プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています。

▲ (ニーチェ:高貴とは何か Was ist vornehm? ; What is noble? ) ~~~~

( a )
――高貴とは何か。われわれにとって今日なお《高貴》という言葉は何を意味するか。

始まりつつある支配のこの重苦しく雲に覆われた空のもとに すべてのものが不透
明に鉛色になっているときに 高貴な人間を何によって露わにし また何によって識別
するのであろうか。

( b )
――高貴な人間であることを証拠立てるのは行為ではない。――行為は常に多義的であ
り 常に底を究めがたい。

( c )
――それは《作品》でもない。今日では芸術家や学者たちの間において 高貴なものへ
向かっていかに深い要求に駆り立てられているかを彼らの作品によって示しているよう
な人々が十分に見いだされる。しかし まさにこの高貴なものへの要求こそは 高貴な
魂の要求とは根本的に異なるものであり しかもまさしくその欠乏の雄弁にして危険な
徴表である。

( d )
ここで決定的であり ここで位階秩序を確定するものは 一つの古い宗教上の方式を新
しく かつより深い意味において再び採用して言えば 作品ではなくして 信仰( der
Glaube ; the belief )である。

すなわち 高貴な魂が自己自らについてもつ何らかの根本確信( irgend eine Grund-
gewissheit; some fundamental certainty )である。

求められもせず 見いだされもせず 恐らくはまだ失われもしない或るものである。

( e )
――高貴な魂は自己に対して畏敬( Ehrfurcht; reverence )をもつのだ。――

(木場深定訳:『善悪の彼岸』第九章 高貴とは何か 二八七(その全体です) 
 1970 / 2010改版。任意に改行し段落に符合をつけています)
 ・ 独文: http://www.nietzschesource.org/#eKGWB/JGB
 ・ 英訳: http://nietzsche.holtof.com/Nietzsche_beyond_goo …
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

おしえてください。
 
1. 《神は死んだ》と言う・かのニーチェが 《 信仰 / 根本確信 》とは おかしく
ないか?

2. 何かのレトリックか?

3. いづれの解釈をするにしても けっきょくどういう思想であるのか?

4. 神は 《有る神》と《無い神》との間に何ら違いはない。とは質問者は考えてい
ます。でもその捉え方を当てはめるのは あまりにもニーチェ劇場の外からその芝居を
見ているのと違わないことになるのではないか?

質問者からの補足コメント

  • うーん・・・

    №3補足(1)
    ★ 「神」が死んだ(もしくは殺した)のは、〔ニーチェをふくむ〕キリスト教徒
    そのものでしょう。
    ▲(『喜ばしき知識』125番) ~~~~
    神は死んだ!
    死んでしまい 蘇ることはない!
    しかも 我々が殺したのだ!
    殺しの中の殺しをした我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?
    これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフに
    よって血を流して死んだのだ。
    ~~~~~~~~~~~~~~~
    ☆ №1お礼欄に書いたことよりほかに何か言うべきことが見つかりません。よく分
    からないのです。

    ★ 少なくともキリスト教的な「神」自身がニヒリズムですから、それ自体存在して
    いたような幻想と言う事かも
    ☆ という見方をも成し得ないでいます。
    普遍神に ニヒルも人間の思い描くアールマイティ―も無いと見るからです。逆にす
    べてを含むとさえ見られはしますが。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/05/06 16:45
  • うーん・・・

    №3補足(2)
    ★ ニーチェは、キリスト教も仏教もニヒリズムの宗教としていますが、仏教に対
    しては「衛生学」として、その実践に対しては、キリスト教より100倍優れている
    としています。(仏教はルサンチマンを排除している点と、神の概念を解決してい
    る点)
    ☆ (う) 《神の概念の解決》とは どういうことでしょう?
    (え) ブディズムには六道輪廻があります。《ルサンチマン》をも諦めさせ現世
    では大人しく振る舞わせ得ます。つねに《大化城》なる――三世にわたる永遠のま
    ぼろしの――お花畑幻想があります。
    (お) 輪廻転生説がやはり三世にわたる因果応報を人びとに信じ込ませ得たとす
    るなら 確かに精神衛生は良好な状態を保ち得る側面があるようです。ただし こ
    れもやはり幻想です。利害関係に基づこうとするグローバリズムの前に敢え無く潰
    えました。
    (か) クリスチャンのニヒルは十字架だけなのでは?

      補足日時:2016/05/06 17:00
  • №3補足(3)
    ★ なお、「善悪の彼岸」で「高貴」を打ち砕いたのは、ルサンチマンそのものです。
    「神」=キリスト教的価値観のみを恐れて、怖れるべき「人間=高貴」を排除したと
    言う事です。(キリスト教的な「善」「悪」の価値観が勝ったと言う事です)
    ☆ ここはよく分かりません。読み落としているとしたら おしえてください。
    でも卑賤を貶めていますよね?

    ★ ニーチェが批判したのは、あくまで、かなえられる保証の無い「希望」に基づい
    て、信仰を強制する「宗教」であって、「信仰」=「生」を実践する根拠、を否定し
    ているわけでは無いでしょう。(否定は、主に「一つの古い宗教」に向けられていま
    す)
    ☆ (き) 《かたちのないものが希望である》(パウロ)。もともと《保証はない》
    のでは? たぶんニーチェの無知なのでは?
    (く) 《宗教》はすべからくアホンダラ教であることについてはもう触れません。

      補足日時:2016/05/06 17:08
  • HAPPY

    闇を照らすだけではなく 心の灯心をともすというイエスのハタラキについて。

    ○ 人の内から生きた水が湧き出る

    ▲ (ヨハネ福音7:37-39) 
    37: 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
    38:  わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の
        内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
    39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われた

    *(註) 《聖書に書いてあるとおり》とは: 
    ▲ イザヤ書55:1 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。

    ▲ 同44:3 
    わたしは乾いている地に水を注ぎ
    乾いた土地に流れを与える。
    あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ
    あなたの末にわたしの祝福を与える。

    ▲ 同58:11 
    骨に力を与えてくださる。
    あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。

    No.12の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/05/09 15:26

A 回答 (14件中1~10件)

