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1. 哲学は おのれの精神のストリップをいとわない。と思う。

2. けれども それは程度問題なんだからと言い むしろ肝心の本心を隠す場合もある。

3. たしかに何が何でも本音をひとさまにさらけだせばよいとはならない。要らないも
のは要らない。

4. よってここから 人呼んで 《縁側の哲学》が起こる。




5. 縁側とは 相手と確かにしっかりと接していて対話をおこなっているのであるが そ
こではなお話の内容として互いにみづからの精神のストリップにまでは到らないでいられる
場所として設けた非武装地帯( DMZ )のことである。

6. その言葉じたいにはわるい響きがあるが 一般に八方美人としての緩衝地帯である。

7. すなわち・したがって人びとは一般に人間関係に角を立たせないようにしようとする
とき この縁側の哲学を持つ。

7-1. この縁側理論が 例の《和を以って貴しと為す》という交通形式とどう同じでどう
違うかという主題も 派生しているかと思われる。あるいは クウキの理論もしくはクウキ
教の世界理論。




8. 知恵をしぼり工夫をして人びとは この自己表現にあたってのおのれの文体に帯びさ
せる縁側を 広い間口で低い敷居につくるかも知れない。相手をこころよく迎え入れたい。

9. また縁側の場所としての幅を広くして 嫌だと思う精神のストリップは回避できるよ
うにと・つまりはその回避をしたまま何とか実のある話し合いが出来るようにと対話のかた
ちを――おのれの文体として――築きあげるよう工夫する。




10. さて ここで問題は 縁側はいいこと尽くしではないと思われることです。
いかに縁側の居心地がよくても それだけでは話が成り立たず どうしても本心を明らかに
しなければ話が始まらないというときだと思われます。

11. 本心のはぐらかし・先送りで 人間と人間との対話は成り立つか? 成り立たない
なら 本心のストリップは 避けられないか?

11-1. これは ウソの問題でもあるかと思います。そのときのヤマシサ反応もしくは
恥ぢの問題であるかと。


12. ぶっきらぼう哲学は こういう主題をとことん議論するクセがあります。

13. ぶっきらぼう理論は ひとを傷つけるものだろうか? それともじんるいの未来を
拓くあかつきか? ぶっきらぼうでごめんなさいと言わねばならないだろうか。

質問者からの補足コメント

  • うーん・・・

    この補足欄のほうに先にひと言です。
    (夜中をまわり 眠そうな眠くなさそうな状態ゆえです)。
    (お礼欄のほうが スペースが広いゆえ あとで明日の朝もういちどお応えを考えてみます)。

    つまり ほんとにひと言です。

    ぐらす_るーつさんは すでにさとってらっしゃるのでは? です。

    あるいは その自覚がない。だけ?

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/21 00:30
  • うーん・・・

    【Q:易怒】のわが回答にお礼をもらいました。

    何て言いましょうか。

    《怒り》の定義のようなものについては あんがいわれわれの定義に賛成してくれて
    いるようです。

    あとは 何だか細かいところにこだわっているような。
    あるいは わたしの分析の仕方が あちらの見方に合わなかったのでしょうか。

    どうしようか 考え中です。

    No.10の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/21 21:02

A 回答 (31件中11~20件)

お礼について。


私が説明したいのは、作用はおのずと反作用を内包するという事です。
緊張は緩和を欲求するし、緩和を求める程緊張を余儀無くされる。
ゆるぎなく心地の良い縁側が用意されている程に、人にとっては敷居が高くなる。誰ひとり不在の縁側が出来上がるのです。
人の意識は波紋のようなもの。広がる程に干渉されやすく縮小に急ぐのです。
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この回答へのお礼

そうでしたか。少し――または かなり――別の意味に解釈してしまった
ようです。

すみません。ご回答をありがとうございます。

そうですね。
★ 緊張は緩和を欲求するし、緩和を求める程緊張を余儀無くされる。
☆ 作用・反作用の法則 でしょうか。

ううーん。どうですかねぇ。
やや深読み過ぎる。または 一部の場合にそれが当てはまるけれども つ
ねにそうだとは限らない。――とお応えすると これまた行き過ぎになる
でしょうか。

