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 (1)  《神》なる次元と《経験世界》とのあいだの隔たりを重く見た場合に それらの関係をどう表現するか。これが ひとつの表現の問題である。そもそも神と人とは 互いに同じ平面において並列するものではない。絶対的と言うべき隔たりがある。

 (2) けっきょくのところ 神とヒトとの――次元を隔てた――関係を表現するには 仮りの表現にならざるを得ない。神本体をこの経験合理性を超えるようなチカラを持たない人間の言葉で直接に表わすことは出来ない。(つまりこれは 空(シューニャター)観である)。

 (3) ぎゃくに言いかえると 神を表わすときには 仮りの表現として――本体(答え)をみちびく補助線を引くかたちで――いかようにもその形式をこころみることが出来る。神についての表現形式は いくらでもある。人間は 自由に補助線を引けばよい。その真実味や信憑性を競えばよい。

 (4) かくて 神をあつかう聖書は――幾人かの聖書記者たちが相い競ったかのようにして―― 表現の問題である。ということは 表現形式の多様性の問題である。





 (5) とは言っても おそらく主題は 神とけっきょく人間としての我れとの関係であり この関係とは何であり 如何にあるか? だと考えられる。人間の条件(自然本性の限界)を問うかのような《存在》論。あるいは 《〈わたし〉とは何か》。そしてあたかも《無からの創造 creatio ex nihilo 》と言うかのように そこに創造された(生成して来た)《モノ》論――自然科学――。


 (6) 神が《創造する》とは どういうことか? 《つくる》とか《創造主》とかの表現ないし文字にこだわることはない。はずだ。

 ▲ (創世記1:1)
 http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Gen&c …

 ▲ Gen 1:1 בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים אֵת הַשָּׁמַיִם וְאֵת הָאָֽרֶץ׃
 ( Be-resit   bara’ Elohim    et-ha-samaim   wa-et ha-’arec.)
 ( In-beginning He-created God (acc.)-the-heaven and-(acc.) the earth.)

 ▲(KJV):In the beginning God created the heaven and the earth.

 ▲(新共同訳) 初めに、神は天地を創造された。

 (7) この《 created / 創造した》を表わす《バラー》なる語についてそれは 《切ることによって形をつくる》という原義の言葉であるようですが 《創造する to create 》の意味では 神にのみ使うと言います。

   ○ bara'
 http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexi …

 (8)  だとしたら ますますこの《創造する》なる表現形式にはこだわる必要がない。と考えられます。

 (9) すなわちたとえば 《光(あるいは天地)なるモノを作ろうと思う。というよりは 光なるモノがおのづから成るように環境をととのえてやろう。ぢゃあ そうすっか》とでも言って そうした。のかも知れない。

 (10) すなわち 《無からの創造》というときの《無》とは 有ったり無かったりする相対世界の無ではなく 絶対領域であるからには まったく人間には分からない。と同時に それを理解しようとして如何ようにもというほどにわれわれはそれぞれに補助線を引くことが出来る。

 (11) 絶対領域というのは 絶対無でもあれば絶対有でもありうる。したがって 神を《有る神・存在としての神・生命なる神》という呼び名で呼ぶことを人は選び得るし あるいはそうではなく 《無い神》としてもその呼び名を選ぶことが出来る。そのほうが 神を知るにはよい補助線だと思えば 人は自由にそれを引く。すなわち いわゆる無神論である。

 (12) 無神論にあっては この《バラー(創造した)》の中身を さらにたとえば 《いやいや 神などと言ってもその言葉はどの言語にも用いられているが 実質はない。あるのは ただ光などのモノのみである。すなわち 初めからモノがユラギを始め自己運動を起こした。というだけである。世界は モノの世界である》という表現形式をえらぶかも知れない。

 (13) 有神論と無神論。どちらも 人間にとって自由な表現形式をえらんだその結果としてあり 持たれている。互いに同等である。

 (14) ところで かの福音書記者のヨハネ(つまりイエスの弟子のヨハネ)は 言葉が《天地や光る》なるモノ(存在)と同時に発生したのではないかという説などは どこ吹く風で この言葉を《ロゴス》として《初め》に持って来た。すでに《神》として持ち出した。そういう表現形式を採ったのである。そういう補助線を引いたのである。

