チョコミントアイス

 1. ヒンドゥイズムは 多くの神々から成っている。けれども それらの神々をまとめて 全体としてのヒンドゥイズムは ひとつの宗教であり それとしての自他の区別をはっきりとさせているからには 多神なる全体が ひとつの神として機能している。ゆえに 一神教である。

 2. 八百万の神々をいだくシントウイズムは 同じく 一神教である。多神は 全体としてひとつなる神の分身だと捉えればよい。

 3. もしくは そのような神話を基礎として 社会のあり方が 言ってみれば

  《アマテラス公民主導‐スサノヲ市民従属》なる逆立した連関制

 としての二階建て構造を成しており このひとつの国家という単位社会が 多神教を基礎とした全体としての一神教を形成している。
 そのただひとつの神とは では 何か? たぶんこの社会形態としてのいわゆる国体であるのだろうか?

 4. 汎神論も その観念体系をオシエとしてひとつの宗教を構成しているなら それとして一神教である。ただし その汎神論というオシエが ほかの宗教とのあいだで自他の区別をせずに 世界中のいろんな名前の神を分け隔てなく受け容れるなら 個人としての普遍的な信仰を成すと言ってよい。のではないか?

 5. 国家という社会形態を 人びとの生活共同としての単位体であると見なし得て しかもそこに或る種の宗教をおおむね排他的に共有しているとやはり見なし得るならば そこに醸し出されるナショナリズムなる思潮は オシエたり得て けっきょく一神教を成す。一党独裁なる体制が それである。

 6. 一党独裁制ではない場合 たとえば韓国の国家としてのナショナリズムは 果たして 宗教でないであろうか?

 7. 唯一神形態としての一神教は 必ずしも国家として 一神教としての自他の区別や差別をしないが 組織宗教として個人から信教・良心の自由を 政治的に奪うおそれがあり 集団的な行動においては 他の宗教に対してまさに排他的になる。


 ☆ 疑問形でないところについても その成否・当否を問います。ご教授ください。

A 回答 (10件)

2. 八百万の神々をいだくシントウイズムは 同じく 一神教である。


 多神は 全体としてひとつなる神の分身だと捉えればよい。
     ↑
ここの部分、疑問です。

例えば、日本では戦争などをやると敵の魂まで
祀るようなことをしました。
これは、日本が多神教で、敵にも神様がいて
その神様に祟られるのを恐れたからです。
つまり、神々は互いに独立対等であり、
全体の一部では無い、という
ことです。

これが道教だと少し違ってきます。
道教では5億5555万5555の神々が
官僚のような序列を保って存在します。
だから、道教では多神教だが一つだ、という
ことも可能かもしれません。

しかし、神道には当てはまらないと思いますが
どうでしょう。
つまり、全体として一つの神だ、というのは
無理があるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 へきゆさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 シントウイズムのばあいには
 ★ 全体として一つの神だ、というのは / 無理があるのではないでしょうか。
 ☆ その理由は あまり取り上げられないけれども重要なひとつの特徴にあるとおっしゃっているのだと思います。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 例えば、日本では戦争などをやると敵の魂まで
 祀るようなことをしました。
 これは、日本が多神教で、敵にも神様がいて
 その神様に祟られるのを恐れたからです。
 つまり、神々は互いに独立対等であり、
 全体の一部では無い、という
 ことです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この点は 考慮に入れ損ねていましたので 虚を突かれましたが ただしどうもこの特徴は やや込み入っているようにも感じます。

 考えてみるとすれば まづふたつの解釈例ができるのではないかと見ました。ただしけれども その結果は ふたつの場合にあまり違いが出て来ないというふうにもなりました。つまり:

 (あ) 敵のいだく神(神々)も 自分たちの神(神々)と けっきょくは――名が違い そのオシエがあればそのオシエも違いするであろうけれど―― かみとしての存在は広く大きく同じひとつの中身であると受け留めている場合。

  ・ この場合でも 信仰は一人ひとり言わば独立していますから――二人や三人で意志と心を合わせて信じると言ったところで その信じることは 一人ひとり別であるしかないのですから―― 敵のいだく神の場合にも その互いの自由独立性としての《独立対等》は 保たれます。