ううーん。
★ ゆるぎなく心地の良い縁側が用意されている程に、人にとっては敷居
が高くなる。誰ひとり不在の縁側が出来上がるのです。
☆ 考えるにこれは 亭主(ホスト)の人間いかんによるのではないでし
ょうかねぇ。どうもこれが 結論であるように思ったのですが どうでし
ょう。

★ 人の意識は波紋のようなもの。広がる程に干渉されやすく縮小に急ぐ
のです。
☆ つまり この・《緩衝》ならぬ干渉を受けて縮小や萎縮を余儀なくさ
れる。と同時に そのような反作用を受けつつ・それに身をゆだねつつも
なおあらためてさらに《広がって》行く。――ということも可能であり
しばしば見られましょう。

出る杭が ついに出切った。ということもありなのではないでしょうか。

お礼日時:2016/04/23 12:35

「武士」だから「刀」を持つのか?


「刀」を持つから「武士」なのか?

武士が「刀」という「信念」をいったん外すということは、自分を相対化してみるということ。
刀を持っていると、刀に支配されて、刀を振り回したくなるのではないでしょうか?

人と相対(あいたい)することは、自己を「相対」(そうたい)化すること。では?

信念って、自分が所有しているようで、実は信念に所有されているのでは?

等々・・・
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この回答へのお礼

№19を継ぎます。

人生の美学派は 縁側や茶室あるいは庭園や四阿(あづまや)が似合うで
しょうか。

それに比べると 哲学派は さしづめ書斎と書斎とのあいだの空中戦のよ
うなおもむきでしょうか。

救われるのは ステルス機などを使うことはまづなく ミサイルにしても
きちんとした説明書きをつけて飛ばすことを了解事項としているといった
ことでしょうか。


揚げ足取りになるかも知れませんが 《メタ・哲学》というのは――つま
り何にしろ 《メタ》という次元は―― まさに哲学であると思うのです
が。


★(回答№19) ~~~~~~~~~~~
武士が刀を持って入れない場所、それが「茶室」です。

「哲学」という鎧を脱ぎ、刀(剣)を抜き取って相対する。

「非・哲学派」のわたしには、「鍔迫り合い」とか「がっぷり四つ」という
「戦いの場」は遠慮したい。
~~~~~~~~~~~~~
☆ おおむね哲学は けんかであり(互いの批判の弁証法的過程であり)既
存の定説を乗り越えるには 剣で斬りつける場合もあるかと思います。

ですから おおむねおっしゃっていることは当たっているように思います。

何かどうしても一矢報いなければならないとしたら(というさもしい心によ
ると)・・・。:
まったくの丸腰で平和そのものの茶室にしても 人が人であるなら そこに
おいても ひややかな敵対心を燃やしつつ 視線には火花が散っているとい
うことは あり得る。と考えられますよね。

《ガップリ四つ》に成り得る。――愚問かなぁ。

ということは:
★ ~~~~~~~~
「武士」だから「刀」を持つのか?
「刀」を持つから「武士」なのか?
~~~~~~~~~
☆ 自分ひとりだけで武装解除をすることは 現実的か? という問いに取
って代わられるのではないでしょうか。

相手ないしまわりの環境という問題は 避けてとおれないもののように思わ
れます。

★ 信念って、自分が所有しているようで、実は信念に所有されているので
は?
☆ これは 純粋な(?)哲学の論理ですよね。個別性を捨象した思惟の筋
道なように思います。よ。

お礼日時:2016/04/23 12:24

こんばんは、ぶらじゅろんぬさん。



>以上のように《思います》と結ばれたあとさらに 《という一般論であり 哲学である》となるはずなんです。実際問題として。そういう問題でもあるんぢゃないでしょうか。

>個別性が大事だという命題(判断)は 一般論ともなっています。《哲学》です。

形式としては、そうなるのかもしれません。

先ほどわたしは、「わたしの云っていることは「哲学」ではない」ということについて、「メタ・哲学」として考えを述べました。
あるいは「非・哲学」からの「反照」とでもいうのか(苦笑)

これは「遠慮」とも関わってくるのでしょうけれど、わたしは自分の意見について「という一般論であり、哲学である」というレーベルを貼りたくない、という気持ちがあります。形としてはそう言いうるのかもしれないけれど、そういう大仰な衣で身を包みたくないという気持ち。