お礼ありがとうございます。


実体としてのイエスは、人間イエスです。
「虚無」に関しては、文字通りの無=何も無いです。
ここからは、やや脱線ですが、ニーチェがここまで、「The Antichrist 」を貫いた以上、キリスト教徒からの猛烈な批判を受けたのではないかと思い、それを調べてみました。(浅学ゆえ、中々見つかりません)
そこで気が付いたのが、何故かキリスト教徒でありながら、ニーチェの思想に共感していると思われる人がいると言う事です。
その根源として、ルサンチマンは別として、中世キリスト教において、キリスト教はヒューマニズムを否定していた事実があるようです。(現代においては、キリスト教的ヒューマニズムとして、それを解消しています)
その極端な例としては、デジデリウス・エラスムスの『自由意志論』に対抗して、マルティン・ルターが『奴隷意志論』 を出したことでしょう。(ニーチェは、ルターの宗教改革も徹底的に批判しています)
この段階で、ルター(及び、ルターを筆頭とする宗教改革派プロテスタント)は、「神」の前では、人間の自由意志は「虚無(nihil)」であるとしました。
エラスムスは、プラトン的哲学とキリスト教の融合をはかり、人間は理性としての「善」が内在し、「神」はそれを助ける力をもたらすとして、ヒューマニズムを提唱しました。(人間は、その原罪の前でも、その「善」を行使する為の「最小限度(non-nihil)」の自由意志を持ちうる」とルターに反論しました)
つまり、キリスト教は、人間の「自由意思」を否定して、ひたすら「神」の救済を祈り、原罪を償うための、「奴隷意志」でしか救済されないとされた時期があるわけです。
なお、現在のキリスト教的ヒューマニズムの前でも、そこには「神」による救済が厳然として存在している事は確かです。(「神」と分離した「自由精神」により、救済が得られる事は無いと言うのは変わりません)
キリスト教が宗教として成り立つための原点なので、やむを得ないでしょう。(神によってしか救済されない宗教ならば、全て同じといえます)
つまり、ニーチェの批判に関しては、それを否定しきれない要素があると言う事です。
ニーチェは、人間の「生」に対する「力への意志」の観点から、キリスト教社会を批判していますから、逆に反論したら、キリスト教の根源が否定されてしまいます。(キリスト教としては、これを無視するのが妥当でしょう)
ニーチェは、ルター派プロテスタントの父を持ち、ボン大学の神学部と哲学部に籍を置いた秀才であり、キリスト教を棄てるまでは、敬虔な信者だったわけですから、安易な反論は難しかったのも確かでしょう。(ニーチェ自身が、世界がこれまで持った、最も神聖な、最も強力な存在の「神」が死んだと言っているわけです)
ルターが「神」の前で、人間の「自由意志」は「虚無(nihil)」であると示したのと同様、ニーチェは19世紀のキリスト教社会は、その本質(「神」の前での人間の「奴隷意志」)を失い、結果的にその教義は「虚無(nihil)」へ向かうと予言し、それがニヒリズムであると宣言したわけです。
最終的には、ニーチェは、プラトン哲学自体も批判して、「理性」自体も「虚無(nihil)」であるとするわけですが、そのニヒリズムの究極点にある「信仰」=「根本確信」を自己のみに求める「超人」を想定する事により解決しようとしたわけです。
ニーチェは、その思想において、その独特の感性により、ある意味先鋭的な分析を行いましたが、全てを「自由意思」に委ねた点や、「精神の位階」、「力への意志」、「超人」などを観念で生み出した事により、危険な思想であるのは確かでしょう。
ニーチェの予言が、21世紀でも当たっているのかは、現在を観察する事でしか得られないでしょう。
ニーチェにとって、「神」は存在しないのではなくて、「神」が死んだのです。
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この回答へのお礼

ご回答謝謝。わたしのペースで応答してまいります。
1. アダムとエワは 善と悪とを知る木から採って食べました。そう
するのは ヤマシサ反応があったのにです。
2. これ 自由意志でありその自由度は 人間の思いや考えや想像力
の行き着くところまで行き着きます。
3. アーリア民族の高貴な血を守るためには 或る異民族の血をこと
ごとく抹殺するというところまでも。
4. あるいは アダムらの子のカインは 弟のアベルが気に喰わない
ので 抹殺しました。
5. かれらは楽園を追放されましたし 人殺しのシルシを額につけら
れましたが 自由意志のハタラキについては神にとっては織り込み済み
なのであって 人間をゆるしています。
6. カインを殺す者は七倍の復讐をしてやろうと神自身が言ったとい
うことです。
7. アブラハムはこの神を心に なぜか 受け容れた。
8. 百歳でやっとさづかった嫡男のイサクをも神にささげるというほ
どの《自由意志におけるその意志の神へのゆだね》をよしとした。
9. イサクを屠ろうとしたとき神が止めた。《わたしが望むのは愛で
あって いけにえではない》と。
10. モーセは 社会としての人びとの間の秩序のためにこれを《な
んぢ 殺すなかれ》という倫理規範かつ法律とした(罰則がある)。
11. イエスはこのいわゆる律法を・そして民族の神をも揚げて棄て
た。
12. 律法はその倫理規範に背いたヤマシサ(罪)をおしえるだけの
ものであるゆえ このオシへ(宗教である)による自己経営を棄てた。
13. 石に書かれた十戒ではなく 心の胸板に書かれているものであ
ることを指し示した。
14. ヤハヱ―神はこれを 民族の外に開きじんるいにとっての普遍
神へと揚げた。
15. 揚棄される前の神についてさえ 《わたし(神)は憐れもうと
思う者を憐れみ 慈しもうと思う者を慈しむ》とか《わたし(神)は双
子の兄弟の兄エサウを――母の胎内にあるときから――憎み 弟のヤコ
ブを愛した》と言っている。
16. エコヒイキはある。《風は気ままに吹く》。
17. 義人ヨブもが艱難に遭う。神などはオサラバしてしまえと言わ
れるまでに成り得る。因果応報説は 人間の知恵どまりである。
18. 原罪は 人間がウソをつきイツハリをおこなうということです。
(2)。ウソとはヤマシサ反応に逆らうこと。

