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つい先日、大好きだった友人が事故で亡くなりました。
意識不明で病院運ばれ、そのまま意識は戻らず亡くなりました。

大好きな大好きな友だちでした。

事故の1週間前に連絡をとりました。(家が離れているため、ちょこちょこはあえず、電話やLINEでしか連絡をとれません。)
私は彼女のお願いを断ったんです。
彼女の為になることではなく、私は知らない他人に関することだったので、断ったんです。
でも、それが彼女との最後の話になってしまいました。

後悔してもしきれません。

すごく優しくて、人の気持ちを考えられる子で、どこか抜けてて、本当に可愛い子でした。
最近は特に色々なことに挑戦して、日々楽しんで努力もしていました。



めちゃくちゃな文章で申し訳ないのですが、
あれから数日、どれだけ泣いても涙が止まりません。寝ても覚めても、お風呂に入っていても、何をしてても、彼女のことが浮かんで、悔しくて、悲しくて、、、。

どうやって乗り越えたらいいのかわかりません。

事故の相手に対しても、怒りというより、悔しいです。言葉になってるかわからないのですが、どうしようもなく、悔しくて悲しいです。


こういう経験された方どうやって乗り越えましたか。

教えてください。

質問者からの補足コメント

  • まだ18歳でした。

      補足日時:2015/05/30 23:46

A 回答 (5件)

もし逆の立場だったらどう思いますか?あなたが亡くなって、友達が最後のあなたの頼みを断ってしまった、と後悔してずっと泣いているの。

「ちょっと、やだ、別に重大なお願いじゃなかったんだから、やめてよ(^^;)」と幽霊になって、思いませんか?大丈夫ですよ。彼女もきっとそう思ってます。
お願いごとを断るって、親しくないと出来ないんです。何かを頼むことも、そうです。親しくなければ、頼めないんです。お互いに気軽に頼めて、気軽に断れる。そういう良好な友人関係を、あなたは最後まで保っていたんです。最後の最後まで、友達だったんですよ。
そんな大切な友達に、天国への出発の時、自分のせいで泣いていられたらどうですか?心配で行くに行けないですよ。だから笑顔で送ってあげてください。ありがとうって言ってあげてください。お疲れさま、行ってらっしゃい、と言ってあげてください。そうしたら、「事故に奪われた友達」は「自分が送り出した友達」に変わり、少しだけ、心の変化が生まれるかも知れませんね。
そんなに泣いてもらって、お友達も幸せだったと思いますよ。
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そのうち平気になるから大丈夫。


忘れるわけじゃないけど、悲しみ続けるエネルギーが尽きますので。
3年たってまだ悲しみが取れないならもう一度質問してみてはいかが?
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生まれてきたものはやがて滅んでゆくというのは、昔から言われています。

他人事としてはよく耳にする言葉です。
けれども、親しい人が亡くなってみて、はじめてこの言葉の重さを感じた、という人がほとんどだと思われます。このことが人生のおおきな転機となることも多いようです。
自分で乗り越えてゆくしか無いようですが、東日本大震災で家族を亡くした人たちの中には、いまだに心の傷が癒えない人もおられるようです。

https://www.youtube.com/watch?v=w6ogmbv0-Qs
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私の父が震災のとき(東京でしたが)ショック受けたのか、



脳内出血で倒れました。

そのあと回復したのですが、しばらくして調子を崩し、また倒れました。

このときは、相当危険だったようです。

どちらのときも、何故だか冷静でいられました。

ただ大分前に覚悟が出来ていましたので、

「ああ、このあと沢山泣くんだろうな。一人で」

と思っていました。

子供の頃に、祖父が何度か危篤になりまして、

このときの父の様子が落ち着いたものでしたので、

不思議に思って聞いたことがあります。

「お父さん、おじいさんってお父さんのお父さんでしょ?

