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興奮している友人などに使う言葉として
「自分を客観的に見ろ」というセンテンスが
あります。

私はどうしてもこの言葉が納得いかないのです。
何年も屁理屈扱いされていますが、どうしても
納得いきません。

どうやって自分を客観的に見るのですか。
第三者的に自分を見たとしても、見ているのは
本人そのものであって、本人が自分を見る以上
それは「主観」です。どうやったって、客観的に
自分を見ることができるのは、自分と関係のない
他人でしかありえません。

比喩的に「自分を客観的に見ろ」と言っているのだと
いう意見が多いのですが、比喩的にしろあまりに
不可能な比喩だと思います。

この言葉、日常さりげなく使っていますが
おかしくないですか。

A 回答 (19件中11~19件)

客観視するということは他者から見てという事ではなく異なる切り口から見てということではない。


知恵、知性から評価するということです。
残念ながらあなた方には分かりません。
不可能ではありません。もろもろの苦渋が待ち受けているでしょう。
多くの者そのは苦しさに負けます。
ある者は自ら招いてもっとひどい人生を送ります。
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 こんにちは。




 ★ 客観
 ☆ というのは 世界事実 Y そのもののことを言います。

 事実 Y を認識したものは その人( Xi )の主観です。事実認識としての主観真実( Y-Xi )です。

 そうして科学が その事実について誰が見ても同じ内容の認識が得られると証明したならば それは 共同主観( Y-X )となります。科学的真実は これのことです。




 世界認識は・言いかえるとその認識の対象は けっきょく人間とそのほかのものごととに分けられます。

 なぜなら事実について認識するのは 人間であるからです。

 言いかえると・何を言おうとしているかと言えば 人間という事実の認識と それ以外の経験事象の認識とは 少し性質が違って来ます。

 すなわち
 ★ 「自分を客観的に見ろ」
 ☆ というのは その相手 Xa の主観真実が あなた Xb の主観真実とは 違っているぢゃないかとなじっていることを意味します。


 このとき Xa が言う要望にこたえてやるには その主観真実( Y-Xa )を あなた Xb が自分の主観真実( Y-Xb )の中に取り込んで ものごとをしゃべればよい。

 どうしても取り込めないというシロモノの主観真実のばあいもあり得ます。世界認識が成っていないという場合です。そういうときには これこれの理由で あなた(= Xa )の考えは間違っていますよという見解を述べるとよいでしょう。

 これは 一応の妥当性のあるあたらしい見解をともに得たときに 結着がつきます。Xa も Xb もそれぞれの真実の内容が広がり深まります。

 

 無造作に《客観》というときは 互いの主観真実のあいだの共通性を問うています。一部の事実認識をでも共有したいという願い・のぞみがあるものと見られます。
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客観的に見ると言うのは、客観的な統計や科学的分析で物事を判断すると言う事です。




例えば、

>興奮している友人などに使う言葉として
>「自分を客観的に見ろ」というセンテンスが
>あります。

とあたかも世の中の多くの人が、決まり文句のように「興奮している友人などに使う言葉」と言っていますが、あなたの周りだけの話ではありませんか?

世の中の多くの人がそのような決まり文句を言っているという、「客観的な根拠」はあるのでしょうか?


と言われた場合、この客観的根拠とは、なんらかしらの統計や研究結果の発表で、「興奮している友人などに使う言葉で「自分を客観的に見ろ」と人は高い確率で発言する」と言う研究結果が出た場合、それを持ち出せば「客観的な根拠」となります。




「客観的」とはそう言う意味です。

他人の目線「かと思われる」目線で観る事ではありません。
それは、客観視ではなくただの妄想です。あなたが言うように「主観的」な目線です。
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この回答へのお礼

サイエンスにおいては何より「客観性」
『再現性」が求められますね。私はそういう意味の
客観と、哲学的な意味での客観を
混同しているのかもしれません。

お礼日時:2014/10/11 19:57

他の人の主観を「理解する」事が、客観です。


他人の気持ちになってしまうのではなく、同時に
複数の視点を持つ事で、それを基線として三角測量
できるようになり、未知の視点も推察できるように
なる、それを「客観」というのです。
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この回答へのお礼

では自分を客観視できますか。

お礼日時:2014/10/11 19:54

他人が自分を見ても、それはその他人の主観であって


客観ではありません。

先日、月食がありましたが、あそこに月があると指させば
他の人は指の方向を見て月のありかがわかります。
月が真理であり、指が言葉です。
月の位置がわかれば、指はもう用なしです。
それ以上、指にこだわっても無意味です。

自分で自分を見たときに、それが自分の真の姿を把握して
いさえするなら、その見方が主観的でも客観的でもどうでも
いいことです。

言葉にこだわり執着していると、真理を見逃します
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この回答へのお礼

他人が自分を見ても、それはその他人の主観であって客観ではありません。
なるほど、あほですか。
「自分にとっては客観です」

お礼日時:2014/10/11 19:03

>どうやって自分を客観的に見るのですか。


第三者的に自分を見たとしても、見ているのは本人そのものであって、本人が自分を見る以上
それは「主観」です。どうやったって、客観的に自分を見ることができるのは、自分と関係のない
他人でしかありえません。

