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動詞としての死というのは生の終わりとして生に属していますが、名詞としての死は生と断絶しているように思われます。動詞としての死しか実在していないということはないでしょうか。

A 回答 (10件)

ビットゲンシュタインがさ~、


「死は体験できない」
って、
オレと同じようなことを言っているらしんだわさ。
───実無限と可能無限について気になることがあったので、ネットで調べ物をしていて、その関連で、偶然、見つけた───

しかも、同じような考え方から「死」の存在の否定をしている。

まっ、当たり前といえば、当たり前なんだけれど。
根底にあるのは、数学的な発想だから。

オレって実はスゲェ~のか?
(なぁ~、ワケない!! 憶えていないだけで、どっかでこの話を読んだに違いない!! 哲学か論理学なんかの本で、読んで知っていたに違いない。 きっと、そうだ。 そうでなければ、ネコ風情が、こんなことを思いつくはずがない!!)
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この回答へのお礼

私の質問もあなたの場合と同じなのかしら。ショーペンハウエルが、人の一生は(どこかで?)精霊(どんな?)が見ていた夢だったのかもしれないと言っているとどこかで読んだ記憶があります。

お礼日時:2014/04/28 23:09

>「歴史となると膨大すぎて一体どうしたらよいか途方に暮れてしまいました。



途方に暮れなくて、いいです。
「膨大過ぎる」と判っているだけでも、たいしたものだと思います。

kaitara1さんなり、で。
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この回答へのお礼

何でもわかってしまうすごい人がいます。大変ありがたいと思っております。

お礼日時:2014/05/02 00:36

kaitara1様、こんにちは。




>「どういうことを経験すればあなたのような成熟した理解に達することができるのでしょうか。あるいは生まれつきの能力の差で無理なことなのでしょうか。」

例えば、新聞を読むとか、歴史を学ぶとか。


>「動詞としての死しか実在していないということはないでしょうか。」

・・・ま、それだけの学びでは、多分足りませんね、学んで下さい。
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この回答へのお礼

大変お偉い方にご教示いただいて恐縮いたしました。自分にはちょっと無理なようです。新聞も読んではいますが、歴史となると膨大すぎて一体どうしたらよいか途方に暮れてしまいました。

お礼日時:2014/05/01 17:07

kaitara1様、こんばんは。




多分、経験的に未熟なんでしょう。

この回答への補足

名詞としての死というものも実在するという意味でしょうか。どういうことを経験すればあなたのような成熟した理解に達することができるのでしょうか。あるいは生まれつきの能力の差で無理なことなのでしょうか。

補足日時:2014/04/29 04:30
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この回答へのお礼

もしよかったらもう少し詳しくお話しいただけないでしょうか。多分・・・・でしょう、という推定体の表現でしたが、ぜひさらなるご解説を伺いたいと思います。

お礼日時:2014/04/29 04:33

御質問の趣旨とは(たぶん)ずれるでしょうが、参考までに――



キルケゴールの『死にいたる病』という本の序文の最後に

「救済は、まさに死ぬことに、死んだもののように生きることにある」

とあります。

キリストの道を進む(いわゆる出家する)とは俗世的には「死ぬ」ことだが、
その意味では「死んだもの」だけれど「本当に生きる」こことが始まるとの説教であります。

「生」という言葉をどう理解しどう使うか、

生と死との境を一直線上の点のように見るとき、その「視点」そのものは「死」に属するのか「生」に属するのか?

カントではありませんが、どこか超越論的な仮象に似てきました。
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この回答へのお礼

それまでの生から出てきた矛盾を死が解決してくれるという面もあるように思います。この矛盾というのは案外どのような人の生にも最後には生ずるものなのかも知れません。あるいは人だけでなくすべての生物でも。この意味で死ぬことは生きることの別の面で会って決して生きる子音と対立するものではないのかもしれないと思います。

お礼日時:2014/04/28 14:17

 再考です。



 動詞としての「死」は死ぬとか死なぬ、となって“具体性”を含んでいますが名詞としての「死」は“抽象性(?)”があるので「実在」とは云えません。

       独り言…こっちの方がいい!
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この回答へのお礼

そうですね。何かありそうですね。再度のご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/04/28 05:04

なぜ「動詞としての死というのは生の終わりとして


生に属しています」と考えられたのでしょうか?
自己の死とは生の排除=宇宙の尽きた別名であり、
含まれません。
ただし、他人の死は、動詞であれ名詞であれ、自己
の生に属しています。
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この回答へのお礼

間もなく自分は死ぬという時でも、まだ自分は生きていますから、死は生に属していないでしょうか。

お礼日時:2014/04/28 05:09

 動詞としての「死」は死ぬとか、死なぬ、となって主体性的ですが名詞としての「死」は客観的です。



 客観的故に、実在はしません。
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この回答へのお礼

なるほど、普通は客観的というのは実際に存在する場合に使われると思いますが、何かありそうですね、興味深いご指摘でした。どうもありがとうございます。

お礼日時:2014/04/28 05:06

ん~~~・・・・



名詞としても対語の「生」があってこその「死」ではないですか?

「死」しか存在しなければ、そもそも「死」の単語は必要ありません。

名詞としての「生」が「死」を『生かして』いるのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

言葉遊びのようですが名詞として生も名詞としての死と同じように、実際には存在していないのではなきと思いました。名詞は動かないものとしては実在するのでしょうか。ご見解ありがとうございました。

お礼日時:2014/04/27 23:13

そら、そうだ。


あるのは、「死ぬ」という生理的現象、生理的過程と、目の前にある死体(モノ)だけ。

霊魂でもあれば話は別ですが、人は誰も死を経験できない。

He is dead.(彼は死んでいる)
これも考えてみれば、妙な話。
目の前にあるのは、彼の死体だけなのに。「He・彼」なんてものは、既にこの世にいない。

I am dead.(わたしは死んでいる)
はもっと変だけれど。
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この回答へのお礼

ご教示ありがとうございます。変化することによって存在するもの(あるいは状態)に対しては名詞をあてるのは適当でないのかもと思いました。

お礼日時:2014/04/27 23:16

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