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ルクセンブルクとシュレースヴィヒ=ホルシュタインは似たような境遇(ドイツ連邦に加盟、ドイツ人と他国人が居住、地政学的に絶妙な位置など)だと思うのですが、シュレースヴィヒ=ホルシュタインはデンマーク戦争によりドイツに併合され、一方ルクセンブルクは現在でも独立国として存続しています。この違いを生じさせた原因は何でしょうか。またその原因を引き起こした要素はなんでしょうか?

A 回答 (1件)

そうですね。

まあ、たしかに、ここらへんは、ほんのちょっとの違いで、いろいろな可能性があったとは思います。

シュレースヴィヒ・ホルシュタインの両公国は、
第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(1848年)の時に、
イギリスが、シュレースヴィヒはデンマーク領、ホルシュタインは独立、という調停案を出して、プロイセンは承諾しますがデンマークが拒否しました。
このときに、デンマークが承諾していれば、現在までそうなっていた可能性はそれなりにあると思います。
結局、第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争は、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン両公国ともデンマーク領(というか勢力圏)ということで曖昧決着しました。
で、15年後に、軍事力と外交力をつけたプロイセンが、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争で、今度は、両方とも併合してしまったと。
デンマークからすれば、後になってみれば、第一次のときに調停案を受諾していれば、みたいな感はあるのか。

一方のルクセンブルグは、独立・ドイツ(プロイセン)領・フランス領・ベルギー領のどれになる可能性もあったとは思います。
基本的な流れは、
1.ロンドン条約(1839年)でベルギーの独立を認める代わりに、ベルギーからルクセンブルグを切り離した。(主に、ルクセンブルグ併合を狙うフランスの主張)
2.普墺戦争に勝って最強国になったプロイセンと、第二帝政で強硬路線のフランスの間で、ルクセンブルグをめぐって衝突寸前の状態になったが、
  ぎりぎりで妥協が成立して、ルクセンブルグを両国の永久中立国として独立させる(1867年)
3.1870年、普仏戦争でプロイセンがフランスに勝利してドイツ帝国成立。
って感じですかね。
例えば、1のときにフランスがルクセンブルグの分割を要求しなければ、ベルギー領になっていたでしょうし、
例えば、2で妥協が成立しなかったとして、例えば、もしこの時点で一旦フランス領になっていれば、
今度は、3の普仏戦争後には、アルザス・ロレーヌ同様に、ほぼ確実にドイツ帝国に割譲されていたと思います。(で、第1次大戦後に結局フランスに返還される?)
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