dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

無の境地を求める仏教徒がいるとゆー。
悟りを開き無の境地に至るためだとゆー。
なぜ彼は無を求めるのか。
人は死ねば無になるではないか。
無を求めずともそのうち自然に無になるではないか。
なぜ今無を求める必要があろー。

無を求める者が飯を食うのは何故か。
飯は無なのか、有なのか。
飯を食うのは生きるためではないのか。
すると生きることは無を求めることなのか。
果たして無を求める者はその答えを備えているのか。

もし無を求めるのであれば何も要らないのではないか。
無を求めるものがお経など唱えてどーするのか。

あ~、分からん。

質問者からの補足コメント

  • ”無であると言えば空であると言い、空であると言えば無であると言う・・・
    無を求めるのではなく空を求めると言い、いや空を求めるのではなく無を求めるとゆー・・・
    恐らくは何を申しておるのか、ゆーておる本人とて判らんのであろーと察するが、・・・”

    間違っても、こんな話にはしたくありませんのでよろしく。

      補足日時:2016/07/14 08:37

A 回答 (7件)

人には好奇心があります。


無を知りたいという好奇心です。
だから死んでも無ですが、死んだらそれを知れるかどうか分かりません。
    • good
    • 0

簡単なことなので、もっと考えて、ご自分で答えにたどり着くことが良いと思います。

    • good
    • 0

人は社会的動物として人の中で暮らさざるを得ません。


その際自他のギャップに由来する煩わしさから
完全に解き放たれることは不可能です。
それが不可能であるが故のあこがれとして
煩わしさから解放された無の境地というものがあるのではないでしょうか。

忙しければ忙しいほどそのあこがれは強くなる。
利他として価値を為そうとすればするほど忙しくなる。
そこで価値を為すことを肯定したその先に
避けられない煩わしさという気持ちのやり場をどうするかということになり
逃げ水のような目標として
そこに精一杯近づくことに意味がある無という境地が
クローズアップされてきたという面はあると思います。
    • good
    • 0

煩悩を無くすこと

    • good
    • 1

生きるとは一切苦である。

仏陀さんがそういっている。信じろとは言わないが、
生きているのはつらいと認める認めないは別として感じている人間は100%だ。
無をユートピアとして吹聴する者がいるから、無にあこがれるおばかさん?がいるのだ。
違うのかな。
誰もおばかさん?だから、悲しい者だ。
    • good
    • 0

仏教には、六道がございます。

この六道はどこをとっても苦界です。神であろうと、苦界の住人なのです。
この六道は、人の観念により存在しているのです。ですので、その人が「空」を得て、真理に至り、悟りを開いた時、その六道はたちどころに「無」になります。その人にとり、存在しないものになります。それが、解脱です。
仏教徒にとって、お経というのは一応のテキストであって、啓典ではないのですね。そして、とても不親切なテキストです。受験生にとっての試験勉強の為の問題集みたいなものなのです。仏教の戒律も、受験生にとっての生活指針みたいなものです。受験生が問題集を沢山こなして、受験勉強を熱心にやったからと言って、試験に受かるかどうかは分からない。受験生たる生活指針に真面目に取り組んだからといって、合格出来るかどうかは、分からないのです。なんら勉強をしなくても、受かる人は受かるし、やりたい放題の生活をしたって合格ラインの人は、合格なのですよ。
東大を目指している人が、既に東大生ではないのと同じで、仏教徒が既に仏教者であるかどうかは、別の事なのですよ。そして、東大生の全てが東大を卒業する訳でもないのです。全てはその地点でのものに過ぎないのです。
これは、単なる例え話しですよ。
    • good
    • 0

初めまして



無とは、無欲の事ではないのですか?
空とは、無の状態・・・無が精神的なもので、空が物理的なものでは?

無は、悟りにつながるものなのではないでしょうか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

やはり空が出てきたね。

>無とは、無欲の事ではないのですか?
空とは、無の状態・・・無が精神的なもので、空が物理的なものでは?

無とは無欲の事で、空とは無欲の状態?
無欲が無で物理的に無うことが空?
 
あ~、分からん。

お礼日時:2016/07/14 09:13

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!