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フランスでは一応、自由とか人権の思想が花開いたのに、ドイツではなんで「国家第一」みたいな思想ばかりが幅を利かせたんでしょうか?

A 回答 (4件)

カトリックとプロテスタントが争った


30年戦争は、死者100万とも言われる
大戦争でした。

その戦争の舞台になったのがドイツです。

戦争の舞台になったので、ドイツは荒廃し
皇帝権の弱化による諸邦の分裂と相まって、
著しく近代化が遅れることになりました。




ドイツではなんで「国家第一」みたいな
思想ばかりが幅を利かせたんでしょうか?
 ↑
内部抗争で、国内が分裂して
連邦制になったからです。

分裂したので、殊更国家第一を
強調するようになったのです。
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この回答へのお礼

大変詳しく教えていただき、みなさん、ありがとうございました!

お礼日時:2023/11/15 21:40

> ドイツではなんで「国家第一」みたいな思想ばかりが幅を利かせたんでしょうか?



【~~~ばかりが幅を利かせた】の認定の方法が難しそうです。
ヘーゲルって人がドイツでも有名です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA …
ヘーゲルとフランス革命
隣国フランスでは、1789年フランス革命が勃発した。 絶対主義の領邦国家であったヴェルテンベルクの地にも革命の知らせが届き、内面の自由と外界の権力の二重生活を強いられていたヴェルテンベルクの人々の心にこだました。窮屈な神学院生活を強いられた若者は歓喜して政治クラブを結成し、革命演説をおこない、自由を高らかに称揚して、ラ・マルセイエーズを合唱した。毎日新聞を奪い合って読み、記事に関して討議して語り合った。
1790年、フランスで封建的特権の廃止を要求する農民が領主の土地に革命のシンボルとして「自由の樹」を植えたのを知った若者たちは感動のあまり熱狂し、フランスの例に倣うべくチュービンゲン近郊の野山に出かけてそこに「自由の樹」を植えて、周囲を踊り明かした。その若者の中には、ヘルダーリンやシェリングに加えてヘーゲルの姿もあった。
ヘーゲルはフランス革命を支持する政治クラブの熱烈な弁士の一人で、革命に関する新聞を密かに集めて革命思想を説いたクラブの中心的メンバーであった。パリ民衆のバスティーユ襲撃によりフランス革命が始まった1789年7月14日はヘーゲルの生涯にわたる記念日であり続けた。この頃のヘーゲルはジャン・ジャック・ルソーに心酔しており、かれのサイン帳には「自由万歳!」「ジャン・ジャック万歳!」「理性ある自由を!」「暴君に抗して!」などの威勢のよい言葉が書きつけられている。

フランスよりも、ドイツが何かと遅れていたことは、かなり重要です。
フランス革命でジャコバンが支配した恐怖を直接にドイツでは見ていたので、単に自由を主張する・個人の思考を尊重するのではヤバイとみて、道徳的・人格的・理性的であることの重要性を身にしみてしまったのです。

「国家は純粋に機械論的なものである。しかし機械というものについての精神的観念は存在しない。自由の対象となるものだけが観念と呼ばれうるからだ。ゆえに我々は国家を超越しなければならない。国家はすべからく自由な人間を機械の歯車として扱う。これこそまさにあってはならないことだ。ゆえに国家は死滅しなければならない。」
フランス革命の現実を批判するとともに、ルソーが『社会契約論』で描き出した国家像を批判している。また、プロイセン王国やオーストリア帝国のような専制的で軍国主義的な国家も否定されるべきと見ていた。啓蒙主義と復古主義の国家像を転換し、ヘーゲルは現実的な立憲国家のモデルを模索していった。

フィヒテも同様の思考に向いていきます。
ギリシャの昔から、ただの民主制は政治社会的にはとても危険なことをもたらすと思われていたことが、フランスの実例で立証されてしまったことが、ドイツにとって重要なのでしょう。
今のUSAを見ていると、個人の自由や権利を尊重するという基本路線は、その先に個人や団体、民族、国家などに圧政と排除と死を求める方向に容易に動くことが21世紀になっても変わらないことが分かります。
こうした国の政治状況を恐怖と嫌悪で受けてしまうと、道徳論・倫理・観念論や賢人による政治を求める方向にシフトするのは、ごく自然な流れにも見えます。
立憲制、国際法、戦時でも守るべき自制を唱えても、病院への攻撃と殲滅を声高に主張し実行することを、民主主義と個人の自由な権利行使を尊重する主義では止められないのです。
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古代からの地主階級の代表である王侯貴族に対し、中世末期から近世にかけて商工業が発達して中産階級(いわゆる市民)が資本を蓄積し始め、彼らが王侯貴族の横暴に怒って、自由と人権(いわゆる市民権)を求める市民革命が湧き起った。

その端緒は英国であり、そしてフランスが続く。
第二次世界大戦時点までで、市民革命が成功したのは英仏と英国から独立した米国くらいだ。

ドイツは第一次世界大戦の敗北で、皇帝が退位して民主国家となったが、経済不振から脱出できず、すぐに全体主義のナチスの台頭を許した。そこで見た目は経済の大復興・大躍進を遂げたが、実際はナチスの超放漫財政が祟って、国家財政は火の車で自転車操業だった。ナチスはユダヤ人の資産を強奪したり、周辺国を併合・侵略してそれらの資産を奪うことで、凌いでいた。
結局、ソ連侵攻の失敗で戦費も不足しだし、国民の財産をこっそり強奪しながら戦っていたが、万事休した。

結果的に、民主国家だった米英に占領された西ドイツは、米英型の民主国家にようやく成れることになった。
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ドイツはフランスと違って強大な権力が長らく無く、小さな権力の集合体のような状態が長く、国民国家という市民意識が生まれるのが非常に遅かったからです。

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