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聖武天皇を歴史で勉強するときに、
「病気が流行っていたり、社会不安があって‥」
「これを仏教の力でなんとかしようとしました」
・・・という風に習ったのですが、

結局、その効果はどうだったのでしょうか?

治まった…のですか?

A 回答 (2件)

>結局、その効果はどうだったのでしょうか?



詳しい話は、分かりませんが、、、、

国分寺建立や東大寺盧舎那仏像の建立等をされましたが、ご自身が崩御されるまで内乱は続いたようです。
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この回答へのお礼

内乱は続いたのですね。
病気(天然痘?)は、自然回復を見せたようですね。

いずれにしても、(当然といえばそうなのかもしれませんが)
寺を立てたからといって、魔法のように国が治まるわけもないですね。

少なくとも政治手腕というか、政治的には、困難がつづいたと…

ありがとうございました!

お礼日時:2015/12/04 16:01

第一に、聖武天皇は神祇統治を重視し、不改常典に準拠して即位し、道教的天地論に基づく統治を行おうとしたことである。

しかし、天平4年旱害、天平6年凶作・地震、天平7年災害・異変・疫病、天平9年旱害・疫病と、天変地異が続き、「山川(の神々)に祈祷し、天神地祇に供物を捧げ」て祭りをしたが、まだその効果が現れず、聖武天皇は自らの不徳なためとした。

第二に、こうして即位当初から天変地異などで神祇統治が行き詰まったことから、聖武天皇が元正天皇の影響をも受けて仏教統治を重視していったということである。

聖武天皇は、天変地異を鎮静し、国家安寧のために、大般若経転読(神亀2年)、各国ごとに金光明経配布(神亀5年)・丈六仏像製作(天平9年)、法華経写経・七重塔製造(天平12年)を行うが、広嗣乱で天異が深刻化すると、観世音菩薩像造立・観世音経十巻写経(天平12年)を命じ、国分寺・国分尼寺建立の詔(天平13年)、盧舎那仏造営の詔を発し(15年)、日本全国の仏教浄土化の実現をめざした。この時の金光明最勝王経―国分寺は、道慈が唐の大雲寺にならって提案したものであり、また盧舎那仏造営は仏教三宝、天神地祇、祖先霊の三者の恵みによるとした。

第三に、聖武天皇は、こうして護国仏教を普及する過程の天平10年(738)に安積皇子をさしおいて阿部内親王を立太子させた。安積皇子は当時はまだ10歳であり、かつ母が県犬養広刀自であったために皇親勢力・藤原一族の反対を受けやすいので、聖武天皇は、まず阿部内親王を軸に後継体制を固めようとしたのであろう。女性皇族を立太子させることは史上はじめてのことであった。天智・藤原の神祇系は、皇位存続上で深刻な危機感を覚え始めてゆく。

聖武天皇は仏教浄土の構築に向けて、推古祭祀大王ー聖徳仏教法王にならって、阿部祭祀天皇ー安積仏教法王という構想を立てていたかもしれない。聖武天皇は、度重なる天変地異や政変などに直面し、神祇統治の限界を覚えて、日本にも仏教浄土を構築しようとする過程で、仏教に熱心な王族・皇族らに語り継がれてきた、厩戸王子が仏教法王として東アジア「仏教王国」構想の導入で仏教浄土をつくろうとしたことを想起していったことは明らかである。聖武天皇は、この厩戸王子の果たせなかった「仏教国家」・「仏国浄土」構想を道慈の示唆などで受け継いで律令体制に適用しようとしたともいえる。

第四に、天平10年に聖武天皇は阿部内親王を史上初めて立太子させ、天平15年正月13日、聖武天皇は、先帝元正天皇からの皇位継承根拠を天神地祇ではなく、仏縁だとして、仏教が皇位継承に関与していることに初めて言及し、仏教と皇位が矛盾しないことを表明した。しかし、安積親王は、天平16年(744)に17歳で死去する。藤原仲麻呂が毒殺したとも言われるように、藤原ら神祇側は聖武天皇ー阿部皇太子ー安積親王の体制に深刻な危機感を抱いていたようだ。安積親王死去で、<阿部皇太子ー安積親王>での仏教統治の可能性は消え、<聖武天皇ー阿部皇太子>での仏教統治の可能性が濃厚になってゆく。

天平18年(746)3月15日には、聖武天皇は、皇基永固、天位長承、天下安寧、黎元利益あらしめんために、仁王般若経を講(と)かせたりした。あくまで、聖武天皇は仏教で皇位を磐石にしようとしていたのである。 749年1月14日には、聖武天皇、光明皇后は中島宮で行基を戒師として菩薩戒を受け出家し、同年7月には、聖武天皇は、新に男系後継者を定めることなく、阿部皇太子を即位させ、聖武上皇が仏教法王、孝謙天皇が祭祀天皇という分担で仏教統治を推進しようとしたようだ。しかし、これは、従来の女帝が皇后(推古大王・皇極大王=斉明大王・持統天皇・元明天皇)であった先例を破るものであり、孝謙天皇は元正天皇に次いで史上二番目の未婚女帝として深刻な皇位存続問題を惹起しはじめた。元正天皇は甥の首皇太子が即位するまでの中継ぎであったが、孝謙天皇にはもはや即位させるべき弟は居なかったのである。神祇側にすれば、聖徳太子の仏教偏重の悪影響を受けて、聖武太上天皇・孝謙天皇らは皇位存続上で極めて危い道を歩み始めたと言える。

当面は、皇太子問題である。既に735年までに天武天皇系の皇子(草壁皇子、大津皇子、舎人皇子、弓削皇子、新田部皇子、穂積皇子、高市皇子、高市皇子、忍壁皇子、磯城皇子)は総て死去し、聖武天皇・孝謙天皇は天武天皇系の第二世代皇子(例えば道祖王、大炊王)を立太子、ないしは即位させてゆかざるをえなくなる。だが、孝謙天皇は立太子を回避した。聖武天皇の死去の際に、道祖王(ふなどおう、新田部親王の子)を皇太子とする遺詔がなされた。しかし、孝謙天皇=称徳天皇が存続し、仏教法王による仏教統治を遂行しようとすれば、皇位は重大な存続危機に直面することになる。天智・藤原系は、孝謙天皇=称徳天皇の「消滅」により、天智天皇系の第二世代皇子を皇位継承者に担ぎ出す可能性を虎視眈々と待ち続けることになろう。

懐風藻が編纂された時期とは、こうした聖武天皇・孝謙天皇の仏教偏重策により皇位存続危機が深刻化する時期に当っていたのである。懐風藻はこのことを無視して理解することは出来ないのである。実際、このことを踏まえて懐風藻を吟味する時、懐風藻の歴史的特徴が浮き彫りにされてくる。

http://www.jommon.net/a%20shoumutennou%20bukkyou …

特段国土世間に劇的な変化を齎すことはなかったようです。
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この回答へのお礼

いただいた本文には、とくに「効果」についての記述はないようですね…。
誰も、よくわからない…ということのようですね…。
どうも、ありがとうございました!

お礼日時:2015/12/04 15:57

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