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主義・イコール・箍。
主義=箍。

このように決めつけて見ました。
深く考えたわけではありません。ただ、なんとなくそう思っただけです。

ご意見いただけると、なんとなくがはっきりしてくるかも知れないと思い、それで質問としました。
よろしくお願いいたします。

質問者からの補足コメント

  • 罪に対しての刑罰の裁きは法に因って為されなければならない、と言うことを“主義”にしてはならない。原則とすべきである、と言うことをいっているのだと受け止めて見ました。

    これでいいでしょうか。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/07/04 11:56
  • 閉めよう、閉めよう、と思いながら時間が取れずにこのまま来てしまいましたが、思わぬ回答(№10)が有りました。

    感想を頂けませんか。
    私の思う処のキーワードは「箍が世の中の、いや人間社会の骨組みとなっている」と言う事ですが。

    よろしくお願いいたします。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/07/08 02:25
  • たった今、ブラジュロンヌさんに回答№10に付いての感想を求めたばかりですが、関心を持たれたお方のご意見が頂ければ、と思います。

    よろしくお願いいたします。

      補足日時:2016/07/08 02:28
  • 箍と感じるようでは乳離れしてないね!

    ・・・と言う意見に付いて結構、考えて見なければと思っていました。
    そしたら、やっと今日になって(しっかりと考える時間がなかったので)次のように解釈しました。

    嗚呼、ニャンポコさんは、主義を他者から与えらたようにして持ったのでは自主性にかけるね、と言っているのだなぁ、と。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/07/12 09:43
  • 当為、という言葉を学びました。
    難しいですね。
    なかなか、身に付きそうに有りません。

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/07/12 09:49
  • 当初は素敵な回答だと思ったのですが・・・

    社会が生み出す箍と"主義"に感じる箍に、質の違いと言ったような感想を持ちました。

    個人の内に収まる場合と、全体にかかわる場合と。
    主義と、ルールと。
    物事を円滑に、という目的の有る無しとか。

    勿論、"主義"が全体に現れると言う事も承知しています。

    だから、少しばかり"違い"は感じます。

    No.10の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/07/12 10:15
  • 実存主義って、自由な世界なんですね。
    のびのびと"本姓"に逆らわずに生きなさいと。

    箍、は反発力を出すよりどころ、と捉えることもアリ、ですね。

    反発力は"壁"を利用しますから。
    壁が暖簾では効果は無いけど。

    そう思うと暖簾を壁に作り替えると、それが"主義"になるんだよね。

    ブラジュロンヌさんの言う処の本姓は、壁に当たるのかなぁぁぁ・・・

    No.11の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/07/12 10:38
  • 形式=箍

    自然的発生に見る形式=箍。
    意識して用いる形式=箍。

    自分の方向付けに必要な"主義"

    もしかすると、自身の存在を"肯定"するため、或いはしたいがために、主義=箍を自身に課すのかもしれませんね。

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/07/12 10:52
  • 閉めるに当たっての感想です。

    質問のタイトルが・・・

    嫌なタイトルだ!

    皆様、有難うございました。

      補足日時:2016/07/12 10:57
  • ベストアンサーをtanzouさんの№4にしたのは、当為と原理に付いて考えて見る必要が有ると思ったからです。

      補足日時:2016/07/12 11:04

A 回答 (13件中1~10件)

主義というと、主観的で、何々すべきだ、


という当為を表すイメージを持ちます。

その意味で、箍だ、という指摘は当たって
いると思います。

これが原理になると、客観的な色彩が
強くなるのではないでしょうか。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

No.5のasisai さんに、先ずは辞書に当たってからにしなさい、と言われてしまいましたが、tanzou さんがここで言う原理と言うのは、辞書の説明にあるようなことを言っているのだと受け止めました。