お礼日時:2016/05/11 04:34

余談ですが、驚いた事にニーチェはキリスト教信仰を棄てた事を宣言した後も、破門される事も無く、ルター派の教会に通い続け、その葬儀もルター派の教会で盛大に営まれたそうです。

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この回答へのお礼

これは さもありなんと思います。
なぜなら アンチ・クリストにおいてさえ クリストの前に跪く
ようなことを言っていたはずです。(悪く言えば 意味内容が矛
盾している)。

これは あくまで頭で解決し処理しようとしていたことを物語っ
ている。と思いますね。
雲をつかむ話を頭で処理しようとした。

アブラハムにおとづれた《信仰》というものが分からない。
分からなくても 《思考》とは別だという捉え方を 少しは頭の
中に思い浮かべてみるべきだった。

でも ローマ教会もプロテスタントのそれらもみな 頭の問題で
す。頭で処理しようとしています。つまり 宗教です。

信仰という蝉の抜け殻が オシヘであり宗教です。モーセの律法
が そうです。モーセ自身は個人としてアブラハムと同じ信仰に
立っていましたが 社会の秩序を守るためにこの規範を持ちまし
た。
律法は 信仰にとって《養育係》であるとは パウロの言葉です。
わたしは 《補助線》と言っています。
《抜け殻》が 生きた蝉本体への立ち還りを促すのだと。《復活》
です。
日本人にとっても やほよろづの神々は 神の――つまり普遍神
だと後付けしうる神の――《依り代》だというものです。神体山
や磐座(神石)等々は 仮りのものです。つまり《偶像》とも言
います。

《オシヘ》も 偶像です。
この偶像とニーチェは格闘したのです。まぁ ほとんど必要なか
ったとわたしは 見ています。
普遍神およびその信仰のことを見つめてみればよかったのだから
です。単純なことでした。

★ 実体としてのイエスは、人間イエスです。
☆ ふつうの人間として その自然本性にそなわった理性の顕揚
をおこないその限界を捉え また 自由意志の見きわめといった
ことをおこないこれらを知った上で それをちょっと超えたとこ
ろのプラス α の場――すなわち 非思考の庭なるわが固有の時と
その動態としての信仰――を分かりなさいと言った。

ヘーゲルはこれを《無限なものと有限なものとの一体 この矛盾》
と言った。

自由意志ないし自由精神とその虚無とか奴隷意志だとか といっ
たような二つの極に振れるのは いただけません。それなら 上
のヘーゲルのように 矛盾だとしても 両極をどちらをもおのれ
の中におさめてください。と言いたいですね。

すくわれるためではなく 自由であるゆえ。

お礼日時:2016/05/11 05:04

お礼ありがとうございます。


ニーチェにとっては、「生」が全てですから、それ以外は、全て「虚無」になってしまいます。
ニーチェが「ある古い一つの宗教」を批判したのは、それがルサンチマンにより生まれ、パウロによって、キリストという「神」と「救済」がねつ造されたからです。
ただし、人間イエスは、「自由精神」の持ち主として推定しています。
では、人間イエスは、「超人」足りえたのでしょうか?
その答えを、ニーチェは「早すぎた死」と表現しています。
つまり、人間イエスが、「超人」として、イエス教を指導する事は認めているんですよ。
イエスは、イエス教信者の前で、その「自由精神」の元に、新たな「価値基準」を指導出来たんです。
そこには、信者がルサンチマンを持つ必要がありません。
全ては、思念では無く、実体としてのイエスが答えてくれるからです。
ニーチェが批判した「ある一つの古い宗教」は、人間イエスがいなくなった後のキリスト教なんですよ。
ニーチェ自身は、その「生」の為の必然として、「超人」を想定しました。
「超人」は、自己のみに存在する「根本確信」により行動する存在です。
それは、既成理念や規制倫理に囚われず、人類全ての「生」の為には、自己犠牲もいとわない強い精神をもっています。
その行動は、必要であれば、「ある古い一つの宗教」の「善」・「悪」の概念からはずれた行動を起こします。
「超人」は、その崇高な精神ゆえに、人類の「生」の為の「力への意志」を持ちます。
ニーチェが求めたのは、「生」に安住する事では無く、そこから新しい価値観を創造していく事だったのでしょう。
その為に、自らの安定した状況のみを追い求める、奴隷的精神を批判したんでしょう。
永遠の黄昏で無く、無限に続く曙光を求めたと言う事なんでしょうね。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ニーチェにとっては、「生」が全てですから、それ以外は、全て
「虚無」になってしまいます。
☆ なぜそのように《生》のほかのところで虚無を捉えようとするの
か?

だって 虚無は生の真っただ中にあるという無常観は 世界共通の世
界観の要素だと思うのです。
《「生」が全て》だと言えば それ以外はどうでもよくなるのだと考
えられるはずです。

★ ニーチェが「ある古い一つの宗教」を批判したのは、それがルサ
ンチマンにより生まれ、パウロによって、キリストという「神」と
「救済」がねつ造されたからです。
☆ そんなオシへは ありません。五流・六流のものにあるかも知れ
ません。

★ ただし、人間イエスは、「自由精神」の持ち主として推定してい
ます。
☆ 精神も自由だったかも知れませんが 問題はそこにはありません。
《真理はきみたちを自由にする》というのは 恩恵によります。そう
いう自由です。つまり 雲をつかむ話です。

《自由精神》と言って思考する問題ではないのです。

★ では、人間イエスは、「超人」足りえたのでしょうか? その答
えを、ニーチェは「早すぎた死」と表現しています。
☆ そんなことは どうでもよいと見ます。

★ つまり、人間イエスが、「超人」として、イエス教を指導する事
は認めているんですよ。
☆ それが フリッツくんの捏造です。自由ですが。

イエスは 人の思いやりがぬくもりを与えたり科学の知識や芸術のか
がやきが闇を照らしあるいは医学の光がやはり闇を明るくするといっ
たハタラキの問題ではなく 闇の中にかがやくように人びとそれぞれ
の心の灯心をともしたのです。

これは ただし《めぐみ》の問題でもあります。思考ではなく信仰で
すから。


★ 実体としてのイエス
☆ とはよく分かりません。神のことでしょうか?

