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1941年からの日本とアメリカとの戦争。

なぜ勝てなかったのでしょうか?

A 回答 (18件中1~10件)

No.15です。


 再質問があったので、補足説明を致します。

 その前に、私の説明スタンスを示しておきます。

 自国の国土の上で、子供・老人・女性が、外国軍隊によって何十万人も殺され、国家主権も失う、つまり亡国に至ったのは、明らかに『日本史上最大の失敗』であり、そのような結果になったのは何故か、それを冷静に受け止め、教訓にしない限り、多くの人命と膨大な経済的損失は全く無駄になってしまうと考えています。

 従って、歴史的事実確認を行う上では、『冷静に』つまり「悲観的・楽観的」というような、「非」・「楽」という感情的な視点を排除して、何があったかを明示すべきと考えています。

 その結果が、今の我々にとって、一見「悲観的」と見えるようなものではあっても、その悲観的に見える部分を冷静に受け止めなければなりません。
 それによって初めて、「悲観的に見える」ことを「どうすれば変えることが出来るか」という答えを導きだすことが可能になると考えています。


 第一次世界大戦から第二次世界大戦の世界は、帝国主義の末期であり、「遅れて帝国主義国となった日本」と帝国主義から脱する道を模索していたアメリカ・イギリスとの間では、考え方が違っていたように思います。
 当時、アジアの新興国から、日清・日露・第一次世界大戦を経て、大国の一つとして国際社会に認識されるようになってきた日本と、名実ともに大国としての経済力を持ち、世界経済を支配するアメリカ・イギリス両大国とでは、『国際社会』の中の振る舞いも全く異なっていました。
  
 第一次世界大戦後の「世界秩序」(=ワシントン体制)に対する考え方をはっきり示しているのが、
1922年の9カ国条約
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%88%A6% …
1928年の不戦条約
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%88%A6% …

 当時の各国の「大義」は、この考え方に合致するかどうかで測られるわけですが、アメリカ・イギリスは、ワシントン体制の維持を大義とし、日本・ドイツの世論はワシントン体制の変更を自国の「大義」とする方向に進んで行きました。



<自爆をするために戦争をしたのでしょうか?>
 政府・陸軍・海軍それぞれが、対米開戦に消極的でした。
 しかし、対米開戦を積極的に回避する=対中戦争を中止し撤退する=対中戦争の責任を取ることとなるので、三者共に回避に動かなかったため、開戦することになってしまったというのが実態のようです。

 NHKが、何年か前に、開戦時の政府官僚・陸海軍首脳や参謀に、大規模な聞き取りを行った記録が放映されましたが、個人レベルではそれぞれがアメリカと戦争をすることを危惧し回避できるなら回避すべきだと思いつつ、組織としての強い意思決定が出来ないまま、開戦に進んでいった状況があぶり出されていました。

 地震+津波が起きた場合の原発の危険性を認識しながら、具体化されなかった構図と二重写しです。


<日本が戦争をしたことによりその後の世界がどうなったのかなど、戦争をしたことにより変わったことを考えないと、何もかも、悲観的発想になっていくと思います。>
 最初の説明スタンスを参照してください。


<日本自身は、国家が荒廃した、しかし、東亜の解放という意味ではどうだったのか>
 大規模な戦いによって、イギリスやオランダ・フランスなどのヨーロッパ諸国のアジアにおける軍事力が弱体化したことや、大量の武器が残ったこと、欧米人に対するアジア人のコンプレックスの打破などにより、アジア諸国が独立しやすい社会が、結果として東南アジアに生まれたという現実はあるでしょう。
 日本自体は、イギリス・オランダ・フランスなどに代わって、東南アジアを日本の経済植民地にするという方向性を持っていたため、「東亜の開放」というのは、東南アジアの人々を反欧米にするための、単なるプロパガンダの枠を超えていません。
(個人レベルでは、本気で「東亜の開放」に尽力した人も、相当数に上ります。)


<なぜ、第二次世界大戦後も小国が大国に戦争をしているのでしょうか?>

 渡海軍事作戦は、膨大な資金を必要とし、圧倒的な大国でも長期間継続すると経済が変調を来たします。
 従って、小国にも勝ち目があります。
 渡海侵攻した大国は、侵攻した小国の国民からの支持を得る「完全勝利」が戦争の勝利ですが、小国の方は、大国に完全勝利さえされなければ、いずれ経済的に侵攻作戦が終了し、大国の軍は撤退する(=小国の勝利)に至るので、延々と戦い続けることが出来れば、大国に対して勝利できることになります。

