アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

名古屋の闇サイト殺人事件では 主犯の神田司が死刑執行されましたが、感情論としては、共犯も死刑ですね。

感情論はバカにされることが多いですが、これは
間違いだと思います。
なぜ、人を殺してはいけないのか、を突き詰めて
いけば、それは感情に行き着くと思うからです。

感情には正当な感情もあり、それは法的に保護
されるべきものです。

法の90%は、健全な国民感情によって支持されて
います。
この感情に反するような判決は国民の支持を失い、
ひいては司法、法に対する信頼を失わせます。

まあ、一人殺害で死刑てのも例外中の例外ですから
主犯だけ死刑で、共犯は無期、てのは仕方がない
のだろう、と考えますが。

そこで質問ですが、みなさんは感情論について どう思いますか?

A 回答 (6件)

論理的な感情なら汲み上げるべきかと思いますし、ただ単に「死刑にしろ」と言うだけの感情では「ん~」ですね。


死刑の一つの基準に永山基準と言うのがありますが、50年近く前の事件で30年以上も前に出来た基準であって、時代は
流れていますので時代時代に合った様にしていくべきでしょう。
日本の裁判の良い点と悪い点の両方を持っているのが判例主義。
しかし昨今の凶悪事件に於いてはこの悪い点の方が出ていると思えます。
一人殺しても死刑にならないと言う所が一人ぐらい殺しても大丈夫と言う犯罪心理を呼ぶ事は否定出来ないでしょう。
つまり重犯罪の抑止力にはもはやなっていない。
だから論理的感情ならば、汲み上げるべきだと思いますね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>一人殺しても死刑にならないと言う所が一人ぐらい殺しても大丈夫と言う犯罪心理を呼ぶ事は否定出来ないでしょう。
しかし、一人殺して死刑になるのなら、犯人の心理としては 一人殺すも二人殺すも同じ、いっそのこと 目撃者も口封じに殺してしまえ となるのではないでしょうかね。

お礼日時:2015/06/30 15:54

>突き詰めていけば、それは感情に行き着くと思うからです


ですから、被害者や社会感情を鑑みた審判が行われるわけです。
しかし「つきつめれば感情だから」でなにもかも判断できるわけではありません。
そこのところを切り分けて考えられないようなひとの意見は大した意味のあるものではありません。

>みなさんは感情論について どう思いますか?
感情自体は人間が生きていくのに欠かせない大事なものですが、感情を元に出てきた言葉が「論」であると考えるのは愚かです。
何かを判断したいなら対象の感情は大切に自分の感情は排しましょう、ですね。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2015/06/30 16:26

感情には理由があるはずだと考えます。


○○だから、嬉しい、腹が立つ、と。
その瞬間は、その人の考えのとおりの結果が、感情になって表れると思います。
だから、ごまかしはできないでしょう。
後で、思い直して反省するということも、もちろんありますが、その感情が出な
くなってはじめて、考えが変わったということになると思います。

だから、感情論は、良い悪いというよりも、正直な人の言うことと言えるでしょう。
感情の出る人は正直、出ない人は未知。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2015/06/30 20:09

>なぜ、人を殺してはいけないのか、を突き詰めていけば、それは感情に行き着くと思うからです。



私もそう思いますが、質問者様の理由とは違うと思います。
更に、だからといって「感情による判決」を肯定できるわけでもないと思います。

A:法的な観点
実は、法律はすべての殺人を犯罪(いけないこと)とは定義していません。
「罪刑法定主義」により、法律が犯罪と定義しない行為は、犯罪ではありません。
そして、法律はすべての殺人を犯罪とはみなしていません。

法とは、正義を規定し国民に要求するものではありません。
法は、トラブルに際して、個人の権利や自由を守る為に定められているものです。
その為には、警察や軍隊のような、暴力装置が必要になります。
法を犯した代償を支払うことを、暴力を持って拒否するものに権力を行使する場合、暴力を以って強制するしかありません。その過程において殺人が必要になる場合もありえます。
法は、そのような場合の殺人は犯罪としていません。
(以上から暴力装置という言葉から、ネガティブなイメージを受けますが、これは学問上の専門用語であって、該当する組織を侮辱する言葉ではありません)

一般に言われている殺人が犯罪とされるのは、憲法で保証されている、「個人の生きる権利」を侵しているからです。
しかし実は、法律は殺人をする「自由」は認めています。
法律には、「~したものは・・・の刑に処す」とはありますが「~してはいけない」とは書いていません。
これは、前述のように、法が正義というものを定義していないからです。

