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まずは、Natalie Dessayの歌を聞いてもらいまして

 (↑5分は長すぎると思う方は、↓ラスト2分を)
https://www.youtube.com/watch?v=Zo-H__xycvE

Natalie Dessay、凄すぎます。
曲がどうのこうのというよりも、Natalie Dessay、凄すぎ!!
こんな歌、あり得ない、既に人間業を超えている!!!!

途中(2:20くらい)でNatalie Dessayに何かが憑きましたよね。
この歌は、Natlie Dessayの力だけではなく、何かが彼女に憑依し歌わせていますよね。
クラシックの音楽家、演奏家には時々このようなことが起きますよね。
普段の演奏からは信じられないくらい、言葉に形容できないほど素晴らしい演奏をしたりする。


で、質問しますけれど、
 1 この時、何が起こっているのでしょう?
 2 何かが憑いたんですか?
 3 何が憑いたのでしょう?


カール・ベームは、ウィーン・フィルを「ひとたび楽員に霊感が与えられると、およそ考えられることを全てやり尽くす」と評したことがあります。

プロのクラシック演奏家の、この霊感、インスピレーションって何ですか?
これが涌くと、あるいは憑くと、何かスゲ~ことをやらかしたり出来るんですか、
プロのクラシックの演奏家というのは?

A 回答 (12件中1~10件)

こんばんは。



厄介な質問を出されましたね。インスピレーションという言葉が出ると、説明に苦労するんですよ。出なければいいなあと思っていました(笑)。

Natalie Dessayの例ですが、私の場合、長年やっていますし、数えきれない演奏に接してきているので、少しぐらいのことでは驚きません。もちろん非常に優れた演奏で、技術、表現力、ともに世界トップクラスであることは疑いありませんが、この演奏をもってインスピレーションとか、憑依とか、何かが降りてきている、という捉え方は少しいき過ぎですね。もう少し冷静に見る必要があります。ねこさんは理系でいらっしゃるので、抽象的、暗示的な芸術家のとらえどころのない説明だけより、もう少し分析的な説明があった方が納得できるのではないでしょうか。

本題に入る前に、ちょっと気になっていることがあります。以前、シューベルトの御質問の時に、グルダがお好きであること、内田光子は個性的過ぎてついていけないことを書いていらっしゃいました。しかし実際には、グルダの方がはるかに個性的です。内田光子は、演奏時の動きや顔の表情に癖があるので、そういうところに影響されていませんか? このNatalie Dessayの例も、技巧的華やかさと、視覚的効果(演技)に幻惑されているのかもしれない、と推測します。実は、私の近所にも熱狂的なクラシックファンの方がいて、私にいろいろ話を聞きたがるのですが、その人の特定の音楽家への感心ぶりを聴いていると、どうしてもずれを感じてしまいます。一般の聴衆がすごいと感じる部分と、プロがそう感じる部分は一致しないのです。というわけで、この動画のNatalie Dessayは、もちろん、本番ならではの精神の高揚や充実感は感じていると思いますが、基本的には冷静に演奏しています。トランス、というような状態ではありません。

Natalie Dessayの技術は、容易に到達できるレベルではありませんが、コンサートの時に特別のことが起こったからできたのではなく、普段からこのレベルで歌っているのですよ。この速さと、イントネーション(音程)の確かさで歌うために必要な、体のあらゆる部分のコントロールの仕方を、長年の積み重ねで習得してきているのです。それと、この曲はミュージカルですから、それに見合った演技をしていますけれど、これも、普段オペラを歌っている歌手なら、当然いつも「演技」をしているわけで、ごく普通のことですね。鬼気迫る演技、というわけでもありません。むしろ、手慣れたもの、と感じます。しかし、高度な技術や演技は、神がかり的な印象を与えやすいものと見えます。パガニーニが現れたとき、それまで聞いたことのないような技巧を目の当たりにした人たちは、悪魔が憑いていると思ったでしょう。でも、現代のヴァイオリニストはみなパガニーニの曲が弾けるわけです。