 (い) やや違った解釈として けっきょく神道の場合の多神は 汎神論であるという場合です。

  ・ 趣旨説明欄の(4)に書き込みましたが 汎神論は ほとんど集団としての宗教ではなく そうではなく個人にとってのふつうの自由な信仰のひとつの形態であろうと見られるのではないか。

  ・ だとすると 自分たちの神々と敵の神々とのあいだに 違いはない。取り上げるべき違いは・そしてまた互いの主観に差し障るような違いさえもが ないと見られます。


 ☆ ということは 何で戦争したのか? となりますが それは ただただ指導者たちの勘違いによるのでしょうか。あるいは 浮き世の因果なり渡世の義理なりが 国際関係にもおよんだのでしょうか。


 けれども もし戦争をしでかすしかるべき理由も大義もあったとするなら それなりに自分たちの宗教は 自他の区別のある・そして区別すべきものとしての独自性があったと思われていたのでしょうね。――つまり 戦争が終わった後で敵の霊をもなぐさめたり祀ったりするにしても・すなわちそういう神々の通底性があるとしても どこかで自己閉鎖性に落ち入り排他性をもおびてしまっていた。のでしょうね。

 それに もしおっしゃるように
 ★ 敵にも神様がいて / その神様に祟られるのを恐れたからです
 ☆ と言うのならば 敵の神は わが神とは違うと思っていたかも知れないし(――それは ないとやはり成るならば――) あるいはつまり《敵の神様に祟られるのを怖れた》と言うのならば その神様もどの神様も 国を超えて《全体としてひとつの神》のもとにあると捉えられていると まづ考えられます。

 それは どういうことを意味するか?

 おそらくタタリのある神としては 自分たちのと言わば同じ仲間であると捉えていたのでしょう。そのかぎりで 国の内外を問わず《全体としてひとつの神のもとに もろもろの神々はある》というかたちなのでしょう。

 ところが そうしますと この言わば宗教としての意志とそして国の政治(国際政治)としての意志とは違っていたということなのでしょうか?

 国家の意志とは別扱いにして シントウイズムは ご指摘のことを逆手に取ることになりますが むしろ世界にあまねく《全体としてひとつの神》を立てている。ということになりましょうか どうでしょうか。

 ここで国家の政治――共同自治――としての意志は 明らかに人びとのいだく神(神々)の御稜威をも超えて 敵対関係に入ることをもよしとして 戦争すなわちひとの殺し合いによって紛争の結着を図る。こういうことだったのでしょうか。

 国家論は ここでは もう保留とします。(ご議論がありましたら それにわたしも質問者として応じてまいりますが)。

 それで シントウイズムについては けっきょくどうなったでしょうか。

 単純な・無難なひとつの結論は やはり言われているように 民衆次元のシントウと国家次元のシントウイズムとは 分けて捉えなければならない。になるのでしょうか。いかがお考えになりましょうか。

お礼日時:2013/12/15 10:12

こんばんは。




>「宗教は オシエを守るべき規範とし すでに個人の信仰であることを脱ぎ捨ててしまっています。オシエは 信じるものではなく 考えるものゆえです。」

温故知新?


>「また 組織としてまたは集団として行動するとき すでに《信教の自由》とは何ら関係ないところで 思惟を展開し行動しようとしています。

 行動の排他性およびそれが あろうことか《信じる》の問題に関連させて――つまりあやまって オシエを何が何でもただしいと思い込んで――その思い込みの上に成り立っているというマチガイ この問題です。

 よ。」


は。
「つまりあやまって オシエを何が何でもただしいと思い込んで――その思い込みの上に成り立っているというマチガイ この問題です。」

そうですね。実に、「信教の自由を逸脱しては、」の問題です。
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この回答へのお礼

 思慮なしにあまり発言をつづけるのも いかがでしょうか。

お礼日時:2013/12/17 09:30

ウリジナル《Uriginal》は、今や、世界語(?)にもなっているようです。



http://www.urbandictionary.com/define.php?term=U …
http://www.geocities.jp/bxninjin2004/themeoftoda …
http://en.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:Articles_ …

ご参考までに。
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この回答へのお礼

 つづいてのご回答をありがとうございます。

 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~
 2.「ウリジナル」現象は次のような経過・背景をたどってきた

 伝統的な事大主義=小中華思想
 (中国を仰ぎ、日本を見下す)
 →国力に自信を持ち始め、日本を追い越そうと考え始めた
 →近年の文人出身の大統領の意図的な日本を見下す政策
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ウリジナルが 日本をターゲットにするようにもなっているとは知りませんでした。





 韓国ドラマでは とにかく半端ではないワガママをとおす人物が 影の〔ヒーロー・〕ヒロインなのですが いちおうコインキデンチア・オッポシトールムは 最後には成り立つようになります。絶対矛盾的自己同一性?!