 尚、小国の側が大国に対して、渡海侵攻することは不可能ですから、第二次世界大戦後、小国が大国に対して戦争を仕掛けた例は皆無です。大国が小国に対して軍事侵攻するので、戦いが起こり戦争になると言う形です。
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>戦争計画は練りに練っていたと思います。


物資の供給もおぼつかなかったのに?マンハッタン計画も知らなかったのに?
アメリカについて調べもしないで持論だけで推し進めた結果です。H/Gウェルズも読んだことない軍人が愚かなな戦争を始めただけです。原爆のことも破滅のこともよく考えて無い結果です。負けて当たり前。
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 予想外の勝ち戦はあっても、予想外の負け戦はありません。



 第一次世界大戦によって、工業化された大国同士の全面戦争は、長期の消耗戦、つまり『総力戦』となり、それ以前の「戦闘による勝敗」から「国家の総合力」による勝敗によって決着する形となり、戦う前に勝敗が解っている状態となっています。

 特に、日本の場合、アメリカとの戦争を始める以前に、中国との戦いで国力が消耗しており、アメリカと長期戦を戦う能力が既にありませんでした。


 従って、対アメリカ開戦は、自爆戦争と言うのが正しいかと思います。

 アメリカは、開戦すれば敗北必至の日本が、外交的に屈服すると見ていたでしょう。
 日本は、屈服する代わりに自爆戦争を開始しました。

 戦争に至るまでの経緯を見れば、
 アメリカの対日石油禁輸が続けば、インドネシアの石油が手に入らない限り、対中戦争継続が難しくなり、最終的に対中戦争敗北に至ることが確実視される状態でした。
(当時の日本産業のエネルギー源は石炭でした。日本の石油の消費の50%は、軍による消費でした。ですから、アメリカから輸入された石油が、中国侵攻に伴う内陸トラック輸送用の燃料となり、補給線を維持していました。)

 石油備蓄が減っていくので、1942年1月以降では、対米開戦能力が維持できなくなると見積もられ、「1941年12月が対米開戦開始」が軍事的タイムリミットとして決定されました。
 本来、軍事的タイムリミットは政治的判断の一条件でしかありませんが、政治的開戦決断の希薄なまま、開戦に至りました。

 結局、「中国侵攻の失敗・撤退」という政治的選択が出来なかった結果、ずるずると対アメリカ開戦に至ったというのが実態のようです。


<詳細>
 当時、日本の国力(生産力)はアメリカの10分の1と言われており、その上、1937年に始まった中国との戦いが泥沼化し、若手労働力を兵士として送り出したことと、長期に軍需産業に偏った資本消費によって、国内生産力は停滞し始めました。(戦前の日本の生産力のピークは1937年。)
 更に、1938年には国家総動員法・1940年には食料の配給制が国内で始まります。
(満州事変当時の日本軍兵力は45万、対米開戦時は190万)

 アメリカとの戦い(1941年12月開戦)を始める以前に、中国との泥沼の戦争で、国力の大きな消耗が起き、顕著に国民生活を圧迫しているのです。

 従って、日本はアメリカ相手に戦争出来るような経済状態からはほど遠く、更に、軍事上最も避けるべき二正面作戦を中国とアメリカ相手に行い、敗戦必至の選択をするはずがないという、常識的なアメリカ人の軍事的発想もありました。

 日本政府・陸海軍の認識も、アメリカと同じで、日本の敗戦は必至というものでした。


※この『敗戦は必至』と言う状況を変えるわずかな可能性を引き出すために、日本は『人間的常識を捨てる。』と決めて、「国民の命は戦争に勝つための道具として使う」という選択を行い、日本古来の美意識を捨てて、なりふり構わない戦いに突入し、汚名を着たわけです。


 自国民の命や人権を戦争遂行の道具として使いながら、敵対する国の国民の命や人権は、きちんと守って戦争遂行の道具として使わないでいることは、極めて困難で、事実上不可能な状況も起こります。
(前線への食糧供給が出来ず、日本軍兵士が栄養失調になる状態で、捕虜にきちんと食事を与えることが可能か?など)
 ですから、アメリカの常識では降伏するはずなのに、日本軍は生存を無視して降伏せず、戦いを続けたのです。


<参考>
 長期間に渡る軍事作戦は、その国の経済・社会を大きく変えてしまいます。
1、人口3億人で第二次世界大戦当時よりはるかに国力が大きくなった現在のアメリカが、イラク・アフガニスタンで長期戦(全面戦争ではない)をやっただけで、経済システムが破綻しかけて、リーマンショックに至りました。

