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古事記によれば、邇邇芸命の高千穂峡への天孫降臨に始まって、その後、その地域の土着の豪族を従えて、更に何代かに亘って東征を行って、やっとのことで大和の地に政権を樹立し初代の神武天皇に至った、というあらましのようですから、そうすると、実態的には、わが日本の天皇家の起源は九州南部の一豪族から起こった、という大雑把な天皇家の起源説と考えてよろしいのでしょうか?

A 回答 (10件)

そうですね


大和(奈良や京都周辺)に政権が確立したのはずーっと後の時代です
神話が事実なら天孫の起源は九州です
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この回答へのお礼

早速のご返答ありがとうございます。

お礼日時:2015/01/09 21:26

神話は天皇の権威を高めるための作り話ですが、事実無根とも言えないのです。

天孫降臨は九州ですが、降臨したのですから別のところから飛んできたのです。それは朝鮮半島の南部であると言われています。金官伽耶と言う王国の一族です。当時の朝鮮半島は高い文明を持っていたのです。その国が滅ぶ時に親戚ですので大和政権は朝鮮に援軍を出しているのです。だから天皇家は朝鮮半島の血筋だと言われているのです。大和政権に多くの渡来人が来たのもそのためです。

それはアメリカ大陸がイギリスやフランスやスペインの植民地として開拓されたのと同じです。日本にも高句麗や新羅や百済や伽耶の国のものが渡って来たのです。縄文時代から住んでいた原住民は北に追いやられたのです。それはアメリカインディアンと同じであったのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。 そうですね、わざわざ九州の南部に降臨して、そこから東征が始まって、結局はヤマトの地、畝傍山の麓に宮殿を建てて落ち着いた、という結末のようですから、そうすると、東征出発地の九州以前、どこかからやってきた、という含みを意味しているのでしょうかね。 ただし、古事記の編纂当時でさえ、九州南部にくる以前の様子が詳らかでなかったので、結局は、高千穂の峰に降臨した、というところから歴史をスタートせざるを得なかったと推理するのですが、いかがでしょう?

お礼日時:2015/01/10 17:48

そういえば、騎馬民族征服説ってどうなったの?



この説が正しければ、天皇家の起源は朝鮮、ひょっとすると、中国の東北地区、またはモンゴルだそうです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。 第十代の崇神天皇以前は、記述がたいへん少ないので、謎が多いとのことゆえ、騎馬民族による征服説という点も含めて、今後の発掘、研究に俟たれるところなのでしょうか。

お礼日時:2015/01/10 18:03

そうですね。



宮崎のような辺鄙(失礼)なところからのスタートや快進撃とはいえない東遷など、記述が現実じみているため話の元となった出来事があったのだろうと考えられています。
ちなみに、半島(大陸)からの渡来系の豪族だろうと言われています(高天原やオノゴロ島)。

宮崎を出たのは、他の勢力に追い出されたためで、その後北九州から岡山までは別の勢力に保護されて移動しています。その東は(領地じゃないから)勝手に取っていいよと言われて大阪に上陸しますが、地元の勢力にボロ負けしてお兄さんが死亡。命からがら逃れて和歌山までまわったところで船が座礁、助けられたお礼にと隣村を襲って強奪(皆殺し)、しばらくは山賊みたいなことをやってたのでしょうか、京都あたりの勢力に一緒にライバルを討とうと誘われてぶっ殺し、そいつの南の方(奈良)の土地をようやく手に入れた。って感じだったと記憶しています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。 そうでしたか、後に神武天皇となる人物が九州南部から東遷に出発して、奈良県の橿原の地にたどりつくまで、とても順調な東征とは決して言えないようで、相当な長年月を要したとの古事記の記述ですから、実際は、多くの危うい目、苦しい目に会っていたことでしょう。

お礼日時:2015/01/10 20:15

考古学所見では「九州からの東征」は確認されていません。


奈良盆地で萌芽し、難波や北陸、丹波、東海、吉備、出雲、北部九州との関係を持ちつつ勢力範囲を拡大していった勢力がやがて「ヤマト政権」に発展していたというのが通説です。
奈良盆地・難波でもいくつかの勢力があったようですから記紀で語られるような1王朝であった可能性は低いかと思われます。
「神武天皇の東征説話」は難波にあった勢力が奈良盆地移行したことが伝説化あるいは記紀編纂時の勢力範囲に拡大した、との学説もあります。
天皇陵の調査がほぼ認められていない現状では天皇家の起源を探るのは困難です。
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この回答へのお礼