わたしは人生の問題、心の問題が何故「哲学」ではないのか?と、いいましたが、それは「哲学である」とは言い張りたくはない。
個人的には「人生相談」で一向に差し支えないのです。その方が気が楽ですし。

おもしろいと思うのは、「遠慮は無用に」或いは「人は矛盾に堪えうる」という「緩衝地帯」に対する疑問が多くあることです。

「孤独」の方で、「縁側」に近いものとして「茶室」を挙げられていましたね。茶道は武家の作法ですが、茶室ににじりいる際には腰に帯びた刀を抜き取って、丸腰で入らなければ茶の席には座れない。

武士が刀を持って入れない場所、それが「茶室」です。

「哲学」という鎧を脱ぎ、刀(剣)を抜き取って相対する。

「非・哲学派」のわたしには、「鍔迫り合い」とか「がっぷり四つ」という「戦いの場」は遠慮したい。

人生だけで大変なんだから、せめて人とは友好的に、という考えです(笑)


PS.

「言語によって人を律する」「使う言語によって人を見分ける」というのは、おもしろいですね。
「文体」って、身に纏う衣装のようなもので、それによって、ある程度、「来る人」を予め選別しているといえますね。
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この回答へのお礼

少し視界が開けて来ました。

るーつさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

るーつさん〔と呼ぶのもへんですかね〕は 美学。わたしは 哲学。
《美》に対して《真》であり さらに《善》に重心を置くと倫理学。

《真》は 絶対としての真理 および 主観真実があります。

主観内容でしかないものが相対的な普遍性を持ち得ると見なされ広く共有され
と その真実はすなわち アマテラス普遍科学語となる。その人格語が 倫理。

その普遍性を アマテラスの抽象名詞化として アマテラシテとも呼びます。
( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )。

絶対真理は この人間世界の普遍性をも超えている場としての想定です。



主観真実を むろん 美学もが問い求めます。しかし おそらく主観が主観で
あることを離れない。個別性に重心がある。

哲学が真実を問いもとめる論理の一本道だとすれば そう(それだけ)ではな
く 美学は 個々の主観としてむしろ道草を食う。いえ それどころか周りの
広い野原や街の姿の中にゆっくり遊ぶ。

虚構と呼べるような想像世界をも含めた大きな主観宇宙を そのホームグラウ
ンドとしている。

ひとりの人の主観はそれぞれ 次の構造を成すはずだ。:

 《スサノヲ人間語 - アマテラス普遍語(科学語&人格語)》の連関

重心の置き方に違いが出て来る。《主観真実》について 主観性に重きを置く
か。真実性のほうにか。または 真実にもとづく誠実さとしての信実性を重視
するか。

美学は なぜ主観性のほうを問題にするか。
《わたしがわたしである孤独・しかも心の明けとして開かれ関係性をそなえた
孤独》――つまり主観――が 道に迷い・時には脱線をも冒(おか)す。その
あと自己の同一性に立ち還るのは 人それぞれのルートがあると信じるからで
ある。

何に美を感じて われがわれに還るか。ここに自己還帰のルートがあると捉え
られそのときこの美というのは 人それぞれ 千差万別だと知るからである。

哲学は もっぱら論理の道のほうを歩いており 美についてもこの論理で一般
化して捉える。

なお《文体》は 哲学・美学および倫理学のそれぞれについて捉えられ 一般
に S語およびA語の交じった言葉の組み立て方を言うはずです。

お礼日時:2016/04/23 05:22

色々と想いを巡らせていたら《客観》という言葉が浮かんできました。



主観を前面に押し出すか、これを一歩引いて客観性を持たせるか。
ここが、分かれ目のように思いましたが。

良し悪しとか優劣とかを当てはめて捉えようとしてはいません。

▲(マタイによる福音書/10:34-39)~~~には興味深々となりました。
だから考えました。

逆転の・・・いや、逆転させて・・・ん?・・・したかな?