この場合、所謂自殺幇助の問題がありますが、現実に裁判が起こっています。
判例では、情状酌量で減刑されてはいるようですが、殺人罪という扱いは変わらないようです。
これには、以下の理由があります。
1:自殺者当人が証言できない為に、本当に死を望んでいたか立証できないこと。
2:安易に認めた場合、社会的な影響が大きいと思われる為。(公共の福祉・利益が損なわれる)
《2も正義や道徳ではなく、社会全体の治安を保つ必要性(公共の利益)からのものです。》


以上から、
人を殺していけないという理由は、法ではなく↓の常識(感情)ということになります。

B:道徳・常識の観点
平時の社会は、その国固有の歴史と文化に基づく常識という不文律に支配されており、全ての関係はそれに基づいて動きます。
また常識の背景となる文化自体が、論理や理性に拠っては居ない為に、それら同士が矛盾する場合があり、
そのために、常識=法とはならない場合があります。
たとえば、「礼儀」は社会生活で重要ですが、それを無視しても犯罪者にはなりません。
ところが、常識自体が時と供に変化する上に、人毎にばらつきがある感覚の、最大公約数的なものなので、社会の常識=特定の個人の感性とはならない場合が多々あります。(その場合はDQNとか呼ばれるらしいです)

ということで、当事者が、それらを無視する事により、社会から受ける不利益を受け入れる事を納得している場合は、道徳や常識は全く意味のない概念になります。


C:宗教的な観点
宗教ごとに、殺人を悪とする理由が違う上に、それを受け入れるかどうかは、当人の自由です。
都合で正義になったりする場合もあるようです。



以上から、「人を殺すのはいけない事」は、個人の中での常識によるブレーキに過ぎません。
心の中で、どのような感情を殺人者に抱くかについても、個人の自由です。

しかし、それらの自由=感情による判決が正当である という理由にはなりません。
質問者様の主張は、前述の「公の法(裁判)」と「自由に感情を抱くこと」の正当性を同じ次元のものと誤解している為だと思います。



>感情には正当な感情もあり、それは法的に保護されるべきものです。

「正当な感情」であれば、法的に保護されるべきという根拠が不明です。
そもそも「正当」の定義はどのようなものでしょうか。
「保護」の内容も不明。
「保護の対象」が「その感情を抱くこと」についてなら、大概の国では憲法(思想の自由)で保護しています。
そして、「思想の自由」は不当な感情であっても抱くことは自由です。



>法の90%は、健全な国民感情によって支持されています。

90%の根拠が不明。
残りの10%がそれ以上に不明。
「健全」の定義が物凄く不明。

その「国民感情」とやらですが、「法知識や理性による判決への正当性の評価」と「単なる個人の激情の集合意識」のどちらでしょうか。



>この感情に反するような判決は国民の支持を失い、ひいては司法、法に対する信頼を失わせます。

ヒント:情治(人治)主義と禍の国の司法。
そもそも、この感情=「単なる個人の激情の集合意識」なら、それで判決を左右しようとするレベルの国民では、まともに法は運用はできないと思います。



>そこで質問ですが、みなさんは感情論について どう思いますか?

ここは、意見や議論の為の場ではないと思いますが。
「感情論はバカにできない」の回答画像4
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

okmnhtfcxsvqさんも性格が悪いですね。(笑) 折角 ご親切に詳しく すばらしい意見を述べられているのに、最後の文句と画像が蛇足ですね。残念です。回答者は つい 上から目線で回答しがちですが、回答者は逆に 質問者に評価さる立場です。そして、これは 私も回答する側に時に反省しています。それから、このサイトは 議論はNGだけど 意見を伺うのはOKのようです。

お礼日時:2015/07/01 05:32

感情論が強くなると厳罰化が強くなり、恐ろしいパターンになると、権力を持った側が刑罰を下すに際し、恣意的に厳罰を下してしまうという可能性も否定できないわけです。



ですので、判断を下す側による暴走を防ぐために、法による判断が必要となり、死刑クラスになると過去は冤罪問題もあったので永山事件による判断を判例として死刑判決を制限させているわけであります。

※司法側も、よっぽどひどい状況でないと死刑の判決を下せないですし、判例を超えてまでの判決を出すのを避ける傾向があります。

感情はわかります。しかし「感情に反するような判決」よりも「感情に流されて司法の暴走を許した判決」の方が法に対する信頼を損ねると思います。

※ちなみに古代のハンムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」というのも、「それ以上の報復は許さない」という制限でもあります。
 刑罰には感情でなく法で制限しなければならないというのは古代からの思想ということでもありますね。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2015/07/02 11:03

感情論抜きなら、損得勘定になるのか?


死刑は倫理に反すると言っても、その倫理は何から生まれたのやら?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>感情論抜きなら、損得勘定になるのか?
ユダヤ人なんかは損得勘定を最優先するだろう。

>死刑は倫理に反すると言っても、その倫理は何から生まれたのやら?
命は神から授かったものという考え方からだろう。

お礼日時:2015/07/05 22:39

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!