 つまり 徹底的に議論もしますし 流れは ワガママを主人公やまわりの人間が教育するというかたちです。国際的に・または日本に対しては 知恵がまわらないのでしょうか。

お礼日時:2013/12/16 17:42

こんばんは。



昨日の朝鮮日報に
「韓国側の過激発言、日本人ならやり過ごすのが道理」
というタイトルの記事が掲載されたようです。

http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2 …

ご参考までに。
これなどを読むと、思わず、吹き出してしまいます。
韓国の三大新聞社(朝鮮日報・中央日報・東亜日報)の新聞の記事は、笑いをこらえて読むのが非常に難しい(ニコニコ)。
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この回答へのお礼

 つづいてのご回答をありがとうございます。

 ▲ 現在の日本は、少なくとも韓国に関する限り、大韓帝国の皇帝を廃位して皇后を殺害し、あまたの韓国人に塗炭の苦しみを味わわせたという原罪を、都合良く忘れてはならないのではないだろうか。
 ☆ これが 恨でしょうか。(もっと先へ先へと突き抜けて行くものだし 相手にごちゃごちゃ言うようなものではないと かつて韓国語をまなんだときには おそわったのですが)。
 やはりルサンチマンの典型のような話ですね。

 帝国主義のチカラに負けたなら負けたと言って いさぎよく前へ未来へすすむことはしないのでしょうか。
 そういう時代だったとは見ないで いまにあっても・帝国主義を克服しようとするいまの社会にあっても 昔の歴史がそのまま気持ちの中に流れているということでしょうか。


 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 李大統領の天皇謝罪要求が朴槿恵(パク・クンヘ)政権にそのまま継承されたという証拠はどこにもない。日本も、韓国を植民地支配したことに関する安倍政権の認識がかつての村山内閣時代とは大きく異なっているように、韓国も、政権や大統領によって異なることがあり得る。ならば今回のケースも、現政権の態度を確認することが先ではないのか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《証拠》の有る無しの問題ではなく そうではなければ自分のほうからふつうに行動すれば済むことだと思います。こちらは ドアを開けて待っていると言っているのですし。


 朝鮮日報は大手の新聞だそうで 《コラム》は 社説に次ぐ重要性を持つ見解が発表されるということなのでしょう。どこか おかしい。こうなると いちいち箸の上げ下げまでをしっかりと教えるということをしてもよいとさえ思われて来ます。

お礼日時:2013/12/16 17:30

こんにちは。




☆6. 一党独裁制ではない場合 たとえば韓国の国家としてのナショナリズムは 果たして 宗教でないであろうか?
◇最近、わたしも興味をもって韓国の新聞(日本語版)などを、時々、のぞいたりしているのですが、
韓国に蔓延しているのは《ウリナラ教》とでもいうべき、新しい神さまの宗教なんですよ。

ウリナラ
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A6%A5%EA%A5%CA …

《ウリナラ》は絶対、神聖にして不可侵。
憲法や国際条約をはじめ、あらゆる法や価値に超越する。
国際法や国内法なぞ、なんのその。
《ウリナラ》というオマジナイを唱えると、あらゆる無理が通ってしまう。道理が引っ込んでしまう(笑い)。
何しろ、宇宙を作ったのも、韓国人〔の先祖〕らしいので(笑い)。

2Chあたりでは、「何でもパクって、これは韓国起源だ」と主張する《韓国起源説》を皮肉り、
オリジナルならぬ《ウリジナウル》なる言葉まで飛び出しているようです。

お隣さんは、一体、どこを目指しているんでしょうか?
《ウリナラ教》は、これからどこへ向かおうとしているのでしょうか(笑い)。

《ウリナラ》の《ナラ》は、近代的なStateやCountryというものではなく、日本語の《ムラ》の古代的色彩の濃い発展形に近い?
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この回答へのお礼

 ねむりねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ◇ 《ウリナラ教》 ~~~~~~~~~
 《ウリナラ》は絶対、神聖にして不可侵。
 憲法や国際条約をはじめ、あらゆる法や価値に超越する。
 国際法や国内法なぞ、なんのその。
 《ウリナラ》というオマジナイを唱えると、あらゆる無理が通ってしまう。道理が引っ込んでしまう(笑い)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どうもそうらしいですね。

 ふつうに良心的な人びとが どこでも三分の一いるというふうに読んでもいるのですが。自由で開かれた生活市民としての思想に 同感・共感(浮動層)・反感が それぞれ三分の一いるというふうに想定してはいるのですが。・・・


 ○ ナラ
 ☆ この語をめぐって 少し調べたことがあります。
 
 アムール河流域に住むナーナイと自称する人びとがいます。 トルコ・モンゴルと同系のトゥングース語族です。
この言語をくわえた対照です。

 ○ ナラ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・ Nanai――― Korean ――――――――Jpn.
 ______________________
 海: namu――― pada――――――――― wata・〔umi〕
 波: vata―――〔mul-gyoe水‐木目〕――― nami
 水: mue ――― mul ――――――――― midu
 兎: tokse―――thokki ―――――――― usagi
 石: dyolo―――tol ――――――――― 〔isi〕
 地: na―――― nara〔国〕――――――― na / nara 〔奈良〕
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ・ ナー・ナイ na-nai=《土地の‐人・国の‐人》です。

 ・ こう見ると ナーナイ語と日本語とでは 水 mue / midu を同じくし 海 namu / wataと 波 vata / nami とを あたかも入れ替えているかに見える。
 
 ・ うさぎ usagi は ウを取り除いて s- を t- に替えると分かりやすい。

 ・ ちなみに 大野晋のとなえるタミル語でも 《地》を ニャーラムと言うそうです。

 ・ 日本語では な(地)‐ゐ(居)‐ふる(震)=地震 のナに残っている。

 ・ の(野)→ の‐ら(野良)というごとく な(地)→な‐ら(奈良)と言った可能性。

 ・ ラは ロ・レとともに 自然生成相ないし親愛相をあらわす。わ(我)→わ‐れ→われ‐ら。/ な(地・平地)→な‐れ(慣れ・馴れ:《凹凸が無くなる》)→なら‐す(均す)→なら‐ふ(倣ふ・習ふ:《精神的・心理的な凹凸が無くなる》)→ならは‐し(慣はし)







 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~
 お隣さんは、一体、どこを目指しているんでしょうか?
 《ウリナラ教》は、これからどこへ向かおうとしているのでしょうか(笑い)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 

お礼日時:2013/12/16 17:08

3番についてだけど、日本の神話に、初めに混沌あり、ついで乾坤分かたれて神とカミが生じた、と言ったような記述があったように覚えてる。


要するに、政治的な神と自然神とが生まれたと言うのだ。
この場合、八百万の神を一つの神と見た場合には、国の営みと、自然の営み、両者に跨る神の意義を見出さなきゃならない。であるから、ただの国体というよりは、るる自然と共に続く日本的理想国家の有様というようなことになるのではないだろうか。
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この回答へのお礼

 つづいてご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 3番についてだけど、日本の神話に、初めに混沌あり、ついで乾坤分かたれて神とカミが生じた、と言ったような記述があったように覚えてる。
 要するに、政治的な神と自然神とが生まれたと言うのだ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうですね。記紀神話を根幹とする日本神話については その神々の体系にかんして 必ずしも定説としての内容が見られるようではありませんね。

 たとえば アマテラスを主宰神としたり あるいはご指摘のようなそもそもの初めの《独り神》と言われるような・混沌というのか中身が分からない神(そこにも アメノミナカヌシのほかにも 神々として複数いるようです)を主神としたりするところが見られます。

 あるいは アマテラスを主宰神と見立てた場合 じつは ツクヨミもいますが スサノヲも実の弟であるということ このことが 忘れ去られているように見られます。万世一系と言っても スサノヲもその同じ血筋であるということ。あるいは 男系の一系だと言っても アマテラスは 性としては女であるということ。そんな事情が忘れられているように見えます。

 つまり 必ずしもきちんとした神々の体系がきづかれているとする理論は 少ないように思います。

 〔わたしなどは 神を オホモノヌシ=ヒトコトヌシの一神とする見方を持ちます。モノは コトであるという理屈です。オホモノヌシなる神が聖霊として イクタマヨリヒメを身ごもらせて生まれたオホタタネコという或る種の仕方でのキリスト・イエスもいます〕。