仏教とキリスト教の「教え」は“対極的”であると。
でも、一体・同体のものであると。
例えれば富士山を東から見たか、西から見たか、と云う・・・

だから、これを仏教目線で読み解くと・・・

端的に言えば、人の“煩悩に執着しているこころ”を取り上げていますね。
気付きなさい、と。

たぶん、ぶらじゅろんぬさんは相当反発心が有るだろうと思います。
私も、多少の異議を感じます。

でもこれは「神」の世界に入ろうとするならば、、、と云う“説明”であって大多数の人にそうしなければならないと言っている訳ではないと、受け止めています。

アルケーの法則に則っていると思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

《イエスはこの〔弟子たち〕十二人を派遣するにあたり》(マタイ福音10:5)たとえ
ば 《行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい》(10:7) と言っています。

そして次のように話がつづきます。:
▲(マタイによる福音書/ 10:12~13) ~~~~
12: その〔町のしかるべきふさわしい〕家に入ったら、『平和があるように』と挨拶し
なさい。
13: 家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えら
れる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。

▲(同上 10:16) 
わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、
蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。

▲(同 10: 22) 
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え
忍ぶ者は救われる。

▲(同 10:26) 
人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもの
で知られずに済むものはないからである。

▲(同 10:32~33)
32: だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも
天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。
33: しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人
を知らないと言う。
~~~~~~~~
☆ こうして 《平和 vs. つるぎ》の話につながります。:
▲ 10:34 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和
ではなく、剣をもたらすために来たのだ。

さらに:
▲ (10:40~42) ~~~
42: あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたし
を遣わされた方を受け入れるのである。
41: 預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい
者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。
42: はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい
水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。
~~~~
☆ ずるいけれど よく分かりません。アルケーはもっと分からん。

お礼日時:2016/04/22 22:34

6.までの八方美人についての説明ですが、緩衝は、人と人の間にある作用であって、どちら側の、人自身にあるものではないという事の趣旨でよろしいのでしょうか?


つまり、八方美人である事で緩衝作用をもらさせば、その地帯にある時、各々の人自身は緩衝作用を高める程に緊張を強いられるという、説明なのでしょうか?
私は、あなたに対し、人は「矛盾」に耐え得り、「矛盾」に心地良ささえ思うものだという事を説明したいのですが、あなたの趣旨にそぐいませんかな?
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この回答へのお礼

★ 緩衝は、人と人の間にある作用であって、どちら側の、人自身にあるものでは
ないという事の趣旨でよろしいのでしょうか?
☆ はい そうです。
非武装地帯( DMZ )(《5》)というのは 《 no man's land 》とも言うようで
す。38度線は 兵士がいるようですが 《人がいない緩衝地帯》のことだと思い
ます。

★ つまり、八方美人である事で緩衝作用をもらさせば、その地帯にある時、各々
の人自身は緩衝作用を高める程に緊張を強いられるという、説明なのでしょうか?
☆ あぁ ややこしかったでしょうか。
こちらの心算としては いま上の《無人(非武装)地帯》に互いに歩み寄るといっ
た感じを出そうとしたものでした。

あるいはつまり 双方の《陣地》のあいだに互いに何も置かない縁側なる場をもう
けようぢゃないかという趣旨です。


さて 次が回答者さんの眼目ですね。
★ 私は、あなたに対し、人は「矛盾」に耐え得り、「矛盾」に心地良ささえ思う
ものだという事を説明したいのですが、あなたの趣旨にそぐいませんかな?
☆ ううーむ。

ということは 縁側も緩衝地帯も要らない。互いに 精神的なつばぜり合いを哲学
として いつでもおこなってよいのだ。
――こういったお考えのことでしょうか?

たぶん 《哲学》の探究としては 社交辞令を交わすための縁側談義だけでは用を
成さないと言うべきでしょうね。

そもそも探究は ひとりだけでおこなうもので その成果を互いに伝え合いそれに
ついて互いに自由に批評し批判しあうときには 縁側談義だけでは たぶん済まな
いものと思います。

批判ということでは 研究者はいい意味でもわるい意味でも頑固であって 確かに
おっしゃるように互いに《矛盾》のあることに突き当たるでしょうね。通常は。

ですから その場合は 一たん保留して 研究をなお重ねつつ また機会を得て話
し合うということになるのでしょう。

この件については おっしゃることにほとんど同じではないのでしょうか?