特に〈2〉がそれになると。
〈1〉は主観的、でしょうか。

有り難うございました。

お礼日時:2016/07/04 11:23

no.8さんの「文字はころし、霊は生かす」①と


no.10さんの「型としてのタガ」②
というのを参考に考えてみました。

守:②としての形式を学ぶ段階
破:表面だけの形骸化を避ける①からの理解の段階
離:気持ちを煩わせずに本質を実践できる段階

基本的に、そういう三つの段階があるんだろうなと思いました。
そして、主義というものも
自分を方向付けするものの一つとして
一つの形式なんだろうと思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

来週の火曜日に"お礼"頑張ってみます。

有難うございました。

お礼日時:2016/07/10 03:49

№11です。

訂正があります。

 X 早世児
 ○ 早生児

でした。

     *

社会の≪ルール≫というのは 主義そしてそれゆえタガであること
の問題とは 無関係です。

たとえば 交通法規。
歩道と車道とを分けること。あるいは車道が右と左とに分かれて
いる。さらにあるいは止まれ・進めの交通信号にしたがうこと。

これらは 何も≪交通円滑主義≫をかかげているから・そしてそれ
によって人びとの行動にタガをはめるために 取り決められてい
るというのではありません。

拝金主義者は 右側通行を守るが 共産主義者は 左側だ・・・
といったことではないはずです。

おれは リバタリアン主義だから 歩くときも歩道ではなく堂々
と車道を歩くのだという人間がいましょうか。

たとえ如何なる主義主張の人であっても みなが認めるところの
・互いに社会における秩序ある交通のために取り決め合った規則
であってこれを 何の憂いもなく守っています。




主義≒タガとそしてルールとをごちゃ混ぜにすることは ゆるさ
れません。

法規や規則が 慣れないと・または人間の取り決めによるもので
あるからには 行き届かないところがあると あたかもタガを嵌
められているように感じることがあるのでしょう。

けれども この場合のタガは 改めてみんなで考え合ってあたら
しい取り決めをつくればよいだけのことです。

主義をかかげることによって自分自身にタガを嵌めることになる
という問題とは まったく別の話でしょう。

いちいちこんな説明をしなければならないとは・・・。
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この回答へのお礼

承知しています。

お礼日時:2016/07/12 10:41

★(補足欄) ~~~~~~~~~


思わぬ回答(№10)〔に〕感想を頂けませんか。
私の思う処のキーワードは「箍が世の中の、いや人間社会の
骨組みとなっている」と言う事ですが。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 資本主義は 資本の自己増殖(要するに儲けること)に
失敗したら 退場させられます。――というひとつのタガ?

これは タガがタガのほうから 倒産者よ 外れて行きなさ
いと言っている。

資本を増やすのに成功したらうんぬん と言うよりは その
タガというのは タガなどは じつはないのだ・ふるいもの
を破壊しあらたに創造して行きなさいという内容のタガであ
る。

つまり 経済活動としては 自由。ただし 社会全体の観点
から その経済活動の安定し調和のとれた発展を求めて 政
治のちからで しかるべき調整や規制の政策を敷く。――と
いった全体としてのタガのあり方。

そこにおける共産主義というのは 理論としては その資本
主義としての政治=経済が 世界史的に隅々にまで発展する
過程で 労働者階級にとっての労働条件をつねに改善してい
くことです。

そして その発展の行き着いたところで そのプロレタリア
ートたちは 武器を持って資本主義者なる支配階級を打倒し
権力をにぎる革命を起こすことです。

労働条件の改善というひとつのタガは つねに資本主義者の
側が自分たちの政策や経営施策に採り入れるようになってい
る。資本主義の存続のために。

(ソビエトその他の社会主義革命は 月足らずで生まれた早
世児でした。マルクスのタガから外れて行動しています)。




そこで実存≪主義≫者は これらの政治経済〔学〕にかかわる
一つ二つの主義について そのタガを――タガというタガを
――もしつねに着ている服のように身に着けているとしたら
それは つねに脱げるものなら脱いでおのれの考えであゆん
で行こうと言っています。

