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鳥羽・伏見の戦いに敗れたというか、戦わずして江戸に逃げ帰った徳川慶喜は、その開陽丸の船中に「妾」を乗せていたそうです。まったく「あきれた奴」だけれど、明治になってから、徳川家の再興を密かに、願っていたのか?十男十女をもうけたそうです。

ここで質問なのですが、
(1)この20人の子供の中には、正室美賀子夫人の子供はいたのでしょうか?
(2)この頃(明治初期)、慶喜には、何人くらい妾がいたのでしょうか?
(3)20人の子供の中には、新門辰五郎の娘、芳の子供はいますか?

A 回答 (1件)

美賀子夫人には子供はいません。



一度、流産したあと、子供には恵まれなかった、、そうです。

あの時代の殿様は お家存続のため とにかく沢山子供を生ませたそうです。

子供の夭折が多かったため、、とも言われています。

慶喜が静岡に隠棲するときには、数えられない位の側女がいたそうですが、

新村信、中根幸の二人に整理したそうで、あとの側女はお払い箱だったそうです。

新門辰五郎の娘、芳は静岡に行くことを自分から拒否した、、、と言われています。

新村信は、12人、中根幸も12人の子を生んだそうです。(その他、流産もあり)

二人は、顔立ちがそっくりで、子供たちもどちらが自分の母親とは、意識しないで暮らし

二人の立場はあくまで女中だったので、子供たちも「信! 幸!!」と呼び捨てだったそうです。


徳川慶喜の残した言葉で、私が一番 印象に残ってるのは

「長州は、最初から反幕だったので恨みはないが、薩摩は、最初、味方となったのに、寝返った。

薩摩だけは、絶対に許せない」と言ったという言葉です。

薩摩って、「簡単に寝返る信用ならない藩」なのだったのですね。


慶喜の偉い処は「逃げた」処ですね。

小栗上野介の策を取り入れれば、幕府が勝てたでしょうが、

慶喜は「単に一戦に勝つだけなら勝てる。しかし、朝廷を握られており

幕府の土台が腐っている以上先はない」と見ていたそうです。

そういうことを考えれば、先を見ることが出来た優秀な人物だったと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

優秀であるかどうかは別にして、「先を見ることが出来た」人物だったことは確かだと思います。慶喜評については、私と全く相容れないところがあるというか、「昔夢会筆記」自体が欺瞞に満ちあふれていると感じています。(*^_^*)

薩摩って、「簡単に寝返る信用ならない藩」なのだったのですね。……大久保や西郷も、慶喜に「言われたくない」とあの世で笑っているのでは。

お礼日時:2014/02/27 10:00

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