 ▼ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~~~~
  
 はじめに ことば(ロゴス)があった。
 ことばは かみとともにあった。
 ことばは かみであった。

 このことばは はじめにかみとともにあった。
 すべてのものは ことばによって成った。
 成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。

 ことばの内に いのちがあった。
 いのちは 人を照らすひかりであった。

 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。
 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (15) 表現の問題としてこのあたりまで たどり着けるのではないか。これを 検証しつつさらにあらたな出発へとすすむことが出来るのではないか。という意味で 成否と当否を問います。



 (16) なお《光あれ》(創世記1:3)というときドイツ語が 《 werden :〔光が〕成る》という語を翻訳で用いている。このことは ひとつの――補助線としての――ヒラメキを示しているかも分かりません。《有る》とともに《成る》というニュアンスの言葉を当てることも 一解ではないかと。

 (17) フォイエルバッハとかいう人は 神学は人間学であると言ったようです。たぶんこのフォイエルバッハの意図とは違って その《火の川(?)》を突き抜けて このいまの神学⇒人間の存在論――つまり人間と社会の理論――は さらにこれからも寄与するところがあるものと考えますが みなさんにあっては いかがでしょうか?

A 回答 (8件)

勿体無いなぁ・・



知恵が付き過ぎて神の本質を見抜けて無い・・

あなたの質問に どう回答しても 毎回 あなたの知恵の方が優ってる

しかし 神は 知恵だけでは 到底理解出来ません

神の本質は「愛」から成るものだから・・

そして それが判った時・・知恵とか祈りよりも実践が大事だと言う事を知る事と なります
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 勿体無いなぁ・・
 ☆ なのですか。

 ★ 知恵が付き過ぎて神の本質を見抜けて無い・・
 ☆ 神に《本質》があるのですね? 《見抜く》べき本質ですか。


 ★ あなたの質問に どう回答しても 毎回 あなたの知恵の方が優ってる
 ☆ ん? 

 《神》については その本質を見抜くべきであるということを どのように言葉を尽くして説明したとしても その説明よりも 《わたし(=ぶらじゅろんぬ)の知恵の方が優って》いて――という理由は ただちには理解しがたいですが―― その説明が届かない。届いても 理解が実地に肉づけされるようなかたちで身に着かない。――というような意味でしょうか?

 ★ しかし 神は 知恵だけでは 到底理解出来ません
 ☆ そうでしょうか? つまり それが人間のでしたら《知恵》も知識も要らない。わたしのようなバカ丸出しの愚かな人間をえらんで知恵をつけさせ どの論客よりも言わば権威をもった話し方をするようにさせる。そのことによって たとえその当のわたしが理解し得ていなくても 世の中に・かの木の上でハリツケになって去って行ったひとの言葉は伝えることがいくらかは出来るのではないでしょうか?

 《知恵だけ》のひとも捨てたものではないですよ。


 ★ 神の本質は「愛」から成るものだから・・
 ☆ ダメ!!! こんなことは 誰でも言えます。ステレオタイプ。月並み。クリシェ。あっちにもこっちにもどこを見ても 《愛 愛 愛》と氾濫しています。のではありませんか?

 知恵の中から 一片の愛をつむがなくちゃ。愛の中からこれこれの場合には どれどれの知恵をしぼって出すか。といった問題なのではないのですか?

