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そもそも、自民党と公明党って、なぜ連立するようになったんですか?
憲法改正についての考え方とか、わりと根本的な部分が違いますよね。
それなのに、なぜ、その自民党と公明党が連立するのでしょうか?
経緯や、理由など教えてください。

今までに、自民党と公明党が意見が合わなくなり、連立を外れるのではないか?と思うような時もありましたが、公明党は連立を外れませんでした。それがよく分かりません。

初歩的な質問すぎるかもしれませんが、ずっと疑問だったので、教えてください。。

A 回答 (8件)

>自民党と公明党って、なぜ連立するようになったんですか?



本音からいえば、公明党の持つ“創価学会”の組織票が欲しいから。

公明党からすれば、野党でいるより与党として存在している方が、法案を通しやすいから。
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この回答へのお礼

なるほど。
そんなに単純な理由だったのですね。

お礼日時:2014/12/06 19:41

ウダウダ解説する必要はないだろう。



自民党は法案を通すために過半数を確保したいから、公明党は与党でいたいからです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2014/12/06 19:40

ひとつは公明党と手を切れば創価学会の強い組織力で痛手を蒙るから。



もう一つは自民党内部に創価学会、親韓派が多いから。もちろん親中も多いですけど


今回親韓派の議員が閣僚から外されましたね。一般議員は外せませんが閣僚にしておいて下ろせば立ち直れませんから。
でも一番効果的なのは選挙で落すことです。ただ、馬鹿な国民がこういう輩をオラが村の議員様で受からしちゃうからどうしようもないのです。

今回はいいグループも多いので、手を切ってほしいんですけどね。
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この回答へのお礼

なるほど。
詳しい説明をありがとうございます。

お礼日時:2014/12/06 19:40

 私個人が見た政治の流れからすると、一番決定的な要因となったのは、細川内閣の与党として政権立ち上げに参加し、初めての与党になったことで、与党の立場に立つことの有利さや効果を実体験したことではないかと思います。




 結党以来、ずっと野党であった公明党が政権入りして与党となったのが、1993年の細川内閣のときです。

 公明党は、非自民非共産を基盤にした連立与党の一員として、細川内閣に、4人の大臣を送り込むことに成功し、細川内閣に続く羽田内閣には5人の大臣を送り込みました。 しかし、その立場も一転、連立与党の一員であった社会党が、長年の宿敵自民党と組んで村山自民・社会・(おまけの新党さきがけも加わって)連立与党が成立し、一転野党の立場に転落しました。

 その後、非自民非共産の枠組みの中で、与党として政権復帰への方策を探るも、野党は再編による合併・分裂が続き、政権の座に復帰する可能性が見えない中、反自民の社会党の豹変と同様、1999年小渕内閣に参加して大臣1人を入閣させました。
 これ以後、単独では過半数維持の出来なくなった自民党が、組織基盤の強い公明党の確定票を上積みして、選挙に勝てるようになり、その分、公明党が政権内で一定の発言力を持ち、大臣の椅子2人を確定させ、政権の座についている有利さを享受しているようです。

 前々回の政権交代選挙で民主党が政権を取った時には、幹事長であった小沢一郎が公明党の民主党政権への参加を画策して、自民党の野党転落の恒久化を狙いましたが(公明党側も、長期に野党のままよりは、政権参加しようという空気が強かった)、小沢一郎が検察の仕掛けたスキャンダルで民主党幹事長を辞めることとなり、公明党の民主党政権への参加は立ち消えになりました。

 前回の選挙では、自民党・公明党が勝利し、念願の政権与党の座に復帰しました。


 私の結論:
 単独では政権を取れない公明党にとって、連立相手がどの政党でも「政権与党を続けたい」というのが、本音のように見えます。連立を外れて、野党第一党とくっついて政権を取れるならそのような選択肢もあるでしょうが、政権を取れないなら最終的に連立離脱はしないと思われます。
 