たしかに、コンサートなどで、本来の自分の力以上のものが発揮できた、と思える瞬間はあります。しかし、もともと持っていない能力が突然現れるわけはないので、それはやはり、眠っていた潜在的能力です。普段はそれに気が付かないのですが、特別の条件がそろったとき、精神の高揚でそれが目覚めるということでしょう。火事場の馬鹿力、というたとえは適切ではないかもしれませんが、それに近いかもしれません。ただ、普段できなかったことがある日突然できたとき、なぜこんなことができたのだろうと不思議に思い、自ら神秘化してしまうことはあると思います。特に芸術家は、資質的に、そういうことを客観的に分析して、こうしたからできたのだ、と説明するよりも、何か目に見えないものの力と表現しておきたいものです。例えば、バーンスタインがマーラーの交響曲の名演をするとき、それは、作曲家ならではの楽譜の読み込みや解釈があって可能なのですが、「マーラーから電話がかかってきて」などと言うわけです。演奏だけでなく、作曲するときも、突然楽想が次から次へと湧くことがありますが、こういう時の状態を説明するのは困難なので、すぐ霊感、インスピレーションという話になるんですよね。その方が手っ取り早いし、プロではない一般の聴衆も、インスピレーションという自分たちには理解できないナゾの部分があると思うことで、余計に魅力を感じるということはないでしょうか。

憑依という形容をしたい気持ちもわかるのですが、これは、日本での方が言われやすいかもしれません。というのは、日本と西洋では、自我というものの重さが違い、西洋的に考えるならば、芸術作品、演奏は、自我を持つ「個」が創造するものですから、そう簡単には憑依という捉え方はしないでしょう。それに対して日本では、芸をする者は憑代のようなもので、外から来たものが通り抜けて実現されるという感覚もあると思います。ただ、私は、こういうことは、文化伝統が違うために、捉え方と記述の仕方が違うだけで、結局はやはり同じ人間なので、脳の中で起きていることは同じだとみています。東洋と西洋の違いばかりを強調したがる人が結構多いのですが、そして、実は私も若いころはそういう考えに走ったのですが、やはりそうではないと思っています。

作曲の方の話になりますが、インスピレーションについては、過去の芸術家がいろいろ言っています。だれがどんなことを言っていたか、忘れてしまいましたが、西洋の作曲家などは、創作の時にインスピレーションが果たす役割の比率は、概して少なく語られることが多かったような気がします。
作曲をやっているというと、インスピレーションで書くの? それとも理論で書くの? などと聞かれることがあります。つまり、理論とインスピレーションは別のものだと多くの人が思っているのでしょう。でも、ちょっと考えればわかるのですが、理論や技術を習得していない人が、インスピレーションだけで何かができるかというと、やはりできませんよね。私は、理論や技術とインスピレーションの間には、明確な線は引けないという考えです。技術的な鍛錬があるからこそ、インスピレーションは湧くわけですし、インスピレーションによって得たものが、そのままでは使えず、理論的に修正しなければならないこともあります。あるいは、理論的に考えて作り出そうとしているとき、いくつかの可能性を考えて、これはだめ、この方が少しいい、といくつものやり方を考えて迷っている最中に、突然全く別の解決法を思いつくこともあります。理論的な思考のなかにもインスピレーションがあるということですね。ちょっとわかりにくいかもしれませんけれど。

作曲する場合もそうですが、演奏の場合も、高い技術と理論的な理解が深ければ深いほど、表現の可能性も多くなります。その、たくさんの「表現の引き出し」が開きやすくなった時が、インスピレーションの起きやすい状態です。では、どういうときに開きやすくなるかと言えば、リラックスと適度な緊張状態、興奮状態が両立し、感覚が研ぎ澄まされている時です。コンサートの本番では、一流の音楽家でも緊張するものですが、全く緊張がないよりは、適度な緊張があった方がよいのです。そして、いざ舞台に出てしまって、もう逃げられない状況になれば、逆に感覚も研ぎ澄まされてきます。自宅で演奏するときやレコーディングと違って、やり直しがきかないという状況と、期待して待っている聴衆を意識することで、意欲も高まります。音楽家はそもそも、常に今現在やっていることよりさらに上があると思っていますので、これで終わりということがありません。リハーサルを重ねていく過程で、どんどん良くなるわけですが、向上するのはリハーサルの間だけではなく、本番もその延長線上にあります。ですから、常に上を目指す気持ちと、本番の緊張感、共演者とのリハーサルを通じての相互理解、さらに、オーケストラの場合は、指揮者のカリスマ性などが混然となって、時として鬼気迫る演奏が実現します。名演が実現されるためには、これ以外のことも含めていろいろな条件がそろわないといけません。