そうでしたか、「九州からの東征」は確認されていない、ということですか。  「九州からの東征」は、古事記だけの記述ということでしたか、初めて知りました。  また、天皇陵の調査が認められないのは、やはり、今までの根本的な通説が大きく覆される懸念が多い、ということなのでしょうか。  まだまだ謎の多い日本の古代史でしょうから、それらの謎の部分を少しでも真実を明らかにする努力は大変貴重であり、かつ必要かと思いますが、・・・・。

お礼日時:2015/01/10 20:29

日本の古墳ほど大きくないですが、日本とそっくりな古墳が朝鮮半島にたくさん残っています。

半島南部や百済だった地域です。百済の王の冠は高松古墳の出土品に似ていますがもっと立派なものです。

権力者が自分の墓を作るのにどうすると思いますか。九州南部に居た豪族が急に古墳を作るようになると思いますか。おじいさんや親と同じようなものを作ろうとするはずです。その同じようなものとは朝鮮半島の古墳なのです。

古墳とは地面の上に墓を作るのです。普通は地面下を掘って墓を作るものです。この伝統は遊牧民のものなのです。遊牧をして戻ってきた時に親の墓が分らなくなったら困るからです。元々は石積み古墳だったものが発展したものです。

朝鮮半島でも太古から古墳があったのではなく急に現われたのです。おそらく北方の遊牧民族の侵攻により作られるようになったと思われます。だから騎馬背民族説が現われるのです。日本でも長野県には石済み古墳がたくさん残っています。百済からではなく高句麗から新潟をへて渡来した民族によって作られたと言われています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。 浅学ゆえ、お恥ずかしい限りですが、大変勉強になりました。 日本に広く分布している古墳は古代の北方遊牧民族特有の墳墓様式であること、初めて知りました。

お礼日時:2015/01/10 20:39

古事記の内容・語り口からすると、かなり古い言い伝えを、何代も経た上で、飛鳥・奈良の時代に、ようやく文献化した、ものと思われます。

100年前や300年前の出来事、とかのレベルではありません。だから「神話」になるのです。

そうすると、例えば、高千穂とかの地名にしても、神武東征過程に登場する諸地名や旧国名等にしても、果たして、そのまま現代的知識で受け取ってOKなのか、といった疑問が出てきます。

旧国名が決まっのは、いつか、これを思えば、播磨とか出雲とか高千穂とか、神話における、そうした地名を、現代において分かっている地名に、そのまま当てはめてよいのか、そのへんが分からないということです。

そのへんは、たぶん、専門家によってクリアされていない領域ではないかと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。  古代日本の当時としてみれば、合理的な文明がまだまだ未熟な時代で、かつ、国や地域の統治体制もいたって幼稚な時代だったでしょうから、正確な歴史を記録することは、相当な困難だったことでしょう。  そういう中で、当時のわずかな歴史事実と多くの謎の部分とを、神話という手段によって、かなり理論的につなぎ合わせた、ということは大変な英知だったような気がします。  ご指摘のように、古事記で言及された地名にしても、現代のどこに相当するのか、今後の一層の研究が俟たれるところでしょう。  日本の歴史にとっては、とても重要な部分でしょうから。

お礼日時:2015/01/10 20:59

騎馬民族征服説は、どちらかというと、けちょんけちょんに反論されて風前の灯、今や信じる人は数人程度だったと記憶しています。



また考古学的な証拠なんてのは、小説のようなことはほとんど言えなくて、全体的なトレンドがわかる程度です。前方後円墳だったか祭祀の何かだったかは岡山で発祥したものが広まったことが分かっているようですが、なぜ岡山なのか、どのようなプロセスでそれが広まったのか、などは全く答えられないわけです。

