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神=創造主と考える人は多いようです。
しかし果たして宇宙の法則、つまり世界の全てを支配する法則は創造し得るものかと考えてみました。
宇宙の法則は創造されたものではなく、また創造し得るものでもないと考えますが皆さんはどう考えますか。
やはり創造主がいて、この創造主によってあるとき突然宇宙の法則は誕生したと考えるのでしょうか。
 

A 回答 (20件中1~10件)

宇宙は打ち上げ花火だと思います。


宇宙がある一点から爆発的に拡大したのも花火とすればわかりやすいんじゃないでしょうか?

我々の宇宙を花火として
みている人たちがいる
我々が創造主としていたのは、その我々を花火としてみている世界の花火師だったりします。

その世界とはかかわりが
持てません。規模と時間が違いすぎるのです。

我々は花火ですから
その眺めている世界では
宇宙の誕生から消滅までの数億万年の時間が
ほんの数秒のことですし

我々が花火なら
眺めている人たちも
我々に比べて相当に
大きな人たちに
なります。

交流はできません
時間が違いすぎるので

我々が話しかけても
相手は早すぎて聞き取れないし聞き取れたとしても
返事を聞く前に
我々は一生を終えてしまいます

と言うより
その世界にたどりつく前に寿命が終わります
つうか宇宙が終わります
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この回答へのお礼

>我々の宇宙を花火として
みている人たちがいる


つまり我々の宇宙の外に別の宇宙が存在すると考えているわけですか。
では我々の宇宙の外にある別の宇宙も宇宙ではないのですか。
宇宙とは全世界を意味するのであれば、宇宙は一つでないといけないと思いませんか。
 

>我々が創造主としていたのは、その我々を花火としてみている世界の花火師だったりします。

ではその花火師の住む宇宙もまた別の花火師によって作られたことになるのでしょうか。
これを繰り返すと宇宙はタマネギのように入れ子構造になってて、ひとつの宇宙は必ずそれを創った別の宇宙の中に入ってることになるのでしょうか。
 

お礼日時:2014/12/09 08:44

私には意思があり、アルケーちゃんは私専従のダッチワイフだ。


君はアルケーちゃんのそのまた下。
単なる虫けらだ。
V字開脚が、君の唯一のとりえだ。
ゴキブリばんばん。
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この回答へのお礼

 
>私には意思があり、アルケーちゃんは私専従のダッチワイフだ。

なるほど君には意志がありそうだ。
それは変態という意志だね。
小学生の前でV字開脚しなはれ。
フンコロガシばんばん。
 

お礼日時:2014/12/09 08:50

それは逆だろうと思う。

法則が先にあり、人類の中で神が想像されたのだと。

だが、もしかすると、宇宙の法則というものが、自身で変異しうる性質を持っているのかもしれないと思うことはある。しかしそれも法則のうちというのならば、その法則は自らを自ら法則たらしめている主ということになる。

まぁ、私の空想だが。
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この回答へのお礼

 
>法則が先にあり、人類の中で神が想像されたのだと。

つまり、宇宙の法則 → 人間 → 神 の順に創造されたと考えるのですね。
これで行くと神は創造主ではなく、人間が神の創造主になりますね。
すると宇宙の法則は創造されたものなのでしょうか。
仮に宇宙の法則が変化流転するのであれば最初の宇宙の法則はどのように発生したと考えますか。
 

お礼日時:2014/12/09 08:58

宇宙の法則というのは「経験則」です。


いいかえると、自然の変化や運動に対して、一定のパターンを私たち人間がそれを自然の中に読み込むと、法則があると認識するので、もともと自然が法則を有するのではありません。
私たちは私たちがそれを認識するために帰納法的に見出したものを、あたかも自然が人間とは独立に法則を有し、その法則で自然や宇宙が運動しているものと演繹的に考え、認識にあったものを自然の中に投影して、考える傾向があります。
だけど、法則はあくまで「経験則」なので、自然が突然変化したりすれば、法則は適用できなくなり、新たな法則を作らねばならなくなります。
その新たな法則で、私たちは突然変化した自然をあたかも法則によって運動しているものと見做すのです。
その法則を絶対化して、あたかも神が法則を作ったものであるかのようにみなす傾向も、同じようにあります。
ヘーゲルによれば自然は精神の自己疎外ですから、私たちが作った私たちだけの法則を自然に投影して、自己疎外し、自然そのものがあたかももともと法則によって運行しているものと考えるから、自然法則が神が世界を創った時に一緒に創ったように転倒して、考えたりするのです。
それが「外化」とか「疎外」と言われるものです。