タガにとらわれることなかれと。


おれは 究極の勤勉主義 そう ガリ勉主義者だとか
いやいや われは その資本主義の一切に背を向ける主義だ
とか
あるいはさらに わたしは 資本主義よ そのしかるべき発
展を遂げて早くくたばれ そのときには いままでの虐げら
れて来た過去の清算として大大大大的な復讐をしてやるぞと
いう怨念だとか
――そういったいくつかのタガよ さらば! というのが
実存≪主義≫です。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

考えています。
感想が持てれば火曜日に。

有難うございます。

お礼日時:2016/07/10 03:47

タガが無いと自身も社会も制御出来ないので困ってしまいますが、主義はなくても困らない気がしますね。

資本主義でタガの外れたような振る舞いが多々見られるのは何故でしょう。共産主義で、タガの外れた独裁者が現れるのは何故でしょう。神秘主義者が、タガの外れたぶっ飛んだ考えを持つのは何故でしょう。
とかくタガの外れた事になるとややこしい事が起こります。
キッチリと整っていて、心のささくれていない人は、丁寧に手入れされた里山が村を益し守るように、自分だけでなく周りの人のためにもなる。
一方で、やりたい放題であり独善的な者は、存在しているだけで自己と周りの人々を損ない危険に晒す。

タガは大事だと思いますよ。スポーツで言うところのルール、運動で言うところのフォームみたいなものです。所謂「型」であり、これをマスターしないと自由にはなれません。
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この回答へのお礼

素敵な回答だから、考えてみます。

感想が得られたら、補足欄でお知らせします。
閉めるのはその後で。

有り難うございます。

お礼日時:2016/07/07 23:22

こんにちは。



>Grass さんは自身の自覚する「主義」を意識した言動に箍を感じることは有りませんか。
不自由では有りませんか。

「ペシミズム」にせよ「ロマンチシズム」、あるいは「シニシズム」にせよ、それらはわたしが人生において、現時点でたどり着いた世界へのまなざしです。

ひとの世のなかを、とぼとぼと歩いて来て、ふと気が付けば、「とかくこの世は住みにくい」=(厭世主義)であり、「何処へ越しても住みにくいと悟った時に詩が生まれ、絵が出来る」=(ロマン主義)といった按配です。

わたしは、ですから外側にある「主義」をトーチのごとく掲げて生きているのではなく、生きてきた結果、上記の「主義」すなわち「立場」「世界への視点」というものが身についてきたのです。ヤドカリが自分に合った貝を身に着けて生きてゆくのと同じことです。

「性格とは運命である」というノヴァリスの言葉があります。わたしが主義を選んだ、というよりは、わたしという存在の在り方=「限界」の「必然」が、上記のような主義に至ったということです。
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この回答へのお礼

Grass さんに付いては御主張にも有りますが、主義に振り回されているようには見えません。

見方を変えれば、主義的と言えるような言動には一貫性がある、と言うことなんですね。
納得です。
有り難うございました。

お礼日時:2016/07/05 12:09

ブッダ主義(ブディズム)では 肉食妻帯をしてはならない


というタガが嵌められています。

キリスト主義(クリスチアニズム)では 右の頬をも差し出
すというタガがあります。

マルクス主義では プロレタリアート(無産階級)がいちば
んとうとい。機が熟せば武器を取って資本家階級を倒さねば
ならない。そういうタガがあります。

パウロという人間は これについて 

 文字はころし 霊は生かす

と言いました。通俗に言い表わせば オシヘにこだわると
ころされる。基本の精神をまなんで臨機応変に――つまりは
実存主義(?)風に――思惟し行動せよと。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

世の中は箍で支えられているのか、と思わず感嘆してしまいました。

実存主義者は、この箍を外したいのですね!