少し、例を挙げてお話ししようと思うのですが、長文になったので、ここで一度切ります。また、のちほど。

この回答への補足

理系人は、このインスピレーションを閃きと称します。
そして、この閃きは、本人にも説明ができない。
なぜか、天啓のごとく、突然、頭の中に浮かんだとしか言えない。
 ───魔術師と呼ばれた大数学者、ラマヌジャンは「寝ている間に、女神が現われ、教えてくれた」と言っている。お師匠さんのハーディは「絶対に嘘だ」と言って、この話を信じなかったけれど・・・───

もうこの領域になりますと、我々、凡庸の人間にはもはや理解不可能。
ですが、この閃きは、不断の努力があってこそ可能なのでしょうね。

補足日時:2014/12/04 21:29
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この回答へのお礼

こんばんは。


☆この動画のNatalie Dessayは、もちろん、本番ならではの精神の高揚や充実感は感じていると思いますが、基本的には冷静に演奏しています。トランス、というような状態ではありません。
◇ですね。
彼女は、いたって冷静で、十分にコントロールされた熱狂(?)、興奮状態にあるんだと思います。
 ───たぶん、彼女が誰よりも人一倍醒めている(ポリポリ)。このことは、歌い終わった彼女の表情から分かる───

分かってはいるのですが、
素人が見ると、神がかって見えちゃうんですよね~♪
騙されちまう(笑い)。
ただただ、「何だか分からないけれど、スゲェ~。これはあり得ないだろう」と呆れて感心してしまう。
 ───この動画を見たとき、感動したというよりも、「ホント~に凄い」なと笑うしかなかった───

ですが、あれは一世一代の演技、熱唱ですよ。
彼女をもってしても、そうそうできるものではない、と思います。



☆実は、私の近所にも熱狂的なクラシックファンの方がいて、私にいろいろ話を聞きたがるのですが、その人の特定の音楽家への感心ぶりを聴いていると、どうしてもずれを感じてしまいます。一般の聴衆がすごいと感じる部分と、プロがそう感じる部分は一致しないのです。
◇らしいですね。
CDやDVDなどで演奏者が「これが私のベストの演奏」と思うものが、音楽評論家からクソ味噌にけなされていたりすることがよくあるようです。
「この演奏はダメだから録音しなおしたい」と思っているものが、高く評価されていたりして、この曲のBEST盤になっていたりする♪
ジョージ・セルの録音はプロの演奏家、音楽学者などから高く評価されているのに、クラシックファンには人気がない。
私もセルの録音の素晴らしさがさっぱり分からない(笑い)。
私は、セルより華やかなオーマンディーの方が好きです。
セルのベートーヴェンの交響曲なんか聞きたくもない♪


☆たしかに、コンサートなどで、本来の自分の力以上のものが発揮できた、と思える瞬間はあります。しかし、もともと持っていない能力が突然現れるわけはないので、それはやはり、眠っていた潜在的能力です。普段はそれに気が付かないのですが、特別の条件がそろったとき、精神の高揚でそれが目覚めるということでしょう。
◇日々練習をし、己れの技術を磨いているから、可能になるのでしょうね。
潜在力として秘めていないものが現われるということは考えにくい。

剣の舞
https://www.youtube.com/watch?v=hggTOIDPkKA

我々、素人はこういう凄い演奏を見せつけられると、「神だ~♪」と叫ぶ以外ない。

でも、この演奏は凄いよな~。
音楽になっているもの。
そして、これを一度聞いてしまうと、他の「剣の舞」の演奏は聞けなくなってしまう(笑う)。


☆。私は、理論や技術とインスピレーションの間には、明確な線は引けないという考えです。技術的な鍛錬があるからこそ、インスピレーションは湧くわけですし、インスピレーションによって得たものが、そのままでは使えず、理論的に修正しなければならないこともあります
◇でしょうね。
あと、演奏家の楽曲の理解(の深さ)が重要なのでしょう。



☆では、どういうときに開きやすくなるかと言えば、リラックスと適度な緊張状態、興奮状態が両立し、感覚が研ぎ澄まされている時です。
◇これ↓なんか凄いと思いますね。
https://www.youtube.com/watch?v=F1qASfzTAfQ

ちょっと頭の部分が切れていますけれど、
第三楽章から第四楽章への移行部。
この時の緊張感の高さ、張り切れんばかりの緊張感から解放されて、オーケストラが一気に・・・。

乗りに乗ってるウィーン・フィル。
やっぱ、ウィーン・フィルだわ~♪

今のウィーン・フィルに物足りなさを感じるのは、私だけだろうか?