 悲しくないの?」

すると父が困ったような顔をして、

「大人になると、仕方ないと思ってそれほど悲しくないんだよ」

そういうものなのかと思って納得しました。

私にとって、とても大事な死生観の話でしたから、

そのあと折に触れては考え続けていました。

ちょうど今の私は、当時の父の年齢と同じくらいです。


父が倒れたとき、

「親父のことは最悪の場合は諦めろ」

と姉に言いました。

これは、もし関東一体が壊滅的な打撃を受け、

緊急避難が必要になった場合、

一緒には連れて行けないだろう、という予想からです。

そのときはまだ脳内出血で入院していましたので。


当時の公共放送は麻痺をしており、

記者会見の会場は混乱していました。

これらがインターネットに配信されていましたので、

「ああ、ほんとうに手も足も出ないんだな」

とわかりました。


私は知人と情報を交換し、

現地の放射線量をインターネットの情報から10分おきに監視して

いました。

この数値がある値にはねあがる。

するとそれは、ある現象を意味している。

その場合は?

「だいたい8時間ぐらいで、東京は壊滅です」

と知人が計算していました。

海外のサイトでは日本の気象状況をシミュレーションし、

どれくらいのエリアに危険が及んでいるか開示されていました。

当時の首相は、東日本エリアが壊滅するといっておりましたが、

実際のところは、中国や台湾、韓国も含めて巻き込まれてしまい、

日本と言う国自体はほぼ確実に滅亡してしまう状況でした。



メルトダウンが起きているはずなのに、

いまだに死の瞬間が訪れないのが不思議でしたし、

どうして生きていられるのかが分からなかった。

あのときは同じ疑問を持った人同士が、

ネットを通じてあつまり、ディスカッションをしていました。

これはもうだめだろ。

時間の問題だろう。

地震が起きたあと、そう確信したのが、30時間後くらいでした。

たった30時間ですが、寝れませんでしたね。

海外のサイトを見ると、日本に最後のお別れを言いにいきたい。

そういう趣旨の話が出ており、パニックが起きていました。

しかし当時の日本の方の殆どが、詳しい知識が無く、

良く分かっていなかったんだと思います。

それでも、動物のとしての本能なのか、誰もが何かを感じており、

思考が出来ずに縮こまっていました。




ここがある値になったら、親父を見捨てて避難しよう。

避難をする先はありません。

時間が稼げるくらいです。

どうせ8時間くらいの誤差しかなく、

私たち全てが後を追うだろうとも思っていました。

しかし、姉や友人などが、縮こまって何も考えられないとき、

どういう根拠で、どこまでもがくか、

どこまで延命すれば、頑張ったといえるのか?

これを論理的に割り出して、誰かが決めないといけない。

結果として意味が無くても、

人間とは最後の瞬間までベストを尽くす生物だからです。

「ああ、これはもう誰も彼も助からんな。

 こんなことが現実に起きるとは、思いもしなかった。

 小説家も見たことが無い、ほんとうを知ってしまった。

 日本と言う国が無くなるなんて。

 自分が生きているうちに起きるなんて思いもしなかった。」


現実の中で本当にこの様に思い、

この様に友人に話し、

悲壮な顔で友人が受け止め、

私が知る限り、誰もがそうなることを感じていたんです。


いまこの世があり、

自分が生きていることが当たり前に成っていますが、

あのときは間違いなく諦めたんです。


わたしは怒りでいっぱいでした。

これが日本の最後の姿だとしたら?

私たち全てが全ての家系の最後の子孫になるのです。

それにふさわしい姿でいられたのでしょうか?

せめて気丈に振舞って欲しかった。

そのように悔しい気持ちでいっぱいでした。


それでも希望が残るならば、

「ほとぼりが冷めたら強気な態度に戻り、

 何もかもが無かったように振舞う人がいたら恥ずかしい。

 わたしはけっしてこれを忘れないように、

 これらを記して残そう。」

そう思いました。

残り少ない友人の車のガソリンを使い、

都内を移動して人々をみてまわりました。



私は父が大好きです。お父さん子でしたね。

子供の頃は、父が死ぬことを想像して、泣いてしまいました。


父は戦前生まれでしたから、

日本が無くなり、

日本人が皆死ぬという事を覚悟した時期があったんですね。

余り語りませんでしたが、

友人が機銃掃射(米軍のいたずら)で(直ぐ隣で)死んだそうです。


そういう父から何となく受け取ったのは、

日本人がどの様に考えて、どの様に生きてきたのかと言う、

日本人の美徳です。


母の実家の祖母は、

自分が死ぬまえまで、

私たちが見舞いに良くと、

せかせかと動き回って、お茶を出したり、食事を作っていました。

体に刻み込まれた働き者としての習慣です。

命が尽きるまで、ずっとそうあったのです。

これはどこの家のおばーちゃんもそうだったんでしょう。

これが日本人だった。


そうした日本が消えてなくなると覚悟したとき、

大好きだった父が死んだとしても、

そのあと皆が死ぬとしても、

いまここに立っている自分が、そうした姿を体現しなければ、

いったい何のために日本を続けてきたのか?