2、ソ連崩壊も、長期的には社会主義の限界による経済の伸びなやみと言えますが、短期的・直接的な原因は、アフガニスタンに10年間出兵して戦闘を続けたことによって、経済が疲弊し、前線に軍需物資が滞る事態が発生するようになり、軍がソ連政府を見放す決定をした結果です。


<参考>
・第一次世界大戦時の日本の戦時捕虜管理の実態
 日本は、短期の戦闘を行うだけで済み、敗者をいたわる武士道精神を基礎に、紳士的な扱いをした。

 第一次世界大戦では、中国で捕虜としたドイツ・オーストラリア兵を、長期に渡って捕虜収容所に収容しましたが、人権問題はほとんど起きず、捕虜となったドイツ人が、戦後に捕虜生活から解放された時、日本に帰化するというケースもありました。

 青野ヶ原俘虜収容所
http://www.city.kasai.hyogo.jp/02kank/08sisi/hur


 坂東俘虜収容所
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E6%9D%B1%
 
 捕虜でも遠足があり、給料が支給され、お酒も購入できた。捕虜に市価よりも高額に物を売り付けた日本人業者が、処罰された例もあるそうです。


 岡村寧次大将資料によれば
http://www.geocities.jp/yu77799/okamura.html

 嘗て聞いたところによれば、北京附近の中国古老は、団匪事変のとき、欧米各国兵が掠奪強姦の限りを尽くしたのに、ただ独り日本兵のみが、軍、風紀森厳にして寸毫も冒すことなかったことを回想し、どうして今の日本兵がかくも変わったのかと痛嘆したという。

 注:団匪事変=義和団事件(1900年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
史実を淡々と述べていていただいているという点では
参考になります。しかし、当時の日本も現在のアメリカも
戦争をするには何か大義があったのではないでしょうか?

自爆をするために戦争をしたのでしょうか?

日本が戦争をしたことによりその後の世界がどうなったのかなど
戦争をしたことにより変わったことを考えないと
何もかも、悲観的発想になっていくと思います。

日本自身は、国家が荒廃した、
しかし、東亜の解放という意味ではどうだったのか、など。

国力の差があるから戦争をしないなら
なぜ、第二次世界大戦後も小国が大国に戦争をしているのでしょうか?

その部分の回答が得られていないと思います。

お礼日時:2015/01/26 10:27

日本に出口戦略がなかったからです。



出口というのは「どの程度まで戦果を挙げたら講和に持っていくか、または逆にどこまで被害を受けたら講和するか」という戦略のことです。

日清戦争の場合は、戦果がはっきりしています。東シナ海に中国(当時の清)を押し込めることに成功し、朝鮮半島における覇権を消滅させることに成功した、ということです。これにより日本は戦争を継続する必要がなくなりました。

日露戦争はもっとドラスティックな問題で戦争継続が困難でした。ようするに軍資金が底をついたことです。ちょうど同じ時期にロシアのバルチック艦隊を壊滅させるという戦果が上がったため、これを講和のタイミングとして、仲介してもらい戦争を終了しました。
ロシアも強気で「こっちは金があるから継続できるけど、賠償金を払わなくていいなら、ここで終わりにしてもいいぞ」という態度で、日本は朝鮮よりも内陸側の満州などに権利を得ることで満足しなければなりませんでしたが、すでに軍資金は底をつき無理な出兵は国内経済を悪化させていたため、日本政府も講和に同意しました。賠償金が取れなかったことに日本国民は不満をもち、焼き討ち事件なども起きています。

これらの戦争の目的とするところ、そして出口戦略を見てみると、当時の日本の国力をぎりぎりまで測っていることが分かります。また、止めるときもすぐにぴたっと止めることが出来るわけではありませんから、あらかじめ軍部や政府などの指導者層は「求めえる利益と失うべきではない損失」を天秤にかけて戦争を行っているといえます。

しかし、大東亜戦争はそもそも開戦のときから「明確な意思」が見られず、軍部も「アメリカとは戦いたくないけど、戦うなら勝てるよ」という消極的な態度が非常に強かったと言われます。また、国力との違うアメリカと消耗戦になったときに、どのくらい日本が耐えられるかについて明確に解答できたのは、かの山本五十六だけで「真珠湾攻撃が成功するとして2年以内」と答えたと言われています。
その根拠は、2年程度で日本の石油備蓄や工業製品の充当が難しくなること、逆に2年後にはアメリカは国力を生かして大量の工業製品と余りある石油を使って攻勢が強くなること、でした。