 ★ そして それが判った時・・知恵とか祈りよりも実践が大事だと言う事を知る事と なります
 ☆ きみが大人になったとき きっとこのことは分かるようになるからねと子どもをさとすやり方。これは ペテン師のやり口ですよ。

 知らないなら知らないとはっきり言えばよいのです。

お礼日時:2014/12/06 15:51

知恵と言うより知識と書いたほうが正解だったみたいですね




そもそも 知識なんか無くても 万人の人間に神が理解出来る様になっているのです・・でないと 知識を勉強しないと神が理解出来ないなんて ハナっから考え難い事

知らないのでは無く 知っているからこそ あなたに必要なもの 欠けているものが解かるのです

だから 全てを語らないだけ・・
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この回答へのお礼

 ぢゃあ こちらもしゃべりません。



 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2014/12/06 16:40

こんばんは。



(ヨハネによる福音 1:1-5)

 はじめに ことば(ロゴス)があった。
 ことばは かみとともにあった。
 ことばは かみであった。


「ことば(ロゴス)あり」「神あり」
なぜこの順序かというと、「X ならば T(恒真)」はT(恒真)となるから。つまり「Xは神」ということはどんなXについても言い得る。神を主題として判断思考ができないというのは、「神はY」なる言明がすべて偽であるだろうから。


 このことばは はじめにかみとともにあった。
 すべてのものは ことばによって成った。
 成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。


「Xは神」については、Xを「ことば(ロゴス)によって成ったもの(概念)」とすることで、概念思考の対象領域をすべて敷衍する。すなわちおよそ概念が指し示す現実世界すべてに、神性がある。感性感覚もまた神秘といえる。

だけど、「神を感じる」という言明は、精確ではないと思われる。こういう事態は、神秘的感覚に神性を与えている、つまり悟性表象(想像)するということだ。(アルケー神信仰は尊重。表現の仕方を批判)

非思考の庭の領域にある「思考できないもの」は、概念思考の主題とはならないということは納得できるのですが、判断思考の基準(述語的概念・属性概念・イデア・抽象概念・ものさし)になるのではないかと思います。

つまり補助線思考とは、「思考できないもの」を主題としないで、ある主題を、「思考できないもの」かどうかと判断思考することだと思う。「神とは何か?」ではなく「何が神か?」という問いの形式をとると思われる。


 ことばの内に いのちがあった。
 いのちは 人を照らすひかりであった。


肉体的生命とは別の、人をして人たらしめる(人を照らすひかり)、精神的生命(霊性だと思う)が、ことば(ロゴス)の内にある。(神的ロゴス)の分身とも言える人に宿る霊性(人間的ロゴス)


 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。
 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。


暗闇とくらやみは区別しているんでしょうね。暗愚な者の中にも神性を見ているんではないでしょうか。自己の中にも他者の中にもその神性を見ることができない、そういう人は真に暗愚と言わねばならぬ人である。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 たぶん これまでの《正統派》によれば・つまりはそれこそ《既成概念(ローマ教会としての通念または常識)》としては かなり共鳴しているのではないかと思います。むろんシュウキョウがオシエを垂れるように語っているのではないと見ますが。



 それでですね。わたしの場合は 信仰としては・つまり非思考の庭としては いたって単純にして簡単なんです。

 《梵我一如》なるたとえば《霊と霊とのあたかも共鳴現象》が起きている。これのみなんです。すなわち:

 ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空・シューニャター・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:如来蔵・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(自然および超自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というコトが非思考の庭で起こっている。と想定したら あとはもう放っておきます。なぜなら《思考に非ず》だからです。


 言いかえると その仮りの理解のためには いわゆる神学のようなこととしても理論づけます。

 ただし これは 厄介なのです。

 たとえば 《ひかり》にしてみたところで モノとしての光とそしてあたかも神なる聖霊としての光とを区別しなければなりません。

 ★ 人をして人たらしめる(人を照らすひかり)、
 ☆ を取り上げても けっこう厄介です。

 すなわち たとえば人間の思いやり これも《人を照らす光》です。
 あるいは自然科学の成果 たとえば医学は その治療なるいとなみにおいて 健康を取り戻させるなら《人を照らす光》です。もろもろの科学的真実も 世界を見るのに明るく照らしてくれるので 光です。


 ところが
 ★ 精神的生命(霊性だと思う)
 ☆ この《精神的》が 思考の緑野であったなら 霊性とは違うわけです。《生命》と言うからには 霊性の方に入るかと思いますが その区別はむつかしいところがあります。


 それで 神なる聖霊は けっきょく《アートマン=霊我》とも呼べる非思考の庭でどんなハタラキを成すか? と言えば かえって単純に言うとすれば 《ひとを元気にする》ことだと思います。

