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明治時代に日清、日露戦争がありました。日清戦争では補償金を清国から取れたと聞きますが、どんな通貨で受け取ったのですか?現金を船で持って来ますか。それとも何かの借用したという書類ですか?また、日露戦争では戦費を英国から借りたと聞きますが、この金はどのような形で受け取りましたか?ポンド紙幣を船で運ぶのですか?為替の知識がないので、非常に稚拙な質問で恥ずかしいのですが、ちっとも分かってないのでこの際、勉強します。宜しくお願いします。

A 回答 (6件)

こんにちは


>日清戦争では補償金を清国から取れたと聞きますが、どんな通貨で受け取ったのですか?
日清戦争の賠償金は、講和条約である下関条約(1895・4・17締結)の第4条で、庫平銀(清国の通貨)2億両(テール)を支払うものとされ、1895~1902年の8年間に分割払とし、2年目から残金について毎年5%の利子をつける(批准後3年以内に完済の場合は無利子)としています。また、第8条で講和条約が履行されるまでの担保(保障)として、日本が山東省の軍港威海衛を占領すること。さらに、同条約別約第1条において、威海衛占領経費の一部として、占領期間中毎年庫平銀50万両を払うと規定しています(威海衛守備費償却金)。
その具体的な支払方法・場所等については日清両国で協議され、同年10月6日に合意に達します。その内容は、
1、品位・量目が一定しない庫平銀一両について、純銀37,311g(575グレイン82)とすること。
2、支払いは当時最も信頼性のある通貨である英ポンド金貨で、ロンドンで支払われること。(日本銀行ロンドン支店に収納)
3、庫平銀一両(実際上は純銀37,311g)と英ポンド金貨の交換比率は、1895年(条約締結年)の6、7、8月の銀相場の平均値により算出されること。
とされました。
その後、三国干渉があり、日本に割譲されると決められた遼東(奉天)半島が清国に返還されることになり、奉天半島還付条約の第3条で、還付の報酬として庫平銀3000万両の支払いが決められました。その結果、清国が日本に支払う金額は、2億両+3000万両に、威海衛守備費償却金として3年(最終的に賠償金支払が3年間で終了したので)×50万両=150万両加わり、総計2億3150万両相当の英ポンド金貨が支払われることになりました。
清国はこれを、1898年5月7日までに完済します。下関条約の締結日は1895年4月17日ですが、同年1895年5月8日に批准書が交換され、条約が発効しますので、完済日が批准後3年以内の規定により無利子となるので、完済を急いだと思います。なお、1896、1897年は賠償金の利子は支払われていますが、3年以内に全額が支払われたので、この2年分の利子支払金は、賠償金本体に充当されており、実際的には無利子となっています。
さて、蛇足になりますが、清国は賠償金支払いのために庫平銀・金塊・ポンド金貨などを本国から運んだのかと言うと、運んでいません。清国は数次にわたり外債(借款)をフラン・ポンド建で発行し、ロシア(初期のフラン建起債には政府保証を付けています)・フランス・ドイツ・イギリスの銀行が引き受けをしています。このように外債の発行が8年間の支払い期間を3年間に短縮し、利子を生じさせなかったことになります。
ただ、貨幣が輸送されなかったかと言うと、日本の例になりますが実際は輸送されています(全額ではなく一部)。日露戦争当時の主要戦艦のほとんどはイギリス製で、完成後日本海軍軍人により日本に回航されるのですが、この時に回航される軍艦により輸送されたことがありました。
なお、賠償金等については、来るべき日露戦争に向けての海軍・陸軍の軍備費に充てられただけでなく、八幡製鉄所(現在の新日鉄住金の出発点)の設立資金や、1897年の金本位制(日本は実際上金為替本位制)復帰の資金(準備金)ともなり、日本経済の近代化にも活用されています。
下関条約及び議定書・別約全文
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC% …
奉天(遼東)半島還付条約全文
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents …
下関条約批准
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/200 …