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この回答へのお礼

歴史的背景なども交えて説明していただき、ありがとうございます

お礼日時:2014/12/06 19:42

支持母体は犬猿の仲なのですが、先生方は持ちつ持たれつの仲なのです。

候補者調整が出来れば、お互いが得なのです。野党も見習うことです。
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この回答へのお礼

なるほど。

お礼日時:2014/12/06 19:42

自公政権の前史として,公明党が言論出版妨害事件の幕引きを田中角栄に依頼したことから始まります。


言論出版妨害事件とは,1960年代から70年代にかけて創価学会が自分たちに批判的な書籍の出版・流通を妨害していた事件です。
1970年に創価学会会長(当時)の池田大作が謝罪して終焉しますが,そのときに裏で手回ししたのが田中角栄です。
それ以来、自民党田中派~竹下派と創価学会とは蜜月関係となります。

1993年に選挙制度改革を巡り宮澤喜一首相(当時)に対して内閣不信任案が可決され、衆議院解散となります。(嘘つき解散)
その後の選挙で,自民党が過半数割れに追い込まれます。(55年体制の崩壊)
選挙後,細川護煕を首相とする非自民・非共産連立政権(日本社会党、公明党、新生党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合、民主改革連合の連立)が発足します。
しかし,国民福祉税構想を巡って議論が紛糾し細川が首相を辞任し一年もせずに瓦解してしまいます。
そして,自由民主党・日本社会党・新党さきがけによる村山富市内閣へと受け継がれます。

瓦解後に政党が色々と再編され,公明党組は下野して新進党が結党されます。
その後も色々と政界再編が続き,1998年には公明党に戻ります。

1998年に行われた衆議院選挙で,自民党はまたも改選前の61から45に大幅に議席を減らしました。
選挙後、自民党の重鎮竹下登が創価学会会長の秋谷栄之助と密かに会談を行い、創価学会の協力を取り付けます。
自民党としては,衆参両議院で安定多数を確保するためには,連立を組んでいた自由党だけでは足りず,公明党を引き込んだわけです。
それ以来,自民党と公明党の蜜月関係ができあがり,現在に至ります。
そして,「選挙区は自民、比例区は公明」という選挙協力をしていた時期もあります。

とまぁ,これが大まかな経緯ですね。
つまり,55年体制が崩壊し下野した自民党が与党に返り咲いたときに政権の安定運営をするために公明党の議席が必要だったこと,自民党の重鎮である竹下登が創価学会と懇意にしていたこと,公明党としては自らの政策を実現させるためには与党連立を組んでいたほうが良いこと(実際に地域振興券や大型公共事業など公明党の意向で実現した政策も多い)などなどでしょうか。
それ以来,別に連立を解消するほどの対立も無いことから現在も続いているという感じだと思います。

ではでは、参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

詳しい説明をありがとうございます。
参考になりました。

お礼日時:2014/12/06 19:43

自自公の3党連立からじゃないかなぁ?


それで安定多数の数にした。
その後自由党が抜け、公明だけ残った。
(すんません!この辺はあやふやです)

公明と組んだのは、やはり票目当て。
選挙区を自民党。比例は公明党で票を伸ばそうとした。
学会員の動員は人気が下火だった自民には欲しかったのでしょう。

また、公明としても、与党にいる事で学会員中心の政策も実現し、
何よりも、与党でいれば、池田大作の国会での証人喚問(政教分離の憲法違反)を不問に出来ました。

確かに隠れ学会員は多くいますね。
一説では、政治家・官僚・財界・マスコミのトップは学会員だとか。
もし本当なら、日本が良くなる訳ないですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2014/12/06 19:44

自民党員の大半は創価学会の信者だからです



じゃあ公明党に入党すれば?とお思いでしょうが
やはり 公に学会員と言いたくない自民党員も居ますし 笑

自民党員は実際創価学会の支援がないと大半は落選します
公明党としては 「学会票で自民は助けられてるんだから見返りで連立ぐらい良いよね?」という事

実際 民主が政権を取ったとき公明党は民主とも連立を組もうとしましたが
民主に学会員はほぼ居ないらしく 鳩ぽっぽが断固連立拒否しましたね 笑
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2014/12/06 19:44

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