 《人の心の奥なる心の灯心をともす火または光》が 霊性のそれである。

 あるいは 《汲めども尽きぬ泉の水のごとくつねに湧き出るその元気なるチカラ》といったタトエもあるかと思います。


 たとえば
 ★ 暗愚な者の中にも神性を見ているんではないでしょうか。
 ☆ わたしの考え方ですが・そしてそれは やはり表現の問題にもなるのですが:

 ○ わたしたちは 一人ひとりそれぞれ暗愚である。より少なく暗愚であるのも 程度問題である。すなわち 信仰を問うならば この程度問題を超えたところを問うことになる。

 ☆ といった前提を置くでしょうね。梵我一如の領域は あまり話したくないというように区別しておくことになるかと思うのです。

 ちょっと勢いで言ってしまうことになるかも知れませんが
 ★ 「神とは何か?」ではなく「何が神か?」という問いの形式をとると思われる。
 ☆ にちなんで言うとすれば 《神は何でないか?》を明らかにして 区別する道をすすむことになるかも知れません。



 ちょっと雑に一気に述べてしまったように思いますが・したがって否定的な見解を述べたと受け取られるかも知れませんが 焦点を《神と人との区別》に置いてみたことになると思います。

お礼日時:2014/12/07 00:12

すみません。

訂正します。


「Xは神」ということはどんなXについても言い得る。神を主題として判断思考ができないというのは、「神はY」なる言明がすべて偽であるだろうから。


「Xは神(真)」ということはどんなXについても言い得る。そして恒真である。
「神(真)はY」なる言明は、形式的に可能だけれど、偽となることがあり得る。恒真ではない。


神を主題として判断思考ができないというのは、いったいどういうことだろう?
「神を主題として判断思考ができない」という命題が間違っているのだろうか?
すなわち、「神は何か?」と問うことも「神は何でないか?」と問うことも妥当であるのか?
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この回答へのお礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 アペイロンのほうで知りましたが 徹夜だったそうですね。わたしにはむつかしくなりましたが。

 そしてあたらしいご質問に投稿しようと思っています。



 1. 神については もしそれが神というナゾを想定した上で仮りの理論として(つまりそういう神学として)命題を立てるぶんには まったく自由である。制約も制限もない。

 2. 言いかえると 神学はすべて神本体〔なる答え〕を理解しようとして補助線を引いたものである。

 3. 神を見たといった命題も時には出されて来る。これもすべて 代理表現として神を説明しようとするものである。神本体を見たわけではない。

 4. 言いかえると 神について自己表現したものは つねに仮りの説明であり その代理表現という前提では 《わたし》の主観にかぎっては いちおう真実であると見なされる。《わたしは神を見た》という命題も その人の主観とその表現としては 真実だとして扱われる。

 5. ただし《神を見た》発言は その主観を共同化することはかなわない。《わたし》においての主観真実が広く共同主観と成るとすれば それは 非思考の庭なる信仰においてである。《思考に非ざる庭》にあって もしそうとすれば共同主観が成り立っている。のみである。

 6. あと 前提としては 《非経験の場(神の領域)》と《経験世界》とを区別するということが絶対的な要請となっています。経験世界を超えた場を《非経験》と呼ぶときそれは 《非知》として説明される。《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》が 《非知》である。

 7. この非知なる神を アルケーと名づけるのは 主観にとってだけではなく一般性をも持つ。名前にはこだわる必要はないから。ただしぎゃくに言えば アルケーのみが神であるという命題は 成り立たない。非知なる前提を破ったことになる。アルケー以外の名前は 神にとってふさわしくないと《知り得た》と言っているからである。《アルケーなる神を感じる》と言っているのは その当人の主観において真実と見なされる。ただし主観共同化はかなわない。