〇自分の中に多数の自分がいることに気が付けばわかることです。多数の自分の一人が他人になるのです。生まれてこの方、自分の中の他人に気がつかないという方が大多数なので、気がつかないのも致し方ないですが、見分け方は心の中に定点を持つことなんです。定点を自分の考えだとして、自分自身のその他の考えを分類的に観察すると自分と違う自分、つまり他人が存在することが分かります。これは目で見えるものではありません。あなたの心の世界の問題なんですよ。心の世界に主観と客観と呼べるものがあるのですね。経験ですから定点を決めて実践してみるといいですよ。
例えば、今日は早く帰ろうと考えている自分がいます。駅に近くなると赤ちょうちんが、それを見て突然一杯ぐらい飲んでもと閃きます。そのまま赤ちょうちんをくぐると、いっけん一人の考えのようですが、今日は早く帰ろうと考えた自分を定点にすると、赤ちょうちんを見て動揺した自分に「今日はダメダメ」と言うはずですね。それでも定点の考えを覆して赤ちょうちんに入っているわけです。
つまり、早く帰ろうという自分と一杯ぐらいという2人の自分が見出されるはずですね。赤ちょうちんのとなりのパチンコ屋の音により惹かれる自分がいれば、3人の自分が見出されるわけです。これは例ですが、このように心の動きを観察すればいろんな視点で見ている自分自身が発見されますよ。本当の自分は誰なのかが考えられるようになればこの質問の答えが分かるようになります。
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この回答へのお礼

自分の中に多数の自分が存在するのは
解離性人格障害(多重人格)以外に
ありえません。『哲学」のカテゴリーに
した私が悪いのですが。

お礼日時:2014/10/11 19:06

翌日、自分を思い返せ。



一週間後、或いは現在と異なる感情を
抱いている時に今の自分を思い返す。

出来れば文字なりビデオなりに残してみれば
客観視できる。

それでもまだピンと来なければ、タイムカプセルに
入れて数年後、十数年後に観てみるのだ。

それでも何も変わる訳がない、というなら、
逆に言えば十数年かけても自分が変化して行くことを
理解できていない、ということになる。

もし、本当に変わらなかったら、それは果たして
喜ぶべき事態だろうか?

今の自分に拘るから、自分は揺るぎない自分だ、という
錯覚に陥るのだ。

好きな女の子に告白して成功した時と失敗した時、
自分が同じ感情と思考を持つ、訳が無いではないか。

自分は絶対だ、と思う気持ちは そういう訳で今の自分の
価値観に拘る「今の感情」に過ぎない。

他人を自分と同じような主観的な存在だと、頭でしか
理解できないうちは、自分を客観視する一番の方法は
時間軸を移動してみてみることだ。

やがて他人も自分同様に、自分を絶対視している「他人」
なのだと感情が理解できたなら、その時に時間軸ではなく
人々が沢山いる「社会」という空間座標系で、異なる視点から
今の自分を見つめることが出来るようになる。

主観が一つしかない、と決めつけるとそこから一歩も
踏み出すことが出来なくなり、自分を閉じ込めてしまう。

あえて理屈で言えば、表題の設問に対してはこのような
答えが導き出せる。

要は、一晩寝てから考え直してみなさい、という意味です。
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この回答へのお礼

翌日、前日の自分を思い返すことも
それは客観ではなく主観なのでは。

結局時間軸をずらしても、50歳の私は
青春時代の自分を美化して、客観視は
できません。

お礼日時:2014/10/11 19:11

おかしくは無いです。



出来ないと言うのは理解出来ます。

通常は生物は一つのロジック(思考)で一生を生きて行きます。

要は「生き方」ですね。

しかし「他者の考え方」が存在するのは事実です。

後は他のロジックを理解する能力が有るか無いかの話になります。

こう言うと理解出来ない人間が劣っている様な印象を受けるかもしれませんが、其れは本質的に間違いです。

足の速い人間や、計算が得意な人間が居る様に、単なる特技・性質の一つです。

「全人類が鳥と同様に空を飛べないのはおかしい」と言う位におかしな話です。
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その通りですね。

人間は自分を(他人がそうするように)客観的に見ることはできません。

>見ているのは本人そのものであって、本人が自分を見る以上それは「主観」です。

これは言葉の使い方として正しいということです。

本人が自分を見る、このことの意味から考えてみましょう。

基本的に動物は自分を意識することがはぼできない(僕はぽちという犬だ、とかですね。)のですが、

人間は知能が高いのでそれが可能な動物なのです。でも子供のうちはできません。ある日、鏡を見て、「これが俺か!?」と気がつくわけです。
それを境にして、どんどん賢くなっていくうちに、次第に自分を他人のように眺めることができるようになります。そうならなければ大人にはなれません(なれないまま老人になっていく人間もままいます(自己中といいます。)
自己中のひとは、貴方が言う「主観」でしか自分を見れないにんげんだということもできます。僧でない多くの人は、自分を見る主観を客観(完全ではなくても)に近づけることができるようになった真の大人だといえます。
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この回答へのお礼

仰っている意味は理解できるのですが
どれだけ人間が成長し悟っていっても
その時、己が見ていること、感じていることは
全て主観ではないでしょうか。回りからみたら
「あの人は気がきいて立派な人だ」
と言われている本人が見ているものは
結局、本人にとっては主観だと思います。

お礼日時:2014/10/11 19:17

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