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/12/04 19:54

バーンスタインとベームのエピソードには納得です。

現代の指揮者が小粒だというのも、その通りだと思います。指揮者だけでなく、器楽演奏家も同じです。
大変有意義でした。またよろしくお願いします。
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一つだけ付け加えます。

ファンや評論家はいろいろ言いますが、才能のある人同士は、結局お互いを認め合うんですよね。Wikiの記述なので、裏は取っていませんが、バーンスタインの項を読んでいたらフルトヴェングラー、カラヤン、チェリビダッケ、クライバーとのエピソードは心に残りました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%8A% …
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この回答へのお礼

バーンスタインがカール・ベームについて語った言葉は
http://homepage3.nifty.com/mahdes/tkb1.htm
に出ておりやす。

お礼日時:2014/12/08 13:25

こんばんは。



>リハーサルの鬼と言えば、やっぱ、この人でしょう。

ベームのことは御存じだと思ってわざと外しました。時には、特定の団員に目をつけて、その人だけ執拗にいじめることもあったとか。で、同郷の人だとわかるとやめるとか(笑)。でも、これくらい厳しいのが当たり前なんですよ。最近は、経費削減のために、リハーサルの時間が取れなくなっているので、なかなかこういうリハーサルはしたくてもできなくなっています。チェリビダッケなども、リハーサル時間の要求がすごかったのです。変人と思われているかもしれませんが、学ぶところはたくさんあります。私も一度、リハーサルを間近に見たことがあります。リハーサルのあと、学生の前で話したのですが、禅の話になり、鈴木大拙の本は全部だめだとのたまわっていました。バーンスタインも、一見穏やかそうですが、やはり要求は多いです。御存知かもしれませんが、最後にこれだけ御紹介しておきましょう。名演が、霊感だけではできない例、スタジオ・レコーディングでも生まれる例です。ウェスト・サイド・ストーリーのレコーディングのドキュメンタリーですが、この時バーンスタインが手を焼いたのは、リズム感の悪いホセ・カレラス。かなり厳しい場面が二カ所あります。一回目の方は、リズムが悪くて録り直しになる場面、二回目は、楽譜の不備か何かで機嫌を損ねたバーンスタインに恐れをなして、カレラスが歌えなくなってしまい、セッションの予定時間が終わってしまった。名演が生まれる背景には、時としてこういうトラブルもあるんですよ。下の動画の、15:45から21:05、1:02:33から1:10:53でよくわかります。



では。
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この回答へのお礼

ホセ・カレラスのこの話は、かなり昔に雑誌で読んだことがあります。
すっかり忘れていました(ポリポリ)。

ですが、
われわれ素人には奇蹟と感じられる演奏、パフォーマンスの裏には、
自身の才能におごることなく、プロの血の滲むような練習があるのだということが明らかになり、
大変、有意義なQ&Aであったように感じられました。