★ ニーチェが批判した「ある一つの古い宗教」は、人間イエスがい
なくなった後のキリスト教なんですよ。
☆ 文字は殺し霊は生かすの霊の問題ですから・恩恵のそれですから
イエス後が問題になるとは思えません。

★ ニーチェが求めたのは、・・・新しい価値観を創造していく事だ
ったのでしょう。・・・永遠の黄昏で無く、無限に続く曙光を求めた
と言う事なんでしょうね。
☆ 灯心はともされたとイエスは言いました。

お礼日時:2016/05/08 20:41

お礼ありがとうございます。


アポロンとディオニュソスについては、ニーチェは特に論じていないので、これ以上は語りえないでしょう。

ニヒリズムに関しては、ニーチェはむしろ、これを究極まで高める事により、問題を解決しようと考えました。
つまり、すべての既存社会のルール、「信仰」、「神」は一度、虚無(これは、宗教的な観念では無く、文字通り無いと言う意味です)とする必要があると言う事です。
ニーチェの「自由精神」は、これを究極化した、何ものにも束縛されない精神形態です。(質問文の「高貴」な精神は、これを満たしています)
「自由精神」は、「ある一つの古い宗教」=キリスト教的世界の「善」・「悪」の概念に囚われないので、それは「自由精神」以外からは、非倫理的とみなされます。
ニーチェは、キリスト教的社会での倫理が、ルサンチマンによる隷属的精神が生み出す、形式的倫理に過ぎず、それが正しいと言う事を担保するのは、単純に「信仰」のみに依存すると分析しました。
また、その「信仰」は、慣習により、単純に「弱者」を「善」とし、「強者」を「悪」とするルサンチマンに過ぎないと分析したわけです。
そして、キリスト教自身が、奴隷的精神がその弾圧からの解放を目指したルサンチマンによって生まれたとしました。
なお、ニーチェは人間イエスは、「自由精神」を持っていたと推定しています。

ニーチェにとっての「信仰」・「真理」は、「生」にとって、必然的に信じなければいけない(もしくは思いこまなければいけない)「価値基準」です。
つまり、それは「絶対的」なものとして存在するものでなく、その状況においての必然であり、それが正しいと言う事を意味しません。
したがって、人間個々に存在する事になります。(キリスト教の「善」・「悪」は、キリスト教徒が生存する為の概念です)
ニーチェの先鋭的な所は、この事によって、既存の哲学自体も単なる、「価値基準」の選択に他ならない事を明らかにしたことです。
結果的に言えば、カントが二律背反で明らかにしたことは、すべての論理的帰結においても同等だと言う事です。
それは、単なる「選択」に過ぎず、その「選択基準」は個々に依存すると言う事です。(絶対的な「真理」や「理性」は存在しないと言う事です)

ニーチェの思想は、その「超人」を究極目標とする概念により、完全にキリスト教社会における「信仰者」とは決別しました。
その思想は、キリスト教社会におけるルサンチマンによる社会構造を打破する事になります。
そして、それは「奴隷的精神」が、人類の「生」に対して、「超人」の礎となることを強要する事になります。
「神」の元の平等という見せかけの「真理」は否定されます。(ニーチェによれば、人間は元々「平等」では無いと言う事です)

したがって、キリスト教徒からは、ニーチェは最大のニヒリストとして評価されています。(これは、ニーチェにとっては、最大の賛辞でしょう)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

二ーチェが批判の対象とした相手はほとんどすべて亜流のものですね。

あるいはオシへを推し出す宗教は 一流・本流であっても 信仰の立
ち場からはダメだと見ますが そういうすでに基本的に批判済みのも
のを相手にしています。

アポロンは 竪琴の名手です。感性にも大いにかかわっています。
そういう事情を ニーチェは見ないことにしています。
なぜ批評家はそこを突かないのか? と考えます。

それに手放しでディオニュソスを称賛しています。アウトでしょう。

★ 虚無
☆ はすべての思考を端折ったかたちで《十字架じょうの磔の姿》が
表わしています。きわめてシンプルです。信仰として採り入れるなら
その死からの復活という主題になります。

これにしても まづきわめてシンプルなかたちで ニヒリズムの克服
という主題を指し示しています。

なぜこういった単純な取扱いが出来なかったか?

あるいは 神とおさらばするという主題は――つまりは信仰をも棄て
るというそれは―― すでにヨブの物語にじゅうぶん過ぎるかたちで
語られ論じられています。

《キリスト教》を相手にするのなら なぜ本流の思想を扱わないのか。
自分が二流だったからかと疑わざるを得ません。そういう思想をいま
扱っているのだとわたしは思っています。しかもそのように現代にあ
っても明らかにせざるを得ない事情があるようなのです。

ハリツケの姿に立つなら 善も悪もありません。強者も弱者もないで
す。しかも 《風は気ままに吹く》のです。ヨブ記の主題にしても
因果応報説から自由になることなのです。《すくわれるかどうか》は
信仰の主題ではありません。

《恩恵》のみなのです。すべてをゆだねつつ 人一倍最大限におのれ
の持てるチカラを発揮する。のみです。信仰生活は。《非思考》の上
に成り立っています。どこまで行っても雲をつかむ話でしかないので
す。経験思考にとっては。

★ ニーチェにとっての「信仰」・「真理」は、「生」にとって、必
然的に信じなければいけない(もしくは思いこまなければいけない)
「価値基準」です。
☆ これは 《思考》の問題です。観念の神です。