簡単にいえば宇宙の法則は人間が世界を秩序あるものとして認識するために便宜的に作り出したもので、絶対的なものではなく、あくまで「経験則」です。
自然がもともと有するものでもなく、神が宇宙と一緒に創造したものでもありません。
人間のための、人間のために、人間が作りだしたものです。
だから人間とは独立に存在するものではありません。
ただ、人間の作ったものを疎外して自然に投影するから、自然がもともと有しているように見えるだけです。
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この回答へのお礼

 
>自然がもともと有するものでもなく、神が宇宙と一緒に創造したものでもありません。
人間のための、人間のために、人間が作りだしたものです。
だから人間とは独立に存在するものではありません。


では人間が創りだしたものが宇宙の法則であるなら、人間以前は宇宙の法則は存在しなかったのですか。
地球が誕生したのは45億年前であり、人間が誕生したのはそれより100万年ほど前であると言われているけど、100万年より前は宇宙の法則は存在しなかったことになるのですか。
 

お礼日時:2014/12/09 09:08

解らないものは解らないとするのが正しい。

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この回答へのお礼

 
それじゃ哲学にならんだろが。
 

お礼日時:2014/12/09 09:32

 こんにちは。



 ★ 神=創造主
 ☆ って何のこだよ? 天地を創造したって あんた見たんかよ。ええ加減な話は しっかりとその中身を知ろうとしなきゃダメだ。または ボロクソにして葬るべし。


 ★ 宇宙の法則、つまり世界の全てを支配する法則
 ☆ って何だよ? ゴキブリにはゴキブリの法則があるのではなく 人間にとってと同じ法則があるってのかよ。

 それは 何だい。
 因果関係なる法則かい? そんなものは いちいち造らなくたって モノの自己運動についてまわるだろうよ。


 あんたは いったい何を考えてるんだい。何を問い求めているのか? それをはっきりさせるべし。

 何かおままごとでもやろうってえの?

 アルケー教会における乙女の祈り?

 
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この回答へのお礼

 
>★ 神=創造主
 ☆ って何のこだよ? 

神学とか称して旧約聖書の冒頭に出てくる例のアホらしい話のこと。



>あんたは いったい何を考えてるんだい。何を問い求めているのか?

問い求めるべきものが違うって言ってるのかな。
では何を問い求めればよい。

お礼日時:2014/12/09 12:27

時間自体が宇宙の法則の内にあると考えるなら、最初、宇宙の法則自体が発生する、と表現されるところの事象もまた、宇宙の法則であると言うことになると思う。


宇宙の法則は、始めより以前に、なんらかの形で有り得たのではないだろうか。
(これも私の空想にすぎないが。。)
順番としては、法則→人間→神と言う感じだと思う。
勿論、神と法則を質問者のように同一視した場合には、この順序も変わってくる。
法則(神)→人間 と言う風に。
その場合は、宇宙の法則は神自身であり、時間すらも宇宙の法則(神)が創造したことになる。
従って、「最初」が発生する以前から宇宙の法則(神)は、なんらかの形で有ったことになると思われる。
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この回答へのお礼

 
>その場合は、宇宙の法則は神自身であり、時間すらも宇宙の法則(神)が創造したことになる。

「創造した」という表現は論理矛盾ですが、気付きませんか。
宇宙の法則が神であれば、神が神を創ることになるので創造するという表現は出来ません。


>従って、「最初」が発生する以前から宇宙の法則(神)は、なんらかの形で有ったことになると思われる。

宇宙の法則は創造されたのではなく既に在ったのです。
いつ如何なる時点においても宇宙の法則は既に存在していた。
何故なら、万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神は永遠不変であり、永遠無限であり、永遠不滅だからである。
このように締めくくる以外ほかには考えようがないってことです。
 

