プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

今日、クローズアップ現代で、ブラック部活と言うものについて特集していました。
生徒が長時間皆の前で土下座させられたり、人格を否定される様な暴言を顧問から浴びせられたり、休みなく部活に参加させられたりと言う部活動の実態と、その構造的な問題について論じられていました。生徒同士の絆や親の要望、内申書、根性論などの文化、先生に付けられる評価などなど、色々の事が複雑に絡み合って生じている問題だということでした。

そしてその次に、プロフェッショナルという番組がありまして、100%が求められる飛行機エンジンの整備士さんの特集をしていました。

私は、この二つを比べて、意味のある闘いと、ただ自分をスポイルするだけの闘いがあるなと思いました。後者の整備士さんの話は意味のある闘いだと感じたのですが、前者のブラック部活については意味の無い闘いだと思いました。特にブラック部活については、私が学生だった二十年前の部活動と比べても、悪い所が全然変わってなくて、未来を憂う気持ちになりました。

さて、皆さんの考える、感じる意味のある闘いと、意味の無い闘いはそれぞれどんなものを想起されますでしょうか。また、これらについての所感などお寄せ下さい。
お礼は少し遅れると思いますが、どうぞよろしくお願いします。

質問者からの補足コメント

  • 再回答ありがとうございます^ - ^
    いつも私が意味を汲み取れないで、元高校生さんにはなんというか、お世話?になります。長文という事で、ゆっくり読ませていただきます。お礼が少々遅くなる事をご容赦下さいませ。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/06 14:56
  • 皆さま、ご回答ありがとうございました。このまま新たな回答が付かなければ、日曜日あたりに質問を締め切ろうと思います。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/13 07:18
  • そろそろ質問を締切ます。ご回答していただいた皆様、補足欄をお借りしてお礼を述べさせて頂きます。ありがとうございます。
    今回のBAは6番さんに差し上げます。見方の変わるご回答、ありがとうございました^_^

      補足日時:2016/08/18 14:36

A 回答 (9件)

> 似たような意識を共有することで有益な事柄も論じられたと思います。


☆ このサイトは議論する場の提供を目的としたものではないと考えています。
☆ 質問文に対する回答を収集する場の提供が、このサイトの目的だと思っています。しかし、質問者に誤解があるとか、視点に欠落だあるために疑問を持つことになっていると質問文の読者が推定した場合には、その指摘を行うこともサイトが許容する範囲だろうと思っています。

> そこで、この御礼ではいくつか反論と同意を並べて語ろうと思います。一つは、ブラック部活に~~~~~ではないかということ。 一つは、 特定の学校~~~~~~ではないかということ。一つは、ラベル貼りも~~~~~ではないかということ。次に、排斥の問題~~~にも似たところがあるかなと。~~~~~~解決しようという方向に気持ちが行かなければ何時までも良くはならないだろうと思いました。つまり、問題意識とは問題を解決せんとする能動的な姿勢であり、決して問題を忌避する姿勢のことではありません。~~~~~~私の反論は全てこのような捉え方によるものです。~~~~~~~
☆ このサイトは、自分の意見を書いて賛同者を募ったり、志向を同じくするものを激励したり、反対者に見えるものを批判する為の場とは、私は考えていません。 私が自分の意見を言っているのは、『 《問題意識とは問題を解決せんとする能動的な姿勢》を他に要求し、ブラック○○を問題しようとすることが、《価値感の同一化を暗に求め、練習熱心でないこと、上位者の脚を引っ張る態度や言動、他のことに気を回すものを非難する、非同調者を排斥する、クラブ活動のメンバー相互を強く強迫的に駆り立て逃れらない状況をつくり、父母を積極的にし、顧問の先生も休日なしの状態に陥らせ、疲れ切り、うつになったり、自殺したり、社会そのものからスピンアウトや社会への敵意をもって突発的暴力行為に走るヒトをつくり》 さらに《その状態に問題意識をもって、社会正義の追求をや是正を求める要求を声高に言い立て、良識者を増やそうとし》、他人から見れば新たなブラック△△をつくり、社会をますます不安と恐怖を増やして、人々を強迫的な精神状態にするだろう 』ということです。 つまり、社会正義や道徳、ブラック○○を問題にするというような意見を言いだして共感者や協調者を増やそうという行為は、ますます、社会を生きづらい、辛い、苦しい、やっていけない、勘弁してくれ、というように感じてしまう人々を増やすことになると、私は考えるので、人々が生きづらい社会にしたいというのがあほなさんのネライでなければ、自分が嫌だと思う社会を招きたくないなら、「問題意識」を持たないだけでなく、出来るだけ「問題意識もってしまわないように」気をつけるべきだといっているだけです。 『ブラック○○、ブラック◇◇、ブラック△△』をもっともっと増やしたいと希望しているならば、ブラック教師、ブラック顧問、ブラック上司、ブラック部活、ブラック企業、ブラックバイト、ブラック××を次々と叩いて、問題にすればイイと思います。 それがどういう結果を社会にもたらすのか、自分がやっていること、主張しようとしていることが結果として何を招いてしまうのかを考えて、自分をコントロールするようにといっただけです。
このサイトは、社会問題に対する施策について、意見を出し合う場、議論する場ではないと思っています。 私の回答もサイトが許すだろう範囲を超えないように注意してます。 このサイトで議論をするつもりはないです。
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この回答へのお礼

