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スペイン内戦でフランコ率いる反乱軍が人民戦線内閣に勝利し、フランコの独裁体制が成立しましたが、
どうしてイギリス、フランス、アメリカはそれを承認したのでしょうか?
不干渉政策をとっていたとはいえ、フランスでは人民戦線内閣が成立したのだからフランコ政権に対抗しても良かったんではないでしょうか?

A 回答 (2件)

フランスの人民戦線政府は、社会党、急進社会党、共産党の連合政権であり、政権内部では、外交、経済政策等について、必ずしも一致しておらず、対立している部分がありました。

共産党はスペイン人民戦線政府を支援するべきであると主張していましたが、急進社会党は不干渉を主張しています。
こうした政策の対立から政府は安定せず、短期間で内閣は何度も交代しています。
また、そうした状況の中でも何とかフランス政府が、スペイン政府を支援しようとすると、スペイン内戦が世界大戦に発展する事を恐れ、不干渉を強く主張するイギリスから抗議がありました。
イギリスはスペイン政府への支援を継続すれば、ロカルノ条約で決められている有事の際のフランスへの援助はできないと言ったのです。この為、フランスはイギリスに逆らう訳にはいかず、スペイン政府を支援できませんでした。

フランスとイギリスがフランコ政権を承認したのは、一日も早いスペイ
ンの平和と安定と、友好を望んだからです。
フランスは世界恐慌の打撃で経済が低迷していました。フランス政府は色々な対策を立てましたが、成功しているとは言えませんでした。そうした中、隣国のドイツは領土的野心を顕わにした行動を起こし危険な存在となっていきます。1938年には、チェコのズデーデン地方を巡って諍いとなりました。チェコと軍事条約を結んでいたフランスと、フランスと同盟するイギリスは動員を開始したほどです。結局、ミュンヘン会議が開かれ、ズデーデン地方はドイツに割譲されますが、イギリス・フランスとしては、これでドイツの野心が収まるとは思えず、軍備の充実が必要と思われました。
そのような時に、1939年1月からスペイン政府の手痛い敗北とともに、フランスにスペイン人の難民が大量に入ってくるようになりました。
その人数は一ヶ月で50万人以上にのぼり、フランス国内に急遽作られた15ヶ所の難民キャンプに収容されました。
そして2月7日に、スペインのアサーニャ大統領がフランスに亡命してきました。
まだ、スペイン政府の軍は健在でしたが、弱体化しており、支配地域は国土の四分の一程度になり、その敗北は不可避なものと思われました。
ここでイギリス・フランスはフランコ政権を承認する事により、政府軍の士気を挫き、諦めさせ、戦争が早期終結に向かうよう目論んだのです。これ以上、戦争が長引いて、さらなる難民が押し掛けてくるような事態は避けたかったのです。
フランスは経済を建て直し、軍備を増強せねばならない時に、大量の難民まで引き受ける余裕はありませんでした。フランコ政権に国を安定させ、戦争の余波が自国に及ばなくなるようにしようとした訳です。この時、フランス政府を主導していたのは不干渉派のダラディエ首相でした。もはやフランスの目は、スペインよりもドイツに向けられていました。
また、ドイツと敵対した場合、フランスは背後のスペインを敵にしたくなかったのです。その為、もはや勝ちの見えたフランコ政権との友好が必要でした。
イギリスにしてもドイツとの関係が危うい以上、スペインを敵にまわす事は利巧とは言えなかったのです。また、スペインは内戦により食料生産や工業生産が落ち込んでいました。その為、イギリスはスペイン内戦終結を睨んでのスペインに対する貿易、特に輸出拡大の狙いがあった言われています。
アメリカに関しては、自国の国益を損なうような政体で無い限り、承認するのが、ルーズヴェルト大統領の方針でした。
イデオロギー的に反発する者が国内に多かったにも関わらず、ソ連を承認し国交を樹立したのもルーズヴェルトです。
フランコの終戦宣言の後に、アメリカが承認したのも、国益に反せず、貿易拡大の見込みがあったからだと言われています。
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人民戦線政権がソ連の影響下にある一種の共産政権だったからでしょう。


フランスの人民戦線の指導者ブルムは、ソ連の影響を嫌っていました。
ソ連支持の共産党とブルムの社会党とで人民戦線内閣ができても、ブルムはソ連を嫌っていましたから。
(フランス社会党は、社会民主主義を目指すのにフランス共産党は共産主義をめざしました。)
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