実際に、真珠湾攻撃で日本軍はアメリカの空母2隻に攻撃を加えることができず、開戦から1年足らずのミッドウェー海戦では、日本側の損害が大きく、続くソロモン海戦でさらに被害が大きくなりました。

個人的な意見ですが、このあたりで講和の道筋をつけるべきだったと思います。

結局、講和の道筋というか出口戦略が取れないまま、日本は「本来失うべきではない損失」を受けるようになります。しかし、リスク管理が出来なかった日本軍部と政府は(リスク管理が出来ていればそもそもあのような形でアメリカと開戦すべきではなかったともいえますが)そのままずるずると戦況の悪化を招き、結局天皇がご聖断をするまで、誰一人として「終戦と講和」を口に出来るものはおらず、ご聖断による終戦でも、それを阻止しようと青年将校がクーデターを画策したといわれています。

そもそも、国力の違いから見れば日本がアメリカとの戦争に勝てるわけがありません。だからこそ日露戦争と同様、華々しい戦果をもって有利な条件で講和すればよかったのに、そのような戦略すらなかったのが、ずるずると国土が荒廃するまで負け続けた原因といえます。
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この回答へのお礼

国としての戦略がひとつにまとまっていなかったのかもしれませんね。

真珠湾攻撃などは一撃で一網打尽にして
一気に講和へ持ち込む手段だった。

しかし
東亜解放のために東南アジアへ侵攻し
大東亜共栄圏を作ること
これは、年月を要することでした。

力点が分散し、まとまった出口戦略がなかった
のかもしれません。

お礼日時:2015/01/25 22:40

1. 日本は核兵器を持っていなかった


2.アメリカは急ごしらえで核爆弾を二種類作った。
3. 日本に核兵器がなく、核報復の可能性が無いことがアメリカ軍に知られた。
4.核報復のリスクがないなら、アメリカ軍は非戦闘員を含んで大量虐殺をしても恐くないと考えた。
5.結果、広島、長崎で女子供を含む大量の非戦闘員が虐殺され、報復手段がない日本軍は無条件降伏を決定した。
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この回答へのお礼

核兵器がなければというだけなのであれば
その他の国力の差や、物量の差は
敗因にはならなかったということですか?

お礼日時:2015/01/25 22:35

計画性のなさ。


今でも日本人はやる気があれば何でもできるとか、元気があれば乗り越えられるとか精神論だけで押し通す国民です。しかし勝利には計画がなければ何も勝てない。論理と技術両方が必要なんですよ。技術だけあっても勝てない。要するに論理が破たんしてたんですな。
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この回答へのお礼

戦争計画は練りに練っていたと思います。

どの部分に計画性がないといえるのでしょうか?

お礼日時:2015/01/25 22:33

テレビの室内アンテナとして、今でも現役の八木アンテナ。



これを日本は1925年に完成させて、世界が注目したが、日本は学会からも無視して、開発したアンテナを軍用に利用しなかった。
ミッドウェー海戦の敗戦で、慌てて実用化に踏み切ったが、すでに遅く、多くの艦船や航空機は、目視による人的観測に頼らざるを得なかった。

これが主な敗戦理由です。

余談ですが、日本軍が開発したビーム兵器(光線ではなく電磁波)技術が、アメリカに伝わり、電子レンジになりました。
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この回答へのお礼

八木アンテナの件は、知られていますが
電子レンジの件はしりませんでした。ありがとうございます。

お礼日時:2015/01/25 10:58

持論ですが。



何故勝てなかったのか?では無く、何故負けたのか?で書きます。

先ず勝てなかった理由の一番の理由は山本五十六と言う博打好きの人物を連合艦隊司令長官にしてハワイ奇襲作戦を行うと言う下の下策の作戦を実行した事。これはある意味、博打的な作戦です。

山本は博打好きで有るとともに将棋の名手だったとも言われてます、如何にも将棋同様でハワイに居る米太平洋艦隊の空母を王将と考えてました。

何故、ハワイ奇襲作戦が下の下策だったのか?先ずこのスレの別の回答者さんも言ってますが国力の差ですがアメリカも欧州でナチスドイツとの戦争をする事に国内世論には何故遥か遠い欧州でアメリカ人の若者を死なせる必要が有るのか?と言う反戦論・非戦論も少なく無かった。