回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/12/08 13:04

こんにちは。


いつの間にか補足がまた増えていた・・・

>リッカルド・ムーティ/フィラデルフィアO. マーラー 交響曲第一番
>すごく良かったですよ。

私は、ムーティにはずっと厳しかったんですよ。たまにテレビで見かけて聞くときも、いいと思わなかったんです。表面的な効果で、内容がないという印象。でも、先入観もあるのかもしれません。フィラデルフィアは、ストコフスキーとオーマンディーが作り上げたサウンドだったと思っています。いま、「ローマの祭」の一部を、オーマンディーとムーティで聞き比べたら、やはりオーマンディーの方がいい。オーマンディーが辞めた後は、ほとんど聞いていないのです。イタリアの指揮者には、時々、深く掘り下げないで、勢いだけで流してしまう人がいるような気がするのですが、アバドなどもずっといい印象を持っていませんでした。晩年の数年間はずいぶんよくなりましたけれど。
マーラーは、一曲が長いので、それほどたくさんの録音を詳しく聞き比べるわけにはいきませんし、最近の演奏もたくさんは知らないのですが、間違いなく勧められるのは、結局、バーンスタイン、ベルティーニ、シノポリあたりですかね。全員作曲もした人ですが、やはり、マーラーのスコアを読み込むには、作曲家の視点は生きます。強弱の指定が極端なので、指揮法とも関係がありますね。振り方がおとなしい人には向かないところがあります。バーンスタインもベルティーニも、メリハリの利いたはっきりした振り方をしていますから。テンシュテットやレヴァインの録音も悪くなかったように記憶していますが、もう長いこと聞いていないので、今聞いたらどう感じるかわかりません。『巨人』は、バーンスタインの古い録音、ニューヨーク・フィルとのものが記憶に残っています。3楽章の歌い上げが素晴らしかった記憶があるのですが、これはきっと、後で録音したウィーン・フィルの演奏でも違わないかもしれません。
ヨーロッパのオーケストラとアメリカのオーケストラは、やはり伝統に違いがあるので、私なども無意識的にヨーロッパのオーケストラを優先的に考えます。無反省な本場指向もどうかとは思いますが、やはり、その音楽に適した伝統があることは否定できません。
マーラーとブルックナーに関しては、指揮者の側ですでに好みがはっきりしますね。マーラーを得意とする人はあまりブルックナーを振らないし、ブルックナーに向いている人は、マーラーは苦手なのではないでしょうか。音楽のつくりや美学が両極端ですから、自然とそうなるでしょう。カラヤンはマーラーはあまりやっていません。第9が出たときはかなり批判がありましたが、やはり、マーラーらしい、表現主義を先取りするような大胆さには欠けるようでした。Youtubeには、若いころのアバドとスカラ座の『巨人』が出ていて、これも笑ってしまいました。

>「オイオイ、名前で聞いてんじゃないか」と思ってしまった。

演奏家にも得意不得意がありますし、一生かけて取り組みたい作曲家が何人かいることもあります。特定の作曲家に時間をかけて、研究、解釈を積み上げていきます。ですから、スペシャリストという捉え方は、必ずしも間違ってはいないと思います。バーンスタインのように、まだマーラーがブームになる前から取り組み始め、一生演奏し続けた指揮者の演奏は、名前で選ばれる資格はあるのではないでしょうか。クナッパーツブッシュは、やはりその本領はワーグナーやブルックナーにあるのだと思います。しかし、指揮者の出身国や、どの国のオーケストラかということは、基本的には二次的なことではないでしょうか。シノポリやシャイーはイタリア人ですが、ドイツ、オーストリアの音楽は得意ですよ。

名演というテーマから少し外れてしまいましたが、本番でリハーサルを超える名演ができたとしても、それはやはり入念なリハーサルあってのことです。巨匠のリハーサルを見るとよくわかります。

バーンスタイン


カラヤン
https://www.youtube.com/watch?v=Shc-4AZVaNk&list …

クライバー
https://www.youtube.com/watch?v=NVk2Glu-7kM

チェリビダッケ
https://www.youtube.com/watch?v=16WF4RS5Jo0

著作権の切れた演奏を比較するのも面白いかもしれませんね。

ベートーヴェン
http://www.yung.jp/yungdb/index.php?cent_id=2&co …

マーラー
http://www.yung.jp/yungdb/index.php?cent_id=4&co …

ところで、あのバーンスタインとベルリン・フィルのマーラーですが、あのCDは、二日間のコンサートのいいところを取って編集したものです。演奏会直後、未編集のテープがNHKに送られてきて放送されたのですが、そちらの方が迫ってくるものがあります。ミスがあっても名演は名演、編集するべきではなかったと思います。
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この回答へのお礼

☆ところで、あのバーンスタインとベルリン・フィルのマーラーですが、あのCDは、二日間のコンサートのいいところを取って編集したものです。演奏会直後、未編集のテープがNHKに送られてきて放送されたのですが、そちらの方が迫ってくるものがあります。ミスがあっても名演は名演、編集するべきではなかったと思います。
◇これは、そう思います。
編集、つまり、LIVE演奏の《切り貼り》はして欲しくない♪



☆名演というテーマから少し外れてしまいましたが、本番でリハーサルを超える名演ができたとしても、それはやはり入念なリハーサルあってのことです。巨匠のリハーサルを見るとよくわかります。
◇リハーサルの鬼と言えば、やっぱ、この人でしょう。

https://www.youtube.com/watch?v=mzXDrITUHX8
https://www.youtube.com/watch?v=nhdB8_ioGZY