悔しくてたまらなかったですね。


だから、お父さんごめん。

悔しいから、僕が日本人らしく見栄を張るよ。

そうしないとやり切れないから。


父が祖父の死に対していったことを思い出します。

「いずれ少しして自分も逝くだろから。

 少しの時間の差でしかないと感じるんだよ」

少年の自分には不思議な話でした。


ずっと考えてきたことです。

少年時代から、さきほどの大事件までのあいだ、

自分の人生として、本当に死にそうになったときもあります。

好きな人が死んだこともあります。


ですが、

本当に自分の死を予感したり、

種族全体の死を予感したりしたときは、

悲しみではなく怒りを感じるものだと知りました。

自分のあとに何も続かないと知ったとき、

そこに生じる感情は怒りです。


悲しみの正体は、哀しさであり、寂しさです。

寂しさの中に哀れみを生じさせてしまえば、それは不遜です。


いずれ自分も後を追うことを普段から意識していなければ、

死んだ人を哀れだと感じてしまいます。

自分の死を見つめており、時間も残り少ないと意識していれば、

「ああ、早かったな」

「おれも、そろそろか。

 いやいや、粘りに粘ってやる。

 そうしないと申し訳ないしな。」

と感じることができます。


祖父が死んで、父の態度に疑問をもち、

子供の頃に父に聞いたことがあった。

だから、そこからずっと自分の死も含めて考えてきた。

そのため、先に逝く人を哀れと感じず、

生き残ってすまないと思うようになり、

文句を言われたら、どうせ大した時間の差ではないと言い返そうと

考えるようになったんです。


震災のときは、このような心の準備を多くの人がしていないと思えました。

死について考え続けるのは不健全ですが、

自分も簡単に死ぬんだと思えるくらいは、必要でしょう。


自分が永遠に生きていられて、死から逃れられた勝ち組であると、

錯覚している人が多いのではないかと思います。

現実は、死が遅いか早いかであり、

充実していたか不満足であったかの違いでしかありません。


自分が明日死ぬとして、

果たして同じ思いで他人の死を哀れんだんでしょうか?

自分が明日死ぬと予告され、

果たして同じ思いで他人の死を哀れむことができるだろうか?

悲しめるだろうか?


そう考えたとき、

私の経験では、そうならなかった。

すまん、少し頑張ってみるから、さきにいってて。

こういう感覚がしました。


他人の死が哀しいのは、

自分が明日、やはり簡単に死ぬかもしれないと普段から考えていない

からなのではないかと思うのです。



「自分の場合は誰もみとってくれないかもしれない。

 誰も思い出して悲しんでくれないかもしれない。」


意外とこれは本当かもしれません。

しかもそう長くない時間で訪れるかもしれません。


これを受け止めて、

その上でのこった寂しさだけを感じて悲しむ。

天国で会えるなどと言うロマンティックな話はしません。


しかし、

なにも思い出がないわけではない。

父が祖父を語ったように、私も父を語れます。


こうした人を残りの短い人生の中で、見つけられるかどうか。

こちらのほうが大事なんだと思います。


以上、少しでも慰めに成れば。
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乗り越え方などありません。


まだお若いので身近の人の死に直面したのは初めての経験かも知れませんね。
残された者はいろいろと考えるものです。
死者の気持ちや都合などに関係なくそれぞれに自問自答し後悔し、ああすれば良かったとかこうするべきだったとか考えます。
それが必要なことなのです。
亡くなった人は二度と返りません。
だから残された者は今後をどう生きるべきかを亡くなった人に教えられるのです。

悲しみから開放されようとしないでください。
いっぱい悲しんで故人を偲んでください。
泣きたいだけ泣いてください。
その先にあなたの生きるべき道があります。
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