お礼日時:2014/12/07 07:57

>《神》なる次元と《経験世界》とのあいだの隔たりを重く見た場合



これを前提として、

>人間の言葉で直接に表わすことは出来ない

>人間は 自由に補助線を引けばよい

の両方を見て、無神論もその補助線であるという視点は、面白いですね。たぶん宇宙物理学でいう複素時間なるものも、補助線の一つかもしれませんね。

他方、宗教から見れば、《神》なる次元から《経験世界》へ顕れる、突破してくる事態が、信仰の対象となりますね。隔たりがありながらも、むこうから、隔たりを乗り越えてくる。信仰とは、非経験の場や非知だけにあるのではなく、この事態への関わりにあると思います。

さらに、この事態は「共同幻想」で批判されえないことだと思います。互いに理解して日常的な社会を形成していること自体、共同幻想でない理由はないのですから。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 そして ご賛同のところもありがとうございます。(あたらしい説については みんなの前に提出するのは当然ですし 人びとは賛成なら賛成と言うことも ふつうのことだと思います。ですが 回答は 批判のためにするものという了解もどこかにあるようで 賛成票はなかなか提出されません。それにつけても ありがたいと思います。もっとも 最大限に述べつくした批判が いちばんの好物であるのも 実際ですが)。



 さて シュウキョウと信仰とは区別するものと考えております。

 ★ 他方、宗教から見れば、《神》なる次元から《経験世界》へ顕れる、突破してくる事態が、信仰の対象となりますね。隔たりがありながらも、むこうから、隔たりを乗り越えてくる。信仰とは、非経験の場や非知だけにあるのではなく、この事態への関わりにあると思います。
 ☆ このご議論は 微妙ですね。

 まづ用語をあらためて確認します。

 ○ 《非知》とは何か――神のことである―― ~~~~~

  経験事象
    可知
      既知
      未知
    不可知 (知り得ないと知ったものごと)

  非経験の場(そういう想定である)
    非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)

 ○ 《非知》なる神を受け容れたわが心なる《非思考の庭》

   信じる:非思考の庭:ヒラメキ
   ------------------
   考える:思考の緑野:コギト
   感じる:感性の原野:直感(∽ヒラメキ)

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ したがって 次の命題は そのまま真だと受け留めています。

 ★ 信仰とは、非経験の場や非知だけにあるのではなく、この事態への関わりにあると思います。
 ☆ すなわち 《この事態》というのは:
 ★ 《神》なる次元から《経験世界》へ顕れる、突破してくる事態
 ☆ です。つまりは 一般に広義の《ヒラメキ》です。

 これは インスピレーションとも言いますし 広く取れば《直観》とも言うと思います。感性における《直感》が すでに何らかの概念内容をもってヒラメキと通じているとき 《直観》と言えるのではないかと考えます。





 ただし・ところが 宗教は どうなんでしょう?

 ★ 宗教から見れば、《神》なる次元から《経験世界》へ顕れる、突破してくる事態が、信仰の対象となりますね。
 ☆ ここは 厳密にまいります。
 
 《信仰の対象》は 《非知》なる神です。言いかえると それは表象し得ないからには 《非対象》ではあります。
 つまりは 《〈神〉なる次元から〈経験世界〉へ顕れる、突破してくる事態》は ほぼすでに経験事象となっているヒラメキではないか。そしてさらには思考の対象にもなるところのけっきょくはオシエではないかと考えられます。 

 《神は 愛である》という命題は 人間の思考にかんする限りで(つまりそういう神学としてある限りで) たぶん大方の人は真であると言うと思います。ですが これはすでに思考の対象となっている経験事象です。《非知》なる神ではありません。

 よってこの命題あるいは一般にオシエを 神とすることはあり得ません。つまり《信仰の対象》ではない。――こうなると思うのですが いかがでしょうか。

 微妙ですね。



 つまり さらにシュウキョウ批判を――ひと言多いかも知れませんが――なすとすれば オシエは 信仰から得られた命題でありつつ それはすでに 信仰という蝉のその抜け殻となってしまっている。これです。いくらその命題が妥当であるとしても 信仰でもなければ信仰の対象でもない。むしろそのオシエを信じるなら(つまり無条件に受け容れるなら) それは 信仰の自殺行為である。こう考えます。






 ★ さらに、この事態は「共同幻想」で批判されえないことだと思います。互いに理解して日常的な社会を形成していること自体、共同幻想でない理由はないのですから。
 ☆ ん? 

