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江戸後期に生まれ明治期にいた作曲家(瀬戸口藤吉、滝廉太郎など)は西洋音楽理論(作曲法など)をどうやって、どこで(音楽らしきものが輸入されてから)勉強なさったのでしょうか?そこらあたりに詳しい方ぜひお教えください。(とにかくあの方達は凄すぎて、軍艦マーチなどスコア見るたびにドギモ抜かれています!)

A 回答 (1件)

滝廉太郎は明治12年(1879年)生まれ、瀬戸口藤吉は慶応4年(1868年)生まれですから、教育を受けたのは明治も結構経ってからです。



 瀬戸口藤吉は、1882年(明治15年、14歳)に海軍軍楽隊に登用されたので、そこで外国人教師に音楽を学んだのだと思います。
 軍楽隊については、Wikipediaに下記の記述があります。
「日本では、1871年(明治4年)に陸軍及び海軍に軍楽隊が発足し、1872年(明治5年)の鉄道開業式では早くも公の場での演奏を行っている。明治期には鹿鳴館での奏楽なども担当した。」
「日本の軍楽隊ならびに日本の吹奏楽の歴史は、明治2年9月、薩摩藩の青年30人が横浜に駐屯していたイギリス陸軍歩兵軍楽隊(楽長はジョン・ウィリアム・フェントン)について軍楽を修習したことに始まる(薩摩バンド)。明治4年、陸海軍の制度が成立すると、この30人が陸海軍に別属させられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E6%A5%BD …

 当時の軍楽隊の教育・育成のしくみはよく知りませんが、軍隊そのものの整備は急務だったので、外国からノウハウ導入・教官招聘して強力に進めたのでしょう。瀬戸口氏が軍艦マーチを作曲した1897年は、既に日清戦争も経験しており、軍隊・軍楽隊の整備がほぼ完成してた時期だったのだと思います。

 滝廉太郎は、1890年(明治23年)に、15歳で東京音楽学校(現在の藝大)に入学しています。この頃には音楽教育の仕組みもかなり整備されていたのでしょう。

 この時期の日本の近代化・西洋化、学問・科学技術・楽器演奏も含む技能の導入・定着化の進展には、本当に驚くべきものがあると思います。
 ただし、これらは一種の「エリート」が先導したものでしょう。国民的な「文化としての音楽」の普及・定着化には、かなり時間がかかったと思います。
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この回答へのお礼

ご指摘の文化としての音楽の普及は、私見では21世紀の今でも、邦楽を含め(極端には世間の騒音、静寂も鑑みて)それらを民族の精神的糧としている国々からみれば未だ「そうとうにおそまつ」至極と感じています。
回答感謝します、ありがとうございました!

お礼日時:2015/09/19 14:07

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