 ★ この場合、八百万の神を一つの神と見た場合には、国の営みと、自然の営み、両者に跨る神の意義を見出さなきゃならない。であるから、ただの国体というよりは、るる自然と共に続く日本的理想国家の有様というようなことになるのではないだろうか。
 ☆ これはですね。そういった実際の自然や現実とつながった社会の理論もあり得るとは思いますが おそらく《国体》というときには きわめて漠然とした概念ないし理念を言うものとも まづは考えます。

 そもそも宣長が 《もののあはれを知る》と言ったときには 昔むかしの古神道にまでさかのぼりました。やほよろづの神々をどのように体系化してその神学をきづいたかというよりは そこでは単純に古神道を けっきょく《アマテラス公民主導‐スサノヲ市民従属》なる或る種の秩序体系のこととして捉えました。明らかに もののあはれを知るというその究極のシントウのあり方は 天皇制のことだと理解していたようです。


 《 A 圏主導‐ S 圏従属》なる社会体制は イザナキ・イザナミの大昔からあったわけではなく 天皇はおろか スメラミコトなりオホキミすらも 初めから存在したわけではありませんので 宣長説は極端すぎます。
 それに 主宰神のアマテラスに対して 先ほどふれましたが スサノヲは 実の弟であるという神話としての事実を忘れています。《支配‐従属》の関係でよいわけはありません。その昔から 民主主義でなければならない理由があります。

 ★ であるから、ただの国体というよりは、るる自然と共に続く日本的理想国家の有様というようなことになるのではないだろうか。
 ☆ そのとおりだと思います。そして わたしが《国体》を言ったときにはそのことは 市民レベルのシントウではなく 国家の次元でのシントウイズムを現在のひとつの現実として捉えたことによるものです。国体を止揚する歴史についても われわれが考えて行くようになる。こう思います。

 二階建て構造さえもが無くなるかも分かりません。

お礼日時:2013/12/16 13:41

多神教が一つのシステムとして機能してる、と言うならわかりやすいかな。

多神教の神々や一神教の人格神は個性があるから、一つの神と言い切ってしまうには色々な属性や特徴が付属し過ぎてしまってるんやないかな。
神という言葉をどんな意義で使うのか、というところやけど。使いようによっては一つの神、で通じるけれど、ややわかりにくいかもしれない。
普遍的な神の意義とは何か、と考えると、多神教の神々も諸一神教の神も並列に捉えられると思う。
多神教では神々が役割分担をしている。愛の神、戦いの神、豊穣の神、海の神、知恵の神などという風に。そして、それぞれの神に名前がある。一神教ではその役割を一体の人格神が全て担ってる。
だから、多神教の神をひとまとめにしたら一神教的な神になるのは当たり前のことかもしれない。
より重要なのは、多神教と一神教を対比することによって生じるであろう、止揚後の神の意義を第三項として立てておくことだろう。

この回答への補足

 お礼欄を継ぎます。ご回答をありがとうございます。


 ★ 多神教が一つのシステムとして機能してる、と言うならわかりやすいかな。多神教の神々や一神教の人格神は個性があるから、一つの神と言い切ってしまうには色々な属性や特徴が付属し過ぎてしまってるんやないかな。
 ☆ これについては まづ次のような事由があります。 
 ☆☆(No.4お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
 それに ひとつ単純な理由があります。
 よく言われることとして 一神教は他の神をみとめず排他的であり 多神教は寛容であるという見方 これに異を唱えるためです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち《一つのシステムとして機能している》ということは 多神教も あたかも一神教と同じように宗教をめぐる自他の区別をして けっきょくは排他的なウゴキを見せるということ。これは 事実としてみとめなければ成らないと思います。

 それと 《神のいくつかの属性》は 《ただひとつの神であること》と矛盾しません。

 1. 《非経験の場》を 神として想定する。経験世界を因果関係から自由であるといった内容として超えているそのナゾの何ものかのことです。

 2. この神を 概念として理解しようとする。《絶対・無限 / 不可変性・永遠・真理・至高の善・愛・・・》となります。あとの概念は 神の属性として捉えられる。《全知全能》もありますね。