そしてアメリカ上層部の方針は「日本を叩くのはドイツ戦に勝利した後にゆっくりと行う」と言うものでした。

アメリカとしても欧州での戦争でさえ世論の反発が少なく無いのに同時に日本と太平洋方面で戦う二方面作戦など遂行するのは困難だった。

しかし、満州方面で日本の圧力を受けてるソ連や共産軍と日本軍との二方面作戦で苦戦中の中華民国の両国からはルーズベルトに対して矢の様な催促が送られて来る。

ルーズベルトとしてはどうしても国論を「対日戦争やむ無し」で統一する必要性に迫られていた。

そこで日本に対して外交的に「絶対受け入れる可能性の無い」満州からの全面撤退なんて要求を突きつける。そして石油や鉄鉱石の全面禁輸の経済制裁。

これは後に多くのアメリカ政財界の人々が「こんな要求をしたら日本ならずもどんな小国でさえ自衛の為に立ち上がるだろう。」と言い、マッカーサー等は「日本は侵略戦争をしたのでは無く自衛の為の仕方ない戦争だった。」と言わしめてます。

当時のアメリカの政権政党は民主党で日本への外交的要求は共和党の政治家には極秘にされていた。

つまり、開戦直前の状況は外交のやり方によれば「対日戦争反対」にアメリカ世論を誘導出来る可能性が高かった。

そして自分が山本五十六を批判するもう一つの理由として山本は数年間在アメリカ日本大使館の海軍武官としての勤務経験が有り、米国の工業力や経済力等の国力情報はむろん、アメリカの世論形成に対してもそれなりの知識があった筈で有る。

しかし、そんな可能性を灰塵に帰した作戦が「ハワイ真珠湾奇襲作戦」だったのです。「リメンバーザパールハーバー」を合言葉にして米国の世論が一気に「対日戦争賛成」に傾いた。

ここまでが「日本が勝てなかった」原因。

それでは「負けない」戦いとはどんな物か?

真珠湾奇襲作戦を行わずに日本が陸海両軍を東南アジアに進出させてゴムや石油資源の確保を速やかに完了させてアメリカ太平洋艦隊がフィリピンを攻略して来るのを待ち受ける。

アメリカは日本海軍を頭から舐めて居たので攻略目標はフィリピンに限定出来た筈である。

空母での航空戦に関して開戦中期迄は日本海軍の方が遥かに勝っていたし、艦砲射撃の命中率や魚雷性能(酸素魚雷)に関しても日本がかなり有利であった。

ハワイ奇襲で日本はアメリカに空母の優位性を教えてしまうと言う結果に成って居たので、ハワイ奇襲をしなかった仮定に於いては空母決戦に於いては日本が格段に有利であった。

上記の日本海軍の優位性をもってアメリカ太平洋艦隊を一気に殲滅させる。そして即座に講和を呼びかける。

「八光一宇」全ての人間は平等である。それはアジア地域に於いても言える事。日本は欧米諸国のアジア諸国に対する迫害、及び植民地政策による搾取を否定する。

また、中国大陸での日本の戦いは共産主義者から中国人民を守る為の聖戦であると大宣伝する。

戦後、マッカーサーはその回顧録で「日本を叩き、アジアに共産主義者を蔓延らす結果を招いた事はアメリカの最大の過ちだった。」と語っている。

この事からもアメリカ世論に対して「共産主義者との聖戦」は充分説得力があった筈である。

同時にアジア諸国を開放独立させ資源確保の後は順次南方から中国本土に兵力の殆どを転進させて共産主義者を殲滅した後は満州まで全軍転進させる。

アメリカ世論はこの日本の行動や政策、それに日本に無理矢理戦争を仕掛けて遠いアジアの辺境で意味無く多数の艦船を失い、無駄に若者の命を失わせた民主党に批判の矛先を向ける。

米国は日本との講和を受け入れ、アメリカに勝てないなりにも負けない戦が出来たと想像します。
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話にならんでしょう何もかも

「アメリカとの戦争になぜ勝てなかったのか?」の回答画像8
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この回答へのお礼

ベトナム軍がアメリカに勝ったのはなぜですか?

お礼日時:2015/01/25 10:51

国力と武器の性能の差だと思います。


日本軍は銃が重くて5発位しか打てないのに
アメリカ軍の銃の重さは日本軍の銃よりも軽く打てる弾丸も2~3倍多かったと言われています。
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この回答へのお礼

武器の性能の差により、ガダルカナルの初戦は
歩兵通しの戦闘で相当の死者をだしてしまいましたね。

しかし、硫黄島の戦いのように戦術を変え
アメリカ軍に相当のダメージを与えた例もあります。

何かほかにやり方があったのではないでしょうか?

お礼日時:2015/01/25 10:51

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