★ 「神」の元の平等という見せかけの「真理」は否定されます。
☆ ヨブを初めとして旧約の時代から この問題を出発点として考え
て来ています。

お礼日時:2016/05/08 16:27

ディオニュソスに関しては、それが「力への意志」につながるとも言えるので、ニーチェに何らかの影響を与えていたとは言われているようです。


アポロンとディオニュソスは、理性と衝動の対立とも言えるし、ギリシャ文献学者であったニーチェは、それに精通していたのは確かです。
最終的に、理性的な形而上学を否定した以上、残るのはディオニュソスですが、ニーチェがそれを明確に論じる事は無かったようですね。
「神が死んだ」は、現実としてのニヒリズムを素直に表明しただけなんだと思います。(それは、すでに既成事実であり、それは、キリスト教信者により行われた事なんです)
別に、ニーチェが言い出さなくても、ずっと前から「神」は死んでいたわけです。(もちろん、「神」を殺していない人もいたでしょうけど、ニーチェの目には見えていません)
ニーチェは、その分析により、キリスト教は、ニヒリズムに進んでいくことを明らかにしたわけですから、その先をどう生きるかを問題点にしたわけでしょう。
結論としては、それらを超克できる「超人」なわけですが、この事が、理念的な世界から、現実的な人間や存在そのものを論点とする哲学への転換を生んだとすれば、その功績はあると言えなくもないです。(哲学的には、そのような評価ですね)
人によっては、反哲学的哲学という良くわからない表現をされる場合もあります。
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この回答へのお礼

主題ごとに分けて回答していただけると スペースに余裕が出来て
ありがたいです。

★ アポロンとディオニュソスは、理性と衝動の対立とも言えるし
☆ わたしはそうは見ません。アポロンこそが 《衝動ないし感性》
の神でもありました。

ディオニュソスとは その埒外の想像物です。
要するに 世の中にどうしようもない害をもたらす人間と見なした
その人間については ポアしてもよい・成仏させてやるのがよいと
する狂気のオシへの神です。

もしこれが《超人》に通じているとしたら?・・・・
邪推であることを願っています。

★ ニーチェは、その分析により、キリスト教は、ニヒリズムに進
んでいくことを明らかにした
☆ これは 微妙だと思いますよ。

普遍神の問題ではなく 文明としての・観念の神のもとなるクリス
チアニズムに関して言うわけですが 《ニヒリズムに進む》のなら
勤勉(≒産業)には赴かないでしょう。

ニヒルは 磔の姿のみなのです。通過点なのだと見られます。頭の
中においてもです。

一部の自称知識人でしょうか 観念の神を厳格に保とうとしたその
結果そうとすれば落ち入るニヒリズムというに過ぎないと見たほう
が 現実的だと考えます。

ニヒリズムあるいは無常観一般は 誰もが一度は落ち入るふつうは
一時的な世界観の傾きでしょう。人生をゆたかにさえしてくれます
が ふつうはそこに留まっていることはないはずです。

孤独という《わが固有の時》に出会えて 原動力になる。というも
のだと思います。

ニヒリズムは 《超克》するべき心的状態ではなく そうではなく
心の基地のようなものです。そこに ニヒルというからには果敢無
さという感情もついて来ていますが これも乗り越えるというより
は 突き抜けて行けばよいものなはずです。基地を否定することも
超克することもないはずなのです。

何ならこの孤独地獄にしばらくじっと住んでいてその繭の中から成
虫へと変態するかのように現実を現実として見得るようになる。こ
れが 〔何なら〕超人です。つまり ふつうの人間です。

ニーチェ自身の《超人》は かつてのディオニュソス賛美が尾を引
いていてそこから出て来たような・そしてその反動のような想像力
の行き着いた果てではないか。――と考えられて来ます。

蛸壺から出て来たときには 余分な飾りが着いて来ている。

お礼日時:2016/05/08 06:52

お礼ありがとうございます。


実を言えば、ニーチェ自身が徹底した非神論(無神論で無い事に注意)の立場を取っているために、キリスト教の「神」以外に、神に対して言及していなんですよ。(そして、ニヒリズムは「神」の死を意味するので、そこに「神」が存在していない事になります)
ニーチェがパウロをルサンチマンの最大の功罪者として批判した事に対しては、ハイデガーもパウロがキリスト教的「善」「悪」を超越した立場であると批判しましたが、そのハイデガーですら、哲学とは、非神論的立場で思考において独善的である必要があるとまで言わしめています。(ハイデガーも最終的には、非神論の立場を取り続けました)
ニーチェの立場としては、外的存在としてのイデアや「神」を設定した、キリスト教的世界(もしくはプラトンなどの合理的精神に基づく形而上学的世界)は、現実の世界をその理念により、固定化し、現実の世界の認識を捻じ曲げたとしています。
ニーチェにとって、純粋に現実を認識し、その「生」を享受できる存在が「超人」なわけです。
しいて言えば、絶対的存在として存在するものは、「生」そのものと「生」の場所である、世界(自然あるいは、ニーチェの言うところの大地)しかないわけです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 非神論
☆ これは ゴータマ・ブッダの《無記》という立ち場に近いように
思われます。

つまり ただ《触れない。自分の立ち場を表明しない》という立ち場
です。

言いかえると 神はもともと想定になるもの(あるいはつまり 非知)
ですが その想定をもしない・または想定するしないについても何も
言わない・・・こうなのだと考えられます。

どういうことか? 《先送り》説ではないでしょうか。
はっきり言うとすれば 実存にとっては ただのはにかみ屋ですね。
価値判断を禁欲しているというようにも一見思われますが たぶんそ
うではなく ただ勿体ぶっているだけのように見られます。

★ 独善的
☆ と言うよりは 《まだ蛸壺から出て来ない》主義ですね。

★ イデア:プラトンなどの合理的精神に基づく形而上学的世界
☆ これは 《外的世界》なのではなく ただの思考の領域としての
観念の世界です。そのイデアと経験世界とが 本体と影といったよう
につながっているとすればです。

神の場合は その霊がヒトにやどるという・やはり想定です。普遍神
とわれ(人間)との間には 絶対のへだたりがあります。

★ 現実の世界をその理念により、固定化し、現実の世界の認識を捻
じ曲げたとしています。
☆ これが オシへの世界です。つまり 観念の世界に落ち入るから
には イデア論と重なることにもなります。

新旧の聖書を《理念》で料理すれば 倫理・道徳の世界のみとなりま
す。これが 《神は死んだ》という世界のことでしょう。取りも直さ
ず 《観念の神》の世界であり 具象的に言っても教会に通う《敬虔
なる信徒》の世界です。