 3. 人格として捉える。絶対⇒絶対者。全知全能の絶対者は 造物主だとも喩えられる。

 4. もしここで多神教の場合を考えておくならば その神々というのは いまのひとつの神の機能としての分化だと見られる。分身である。

 5. 山や木や磐座といった依り代に 神は霊として降りて来て依り着くと 見られた。あるいは 愛の神や勝利の神などといった分化である。

 ☆ したがって ナゾの本体と それの概念理解と 属性の付与 さらには物語として登場させるといったそれぞれの段階は きちんと区別されている。よって
 ★ 神という言葉をどんな意義で使うのか、というところやけど。使いようによっては一つの神、で通じるけれど、ややわかりにくいかもしれない。
 ☆ というときの曖昧さは ほとんど無いと言ってよいのではないか。


 ★ 普遍的な神の意義とは何か、と考えると、多神教の神々も諸一神教の神も並列に捉えられると思う。
 ☆ 《並列に捉えられる》というより そもそも《非経験の場》という説明で 統一できると思う。そこに普遍性があると見る。

 ★ 多神教では神々が役割分担をしている。愛の神、戦いの神、豊穣の神、海の神、知恵の神などという風に。そして、それぞれの神に名前がある。一神教ではその役割を一体の人格神が全て担ってる。
 ☆ といった階層としての・また役割りとしての分化は きちんと成り立っており そこに曖昧さは無いと言ってよい。
 ★ だから、多神教の神をひとまとめにしたら一神教的な神になるのは当たり前のことかもしれない。


 ★ より重要なのは、多神教と一神教を対比することによって生じるであろう、止揚後の神の意義を第三項として立てておくことだろう。
 ☆ たぶん 《神とは何か》をお礼欄に掲げたように初めからの定義しておけば これにもとづき ぎゃくに演繹的に一神教と多神教との区別を 無理なく出来ると考える。汎神論や無神論でさえ きちんと秩序だって分類できる。


 このように考えます。

補足日時:2013/12/16 13:10
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この回答へのお礼

 とりあえずですが。

 【Q:フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8074286.html

 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ○ (神とは何か?) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること)。  

      (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。)
 
   X=考えても分からないこと。

    (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。

    (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。
 
    (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。 )

 ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。

 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

 人間の精神は 絶対 X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり 経験世界 Y に属す。

 《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― マチガイである。(→§3)

 さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。

   §2 《考える》と《信じる》

 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

 とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。

 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。

 逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。

 人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。

 X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。


  §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の
    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。

 これに対する答えは むしろ簡単である。

 絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。

 介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。

 しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。

 議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。

 信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。

 いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

 信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。

 もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。

 もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。

 以上の定義だけの理論は 次が その心である。

   吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ
  ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。 

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お礼日時:2013/12/16 08:20

なんでそんなにグチャグチャとたいしたことでもないことを考えなきゃいけないんですか???


しかもどうして国家に結びつけなきゃいけないんだか・・・。

神という語句の意味を考えれば、神は人智を超えた存在という意味でしかないです。
だから中国でも天帝から孔明や関羽まで「神」が存在するんです。
それを神に関係ない理由で一括りにする必然性がわからない。

つまり「神」の正しい解釈からすれば、キリスト教の主だけではなく天使も悪魔も使途も場合によっては聖人も神の範疇に入り、多神教となります。
だからカトリックでは神とは言わず「主」といいます。神という場合でも「全能の」とか「父なる」とかどの神であるかを限定した言い回しになるのです。

一つに括りたかったらそれでもいいじゃないですか「神は神なんだから」。理由等無用でしょう。
現代のご利益信仰のほうがおかしいだけですよ。

この回答への補足

 そうですね。疑問を呈しておられます。そのかたちに沿って お答えしてまいります。

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 なんでそんなにグチャグチャとたいしたことでもないことを考えなきゃいけないんですか???
 しかもどうして国家に結びつけなきゃいけないんだか・・・。
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 ☆ いわゆる一神教は 土着の民俗はもとより民族や〔多民族による場合にもの〕国家の枠組みを超えるもののようです。オシエとしてですが 唯一神と言うのならば そういうことになるのでしょう。物理的なチカラによってなのかどういうかたちでなのか知りませんが ともかく世界へと開かれて行くのでしょう。