お礼日時:2014/12/09 10:25

>それじゃ哲学にならんだろが。



哲学ごときが自然科学の領域を犯してはいかんのよ。

哲学ってのは、自然科学が解明した事実を解釈する学問に留まるのがちょうどよい湯加減なんですよ。
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この回答へのお礼

 
>哲学ってのは、自然科学が解明した事実を解釈する学問に留まるのがちょうどよい湯加減なんですよ。


ビッグバン宇宙論が出てきた辺りから自然科学は狂い始めているんで、いま哲学による舵取りが緊急課題として必要になっておるんじゃよ。
こんなんで湯加減なんって言ってたら哲学の存在価値は無しになります。
 

お礼日時:2014/12/09 10:32

神による創造=絶対確定化(=絶対無)


ではなく、
人による想像=現象表面的(いい加減な)定性化(=相対有)
として、有限な存在性は生じている。
「自我仮説と時空仮説の相補分化」として、自我成立の必要
として派生している環境を、無へ還元する過程が物理である。
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この回答へのお礼

 
宇宙は神によって創造されたものではない。
もちろん人間の脳内に創造されたものでもない。
宇宙を創造したものは存在しない。
何故なら宇宙は創造されたものではなく「既に存在した」ものだからである。
いつ如何なる時点においても宇宙の法則は既に存在していた。
既に存在するものを創造することは不可能である。
万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神は永遠不変であり、永遠無限であり、永遠不滅である。
このように結論する以外ほかには考えようがないのである。
 

お礼日時:2014/12/09 11:38

 No.6を承けます。




 【Q:聖書は 表現〔形式の多様性〕の問題である。】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8849035.html

 (1)  《神》なる次元と《経験世界》とのあいだの隔たりを重く見た場合に それらの関係をどう表現するか。これが ひとつの表現の問題である。そもそも神と人とは 互いに同じ平面において並列するものではない。絶対的と言うべき隔たりがある。

 (2) けっきょくのところ 神とヒトとの――次元を隔てた――関係を表現するには 仮りの表現にならざるを得ない。神本体をこの経験合理性を超えるようなチカラを持たない人間の言葉で直接に表わすことは出来ない。(つまりこれは 空(シューニャター)観である)。

 (3) ぎゃくに言いかえると 神を表わすときには 仮りの表現として――本体(答え)をみちびく補助線を引くかたちで――いかようにもその形式をこころみることが出来る。神についての表現形式は いくらでもある。人間は 自由に補助線を引けばよい。その真実味や信憑性を競えばよい。

 (4) かくて 神をあつかう聖書は――幾人かの聖書記者たちが相い競ったかのようにして―― 表現の問題である。ということは 表現形式の多様性の問題である。





 (5) とは言っても おそらく主題は 神とけっきょく人間としての我れとの関係であり この関係とは何であり 如何にあるか? だと考えられる。人間の条件(自然本性の限界)を問うかのような《存在》論。あるいは 《〈わたし〉とは何か》。そしてあたかも《無からの創造 creatio ex nihilo 》と言うかのように そこに創造された(生成して来た)《モノ》論――自然科学――。


 (6) 神が《創造する》とは どういうことか? 《つくる》とか《創造主》とかの表現ないし文字にこだわることはない。はずだ。

 ▲ (創世記1:1)
 http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Gen&c …

 ▲ Gen 1:1 בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים אֵת הַשָּׁמַיִם וְאֵת הָאָֽרֶץ׃
 ( Be-resit   bara’ Elohim    et-ha-samaim   wa-et ha-’arec.)
 ( In-beginning He-created God (acc.)-the-heaven and-(acc.) the earth.)

 ▲(KJV):In the beginning God created the heaven and the earth.

