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だうして蜜柑は蜜柑なのでさう
だうして蜜柑の実がひつそりとつつましく
中にかわいい部屋を揃へてゐるのでさう
だうして蜜柑は葡萄でなく
葡萄は蜜柑でないのでさう

だうして目の前に蜜柑が有るのでさう
だうして林檎ではなく蜜柑なのでさう

だうして蜜柑は甘いのでさう
だうして大根は辛く、梅は酸っぱいのでさう

だうして私は私なのでさう
だうして心臓が音を立て休むことなく
私の胸の中で動いているのでさう
だうして私は他人ではなく
他人は私でないのでさう

この世は全て見た通り、聞いた通りの世界だからです
この世に有るものは現に有るのであり
禅問答など無や空について考えても無駄だからではないでしょうか。
 

 

A 回答 (15件中11~15件)

☆だうして蜜柑は蜜柑なのでさう


◇そこにあるのは蜜柑という言葉で指し示される何かです。
で、この質問は、その何かを何故に蜜柑と名づけ、呼ぶのかという意味ですか?
あるいは、
「そのものをそのものたらしめているのは何か?」
の意味ですか?

前者の意味であるならば、
誰かがそのものに類するものを蜜柑と名付け、そして、そのように蜜柑と呼ぶようになった、その名称が一般に広く採用された、
となりますでしょうか。

後者ならば、
蜜柑の形相や蜜柑の実体
となるのでしょうね。


☆だうして蜜柑の実がひつそりとつつましく
中にかわいい部屋を揃へてゐるのでさう
◇そのようなものを蜜柑と呼んでいるに過ぎない。
どうしてそのような構造を持つにいたったのかは、科学的には突然変異としか答えようがない。


☆だうして蜜柑は葡萄でなく
葡萄は蜜柑でないのでさう
◇姿形などが大きく異なり、それ故に、蜜柑と葡萄は別のもの、種や類、グループなどであると認識、判断しているに過ぎない。



☆だうして蜜柑は甘いのでさう
だうして大根は辛く、梅は酸っぱいのでさう
◇甘くない蜜柑もあれば、甘い大根、サトウダイコンもある。
また、これは単に多くの蜜柑は甘い、大根は辛い、という事実を述べているに過ぎない。
化学的に言えば、甘さや辛さを感じさせる化学物質を持っている、ということ。
何故、そのような物質を持つのかという目的論的な言及をすることはできるけれど…。



☆だうして私は私なのでさう
他人は私でないのでさう
◇自他の区別を立てるから。
私以外の人間や人を他人と想定し、そのように呼んでいるのだから、
「他人は私でない」
は当たり前のこと。このことに疑問をはさむ余地がない。

質問するならば、
私を私たらしめているものは何か、
私と他人との違いは何か、
とするべき。



☆この世は全て見た通り、聞いた通りの世界だからです
◇のはずがない。
主観世界と客観世界は異なる。
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 こんにちは。



 ロメオが マリオでもトニオでもなく ロメオであるのは 特定の相手から見ての場合です。つまり 個別の問題です。

 けれども わたしが ほかの誰でもなく わたしであるのは 人びとそれぞれにとっての問題であり 人間一般の問題です。

 しかもその問いについて そうであるからそうであると答えるのは すでに思考停止であり思考放棄です。よ。

 残念ながら 哲学以前です。人間放棄です。





 ののしりのチャンスを与えてやるのです。
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この回答へのお礼

 
>ののしりのチャンスを与えてやるのです。

だうしてそんなにののしりを求めるのでさう。


>しかもその問いについて そうであるからそうであると答えるのは すでに思考停止であり思考放棄です。よ。


だうして非思考の庭に漬かっている人が、人に思考停止とか思考放棄なんて言えるのでさう。
だうして分かるか分からないかが分からないって言う人がそんなこと分かるのでさう。
 

 

お礼日時:2014/11/07 17:30

だうして貴方は語尾を「せう」でなく「さう」とかくのでせう?

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この回答へのお礼 お礼日時:2014/11/07 14:25

ミカンなどという存在は無い。


ミカンもブドウも、同じ陽子や中性子、電子の集まりで
あり、単に並び方によって呼称を変えているだけであって、
違う存在ではない。
ただ、その「並び方」に歴史的経緯(進化における種分化)
が関わっているので、現時点において自由な互換性がない
だけだ。
しかし、その百をこえる種類の素粒子も、数種類のクォーク
の“並び方”であり、そしてそのクォークもたった1種の量子
の振動状態の違いに過ぎず、さらにその量子(=光速)が、
現象表面的な非光速性に由来する仮説的な時空の広がりに
対する無の射影である事が明らかとなっている(「超光速=
過去=記憶=時間的流れ」と「光速下=未来=予測=空間的
広がり」の相補分化)。
そうした本質的な認識を怠った、日常的な現象表面に束縛さ
れた(存在性を先入化した)考えを「素朴唯物論」と呼ぶ。
「だうして蜜柑は蜜柑なのでさう」の回答画像1
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この回答へのお礼

 
一つ真面目にあなたの考えを聞いてみましょう。

我々が知っている光の速さは3✕10^8[m/s]であり、光速度は不変であると考えています。
しかしあなたは超光速の世界は存在すると主張し続けている。
そして光速下の世界も存在すると主張し続けている。
そしてこれらは過去と未来の世界であると主張している訳です。
すると光速度4✕10^8[m/s]の世界は存在し、それは過去のある時点の世界であるということなのでしょうか。
また光速度5✕10^8[m/s]の世界は存在し、それもまた過去の別のある時点の世界であるということなのでしょうか。
更に光速度2✕10^8[m/s]の世界は存在し、それは未来のある時点の世界であるということなのでしょうか。
あなたはこのようなことを主張し続けているのですか。
 

お礼日時:2014/11/12 12:24

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