 多神教は 一般に民族に固有であったり言語をひとしくする場合のその国や地域に おおむね限定されるようです。
 その結果だと思うのですが 宗教を前面に押し出さなくとも 国家としてのまとまりを保つためには――つまりしばしば危機に直面したり戦時体制になったりした場合にですが―― そのナショナリズムなる思潮が あたかも一神教の役割りを果たす。といった社会現象を見せて来るのではないでしょうか。

 それに ひとつ単純な理由があります。
 よく言われることとして 一神教は他の神をみとめず排他的であり 多神教は寛容であるという見方 これに異を唱えるためです。

 多神教は その民族〔ないし多民族総合〕としてのまとまりのもとにあたかも一神教体制を 社会現象として採っているのであって けっして寛容なのではない。すなわち 他の民族の神を・そして特に唯一神を もしみづからの神々の体系の中に迎え入れるとするならば あくまでその多神から成る一神教体制の枠組みをこわさないかたちで位置づけられなければならないという絶対的な条件があります。社会の成り立ちとしての国体をこわさないかたちでという条件です。

 つまり飛躍して述べるなら 具体的には(3)に示したところの

  《アマテラス公民主導‐スサノヲ市民従属》なる逆立した連関制

 なる国家の二階建て構造の中におとなしく位置づけられること それが市民権を得るための条件となります。早い話が この《 A 圏主導‐ S 圏従属》の逆立ちした構造を土壌としたやほよろづの神々のパンテオンの中に クリスチアニズムの神もあるいはコミュニズムの《無い神 なる神》もおとなしく位置づけられて坐っていなくてはならない。

 言いかえるなら シントウイズムの上にかもし出された社会的な交通法規ですらありうるアマテラスイズムのクウキの中におもむろに入って行って いわば日本教・キリスト派ですとか 日本教・マルクス派などとして その生活の座を占めなくてはいけない。

 これが 多神教なるじつは一神教体制だというゆえんです。



 ★ 神という語句の意味を考えれば、神は人智を超えた存在という意味でしかないです。
 ☆ 神の定義については 回答No.6のお礼欄に掲げましたので それを参照してくださるとさいわいです。

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 だから中国でも天帝から孔明や関羽まで「神」が存在するんです。
 それを神に関係ない理由で一括りにする必然性がわからない。
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 ☆ 《天帝》は 人格化されたようなかたちでもありますが おそらく《非経験の場》のことを言っているのでしょう。ほかの神々 すなわち人間が神格化された場合というのは そういうタトエでしょう。
 もしくは ブッダターが人間にもやどるというごとく 天帝なる神の霊が そういった人物にもやどってはたらいたということを言いたいのでしょう。

 ★ つまり「神」の正しい解釈からすれば、キリスト教の主だけではなく天使も悪魔も使途も場合によっては聖人も神の範疇に入り、多神教となります。
 ☆ なりません。天使は むしろ人間に仕えるのです。神ではありません。悪魔は 神の管理下にあります。神が用いるという見方もあり得ましょうが 神ではありません。
 使徒や聖人は 人間です。ただし 神なる聖霊がやどりはたらいたという場合は あるのでしょう。それだけのことです。けっして神と人間との区別が あいまいなのではありません。


 ★ だからカトリックでは神とは言わず「主」といいます。神という場合でも「全能の」とか「父なる」とかどの神であるかを限定した言い回しになるのです。
 ☆ 父よと呼びかけてもよいように 主と呼ぶことはあってよいのでしょうが 問題は いま上に確認したように 神と人間との区別にあります。全能は ただ神の属性をそう捉えただけの話です。

 人間と区別される神には 《多神》はありません。あり得ません。全体としてひとつです。名前が違っても ひとつです。神の中身に変わりはありません。あり得ません。あったら その神を人間が知ったということになります。そしてその知った中身をあきらかにして説明した人は誰もいません。

 ★ 一つに括りたかったらそれでもいいじゃないですか「神は神なんだから」。理由等無用でしょう。
 ☆ いいえ。説明としては 《非経験の場》であるゆえに 神はひとつなのです。名が違っていても。あるいは機能があってその一つひとつを表わすために 言わば神の分身が いくつか神々として名づけられていたとしてもです。