>日露戦争では戦費を英国から借りたと聞きますが、この金はどのような形で受け取りましたか?
これは、外債発行により資金を調達しています。英国(ロンドン債券市場)が中心ですが、アメリカでも起債(ポンドとの確定換算率によるドル払)され、戦争後期にはドイツでも起債(ポンドとの確定換算率によるマルク払)され、債券市場を通じて一般に募集されます。8200万ポンド(約6億8600万円)を集め、日露戦争の戦費の4割をまかなったとされています。
外債と言っても日本国(大日本帝国)が発行する国債です。つまりは国が資金調達のために発行する債券で、債券の売却により資金を得る国の借金です。(国債の)債券は発行額(額面金額で、元金)と償還期限と利率が決められています。実際の販売価格は額面より低く、その上手取り金額は更に低くなり、逆に実質利率は上昇することになります。さて、債券の購入者は額面額に対する利率により、償還期限までの毎年利息を受け取り、償還期限の到来により額面金額(元金)を受け取ることになります。外債の場合、額面額が外国通貨(当該では英ポンド)で表示され、利息も外国通貨(英ポンド)で支払われ、当然償還も外国通貨により支払われます。
ただ、どの国でも債券を発券できるわけではなく、国に信用が無ければ、利率を上げても購入者はないことになります。そのようなリスクを避ける意味でも債券を引き受ける銀行等の金融機関を引受会社(複数の場合は引受団=シンジケート団)として、債券の募集・売り出しを委任します。契約にもよりますが、引受会社・シンジケート団は債券の全額を取得するか、売れ残り総額を取得することが一般的でした。そのため、引受会社・シンジケート団となるものがない場合には、起債することは難しいことでした。日露戦争時の外債発行に東奔西走したのは後に首相となる高橋是清日銀副総裁ですが、起債のための引受手を得るために苦労しています。特に戦争初期には、欧米の間に日本軍の敗戦を予想する向きが多く(=敗戦で債権の回収ができないと見られていた)、引受手がなかなか見つからないさまが、その自伝(中公文庫『高橋是清自伝上・下』)にも記載され、簡単に読むことができます。
紆余曲折を経て、1904年5月に英国銀行団と調整ができ、1000万ポンドの外債が発行されることになります。発行条件は6%の利率で、7年の償還期限、発行価格は93,5(額面100ポンドにつき発行価格は93,5ポンドの割合)、日本政府の手取額は90%(額面100ポンドにつき手取額は90ポンドの割合)という条件でした。発行総額1000万ポンドの内、500万ポンドはロンドンで、後の500万ポンドはジェイコブ・シフの率いるケーン・ロブ社がロンドンの銀行団より額面の90%で再引受して、ニューヨークで募集されることになります。ただし、もしもの場合には日本の関税収入に当てるということを担保としています。
この募集期間中に、鴨緑江会戦で日本軍が勝利すると、日本の外債の人気が上昇し、されにその後日本軍が勝ち進むと、好条件(利率の低下など)で外債の発行が可能になります。これ以降3回、都合4回の起債で上記8200万ポンドを集めています(以降の外債発行もあります)。


以上、参考まで。
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NO5で回答した者です。

追記を。
日清戦争の賠償金の受け渡しですが、1895年10月31日に第1回目の賠償金が支払われなすが、場所はロンドンの日本公使館(当時世界的に大使館は無く、公使館のみ)に、イギリス駐箚(ちゅうさつ)清国公使が訪れ、イギリス駐箚日本公使の加藤高明に、822万5245ポンド1シリング10ペンスと3/4の小切手を渡しています。日本側はそれを受領して、イングランド銀行に預けています。
その後、同年中に日本国はイングランド銀行に収容した賠償金(遼東半島還付金も含む)1316万0392ポンド3シリングと1/2を小切手の形で引き出し、日本銀行ロンドン支店に交付し、日銀ロンドン支店は、再度イングランド銀行に預入という手続きをしています。このように小切手での賠償金等のやり取りもされてもいます。