これまでに ただし 《人間そのもの》についての話し合いが別にあってそれは
心の境地を互いに触れ合わせるかのように 共に過ごす時間を持つ。このような
人生論ふうの哲学談義については 縁側なる場がちょうどよいのではないか? と
いう話になって来ています。どうでしょうかねぇ。 謝謝。

お礼日時:2016/04/22 22:10

こんにちは、ぶらじゅろんぬさん、そしてyy8yy8azさん。



お話を伺っていると、No7に書かれた、わたしとぶらじゅろんぬさんのやりとりが議論されているようです。

以下

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
B. 「この《距離感》は ぐらすさんがいつも哲学に対してへりくだる姿勢を断り書きしておられるその《遠慮感》が感じられるということではないかと思います。(支流として結果的に自己韜晦にもつながってはいますね)。」

G. 「ここは一応「哲学」という「学問」のカテゴリーで、みなさん、それを「前提として」お話しされているのだと思います。」

B.「わたしは ここでは基礎( basis =歩み)において哲学として語っています」

G. 「と、仰るように。」

G. 「であれば、わたしのもっているのはあくまでも一般化し得ない、普遍的ではない、「個人的な意見」でしかありませんので、
哲学的なアプローチで発信することもできないし、またその話法での受信も難しい、ということを予めお断りしています。

『遠慮感』は、「謙遜」ではなく、わたしの話していることは「哲学」ではありません、という前置きのようなものです。
もっとも、何を以て「哲学」と呼ぶのか、という問題もあるでしょう。「個人の意見」が「哲学ではない」とは言い切れないのかもしれない。これはもう受け取る側がどう判断するか次第だと思います。

哲学を、或る理論体系であるとするならば、わたしのは、ほぼ「文学」です。(笑)」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

哲学の素人でありながら、形だけとはいえ、「哲学科卒」の無意味な肩書を持つものとして、ここでも「意見」を述べておきます。

>哲学的議論と、人生相談の違い。

>人生観は個人的。哲学は普遍的。

>人生観はこの世の体験が主体と成って感想が構成されたもの。哲学は理性の働きが主体と成ってこの世を分析したもの。

>哲学するなら専用の“議論の場が必要”になる。ここならぶっきらぼう哲学も“遠慮”は不要。



先ず、「それは人生相談であって、哲学じゃない」という場合、では何故哲学が人生相談であってはいけないのか?という疑問です。

例えば、仮に天国というものが、「無憂」の地であり、そこには死も、悲しみも、不安も、懊悩も、痛みも存在しないとすれば、
果たして、天国に「芸術」や「文学」「音楽」「詩」、更には「哲学」が必要でしょうか?そうは思えないのです。
なぜって、これらのものは全て、「現世を少しでも生き易くするため」に生み出された「人間の工夫」だからです。

「哲学的議論」が、人間存在の悩みや苦しみを捨象した、純粋に理性の領域での「学」であるなら、或いはここでの質問のように「我と汝」の関係を「主体的」な「各々の、一個の人間存在としてその内面から」導き出そうという、人間存在から乖離したものであるなら、哲学にどのような人間的な意味があるのでしょう。
わたしは寧ろ、「哲学」を棄てて、「悩みの場所」にとどまりたいと思います。

マチスの絵でも、ヘッセの小説でも、ボードレールの詩でも、ブランクーシの彫刻でも、それらは全き「個」から生み出されたものです。
無論過去に生み出された多くの作品、或いはその時代の潮流等、様々な影響を有形無形に蒙っていることはいうまでもありません。
けれども、一枚の絵は、ゴッホという一個のかけがえのない存在「代替不能」な有限な一個人によって創造されたもので、全くそれは「ゴッホ」でしかない。ではそれは「個」であるから「普遍性を持ちえない」かというと、「絶対的な個人性」はそれが彼・彼女の内面の深奥から生み出されたものであればあるほど、「具体的」かつ「経験的」であればあるほど、「普遍的」存在足り得るのだと思います。

逆に、「普遍妥当性」を持つもの。「誰にも正解としてあり得るもの」はそれが「誰のものでもある」が故に「誰のものでもない」というパラドクスを生み出します。「個人的」であり「具体的」「経験的」なるがゆえに、人はそれらに魅力を感じるのでしょう。

「哲学」が「哲学」であるためには、その中に「非・哲学」的なものも内包しなければならないのではないでしょうか?

