの違いがどうのとマニアに言われても困ります。同じようなものです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

解決しました

お礼日時:2013/12/08 18:41

ヤマタイコクが日本の主要な国の事なのか、一地方国家でしかないのか。

それすらも判っていません。
それに伴って、なぜ重視しなければならないのか、重視すべきなのかせざるべきなのかもわかっていません。
更に言えば男子は刺青をしていましたが、この記述が大陸型と日本型の両方になっているんです。なのでヤマタイコクそのものが正しい記述なのかという疑問さえ出ているのです。

例えていうなら、ヤマタイコク論争はテ・チャングムが史実かどうかを真顔で論争しているようなものです。
テ・チャングムは一行にも満たない文から書かれた壮大なドラマですが、ヤマタイコクも重要かどうかすら判らない文章から想像しているに過ぎないドラマなんですから。

私は九州の一地方国家でしかないと思っています。
少なくとも当時はすでに盛んに交流があったのですから、方位を間違えるなんて愚考でしかないです。
また卑弥呼の初期の頃かわかりませんが、一時的には倭も今の朝鮮も魏に服属していたのですから、ヤマタイコクを大和だと主張する人は、一時的にも日本国は魏の支配を受けていたとしているわけです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2013/12/06 16:57

邪馬台国とは「ヤマト」国のことです。



昔の日本では、山ごとに国(村落)がありました。
ですので山=国、そして数字は一~十までだったので、全部を洗わず十(と)で、全ての国=山十⇒ヤマトと読んでいました。
※あくまでも漢字は無視して下さい。

はじめにヤマトだと中国人に伝えたら、邪馬壹(中国語でィヤマォツゥ)国と付けられました。
次の時代には邪馬台(ィヤマォツァイ)国になりました。
どうも日本語を口語的に漢字に直すのは難しいようです。
後漢の時代には、面倒なので、倭という漢字を作成されました。
漢字は象形文字なので、そのままで意味を表します。
日本人は、その特徴として、お辞儀をする民族です。
ですので、お辞儀⇒人に委ねる民族=倭という字があてられました。
読みは「ワァ」です。
縄文時代からヤマトは海洋国家だったので、海に現れる海賊は、全て倭寇とされました。
朝鮮つながりで陸路で行ける国家だと分かれば、倭寇などとは言われていません。
その後、朝鮮半島で秦の民族の台頭が始まります。
そして、前の古い国名「韓」を国名に辰(=東の)韓国を建国します。
これで、日本は朝鮮での自治権を失います。
これが飛鳥時代まで続きます。
飛鳥時代に、日本は独立を宣言します。
聖徳太子の「和を持って尊しと成す」の言葉の通り、わざわざ日ノ本と改名したのにも拘らず、倭⇒和と対外的に表しました。
ですので菊の御紋や旗印が輪(○)の日の丸になったという訳です。

邪馬台国の女王は卑弥呼(ヒミコ)とされていますが、隣接国の狗奴国の王は卑弥弓呼(ヒミココ)とされているので、これは人の名前ではなく、首相的な意味合いの呼び名であったと推察します。
現に江戸時代まで女性の名を明かすのは禁忌とされていました。
これは中国でも同様です。
卑弥呼は鬼道という陰陽術を用いる巫女でした。
縄文時代後期(BC5000)頃に、九州で大規模な噴火が起り、多くの関東地方までの縄文人が非難を余儀なくされました。
これは噴煙による冷温現象の為に、日本を氷河期が襲ったような状態にしてしまいます。
少量不足から縄文人は船で、南太平洋経由で、果てはアルゼンチンまで辿りつき定住しますが、中国へ渡ったものが、そこで殷という国家を作ります。
殷は沖縄の宝貝をお金とした国家で、秦が銭を考案するまで続きます。
商売とは、この殷の人々が行った商取引のことで、殷は別名「商」と良い、その人々が商人と呼ばれました。
ですから、商取引の漢字に「貝」の字が使われます。
ちなみに殷とは、死んだ妊婦の子供を、腹を割って取り出してから葬る風習のある人という意味の漢字で、鯨顔・・・つまりは顔に刺青をしている民族という伝承があり、これは縄文人の特徴でもあります。
日本では後に、土偶を割るという風習に移り変わりました。
刺青の無い夏の漢人(今の中国人とされている民族)に国を追われた商人は、日本へと舞い戻ります。
※詳しくは蓬莱島を参照して下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%AC%E8%8E%B1
緑豊かな祖国を懐かしんだのでしょう。
そうして陰陽術を伝えます。
弥生時代には、九州も人の住める土地に戻っていました。
北部九州を中心に、中国の遼東半島以東から琉球までの東夷を倭と称した連合国家が統治していました。

同じ殷の血筋の公孫氏が遼東半島を含む北部朝鮮までを直轄地としており、中国の境界線はここまでとされていました。(中国名=楽浪郡)
倭は、公孫氏から女性親族などを娶っていて、ニニギの妻は朝鮮人とされています。
朝鮮人と祖が違う証明として、朝鮮人は、元は秦の民で、始皇帝滅亡と供に朝鮮へと流浪を重ねた大規模な避難民ということ。
元はチベット辺りに祖を持つ民族で、鳥の卵が祖先とする「金」氏族ということです。
日本では、祖はイザナギとイザナミという夫婦ということになっているので、人として健全かと思われます。
そこから何千年と曲がりなりにも同一血族で現在まで続く、世界で唯一の国です。

こんなとこでいいですか?
ざっくりと日本の古代時代から飛鳥時代までの流れです。

現在では、大きい(=偉大な)和の国として、ヤマト=大和とされています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

初めて知りました

歴史の事 頭いいですね

難しくてあんまりわかりません

初めの4行は分かりました

奈良県にあった幻の村ではないのですね

有名大学卒ですか

詳しすぎてよくわかりませんがレベルが高すぎです

困りましたけど大変感謝してます

お礼日時:2013/12/05 00:18

これは歴史カテのほうが的確な回答を得られると思いますが?



魏志倭人伝に従うなら九州・四国説
邪馬台国がそのご大和朝廷に繋がったなら近畿説

しかし箸墓古墳が卑弥呼の墓なら近畿で決まりでしょうか
九州の国の女王の墓をわざわざ近畿に作らないでしょうし
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この回答へのお礼

ありがとうございます

歴史に弱い人ばかりなので

お答えの内容が分かりません

すいません

奈良県にあった村の事だと

知人は言っています

お礼日時:2013/12/05 00:10

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