ライナー・キュッヘルは、当時のことを回想し、
「天皇さまのように恐ろしかった」
と言っている。

ニルソンは「イジメ」とすら形容している(笑い)。

そして、この、あらゆるオーケストラ、共演者、歌手に対するオールマイティーの《イジメ》権は、
ひとりベームにのみ与えられた特権だったとか(笑い)。
 ―――オーストリアの音楽総監督という、有りえない肩書きを持っていたからか(ポリポリ)―――


ウィーンフィルを振った歴代指揮者で最も練習が好きだったのがベームであったのに対して、
もっとも練習が嫌いだったのが、クナッパーツブッシュだと言われていますよね。
ウィーン・フィルとの練習に現われると、
「皆さんはこの曲(たぶん、ブルックナー)をよく知っています。では、さようなら」
と言い残し、練習場を後にしたことがあるとか…。
 ―――伝説です、嘘か本当かはわかりません。こういうエピソードが残されている―――
ウィーン・フィルとクナとは《以心伝心の間柄》であったということでしょうか♪



回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/12/07 19:20

こんばんは。



もう締め切られたかと思ってのぞいてみたら、何か面白い補足がついていますね。あとでお邪魔します。
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変な日本語になっていました。



私は、自分の作品が日本人によってだけ演奏してほしくないとは思いませんし、

私は、自分の作品を日本人にだけ演奏してほしいとは思いませんし、

この回答への補足

すいません、
ワーグナー指揮者ではなく、マーラー指揮者です。


それはそれとして、
ハイドン指揮者(そんなものがいるのか?)はモーツアルトのダメ、
真性のブルックナー指揮者は、マーラーを振ってはいけない、
マーラー指揮者のブルックナーは、本物のブルックナーではない、
など、
世の中(日本だけかもしれませんが)のクラシックファンの間には黄金律が存在しているようです。

ブルックナー指揮者の演奏は、(ハイドン)、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、R.シュトラウスが素晴らしく、
これ以外のものは紛い物判定を受ける。

名高きクナッパーツブッシュにいたっては、モーツアルト、ベートーヴェンなども贋物判定、バッタもん扱いを受ける。
「クナッパーツブッシュのモーツアルト、ベートヴェン、いいよね~♪」などうっかり言おうものなら、耳と頭を疑われ、
クナッパーツブッシュ同様に変人、もしくは、怪人扱いされてしまう(笑い)。

補足日時:2014/12/06 17:15
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この回答へのお礼

私の質問、回答、お礼などは、変な日本語表現、誤字・脱字の宝庫です。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/12/06 16:10

こんばんは。



>所詮、素人。
>知識が浅い(笑い)。

そんなことありませんよ。よく御存知です。
ラヴェルはしかし、フランス的なだけでなく、スペイン的、民族的でもあるんですよ。母親はバスク地方の出身でした。「スペイン狂詩曲」「スペインの時」・・・

>クライバーの第4、第7はバイエルンとのヤツですよね。

日本での公演も同じ曲目でした。これも名演で、クライバーがなくなった時、NHKで再放送していました。

>カラヤンのイタリアものはいいですよね♪
>(日本の)音楽評論家諸氏には「贋物」呼ばわりされたりしますけれど(ニコニコ)。

読まないので、知らずに済んでいました(ニコニコ)。音楽は世界語です。誰がやってもいいのです。日本の評論家は、古い本場指向をいまだに引きずっているのですか。私は、自分の作品が日本人によってだけ演奏してほしくないとは思いませんし、ヨーロッパの古典を演奏するときも、本気で伝統にのっとってやっているつもりです。少し前、バレンボイムがスカラ座でワーグナーをやった時、インタビューをしたNHK が、イタリアでワーグナーをやることについて質問したところ、バレンボイムの表情がちょっと厳しくなって、「スカラ座には、トスカニーニが築いたワーグナーの伝統がある」と答えていました。そういえば、名前は忘れましたが、もとは独文専攻の在日で、音楽評論に手を出している人が、クラシック音楽は、高級西洋料理を食べていないと理解できないとか何とか、そのようなことをほざいていた記憶があります。

>カラヤンのベートーヴェンと、ムラヴィンスキーのベートーヴェン、
>どっちがより本物に近いのでしょう?