 神なる次元から経験世界へ何らかのかたちで降りて来たというヒラメキ これは まづその人の主観です。その人が確信しているかぎりで 主観真実です。

 《なんぢ むさぼるなかれ》というヒラメキ内容であった場合 そのように言葉で表わしたときには 思考の対象となります。したがって オシエともなるのですが いづれにしろこれに同感する人は 主観を共同化させたことになります。共同主観が出来上がります。

 問題は 共同主観となった場合にはすでに 思考の領域に移っており 経験合理性による妥当かどうかの判定に付されます。そのとおりだと言う人と いや それはマチガイだと言う人とに分かれるはずです。それでよいわけです。

 《神は愛である》というヒラメキ⇒命題にしても それは 一概にそうは言えないという人も出て来るかも知れない。そして 思考の問題であるからには それはそれとして ふつうのことである。となると考えます。


 ということは もしこのような話をめぐって そこから微妙に逸れて行く場合もあります。すなわち この今挙げている命題――《むさぼるなかれ。ころすなかれ。神は愛である。等々》――について それは 信仰において得られたのだから(または 啓示によって書かれた聖なる書物の聖句なのだから) ただしいし しかも信じるものであり およそすでに神の言葉である。と言い出す宗教人がいる。ことになります。

 これは 共同主観が 共同幻想に成る瞬間です。幻想と言うより むしろ考えるべきものごとを信じろというのなら 精神錯乱です。無効の意志行為であると成ります。まいか?

お礼日時:2014/12/07 11:31

bragelonne さん こんにちは。



回答になってないかもしれませんが、今日はbragelonne哲学の完成のお手伝いとして参考までに。

ところで逆質問になりますが、bragelonneさんは、カントの神のみが持つ、「知的直感」は肯定しますか?否定しますか?

「対象を思い描くと同時に、対象が創り出される。あるいは想像される。」というもの。

人間は対象がまずもって与えられていることを前提にする「感性的直感」しか持っていない。

しかしですよ。「感性的直感」を使っても神の存在を信じ、信仰することができると私は考えます。

聖書の「知恵の書」13章 自然崇拝

神を知らない人々は皆、生来むなしい。

彼らは目に見えるものを通して、存在そのものである方を知ることができず、作品を前にしても作者を知るに至らなかった。。

かえって火や風やすばやく動く空気、星空や激しく流れる水、天において光り輝くものなどを、宇宙の支配者、神々と見なした。

その美しさに魅せられて、それらを支配する主が、どれほど優れているか、知るべきだった。

美の創始者がそれらを造られたからである。

もし宇宙の力と働きに心を打たれたなら、天地を造られた方がどれほど力強い方であるか、それらを通して知るべきだったのだ。

造られたものの偉大さと美しさを推し量り、それらを造った方を認めるはずだから。

とはいえ、この人々の責めは軽い。神を探し見出そうと望みながらも、彼らは迷っているのだ。

造られた世界にかかわりつつ、探求を続けるとき、目に映るものがあまりに美しいので、外観に心を奪われてしまうのである。

だからといって彼らも弁解できるわけではない。

宇宙の働きを知り、それを極めるほどの力があるなら、なぜ、それらを支配する主をもっと早く見出せなかったのか。

私の私見では、日本はまだ自然が残ってますが、自然豊かな地方の人も、労働するため都会に来て、都会暮らしをしていると、そのような自然の美は見出せず、日本人の「感性的直感」が鈍っているのではないかと思ってます。

地方創生!

「自然に帰れ!」ジャン・ジャック・ルソー
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ bragelonneさんは、カントの神のみが持つ、「知的直感」は肯定しますか?否定しますか?
 ☆ 肯定も否定も何も 《神が知的直感を持つ》のですか?