 ▲(新共同訳) 初めに、神は天地を創造された。

 (7) この《 created / 創造した》を表わす《バラー》なる語についてそれは 《切ることによって形をつくる》という原義の言葉であるようですが 《創造する to create 》の意味では 神にのみ使うと言います。

   ○ bara'
 http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexi …

 (8)  だとしたら ますますこの《創造する》なる表現形式にはこだわる必要がない。と考えられます。

 (9) すなわちたとえば 《光(あるいは天地)なるモノを作ろうと思う。というよりは 光なるモノがおのづから成るように環境をととのえてやろう。ぢゃあ そうすっか》とでも言って そうした。のかも知れない。

 (10) すなわち 《無からの創造》というときの《無》とは 有ったり無かったりする相対世界の無ではなく 絶対領域であるからには まったく人間には分からない。と同時に それを理解しようとして如何ようにもというほどにわれわれはそれぞれに補助線を引くことが出来る。

 (11) 絶対領域というのは 絶対無でもあれば絶対有でもありうる。したがって 神を《有る神・存在としての神・生命なる神》という呼び名で呼ぶことを人は選び得るし あるいはそうではなく 《無い神》としてもその呼び名を選ぶことが出来る。そのほうが 神を知るにはよい補助線だと思えば 人は自由にそれを引く。すなわち いわゆる無神論である。

 (12) 無神論にあっては この《バラー(創造した)》の中身を さらにたとえば 《いやいや 神などと言ってもその言葉はどの言語にも用いられているが 実質はない。あるのは ただ光などのモノのみである。すなわち 初めからモノがユラギを始め自己運動を起こした。というだけである。世界は モノの世界である》という表現形式をえらぶかも知れない。

 (13) 有神論と無神論。どちらも 人間にとって自由な表現形式をえらんだその結果としてあり 持たれている。互いに同等である。

 (14) ところで かの福音書記者のヨハネ(つまりイエスの弟子のヨハネ)は 言葉が《天地や光る》なるモノ(存在)と同時に発生したのではないかという説などは どこ吹く風で この言葉を《ロゴス》として《初め》に持って来た。すでに《神》として持ち出した。そういう表現形式を採ったのである。そういう補助線を引いたのである。

 ▼ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~~~~
  
 はじめに ことば(ロゴス)があった。
 ことばは かみとともにあった。
 ことばは かみであった。

 このことばは はじめにかみとともにあった。
 すべてのものは ことばによって成った。
 成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。

 ことばの内に いのちがあった。
 いのちは 人を照らすひかりであった。

 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。
 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (15) 表現の問題としてこのあたりまで たどり着けるのではないか。これを 検証しつつさらにあらたな出発へとすすむことが出来るのではないか。という意味で 成否と当否を問います。



 (16) なお《光あれ》(創世記1:3)というときドイツ語が 《 werden :〔光が〕成る》という語を翻訳で用いている。このことは ひとつの――補助線としての――ヒラメキを示しているかも分かりません。《有る》とともに《成る》というニュアンスの言葉を当てることも 一解ではないかと。

 (17) フォイエルバッハとかいう人は 神学は人間学であると言ったようです。たぶんこのフォイエルバッハの意図とは違って その《火の川(?)》を突き抜けて このいまの神学⇒人間の存在論――つまり人間と社会の理論――は さらにこれからも寄与するところがあるものと考えますが みなさんにあっては いかがでしょうか?


        *

 以上のように 《創造》は  タ・ト・エです。

 《宇宙の法則》は 神そのものとは 別。
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この回答へのお礼

>神についての表現形式は いくらでもある。

であるなら一切のタトエを排除して、神を表すことも可能であるはず。
神を表すのにタトエを持ち出さないとならない理由はどこにもない。
神を表すのに直接法であってならないという理由はどこにもない。
この立場をとるなら、創造主は存在しない、神は創造主では有り得ないと表現する以外ない。
何故なら既に存在するものを創造することは不可能だからである。
 

 

お礼日時:2014/12/09 14:12

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