有り難うございました。

お礼日時:2016/07/05 11:53

≪主義≫は やっぱり一方の側に片寄るものと思います。



勤勉に対してガリ勉。
勤勉志向から勤勉至上志向になれば 勤勉主義でありガリ勉になる
と考えます。そういう区別があるのだと見ます。

勤勉原則という言い方とその中身もあると思います。

これは 原則に対しておよそつねに例外があるという意味だと見られ
ます。

要するに 勤勉であることを原則とするけれど それは 手段をえら
ばないことではない。つねにその問題については勤勉であることを白
紙にもどして考えることをおこなう。のだと。

ですから ガリ勉ないしはガリ勉主義となれば 手段をえらばない場
合が増えて 例外がわづかの場合に限られて来る。

そういう≪箍≫の問題が出て来るものと思います。表現にこだわるなら
そういう問題をはらむものと見られます。


なになに主義がどうだこうだという議論は またそのあと別に出て来
る思想内容の問題だと見ます。
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この回答へのお礼

ぶらじゅろんぬさんの文章は、判りにくさが付きまといますが今回も判然としません。
たぶん主義と原則を関連させてみようとした意見かと思いますが。

私の質問の動機は、自身の言動に主義が前面に押し出される時の“主義の箍”の存在に付いてなんだなあと、幾つか回答を頂いた時点で思いました。

お礼日時:2016/07/05 08:15

こんにちは。



「主義」というのは、「世界」に対する、わたしたちひとりひとりの立ち位置でありスタンスです。
それが定まらないと、「世界」が我々に投げかけてくる様々な問題を正確に受け止めることができない。

「世界」は様々な球種で「問題提起」を放ってよこします。それに向き合うためには、こちらにも「問題意識」がなければならない。
そうでない以上、世界の投ずる問題提起は素通りしてキャッチャーミットに収まってしまいます。

主義は「たが」である。「たが」イコール何らかの「制約」という含意があるのでしょう。

けれども、世界を写真に撮るとき、世界に向かって絵筆を採るとき、そこにはその人の「視点・画角」という制約が必ず介在します。
それなしではいかなる「作品」も生まれない。世界に対峙するときに、わたしたちは主体的に「その制限」を選択するのです。

アートでいえば、それは「表現主義」であり、「ロマン主義」であり「写実主義」など、であることです。

「いかなる「主義」も身に纏うことをしない」というのも、厳密にはひとつの選択です。

例えばわたし個人でいえばわたしは「厭世主義者」であり「懐疑論者」であり「ロマン主義」を奉ずるものであり、「相対主義者」であり、「個人主義」であり、「非戦論者」であり同時に「暴力革命肯定派」です。

それらの各種の制限「視点・画角」がわたしをわたしであらしめている「タガ」なのです。

「定義とは、その限界を設けることだ」という言葉があります。それによってわたしたちは、「目にする」ことから「眼差す」「みる」ことが出来るのです。
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この回答へのお礼

質問のタイトルは人目を引くために敢えて使ってみました。質問にピリ辛の味が付くかなと思って。本気ではありません。
だから質問の本文では使わないで置きました。

ふと感じた事は、主義、主義と安易に主義を持ち出す言動に“囚われ感”を感じたのです。
「主義」と言う言葉には主義的と言う表現が有るように、他者の視点に映るものと当人の自覚するものと有るように思います。

人の「視点、画角」を「主義」に結び付けてしまうと言う事に、いまはまだ理解出来ていません。ちょっと不自然な、或いは違和感が有ります。

Grass さんは自身の自覚する「主義」を意識した言動に箍を感じることは有りませんか。
不自由では有りませんか。

お礼日時:2016/07/05 08:04

大辞林 第三版の解説


しゅぎ【主義】
① 常にいだいている主張・考えや行動の指針。 「私は肉類を食べない-です」 「事なかれ-」
② 特定の理念に基づく,学説や思想上の立場。また,体制や制度。 「実証-」 「資本-」 〔「哲学字彙」(1881年)に英語 principle の訳語の一つとして載る。本来「道義を重んじ尊ぶ」の意で漢籍の「逸周書」にある〕

自分の思い込みではなく人に通じる意味でちゃんと言葉を使うべきだと思います
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この回答へのお礼

肉を食べない様にしようという思いに、それじゃあこれを主義とするか、となってくると、このあたりから自身で「主義の箍」の影響を無意識的に受け始めるのではないかと思ったんです。

有り難うございました。

お礼日時:2016/07/04 11:30

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