すべてが《固定観念》です。

だけれども この《精神の雁字搦めの世界》を捉えたあと:
★ ニーチェにとって、純粋に現実を認識し、その「生」を享受でき
る存在が「超人」なわけです。
☆ という想像力だけによって・そのいまの《観念の神なるまた観念》
から解放されるというのは お人よしです。また 確かに独り善がり
に成りがちです。

思考ないし理性ないし理念の――そしてそれと重なるイデアの――世
界は じつは普遍神とわれとの関係にもとづき実存するための仮りの
試運転だと捉え直せばよいわけです。正解への道を歩むときに引いた
補助線であると。

不一にて。

お礼日時:2016/05/08 06:23

お礼ありがとうございます。


実際問題、人生に目的や理由がいるっていうのは、確かにあまり意味が無いとも言えます。
ただ、ドイツのキリスト教徒の生活がわからない以上、ニーチェがそこまで苦しんだ意味はなかなか理解できないのではないでしょうか?
これが、仏教徒だったら、単純に出家すれば良くて、そこまで、自分の主張を世に出そうとは思わなかったでしょう。
ニーチェが見た、キリスト教世界は、その思想のとおりの物だったのでしょう。
「ツァラトゥストラ」は、主人公ツァラトゥストラに自身を重ねた、自らの思想遍歴の集大成だと思います。
結果が変わらないでも、飽く事無く、同じ「生」を生き続ける強さをニーチェは求めていたんだと思います。(あえて言えば、それは自分自身に向かって書かれた物だったのかもしれません)
思想家が、その思想を持つにいたる理由は色々ですが、ニーチェも「死」に対する恐怖を持っていたと言われます。
自分を「死」に引き込む物を排除する為に、「超人」の思想を発想したとも言えるでしょう。
ニーチェから見た、キリスト教社会は、ルサンチマンによる「生」の否定の世界だったんでしょう。
何故、ルター派の牧師の息子が、そこまで反キリスト教になったのかは不明です。
少なくとも、ギムナジウムの頃は、敬虔なキリスト教徒だったわけです。(この頃は「神」を信じていたわけです)
ボン大学でも神学部と哲学部に籍を置いていますから、ニーチェが反キリスト教になるとは誰も想像だにしなかったでしょう。
しかし、ニーチェ自体は、非常に真面目な性格だったため、一般的な処世術とは無縁な人でした。
シュタイナーの「イエスの生涯」に関しても、最初は心酔しながらも、その方法論に対しては、後年痛烈な批判を浴びせかけています。
また、リヒャルト・ヴァーグナーに関しても、最初は心酔しながらも、ヴァーグナーの実生活に触れていくうちに、それを強烈に批判するようになります。
つまり、信じていたものに裏切られる事に対しては、非常に強い反動を起こすと言う事です。(自分が信じていた「神」がパウロによってゆがめられていた事に気付いた時は衝撃だったのではないでしょうか?)
ルサンチマンに関しても、一般的な処世術を持つ人にとっては、何の違和感も持たないでしょう。
そういう、正直で生真面目な思想が、その著作に反映されたのでは無いでしょうか?(つまり、間違っている物には、間違っていると言わずにいられない極端な性格だったと言えるでしょう)
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この回答へのお礼

ううーん。ニーチェ自身の神論はありませんよ。何も。
――ご回答をありがとうございます。――

強いて言うなら ディオニュソスです。
そしてあの『バッカスの信女』の問題ではないでしょうか。

恨みのある相手なら復讐で殺してもよいという教義です。
殺すに値する相手なら 復讐してもよい。という神のお告げ。

★ つまり、信じていたものに裏切られる事に対しては、非常に
強い反動を起こすと言う事です。
☆ とそのまま重なっていると思います。字面の上で。

ただし一体どういう経験があったのか。それは分かりません。

何も大したことはなかったが 庶民の低劣さと見たその状態につ
いて まったく我慢が出来ず その気持ちをディオニュソスの乱
痴気騒ぎの中に解消しようとしたのか。

脆弱や低劣をひどく気にしていたのではないか。と考えられます。
人間一般のです。

ルサンチマンは あんまり重要な位置を占めているとは思えない
んです。人びと一般にとってもですし ニーチェ自身にとっても
それを打ち出してはいますが どうってことはないのではないか。

ルサンチマンを持ち続ける人間なら 問題にはならない。持ち続
ける限りで 治めていると思われるからです。

ツァラトゥシュトラでは 初めのところで 《神は死んだ》とい
うことをまだ知らないという森の人に会っていますね。

この人を放っておいて だから どうする・こうするといった話
に成って行きます。でも問題は この《神は死んだ》ということ
の中身をどう捉えるのか。だと思うのです。

言いかえると 神は死んだ だから 神とは違う別の生き方をし
なければいけないという思いをいだき その思いだけで進む。

つまり 超人だということなんでしょうけれど これがはっきり
しません。ただの思いつきを発表し こねくりまわしている。と
いう程度にしか わたしは読み取れません。

★ 自らの思想遍歴の集大成
☆ だとしても その方向感すらないとしかわたしには読めませ
ん。残念ながら。

部分的に何らかの思想を表わしている場合があるかも分かりませ
んが 全体としてニーチェの思想とは何かとなれば むしろ何も
ない。といまは明らかにしたい。こう思っています。

お礼日時:2016/05/07 23:06

お礼ありがとうございます。


ニーチェの評価は難しいのは確かです。
実際問題、ニーチェが何を目指していたのかはわからないです。
「力への意志」は、ニーチェの著作には、肯定的にも、否定的にも現れてきますが、それが「生」の持つ欲望として、必要な物とは考えていたようです。(ニーチェが、原始仏教をキリスト教より有用だと評価していても、それが「力への意志」を否定している事から、「ニヒリズムの宗教」と見なした事に現れています)
根本的には、「生」の肯定を目的としていたのは確かでしょう。
ただ、その方法論としての「超人」が意味する事が、人間に対して、どのような物かが上手く想起出来なかったのでしょう。(少なくとも、社会的な存在には成り得ないです)
「ツァラトストラ」では、「超人」は、いくら人々に「超人」を説明しても、理解は得られません。(人々は、「神」による平等を享受しているだけです)
それでも、「超人」は飽くことなく、それを説明しようとし続けます。(これこそが、永劫回帰を続ける「超人」の姿なわけです)
ニーチェ自体、哲学的に考察しているわけでも無いんだと思います。(「生」そのものを絶対基準として、論理展開しているのは確かなんですけどね)
キリスト教的社会の分析に関しては、ある意味当たっているわけです。(それが、全体的にニヒリズムに至っているのは事実でしょう)
そう言う意味では、社会学者と言った方が適切なのかもしれません。
ニーチェが主張したかったのは、正しい(良い)思想が、キリスト教的「善」で断罪される事はおかしいと言う事だったのではないでしょうか?(キリスト教的枠組みから逸脱出来ないと言う意味です)
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この回答へのお礼