古代遺跡としては(あまり知られていないのですが)神籠石と呼ばれる朝鮮式城山の遺跡が北九州から岡山にかけて点在しているのですが、これなどは殆ど調べられていなくて(調べようがなくて)、記紀に書かれていないものの、白村江の戦いで敗れた後に急造した城山だろうなどとテキトーなことをいって7世紀ころのものとされていますが(再度言いますが記紀には書かれていません)、まったく科学的なものではありません。
まぁヤマト王権が畿内から興ったのは確かなので、畿内中心にものが出てくるなどと、当たり前なわけですが、そのようにしか言えないw
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この回答へのお礼

ありがとうございます。 そうですね、何しろ文字すらない時代のことを歴史記録として残そうとした古事記だったでしょから、今となっては、多くの枢要な諸点が謎のまま残っていることは、やむを得ないことでしょう。 極めて困難な論点でしょうが、できる限り多くの専門家による諸説を提起いただいて、それらを、徐々に推敲して真実を突き止めるという、きわめて地道な努力以外、有力な手段はないのでしょう。  今後の有能な方々の研究成果に期待したいところです。

お礼日時:2015/01/10 21:11

●それらの謎の部分を少しでも真実を明らかにする努力は大変貴重であり、かつ必要かと思いますが


○考古学者、古代史研究者は日々研究してますよ。
かつては「大和朝廷」とされていたものが現在では「ヤマト政権(王権)」と名称が変わっていることが研究成果のあらわれのひとつです。
ただ考古資料は断片的で、文献資料も十分ではないのでアマチュア研究者が述べるような単純な説明では解明できないのです。
 「邪馬台国」なんて江戸時代から研究されているのにいまだに決着がついていません(笑)。
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この回答へのお礼

度重なるご指摘、誠にありがとうございます。 街中の書店の歴史関係の棚を見ても、日本の古代史、考古学に類する著作は、実にたくさん並べられており、浅学菲才の身には選択に困難をきたすくらいです。  将に、多くの識者、研究者の方々の弛みの無いご努力の貴重なる結果なのでしょう。 自然科学など他の分野でも、提起されてから数百年たっても解決できていない事案はたくさんあるわけですが、それにしても、邪馬台国の研究は江戸時代から始まったとのこと、改めて知りました。  ありがとうございました。

お礼日時:2015/01/11 11:40

古事記以前は文字すらないと言うのは間違いです。

それ以前でも文字の書ける多くの渡来人は日本に渡ってきていたのです。古事記を編纂したのは天武天皇です。彼の出所は怪しいのです。天智天皇の弟と言うことになっていますが、天智天皇の子の弘文天皇を壬申の乱で殺しています。自分の出所の怪しさを隠すために焚書をしたのです。過去の歴史書を全て燃やしで新しく古事記を編纂させたのです。だから昔のことが分らなくなっているのです。同じようなことは中国の秦の始皇帝もやっています。

この天智天皇の男系子孫がやがて途絶えるのです。天武天皇の子孫で奈良の大仏を作らせた聖武天皇には後を継げるのは娘しか居なかったのです。天智天皇の子孫である桓武天皇になると長岡京を経て京都に遷都し、奈良に居る天武天皇派を弾圧するのです。それほどに天智派は天武派が憎いのです。
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この回答へのお礼

大きな間違いをご指摘いただき、ありがとうございます。 古事記以前にも、文字があったことは知りませんでした。 不明を恥じいる次第です。  
確か、古事記は万葉仮名によって記述されていると聞きましたが、その万葉仮名は5世紀ころに出来上がったのではないかと推察いたしましたので、古事記の前期となる神武東征とか、出雲の国の成り立ち、大和政権創始の頃など、その頃は文字がなかったと考えまして、5世紀以前の時代の古事記の記述は後世に引き継がれた伝承によるものと思っていました。 
話は別になりますが、王朝の継承には、常に権力者の継承特有の醜い騒動がつきもののようで、況や古代のように政権自体がまだしっかりしていない時期には、なおさら、理不尽な権力抗争が激しく醜かったのでしょう。 古事記や日本書紀が編纂された経緯として、時の勝者の歴史を正当化して刻むため、という身勝手な動機もかなりあったことは容易に推察できます。  敗者の歴史は可能な限り葬り去られ、どうしても勝者の歴史が後世への中心的な記録として堆積されて正当化されてしまう、という歴史の傾向なのでしょうか。
ありがとうございました。

お礼日時:2015/01/11 15:36

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