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世の中や自信の事をちょっと顧みると、どうも親の光というか影というか、そういうものが子供に投げかけられるという印象がどうしてもぬぐえないものがあります。心理学でいう「不幸な親は子供にも幸せを与えられにくい」ということも残念ながらある程度いえるようです。
もっと一般的にいうと、世代間はもちろん、固体内でも「正は正を生み負は負を生み」という連鎖が起こっているようです。もちろん塞翁が馬とかありますが、大きな流れとしてどうしてもある。
これはなんと大きな矛盾であり、醜いことなんだろうと思わざるを得ません。世の中が醜いならば、まず真っ先に思いつく理由なのです。

なぜこんな連鎖をほうっておく、あるいは問題にしないということがまかり通っているのかよく理解できません。なぜ多くの人は憤りを感じないのでしょうか?

また、この宇宙のどこかには、「正が正を生み」でなく「正が負を生み」という循環形式になっている生物がいるのでしょうか?仮に循環形式ならなんと哲学的に納得できる事だと思いますね。それは民主主義、公平主義の思想に沿うものでしょう。

A 回答 (2件)

環境ってことで片付けてしまうと負が負を生むって事で終わってしまうのでしょうが、環境や運命を理由とすることは個人の尊厳を無視している気もします。



(範囲があまりに広いので全てに当てはまる回答にはならないと思いますが)

少なくともなぜ多くの人は憤りを感じないのでしょうか?については負の元におかれている個人は自己の行動でそこからの脱却を図る努力をするべきです。まずはそこからです。世間に自己の不合理を説くことではないでしょう。(説く必要があるとすればそれは自己の行動の後のことでしょう)
生まれつき体が不自由であるとか頭がいい、顔がいい、これらの生まれつきの差とどれほどの違いがあるのでしょうか。
世の中には努力もせず不平ばかり言う人がいかに多いかとも思います。
(努力している人にも厳しい環境が存在することも知ってはいますが)

>なぜこんな連鎖をほうっておく、あるいは問題にしないということがまかり通っているのかよく理解できません。なぜ多くの人は憤りを感じないのでしょうか?

「正が正を生み、負が負を生む」ではだめで「正が負を生み、負が正を生む」なら理解できますか?
もし憤る人間がいるとすればどっちにしたって負の人間です。
循環の中で世の中のために不幸になってくれっていって納得する個人はいませんよ。

最後に「正が負を生み」という循環形式になっている生物がいるのでしょうか?ですが
前提として正という比較概念があるから負が生まれます。
大きな概念の中では正から負が生まれているように感じます。(あるいは負から正が)

具体事例としての貧富層の固定化のような話だったりするならその傾向はあるのでしょうね。
でも、それにしてもまず個人が脱却を図って行動すべきではないでしょうか?

負の個人はがんばる→正へ
正の個人は怠ける→負へ
ってことであれば正が負を生みって循環法則になるのではと。
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この回答へのお礼

質問は、自助努力であるとか精神論であるとか言うことではありません。もっと大きな法則的な問題についてです。宇宙に憤りを感じるかいなか。

まさに、

負の個人はがんばる→正へ
正の個人は怠ける→負へ

という問題です。
しかし負の個人ががんばってもやはり負に陥ることが多い。
性の個人が怠けても、なんとか正にとどまることが多い。

この普遍的な法則を前にどうするかです。

お礼日時:2007/07/13 09:13

すべての条件がそろわなければ何も出来ないのでしょうか。


あらゆる条件が整うまで指をくわえているつもりでしょうか。
これは哲学ではなく愚痴じゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

質問は愚痴に関することではありません。読み込みが足りません。

お礼日時:2007/07/13 09:11

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