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カール大帝(シャルルマーニュ)は508年にパリに置かれていたフランク王国の首都を自分の出生地アーヘンに遷しました。

およそ300年間も首都が置かれていれば要人が増えて文化の中心地となり他の地域に遷すことはメリットがなくかなりの英断が必要なはずです。

彼にはどうしても出生地アーヘンに遷都したかった理由があったのでしょうか?

伝記作者によるとカール大帝は銀髪で195cmの長身、ということですからほぼゲルマン的な形質であることが窺えます。
いろいろな肖像画を見てもやっぱりゲルマン人の容姿です。

このことから

・ 彼はローマ化が進んだガリア地域よりも少しでもゲルマン文化が色濃い土地のほうが心の拠り所を求めやすかったのではないか。

・ 戦略的に北方のパリよりイタリア半島を牽制しやすいといった地の利があった。

自分はこのように考えます。

自分の出生地であった、という単純な理由ではないと思うのです。

フランス、カロリング朝時代に精通している方のご意見を頂戴したいと思います。

A 回答 (2件)

ザクセン族を制圧し今のドイツ地域を領地とする為、ザクセン人の勢力範囲に近く、よく知るアーヘンに移りここを拠点としました。


今のドイツの地域に住むザクセン族との戦いは、カールの父ピピン3世の時代から始まっていました。しかし、ザクセンの抵抗が激しくなかなか進展しません。
カールはこの戦いを引き継ぎ、ザクセンとの戦いを継続しました。
カールは768年にアーヘンに移り772年からザクセンとの戦いを開始します。パリからだとザクセン人の勢力範囲まで400キロ以上もありますが、アーヘンからだと100キロもありません。
つまりパリよりもアーヘンの方が陣頭に立って戦を指揮しやすかったわけです。
カールは30年もの年月をかけザクセンに勝利しドイツの地を征服し領土を拡大しました。

逆にイタリアへ遠征する場合は、アーヘンよりパリの方が有利です。
実際にカールがイタリアへ遠征しランゴバルド王国を攻めた時、アルプス越えを行っていますが、その時、グラン・サン・ベルナール峠を越えました。この峠はアーヘンよりパリの方が近いです。
イタリアを牽制するならアーヘンよりもパリの方が上だと思います。
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この回答へのお礼

ザクセン族との攻防の為にアーヘンに首都を置いたんですね。
ピピンの頃から続いていたんですね、知りませんでした。
彼は因縁の敵をどうしても征服させたかったんですね。
その気概には感服します。

イタリア遠征にはアーヘンの方が有利だと思っていましたが・・・。^^;
浅学を反省します。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/07/25 21:46

当時のフランク王国には、首都という概念が無く、王族は、常に国内を移動しており、その時王がいる場所が首都でした。


また、カロリング家以前のメロビング朝の時代は、フランク王国は、大きくアウストラシアとネウストリアに分かれており、しばしば両国は交戦していました。
カロリング家は、両方のフランク王国の宮宰となり、国王以上の権力を握っていました。
メロビング家のころも、固定した首都というものは存在していませんでした。
アーヘンも、首都ではなく(カール大帝は、首都にしたかったのかもしれませんが現実がそれを許しませんでした)、フランク王国の中心都市でしかありませんでした。
アウストラシアの中心となった都市は、メッツで、ネウストラシアの中心都市は、パリでした。
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この回答へのお礼

シャルルマーニュはその一生のほとんどを闘いに費やしていて王というよりは酋長といった感じですよね。
首都として定着させようにも混沌とした政局がそれを許さなかったというのは大いに頷けます。
もっともそういう政局を平定したからこそヨーロッパの基礎固めが出来て現在のフランス、ドイツ、イタリーの雛形が生まれたんでしょうね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/07/25 21:38

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