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また小学校あたりでは、次の日また会うという前提でも放課後先生に「さようなら」というのは何か原因があるのでしょうか。中学校に入ってから、だんだん言わなくなるのでしょうか。

補足:海外日本語教育現場で頑張っている一新米日本語教師です。日本文化が大好きですが、上記の疑問に困っております。
ここの日本人の皆さんの知恵をお借りして、日本文化を正しく理解いたしたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。私の質問に対する皆様のご回答は、私の日本語授業の教材として活用させていただきたいと思いますので、よろしければ「ですます体」のご説明をお願いいたします。
勝手なお願いですが、上記の私の質問文におかしい日本語の使い方がありましたら、ご訂正をいただけないでしょうか。

A 回答 (2件)

こんにちは。



私見として述べさせて頂きます。

「さようなら」の語源はさようならば(それなら、それではの意味)お別れしましょう或は又会いましょうなどの前半だけを挨拶の言葉として残したものです。

日本人は他の国の人と異なり、絶対の存在である「神」に対して「自我」がある訳では無く、擬似集団たる血縁(此れは幻想です)
集団を持ってお互いがもたれ合っている民族で、世界でも稀有だろうと考えます。

一つの例が「相手の立場に立って考える」

これ他民族ではありえない発想ですね。利害が全く無い状態の言葉かも知れません。

普通は「私は(自分たちは)こうだ、ああだ、こうして欲しい、こうすべきだ」のみでしょう。

一言で言うと自身が独立せず、お互いがもたれあって構成されている民族です。

それに反し、例えば英語のGOOD BYEは別れに際して相手に神のご加護をと云うのが語源ですね。

他民族と頻繁に接触する民族は自分と神を対比させて自我を独立させますから、「さようなら」を「GOOD BYE」だと約しても元の持っている意味は異なります。

神に誓ってとは日本以外の一神教世界での言葉ですが、日本には一神教たる神がいないので誓う場合には「天」や「天地神明」など架空の事を持ち出します。

私に言わせると擬似集団の中に身を置いてお互いがもたれあって居るのが日本人だろうと思います。家族も、会社も全てそうです・・・我が社などと云う概念は日本人のみ・・。

最小の家族と云う擬似環の中に居る日本人の幼時は親や周りの大人から「別れる時は”さようなら”と云うのは人間としての常識ですよ」等と教えられますね。

「ああしなさい、こうしなさい」と教えられる日本人に対して他の国では絶対神たる「神」がいますから「こう云う事はいけません、此れをしてはいけません」と云う風に絶対存在の神の下での人間と云う教えになり日本人とは逆の教え方になります。

こう云うことを頭の中に止めて頂いてから、

「左様なら」に関して持たれた疑問には、自我の成立がまだまだな幼稚園児や小学生なら毎日行く学校や幼稚園で世話になる先生方、或は友達に先を争って親や大人からこう云う風に云うのですよと教えられた通り「さようなら」を連発するのが常でしょう。(多分左様ならと云った事で本人は満足感を得ている)

でもね、小学校高学年や中学生くらいになると、単純に自我が目覚めてきますから一番先に考える事は大声で先生方などに「さようなら」と云うのは気恥ずかしいと他人(同級生達)の目を意識し始めるからが最大の理由だと思います。

云いなさいと教えられていても「みんなの手前言うのは気恥ずかしいい」と考えたり、群れを成す日本人の常として仲間内だけで通じる隠語的な言葉にすり替え使い出すなどが一因では無いのでしょうか。

他人の手前「馬鹿にされる」「幼稚だ」「格好付け過ぎ」「小学生じゃあるまいし」などと云う仲間の揶揄が根底にある中で自我の目覚めで「気恥ずかしい」意識が出て、他人の目を意識しすぎと云うのが最大の理由かもしれません。

他の国なら自分は自分であり、友達といえども他人は他人ですから自分の言葉や行動に他の人の目や意識を気にする事はありえないはずです。如何しても集団の中の一員と云う意識があるようです。

他方、小学校までは先生は絶対の存在。

中学校になると先生が小学生時に感じていた先生とは「う~~ん、一寸違うなぁ」など、先生の人間としての側面が見えて来たりするから「餓鬼じゃあるまいし左様ならなど云うのはあほらしい、まあええか」などと思うのもあるのではありませんか。

お望みの答えになっていなくてすみません。

お書きになっている日本語は綺麗ですが、少し堅苦しく感じます。

こういった場所ではもう少し平易な言葉をお使いになったほうが自然かと思います。

失礼しました。

参考:もしできれば、山本七平氏の「日本人と日本病について」と云う1996年発行の本を一度お読みになれば私がここで書いた事以上の事をご理解頂けるかといます。
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この回答へのお礼

いろいろご丁寧なご説明やご訂正どうもありがとうございました。。ご説明の中には少しわからないことがありますが、説得力ある説明ですね。ご熱心なご回答あらためて感謝いたします。

お礼日時:2013/12/10 18:08

日本文化を大切に思っていただきありがとうございます。



授業の終わりに「さようなら」というのは、社会生活で大切な挨拶を学校で指導しているからで
その挨拶の一つに学校では「さようなら」を用いているだけです。
朝は「おはようございます」で一日が始まって、一日の終わりの挨拶として「さようなら」と言います。
この学校で言う「さようなら」には「ありがとうございました」の気持ちも含まれています。

子供が成長するにつれて「さようなら」を使わなくなるのは、
日常生活で、頻繁に使う挨拶にふさわしくないことを段々に学習していくからです。
歌でも「さようなら」あるいは「さよなら」が題名や歌詞に含まれるものは、
悲しい別れ、つらい別れ、永遠の別れ、せつない別れなどがテーマになっています。

ご質問文の中で気がついたことは
・一新米日本語教師:新米日本語教師(一は付けなくていいと思います。一を付ける例としては
 「私は駆け出しの一新米日本語教師に過ぎません」のように使います)
・理解いたしたいと思っております:理解したいと思っております
・「ですます体」のご説明を:「ですます体」でのご説明を
 (体でも間違いではありませんが「ですます調」という言い方の方が多いです)

日本文化を大好きと言っていただき、私たちは大変嬉しく思います。
どうぞ、これからもご活躍されますことを願っています。
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この回答へのお礼

ご説明やご訂正どうもありがとうございました。日本風土や文化が私に相応しいですし、日本人に成れたらと思っています。

お礼日時:2013/12/10 18:12

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