ベートーヴェンの祖先はオランダ系ですから、オランダじゃなきゃダメ、とか言うんでしょうかね。

~~~~~~~~~~~~~~

No.5で終わりにするつもりだったのですが、うっかり忘れていたことがあります。
ねこさんはまだ御存じないようですが、問題の会員が別名で戻っています。御注意ください。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8834581.html
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8831885.html

この回答への補足

今日、ネットラジオで流れていて、三楽章の途中から聞いたのですけれど
 リッカルド・ムーティ/フィラデルフィアO. マーラー 交響曲第一番
すごく良かったですよ。

このCD持っていないので、この演奏をこれまで聞いたことがなかったのですけれど、
「あっ、そうか、なるほどね~。やっぱ、マーラーはボヘミアン的色彩を根底に持っているんだな~♪」
と感じさせてくれる演奏でした。
 ───三楽章の後半のごく一部しか聞けなかったけれど・・・───

ネットで少しマーラーの『巨人』の名盤とされるものを調べてみましたが、
案の定、このCDは挙げられていなかった。
ヨーロッパの名門オケでなければ、ワーグナー指揮者とされる人(特にユダヤ人指揮者)のものばかりでした。

「オイオイ、名前で聞いてんじゃないか」と思ってしまった。
 ───何を振っても「贋物」呼ばわりされるカラヤンも、当然、入っていない♪個人的には、ベームが振ったら一体どのようになるのだろうか、という興味がある。おそらく、「これはマーラーではなく、ブラームスだ」や「モーツアルト様式のマーラー」と酷評されるに違いない。是非、ベームとシカゴ響との組み合わせ、もしくは、メトやスカラ座のオケの組み合わせで♪───

イタリア人のムーティ、そして、カラヤン同様に『白痴美の権化』とされるフィラデルフィアには、
マーラーは無理というわけか(笑い)。

好き嫌いに分かれると思いますが、
ゆっくり目のテンポをとったフィナーレも、その音楽的構造がわかるような演奏でそれだけでも十分に名盤に値すると思うんですがね~。
白痴美といわれようが、フィラデルフィアの美しい音を聞くだけでも、このCDは十二分に存在価値がある。
こんな美しいマーラーの『タイタン』は、他にない。
この上なく歌うマーラーがあったっていいじゃないか。

補足日時:2014/12/06 16:54
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この回答へのお礼

こんにちは。


☆ベートーヴェンの祖先はオランダ系ですから、オランダじゃなきゃダメ、とか言うんでしょうかね。
◇だからでしょうか、オーケストラ・ランキングのTOPに、
アムステルダムのあのオーケストラが選ばれている(笑い)。

http://d.hatena.ne.jp/ushinabe1980/20100424/1272 …

オケの技術が低かった時代ならともかく、こんなランキングにどんな意味があるんだろう?
LSOがCSOやBRSOの上に序列される???
はてはて。

フィラデルフィアがTOP20に入っていないのも納得できなければ、
ボストンがフィラデルフィアの上だなんてことは、絶対にあり得ない。
オレは絶対に認めない!!



回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/12/06 16:07

No.2の補足コメントをいつお書きになったのか、全然気が付きませんでした。



>理系人は、このインスピレーションを閃きと称します。
>そして、この閃きは、本人にも説明ができない。
>ですが、この閃きは、不断の努力があってこそ可能なのでしょうね。

理系の方にもそういうことがあるのはよく知っています。おそらく、芸術家の場合と、起きていることは同じだと思うのですよ。一番大事なのは、毎日継続しているということですね。創造に使う脳の部分が、いつも活性化されていなければいけないのだと思います。しばらく作曲をしないと、何も思いつかなくなりますよ。そういうときは、強引に、理論で何かしら書き散らかすのです。しばらくやっていると、感覚が戻って、閃くようになります。逆に、次から次へ思い浮かぶときは、精神が高揚してしまって、夜、寝付けなくなります。消灯しても、考えが止まらず、何か思いついて、また明かりをつけて書き留めたりするので、いつまでも眠れません。こういう「閃き」も、脳科学で解明できるのかもしれませんが、それをやったらつまらないですね。女神のおかげにしておいた方がロマンはあります。ただ、「何かが降りてくる」ことを期待して待つばかりだと、他力に頼ることになって、サボるようになります。やはり、不断の努力ですね。