 ★ 現代のご利益信仰のほうがおかしいだけですよ。
 ☆ いえ 神が神であるなら 信仰としては――オシエとしてではなく わが心なる非思考の庭にあっては―― その神に何でも願ってもよいし 甘えてもよいと見ます。これは 主観内面だけのもんだいです。
 願いがかなわないなら その理由をきちんとおしえてくれます。

補足日時:2013/12/16 10:48
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この回答へのお礼

 みかえる_えむさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。



 【Q:クリスチャンの方は エレミヤ書31:31以降をどう】解釈されますか?
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8374193.html

 ここにも ご投稿をどうぞ。

 

 ここでのご返答は あとで(時間をいただいて)補足欄にて おこないます。

お礼日時:2013/12/16 08:14

理論は良い。



だがそれを万人に突き付けるのは幼い。

無料で述べる事の出来る世界で一方的にくっちゃべるのは余りに幼稚。

責を負うのを厭うなら覚悟無き言葉を紡ぐべきではない。

自信が有るなら尋ねるな。

尋ねるならば求めよ。

氏素性を名乗らずに済む世界で何を得る?

この回答への補足

 お礼欄をおぎないます。

 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ★ 氏素性を名乗らずに済む世界で何を得る?
  ☆ おそらく この前提があやまっているとわたしは考えます。
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 ☆ この問題をめぐって 次のような角度からも議論・情報をおぎないます。

 【Q:《ネット人格》なんて 別の人格があるのですか?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7364127.html
  ☆☆ 現実の《わたし》なる人格とは別に そんなものがあるのですか? ・・・




 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 理論は良い。

 だがそれを万人に突き付けるのは幼い。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは ひとつには 同感だ もろてを挙げて賛同するという表明でしょうか。

 もうひとつには あまりにも理論の完成度が高い もう少し未熟な段階でまたはかたちで 質問をしなさいという意味でしょうか。

 こういう場合は カザリもヒネリも要らないと考えています。

 ここ(OKヱーヴ)にもう七年ほどいます。進歩しないほうがおかしいでしょう。(みなさん ありがとう)。

 足の引っ張り合いしかしないと見られる場合のあることは知っていますが。(もうちっと勉強したらどうなんだ。あたまは考えるためにある。何故使わないのか)。(それこそ 上からではなく地べたからそういう《クウキ》をかもし出して行かなくちゃいけない)。

補足日時:2013/12/15 08:17
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この回答へのお礼

 ★ 氏素性を名乗らずに済む世界で何を得る?
 ☆ おそらく この前提があやまっているとわたしは考えます。

 良心・信教の自由がうたわれるように 表現の自由もそのまますでに公理としてみとめあったかたちで 社会がいとなまれています。

 そして その自己表現を自由におこなうことは その場や機会に条件づけられ得ません。基本的にそうです。場合によってちょっと待ったがかかることは 自己表現が自由であることを 変更させ得ません。

 それが場によって条件づけられると感じるのは ただただ社会ないし世間という広い意味での宗教から来るクウキによってでしょう。日本では (3)の事態のことでしょう。つまり そういう問題にもそのまま成っています。





 けっきょくたとえば 先を越されたから気に食わないといった不平不満でしょうか。

 互いにその勉強や仕事できそいあってもよいでしょうが 何もそれは点取りゲームをしているわけではありません。ほかの人間を蹴落としていちばんに成ろうとしてやっているわけではありません。

 うらみを持った場合やねたましさを感じたときには アイツやコイツの足の引っ張り合いが始まるのかとも思いますが 十年二十年その同じことをやり続けていて 一生そのまま終わるといったことには成らないように すこし考え合ってまいりましょう。



 ★ 自信が有るなら尋ねるな。
 ☆ という自己表現に自信があるなら 他人のことは ほうっとけ。



 ご投稿をありがとうございました。

お礼日時:2013/12/15 07:53

信教の自由と、思いまーーーーーーーす。

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この回答へのお礼

 宗教は オシエを守るべき規範とし すでに個人の信仰であることを脱ぎ捨ててしまっています。オシエは 信じるものではなく 考えるものゆえです。

 また 組織としてまたは集団として行動するとき すでに《信教の自由》とは何ら関係ないところで 思惟を展開し行動しようとしています。

 行動の排他性およびそれが あろうことか《信じる》の問題に関連させて――つまりあやまって オシエを何が何でもただしいと思い込んで――その思い込みの上に成り立っているというマチガイ この問題です。

 よ。


 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2013/12/15 07:38

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