 持つかも知れませんが 神のことは分からないですよね? カントがそういうことを言っていましたっけ。

 人間が持つとしたら 知的直感は すでにそこに或る程度の理論が織り込まれているといった意味で《直観》になるかと思います。直感だけなら 感覚だけを言うのでしょうが それでも《知的》と言っているからには 何らかの命題がふくまれているのだと考えられますから。


 ★ 「対象を思い描くと同時に、対象が創り出される。あるいは創造される。」というもの。
 ☆ 直後の投稿により 想像を創造に直しました。

 これが 知的直感ですか。《対象が創造される》というのは やはりさすが《神》の領域を扱っているようですね。いや 分かりません。つまりカントの問題としては分かりません。読んでも忘れたか 寝ぼけて読んでいたかだと思います。


 ★ 対象を思い描くと同時に、対象が創り出される
 ☆ これは ちょうど今 

  △ 創世記 1:3 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。

 を題材として質問をおこなっています。同じ問題であるように思われます。

 ですから 神については唯ひとつの答えに限られるということはないと思うのです。《認識し意識したら そのことがそのまま存在となった》というのは 別様に言いかえるなら 《神は何らかの環境や条件をととのえて 光なら光が成るように図った》とも捉えることが出来るのかと考えます。

 《意識してその存在を生む》という表現のほかに 《そのモノの存在が言わば自然生成するように環境をととのえる》といった表わし方もありうるのではないかと。

 つまり 表現形式の多様性のもんだいだと思います。







 ▼ 聖書の「知恵の書」13章 自然崇拝 ~~~~~~~~
 ・・・
 かえって火や風やすばやく動く空気、星空や激しく流れる水、天において光り輝くものなどを、宇宙の支配者、神々と見なした。
 ・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここらあたりの文章について これらの《火や風や・・・》なる経験事象のモノゴトを《神》を理解するための補助線であると哲学は捉えるのだと思います。そういう議論になるのだと思います。

 (文学として・あるいはそれこそ 信仰としてなら いちいちそういう理屈は要らないかも知れません)。


 あぁ 次のようにも見られているわけですね。 
 ▼ とはいえ、この人々の責めは軽い。神を探し見出そうと望みながらも、彼らは迷っているのだ。

 ☆ そのあとで ふたたび《外観に心を奪われてしま》っており《彼らも弁解できるわけではない》ともあらためて言われているのですね。


 そこで:
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 人間は対象がまずもって与えられていることを前提にする「感性的直感」しか持っていない。

 しかしですよ。「感性的直感」を使っても神の存在を信じ、信仰することができると私は考えます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という《直感》を推し出すというコンタンなのですね。いいのではないでしょうか。ヒラメキは じっさいには感性のハタラキであるとも言えるかと考えます。いろんなハタラキの中の《知的直感につらなるヒラメキ》にかかわる《感性的直感》でしょうか。

 そこで
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 地方創生!

 「自然に帰れ!」ジャン・ジャック・ルソー
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ が来るのですね。
 《地方・地域》といった言葉をも言い直したほうがよいかも知れません。その地元が 中央であるわけです。国家の中央は ただ飾りのための中央ですから。仮りの中心ですから。

お礼日時:2014/12/07 14:51

No.6 です。



訂正

知的直感とは「対象を思い描くと同時に、対象が創り出される。あるいは想像される。」と書いてしまいましたが、想像ではなく「創造」です。

私は誤字脱字が多くすみません。
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この回答へのお礼

 了解しました。



 ☆☆ (趣旨説明欄) (14) ところで・・・言葉が《天地や光る》なるモノ(存在)・・・
 ☆ これについてマチガイがありました。

 x 《天地や光る》なるモノ
 ○ 《天地や光》なるモノ

 でした。

お礼日時:2014/12/07 14:54

(15)まで。


そうだと思う。引用のヨハネの福音については、特に同意できる。
絶対というものは、例えば4次元の下には三次元が∞に重ねられるように、様々な表現が可能なのだろうと思う。自由度の問題。それを空と表現するのは、個人的にはよく理解できるし同意もできるが、それが空の本意かどうかについては私は言及できない。つまり、空の定義として私は理解できるが、それが本来の空の定義なのかどうかは分からない。

(16)、(17)についてはよくわかりませんでしたが、表現の自由度の問題として、諸々についての解釈が可能であるという点については同意できます。様々な論争や葛藤が消滅すると思われます。