★ 根本的には、「生」の肯定を目的としていたのは確かでしょう。
☆ その方向に何の文句もありませんが――おっと ご回答をあり
がとうございます―― 《生きる》ことにそれほど保証書やお墨付
きが必要だとは わたしは思わないのです。

わざわざ生を《肯定する》ということが 冗長すぎると考えます。
そりゃあ 自由ですが そうするなら思想にはならない。のではな
いかと思うのです。それこそ《弱い人間》のすることです。

いえ 確かに人間は《葦》のごとく弱い存在ですから そういった
肯定の言葉やプラス・イメージを必要とする時はあります。ただし
それを乗り越えて来ているなら そういちいち肯定するのだといっ
たことは言いません。

むしろ保証がないからこそ 元気よく生きるのだと思います。
これが われわれ人間のふつうの自然な生き方であると考えます。

存在意義が存在(ないし現存在)に先行するとは思いません。
★ 「超人」〔は〕・・・社会的な存在には成り得ないです



★ キリスト教的社会の分析に関しては、ある意味当たっているわ
けです。(それが、全体的にニヒリズムに至っているのは事実でし
ょう)
☆ ひとつの側面についてでしょうね。社会生活としての。

でも 十字架じょうの《わたし》〔あるいは人はそれぞれおのれの
十字架を背負うといったこと〕が 人を一たんニヒルの底にまで到
らせるでしょうが でもそこからは すべてプラスの広く明るい野
原や街に出て来ます。
タテマヘとしてでも そうです。

ですから 宗教にニヒリズムを見るのは 《信仰》を見失った知識
人たちの間の風潮なだけではないかとも思います。

★ ニーチェが主張したかったのは、正しい(良い)思想が、キリ
スト教的「善」で断罪される事はおかしいと言う事だったのではな
いでしょうか?
☆ それは やはりパウロの《文字はころし 霊は生かす》に要約
されています。モーセの律法ないし教会の説く道徳によって自己を
律するなら(そんなことは出来ないのですが) 人間は死ぬ。霊が・
霊のみがひとを生かすのだと。

この主題は 知らなかったで済む問題ではありません。つまりニー
チェの――ローマ教会等の宗教に対する批判は別としても――聖書
の批判は まったく成っていません。幼稚すぎます。

だから 《無》だと言っています。どうでしょう。

お礼日時:2016/05/07 19:38

お礼ありがとうございます。


ニーチェの考えでは、ニヒリズムにより、キリスト教信者は、「神」を拝んでもいません。(つまり、信仰がすでに無いんです)
信仰の無い、キリスト教信者が何を拝んでいるかはわからないです。(ニーチェもそこを問いているわけです)
そこにあるのは、ルサンチマンに基づく、形式だけだと言う事を指摘しています。
そこでの「善」や「悪」は、信者を峻別する意味しか持ちません。(ニーチェは、この欺瞞性が気に入らなかったのでしょう)
ニーチェがカントを批判したのは、哲学的論理から、「神」の意味付けができたのに、それをあたかも絶対的な「善」で要請しようとした事です。(ここでは、ニーチェの立場は、絶対的な「真理」などの存在も否定しています)
別に、カントもそんなつもりで書いたわけでは無いと思います。(実際、本人もトリッキーだと思っていたはずです)
確かに、ニーチェ自体も、既存の「価値基準」を否定する為に、つくりだした「超人」を楽天的に考えていたのは確かです。
はたして、ニーチェは「超人」に何を見ていたかと言う事は問題視されるでしょう。
それは、「絶対的存在」としての「自己」=神を想定しているとも言えるわけです。
したがって、ニーチェ自体もキリスト教的枠組みから出ていないとの意見もあります。(意図せずに、「絶対」を想定しているからです)
そこが、ナチスにつけこまれた点です。(「超人」としてのヒットラーと、キリスト教の否定によるナチスの肯定、位階によるユダヤ人の虐殺を生んでしまいました)
「絶対」から離れようとしたのに、「超人」=「絶対」を生み出してしまったわけです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ううーむ。ちょっとむつかしい領域に入って来ましたね。
ニーチェの迷宮とでもいうような。

★ ニーチェの考えでは、ニヒリズムにより、キリスト教信者は、
「神」を拝んでもいません。(つまり、信仰がすでに無いんです)
☆ 《信仰がない》というのは 世の中の風潮や文明としてわづ
かに機能しているというようなことだと思います。