この回答への補足

NO.6の補足に「カラヤンのマーラー・巨人がうんたら」と書きましたけれども、
カラヤン、巨人を録音していませんね。
カラヤン・巨人の録音は、海賊版すら存在していない。
 ───カラヤンは、巨人を一度も振らなかったのかな・・・───

録音していないから、挙げられていないかったのか。


書くところがなかったので、ここの補足を利用しました。

補足日時:2014/12/06 17:33
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この回答へのお礼

☆やはり、不断の努力ですね。
◇ですよね。
怠けると、勘を取り戻すのに時間がかかってしょうがないですから。



回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/12/05 16:54

こんにちは。



>最初、「んっ!? 何か粘っこくてユダヤ的な響き? それとも、ルーマニアかどこかの民族音楽(ジプシー音楽とか)?」

ねむりねこ、というお名前の通り、居眠りしていますね。「ツィガーヌ」とは「ジプシー」という意味ですよ。おしゃれな曲ではないのでした。ジプシーの音階も使ってあるし。だから、こういう弾き方がぴったりなのです。当然、バルトークなどもよく合います(アンコールの曲もおもしろい)。



調べてみたら、同じ時期に同じ大学にいた人でした。クラスが違ったのが残念。他の動画もぜひ御覧ください。

https://www.youtube.com/results?search_query=Pat …

>ですが、バレンボイムがうるさい、出しゃばりすぎ。せっかくのルネ・コロの歌が聞こえないじゃないか!!

録音のせいだと思います。下の動画の方が、音が少し聞きやすいです。当時、NHK-FMの放送も自分で録音したのですが、この動画とは違う日のもので、そちらの方がもっと壮絶でした。バイロイトのオケピットは、客席からは見えない位置にあり、声は聞こえやすいのだと推測します。オケの音は、オケピットの近くにマイクを立てて拾うはずですし、舞台の音は少し拾いにくいかもしれません。ミキシングの問題もあるのでしょう。ほかのバイロイトの録音でも、聞きとりにくいところはありますが、最近は録音技術が上がって、歌もオケも鮮明に聞こえます。

https://www.youtube.com/watch?v=64XWYO9k5iI&inde …

全曲
https://www.youtube.com/playlist?list=PLEGKOC7mv …

声とオーケストラのバランスは難しいのです。声を優先にしてオケを抑えてしまうと、迫力がなくなってしまうので。作曲上、無理がある場合も結構あります。
バーンスタインのベートーヴェンの第9や、カルロス・クライバーの第4、第7も御紹介しようと思いましたが、きっとご存知ですね。前の回答に書きましたが、コンサートの方が緊張感があり、また、切り貼りをしない一貫した演奏ができるため、バーンスタインなどは、スタジオ・レコーディングはやめて、ライヴ・レコーディングしか出さなくなりました。しかし、スタジオ・レコーディングでも、カラヤンの「ボエーム」や「サロメ」は緊張感あふれる名演ですけれどね(まだ御存じなければ、ぜひお聞きあれ)。
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この回答へのお礼

《ツィガーヌ》とはフランス語で《ロマ(ジプシー)》を意味するのですか。
知らなかった(ポリポリ)。
所詮、素人。
知識が浅い(笑い)。


クライバーの第4、第7はバイエルンとのヤツですよね。
ベームの追悼公演。
ベームとは、お父さん(エーリッヒ)の時代との仲ですし、ベームもその息子・カルロスを高く評価し、可愛がっていたようですから、
この演奏はただの演奏ではなかったんでしょうね。
ミュンヘンにはベームの自宅もありましたし、
生まれるべくして、生まれた歴史的名演であったんでしょうね。


カラヤンのイタリアものはいいですよね♪
(日本の)音楽評論家諸氏には「贋物」呼ばわりされたりしますけれど(ニコニコ)。

「贋物」のチャイコフスキー、ヴェルディ、プッチーニとは如何なるものだろうか?
では、ムラヴィンスキーのチャイコフスキーは本物なのだろうか?

常々、こうした批評に対して疑問を抱いております。

そうそう、
カラヤンのベートーヴェンと、ムラヴィンスキーのベートーヴェン、
どっちがより本物に近いのでしょう?
それとも、
どっちもバッタもんなんでしょうか?(笑い)



回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/12/05 16:38

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