小説にも「哲学」はあります。漫画にも「哲学」はあります。「政治」にも「経済」「経営」にも「哲学」は不可欠です。

無論これを「通俗哲学」として「純粋な学としての」哲学と峻別、一蹴することも可能です。

人間と人間の関係を考えるとき、多様な性質を持った「個々人」として見ることなく、一般的な概念としての「人間」として眺めるなら、それは「魚」と「犬」を同一視するようなものではないでしょうか?

『「存在一般」というものは「存在しない」』のであれば、具体的な個別性を無視して語られるのは、単に「抽象的思考」であって、そこには「人生相談的哲学」からの疎外によって「存在の耐えられない軽さ」に陥った個々の人間存在=実存ではないでしょうか?

「遠慮」や「恥じらい」あるいは「怖れ」それらを視野から外して論を進めていっても、それは遂には「殿様の前に差し出された」「御殿での」「目黒の秋刀魚」でしかないのではないかと思います。
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この回答へのお礼

わいわいえいとさん 言われちゃったよ。と他人の所為にするわたし。

るーつさん ご回答をありがとうございます。

そして 以上のように《思います》と結ばれたあとさらに 《という一般論
であり 哲学である》となるはずなんです。実際問題として。そういう問題
でもあるんぢゃないでしょうか。

個別性が大事だという命題(判断)は 一般論ともなっています。《哲学》
です。



わいわいえいと氏は わたしの昔の議論を知っていますか。

たとえば:
1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。
(あやまつは人のつね)。
 
2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが 
あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内
容をなるべく等しく共有しうるその普遍概念を抽出した言葉)。

3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いて
さらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として
――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。

4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス
普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。
(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。

☆ こんなふうでした。
言いかえると:

 《スサノヲ人間語 - アマテラス普遍語(科学語&人格語)》の連関

として成り立った言葉を ひとは普通にしゃべっているものと思われます。

人生観と哲学議論。

両者の全体に立ったものが 大哲学でありとうとい人生観であると。

政治家やもっぱらの公民一般は アマテラス語をよく用いますが しばし
ばそれはアマテラス方言であって 訛っていることがよくあるようです。
(一部のデータだけにもとづき 公正性をうったえたり)。

昔は アマテラス公民語が 神聖にして侵すべからざる無謬性を帯びてい
るとされていました。お上には逆らえませんでした。


ぶっきらぼうでも 縁側談義に参加できたでしょうか どうでしょうか?

お礼日時:2016/04/22 14:17

ぶらじゅろんぬさん。

縁側、にお邪魔しますよ。
振り返ってみれば、結構長いおつきあいになりました。
当初は、こいつ何言ってるんだ!なんて思いが有りながらも、その時々の質問に引かれて回答し続けることが、いつの間にか自分自身の思いを言葉で表現する“工夫”に繋がっていました。

まだまだ“未熟”から脱出できていませんが、多少の進歩は感じています。

あの頃はぶらじゅろんぬさんへの批判が結構有りましたが、それもめっきり減りました。
ブラジュロンヌ哲学、が無視出来なくなった故と思います。

このカテではブラジュロンヌさんこそが真の哲人であると思っています。
そして、その心は哲学と人生観との“狭間”に関わることで、これまでの歴史に残る哲人が取り上げていない事柄ではないかとも。(無知だから知りません)

とても勉強になりました。
ありがとうございました。

さらに諸刃を磨いて向かいたいと思うので・・・油断召さるな。
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この回答へのお礼

《諸刃》ですか。

これは きびしい。

《平和をもたらすために来たと思うな。つるぎを投げ入れに来たのだ》という言葉が思い
出されますね。

精確には どうだったか。:
▲(マタイによる福音書/ 10:34-39) ~~~~~~~~~
34: わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、
剣をもたらすために来たのだ。
35: わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうと
めに。
36: こうして、自分の家族の者が敵となる。

37: わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘
を愛する者も、わたしにふさわしくない。

38: また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
39: 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえって
それを得るのである。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ いま読むと こわいですね。わけ分かんないとも言わねばならないですね。