《神を拝んでいない》とすれば だとしてもたとえばローマ法王
や教会の《権威のようなもの》は まだ漂っていたのだと思いま
す。

フロイトがヒステリー現象を扱わざるを得なかったほどには 頭
の問題としてオシへは 人びとの思惟や行動にはたらきかけるチ
カラが残っていた。

あるいは 聖母マリアへの思慕やさらには崇拝は やはり残って
いたのではないかと。

だって 《神は死んだ》と言わなければならないと思ったという
のが その証拠ですから。

ぢゃあ ニーチェはいったい何を問い求めていたのか? 批判は
いいとしてです。

★ 超人
☆ ですか? 永劫回帰についてはかろうじて好意的に解釈しま
したが 超人については 無理です。

人間の範囲を出ないのですから 《絶対》を当てはめるわけには
行きません。

要するに気が短い状態に ここでは成らざるを得ないのでは?
すなわち ニーチェには 哲学は無理。これです。

『力への意志』なんて 支離滅裂です。意味はないです。

という考えをしるして お考えをうかがうしかありません。

ルサンチマンなんて 何の問題にもならないと思いますよ。

強い・弱いもです。位階ですか。

鷲だの羊だのって言ったって ただのアニメです。いや アニメ
が気をわるくします。(死んだ者が生き返って来る話については
アニメは いただけません)。

ニーチェ=無 です。反批判をお願いします。

お礼日時:2016/05/07 17:18

お礼ありがとうございます。


「神が死んだ」の意味ですが、ニーチェがそこで想起したのは、キリスト教的社会の崩壊だったのでしょう。
つまり、「神」が死んだ瞬間に、「善」「悪」の基準が無くなったと言う事を強調したかったのだと思います。
その点で言えば、普遍神については、何も言及していないんですよ。(あくまで、キリスト教の「神」なんです)
これは、宗教論を述べているのでは無く、一つの社会秩序がニヒリズムに到達した事を、再度確認しただけなんだと思います。
でも、みんながそれを知っているならば、あえてそれを言う必要はありません。
この言葉が出てきた、例話では、一人の人物が街中で、「神」を探し回ります、周辺の人はそれを嘲笑します。
この例話で示されるのは、すでに人々はニヒリズムにより、「神」を信じていないのに、「神」の不在を誰も気付いていないと言う事です。(現実では無く、形式だけを守っていると言う事です)
「神」と相対化して自己を保っていた、キリスト教信者は、何を価値基準とするかを問いたかったと言う事でしょう。
何故、「神」を信じていないのに、その存在を否定しないのかと言えば、ルサンチマンにより、自己の平等を正当化する為です。(「神」の元で、すべての信者は平等であると言う形式を守りたいだけです)
形式はあっても、そこには「神」はいないわけです。
そこには、真の「信仰」は存在しないんです。(つまり、普遍的な神すら存在していない状態です)
「信仰」の無い宗教の行き着く果ては、形式に合いさえすれば、いくらでも解釈が自由だと言う事です。
それが、ニーチェの意味する「ニヒリズムの宗教」です。
あえて言えば、神に対する観念論などは、ニーチェは述べていないと言う事です。
ニーチェのカント批判に関しては、そこにある「善」が、キリスト教の枠内にあったからでしょう。(カントはあえて、それに触れていません)
カントは、キリスト教的な「神」が持つ「善」が全てだとは言っていませんが、それが有用であるとは言っています。
そこが、絶対的な「善」の概念を否定するニーチェの癇にさわったのではないでしょうか?
ニーチェの真意がどこにあるかはわかりませんが、基本的には絶対的存在の否定が根幹にあると思います。
ニーチェが良いとしたのは、新しく生まれてくる衝動や変化でしょう。
キリスト教的世界観では、そこに必ず終末と救済が来ます。(それがいつかはわからないですけどね)
キリスト教信者は、そこに向かって信仰を続けていくわけですが、ニーチェはそれを否定します。
永劫回帰は、その為の手法なわけですが、永遠に繰り返される「生」の中で、何が出来るかを問いかけたわけです。
そこには、何の意味も目的もありません。(逆に言えば、それを意味付けるのは「個人」=「超人」だと言う事です)
ニーチェは、後年精神を病んだわけですが、世界の実態がニヒリズムを脱していないのは確かでしょう。
ニーチェが問題視した「ある一つの古い宗教」が持つ問題性はより広がっているとも言えなくは無いです。
ニーチェが不幸だったのは、ナチスに利用された事でしょう。(精神の位階と、力への意志がゆがんで利用されてしまいました)
また、「超人」が作り出す社会がどうなるかが明確化していなかったのも、問題とは言えます。
これは、カール・マルクスが、資本論で提起した共産主義がどうなるか想像できなかったのと同じとも言えます。(まだ、マルクスの方が思想的には復活する可能性はあるとはいわれていますが、ニーチェはそのような意見は学者の中では無いです)
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この回答へのお礼

ニーチェの読解から離れるかも分かりませんが 次のお考えにつ
いては わたしの中で答えがはっきりしていることなんです。
――おっと まづはご回答をありがとうございます――
★ 形式はあっても、そこには「神」はいないわけです。
☆ それでよいわけなんです。信仰としては。有る神にしても無
い神にしても 形式もしくは《神》という言葉ないしキリストと
いう名があれば それで信仰は成り立つ。

★ そこには、真の「信仰」は存在しないんです。(つまり、普
遍的な神すら存在していない状態です)
☆ 《真の》という問題は 《わたし》の主観ないし心にとって
の固有の時としての《神との対峙》(つまり 信仰)においては
問題にならない。それこそが 信教の自由における普遍神とわれ
との時であるのだと。

《真の内容や神の存在が誰にとっても分かる》というふうになれ
ば それは 思考の領域なんです。文明論になります。 

★ 形式に合いさえすれば、いくらでも解釈が自由だと言う事で
す。それが、ニーチェの意味する「ニヒリズムの宗教」です
☆ これが 文明の問題です。生活日常における思想ないし思潮
でしょうか。神とその信仰とは無縁なんです。

★ 絶対的存在の否定
☆ これが おかしい。《絶対》は想定です。人間が肯定しても
否定しても 絶対は絶対として――想定じょう――あり続けます。

カントは少なくともこの神を《超越的存在》としては確保してい
るのでは?

★ キリスト教信者は、そこに向かって信仰を続けていくわけで
すが、ニーチェはそれを否定します。 / 永劫回帰は、その為の手
法なわけですが、永遠に繰り返される「生」の中で、何が出来る
かを問いかけたわけです。
☆ 人にとっては いつしかわが固有の時というものが訪れる。
必ず訪れる。一度や二度それを見逃したとしても何度でも永劫に
回帰しておのが実存を問う機会が来る。ということを言いたかっ
たのでは?

《キリスト教信者》は観念の神を拝んでいるならそれを知りませ
ん。道徳の神で満足しているならです。

ニーチェとて 別の事情からでしょうが おのが実存を問う時が
永劫に何度でもやって来るということ このことは知らなかった
のでしょう。言葉だけが先行していたのでは?

マルクスは 日から日へのおのが実存こそが コミュニズムだと
はっきり言っています。

お礼日時:2016/05/07 15:39

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