ただし、この論法であると、神にとっての神というものを想起せざるを得ず、そこには人間の引く補助線や天啓は到達できないという事になります。三次元から五次元には単純思考では飛躍できないようなものです。つまり、神の神を真の絶対とした場合、それは、絶対に知り得ないということになるのではないでしょうか。分かるか分からないかも、分からない、=完全に分からない、ということです。
ここに至って初めて、言葉が光であるというヨハネの言に、近い相が現れると思います。
つまり、想定された神にとっても、言葉(人間の言葉ではない)は神であるということです。
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ★ (15)まで。 / そうだと思う。引用のヨハネの福音については、特に同意できる。
 ☆ ヤッホー。

 ★ つまり、空の定義として私は理解できるが、それが本来の空の定義なのかどうかは分からない。
 ☆ ひとつの定義としてでいいです。ゴウインにそう定義しておきます。(ほかの・よりよい定義が来たら 席をゆづればいいだけですから)。

 ★ (16)、(17)についてはよくわかりませんでしたが、表現の自由度の問題として、諸々についての解釈が可能であるという点については同意できます。
 ☆ そのとおりです。そのとおりの意味において 次に指摘されているような効果があると考えます。

 ★ 様々な論争や葛藤が消滅すると思われます。
 ☆ 言いかえると 一般に《神》をあつかうときにけっこう無駄なやり取りをわれわれはして来たもんだなぁと確かに思います。特にシュウキョウがいけない。



 ★ ただし、この論法であると、神にとっての神というものを想起せざるを得ず、そこには人間の引く補助線や天啓は到達できないという事になります。
 ☆ ん? まづ《天啓》は 言葉のアヤです。文学じょうの効果だけです。天啓であると言えば そこに表現された命題や説明は 補助線ではなく神そのものを表わしているということにはなりません。いくら天啓だと言おうが すべては人間が引いた補助線です。

 ええっと ややこしい問題ですね。
 一方に 《神にとっての神というもの》がある。また《神にとっての神というものを想起せざるを得》ないそのものがある。
 他方には 《その神について理解しようとして引いた補助線》がある。

 補助線はあくまで・どこまで行っても 仮りの説明としての補助線ですよ。神本体に到達することは出来ないですよ。

 到達した――わたしは神を見た――と言う人は ときどきいます。そしてそれは その人の主観における真実であろうと見られます。そこまでです。(つまり その主観を共有しますと言う人も出て来ますが それは 主観としてのやはり補助線を ほかの人も共有したというのであって 同じく神を見たということにはなりません。神そのものを共有したということにもなりません。そういう雰囲気にはなるようですが)。


 ★ 三次元から五次元には単純思考では飛躍できないようなものです。
 ☆ ええ。おっしゃるとおりです。

 ★ つまり、神の神を真の絶対とした場合、それは、絶対に知り得ないということになるのではないでしょうか。
 ☆ これも おっしゃるとおりです。

 ★ 分かるか分からないかも、分からない、=完全に分からない、ということです。
 ☆ この等号のあとの《=完全に分からない》には 異議があります。

 先ほど《おれは神を見たんだ》という事例を挙げましたが この表明については じつは他人はその内容を完全には否定することは出来ないのです。つまり 《分かるか分からないかが 人間には分からない》ということは ひょっとして分かる人もいるかも知れないということを含むと見なければならないからです。

 ただしその場合も やはり述べましたように ほかの人との共有は――補助線以外は――成し得ない。成し得たということを決められない。

 ★ ここに至って初めて、言葉が光であるというヨハネの言に、近い相が現れると思います。 / つまり、想定された神にとっても、言葉(人間の言葉ではない)は神であるということです。
 ☆ あぁ。これは 《想定した神》について《言葉なり光なりの補助線が――補助線だとことわるならば 《人間の言葉》ではなく《経験的な光》でもないということになりますから―― 想定した神のことである》となります。それは そういうふうに説明しようとしているその中身そのものだと思いますから。


 いやぁ けっこう微妙ですね。ややこしいですね。

お礼日時:2014/12/09 10:16

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