マラソンです。長丁場です。

一歩一歩まいりましょう。


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/04/22 13:15

人生観はこの世の体験が主体と成って感想が構成されたもの。


哲学は理性の働きが主体と成ってこの世を分析したもの。
・・・・と云うのはどうですか。

№13のお例文は“人生観”ではないと思います。

縁側の哲学は遠慮(人に対しての)の哲学。
縁側の哲学は交流の哲学。
縁側の哲学はそれ故に精神のストリップは不要。
あえて言えば“哲学の応用”を持ち込むことは許されるかもしれない。

哲学するなら専用の“議論の場が必要”になるのではないでしょうか。
ここならぶっきらぼう哲学も“遠慮”は不要ですから。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~~~~~~~~
人生観はこの世の体験が主体と成って感想が構成されたもの。
哲学は理性の働きが主体と成ってこの世を分析したもの。
・・・・と云うのはどうですか。
~~~~~~~~~~~~
☆ たぶん それらが結果として現われているその状態から見たら そう
いう区別になるのではないでしょうか。

言いかえると それらが形成されるときには どうか?

人生観だって さまざまな理論を参照する場合があります。
先輩たちの意見を聞くとすれば 自分にとっては未体験のことから一種の
理論となったものを参照しています。

ということは 理論は 《理性のハタラキによるもの》だとしても その
とき《この世を分析し》考えたのは おのれの体験にも基づいている。と
成っているのでは?

哲学するときには ものごとを概念として一般化させ さらにこれを抽象
的にいじくりまわすことを含みますので 何かと生活や具体的なものごと
とは離れていると見られやすい。のでは?

哲学も 《いま・ここなるわたし》に帰って来ますよ。
帰って来ない哲学は あんまし頼りにならないのでしょう。

★ ~~~~~~~~~~~
縁側の哲学は遠慮(人に対しての)の哲学。
縁側の哲学は交流の哲学。
縁側の哲学はそれ故に精神のストリップは不要。
あえて言えば“哲学の応用”を持ち込むことは許されるかもしれない。

哲学するなら専用の“議論の場が必要”になるのではないでしょうか。
ここならぶっきらぼう哲学も“遠慮”は不要ですから。
~~~~~~~~~~~~~
☆ ですから 《人生観ないし人柄論ないし人となりとしてのマジハリ談
義》としてなら 縁側での《会談》でよい。《心の境地》の問題であるゆ
え。

世界観をめぐるさまざまな主題 についての探究 ならば 縁側でジャブ
の応酬をするだけでは効かない。いっさい条件をつけずに裸で土俵に・あ
るいはリングに上がって行かなければならない。

《専用の場》と言いますか お互いとことんこれこれを問い求めて行くぞ
という了解に立てば よいものと思います。

むかし哲学カテで 質問者が趣旨説明で《正解は遠慮してください》と言
っていたのを見たことがあります。

お礼日時:2016/04/22 10:38

人生観は個人的。


哲学は普遍的。

ではないのですか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

たとえば わたしの考えによるとですが:

孤独とは よくよく考えるにわれだけの孤独状態であるのではなく
なれの孤独 かれの孤独でもあり それらとの関係であると知られ
ます。

孤独とは 孤独と孤独との関係のことだと。

普遍的であろうとした思惟だと思うんですが ここから自分自身の
思想をみちびきます。そうすることがあり得ます。

つまり 孤独とは 人間のふつうの状態なりと。
言わばクリスマスツリーが飾りを取り払って樅の木だけになったと
しても 何の不都合もないのだと。

これで ひとつの人生観ですね。そうですよね。

ひとつの例でしたが こう考えるなら:
哲学は 基礎であり理論。
人生観は 応用であり実践。

といった捉え方は どうでしょうか。と思うんですが。

お礼日時:2016/04/22 05:33

孤独、が持つ(含まれる)力、それは反力となって働きます。



マイナスのイメージを持っているからこそ、です。
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この回答へのお礼

あぁ その問題は: 
【Q:孤独からここに戻るのか いや 孤独へと立ち還るのか】
でやってます。

めづらしい方としては ごうじぐさんから:
◆ (回答№3) 私の場合は、孤独の状況でも寂しくないような自分を
普段から作っている。そんな人生観です。
☆ といった見方――人生観でしょうか――も出されていますよ。

孤独なる状態が むしろ基礎と成るという実存のかたちだと思います。


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/04/22 00:38

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