以上、参考まで。
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銀行の成り立ちは、金細工師に金を預けて、その預かり証を発行してもらうところから始まります。


預かり証があれば(今の質屋などと同じです)金を再度引き渡してもらえます。
ところが、金は持ち歩くのが大変なので、取引の際にいちいち金を引き出したりするのは面倒なので、預かり証のみでやり取りしたほうが便利だと気付いた人がいました。
これが紙幣・手形の誕生です。
日本でも海外でも紙幣は中央銀行の手形です。ですから日本銀行券と書いてあります。
そして、この紙きれを信用して使いましょうね、という合意が取れることで、紙幣のやり取りのみで取引ができるようになりました。
手形も同様に、額面のお金を預けてあるので、誰がその手形を持ってきても信用して渡して良いですよというものです。ですから、預けた銀行しかその手形は発行ができません。
基本的には、裏打ちされたものがあるので、とりあえず信用して使いましょう、というのが手形や紙幣です。
現在では、紙幣は金の裏打ちがなくても国が保証するからいっぱい刷っても良いという形になっています。
銀行にしても預かった額の100倍を貸し出しても良いと決められています。これを『信用創造』と言っています。
実際に金融業は、こういった理屈が出来上がった時点で、帳簿上を数字が行き来する世界となっています。補償金にしても戦費にしても、実際は、帳簿上に数字を記入して終わりです。
皆がそれを信用しましょうの世界です。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/12 08:14

基本的に大金が動く世界では、現実の貨幣は動きません。

いわゆる手形が回るのです。

例えば江戸時代にももう手形は使われていました。江戸の商人が大阪の商人に百両支払うとします。しかし現実に百両を持ち運ぶとなると途中で山賊にでも遭ったら大変ですし、重いしかさばります。
そこで、手形を発行してもらっていってみれば紙切れが江戸から大阪に渡るのです。これなら持ち運ぶ人もそんな大金を運んでいることは手形を見られない限り誰も気づきません。
そしてその手形を担保するのが両替商です。江戸の商人が百両を持って両替商のところで手形を発行してもらい、その手形を大阪の両替商に持っていくと百両に替えてもらえるわけです。もちろん、両替商は発行手数料を貰います。

そう、この両替商が我々が身近な言葉でいうところの銀行です。国家間のやりとりとなるならば、今でいうところのメガバンクのような大きな銀行が間に立って決済するのです。

当時は上海やら香港やらシンガポールやらにはヨーロッパ、特にイギリスの銀行の支店なんかがあったわけです。実際はどうやっていたかは分かりませんが、例えば香港にあるイギリスの銀行に補償金が振り込まれます。当時は日本はイギリスに軍艦を発注していましたから、例えばその補償金を軍艦の購入費に充てるならその銀行口座から軍艦を作ってる会社の口座に振り込めばいい。そう、なんてこたない、今と同じなんですよ。ただ通信手段の技術が違うだけでありましてね。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。手形の概念がどうも分かりにくいので、質問しました。

お礼日時:2014/10/10 12:35

パース銀行が主幹となって外債を発行していますので、おそらく一旦パース銀行ロンドン支店の口座にお金(ポンド)を入れて、そこから各支払

いを行っていったのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/10 12:30

>日清戦争では補償金を清国から取れたと聞きますが、どんな通貨で受け取ったのですか?


通貨ではなく金または銀など貴金属や金額に相当する物資


>日露戦争では戦費を英国から借りたと聞きますが、この金はどのような形で受け取りましたか?ポンド紙幣を船で運ぶのですか?

資源小国の日本では、戦争につぎ込む膨大な物資を国内だけでは調達できない
そのために欧米より原材料や製品を輸入するのだが、この決済に使える資金が不足していた
そこで、輸入元の欧米で現地通貨建てで債権を発行した
現地通貨で発行すれば、為替や輸送などの心配はない
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/10 12:29

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