いえいえ、十分これまでの回答で元高校生さんの言い分は伝わっていますよ^_^

私も元高校生さんに言ってあげたい事はありますので、お礼に少し語りましょう。

他者の意見について意図的に偏った解釈をしても、その他者の意見を正しく聞いた事にはなりません。
凝った論理を得意げに展開しても、現実はその論理の通りには運びません。
自分の接した問題について、問題視するのは問題だからと言って、それをただ見るだけならば、その初めに接した事にまつわる苦悩は解決いたしません。

他者の意を汲み取り、論理に頼りきる事なく、接した事柄については素直に応じる事、その様にして堂々巡りや停滞をせず事を進めるならば、初めに生じた苦悩について、自分自身を通した(他人事ではない)理解とともに、解消することができるでしょう。

度重なるご回答、ありがとうございます。

お礼日時:2016/08/13 20:49

私の回答を読んでいただいてありがとうございます。

また、No.6へのお礼欄のコメントは、とても誠実な記述と思います。今回は、申し訳ないですが、【簡単に&別の角度から】追加回答させていただきます。

私はそのNHK「クローズアップ現代」を見なかったので http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3847/6.html で今回読んだことをベースにさせていただきます。
この記事の中に、「その部活を辞められない事情」の説明があり、生徒同士の繋がりが緊密のため部活を辞めれば「あの子は弱い・逃げた・脱落者」の烙印(ラベル)が貼られ疎外され爪弾きされると恐れていると書かれています。コメンテイタ?の内田さん・為末さんも「部員同士が同調圧力、束縛している。価値観を一色に染める。同調圧力と閉鎖性の高まり」とか、生活態度などの内申」「先生も、親も、互いに全員で首を絞め合っている」「親の方から先生にどうぞ厳しくやって、うちの子をインターハイで優勝させて、大学に行かせてくださいって声もある。ですから、先生が一方的にやってるように見えて、先生側にかかっているプレッシャーっていうのもある」「例えば、土日を休みにしますって、先生が言った時に、そこで保護者が『あんた、教育者か』って、そうやって言うわけです」といったりしていたようです。 
「実際に近年の大学入試では、ここ10年ほどで、推薦入試が増えている。少子化に伴って、大学の側も早い時期によい生徒を確保するために、推薦入試では日頃の生活態度など内申書が重視されてる。内申のためには、部活3年間、続けなければならない。入試の内申書のために、子どもに部活を続けさせたいという保護者の気持ち」。  では、AO入試などをする大学が悪いのか、大学にも事情があるでしょう、「飽きっぽいヒトは避けたい、同調できないヒトは避けたい、逃げ出すヒトは避けたい、『あの大学の卒業生なら学力や知力はいまいちでも、根性と同調性はある』と企業や社会から評価される。それさえも評価されなければ、就職率は下がり、入学志願者のレベル確保も難しくなる」と大学も考えているかもしれません。 そうした社会全体が、集団行動からの逸脱逃走を忌避し、同調圧力を高めているから、部活の日数も時間も増えるのでしょう。『中学高校時代に顧問から暴言を受けたことがある大学生は、4人に一人』という実態は、今の社会全体が作っているもので、その根本にあるのは『あいつは××だからだめ・あそこは××だからだめ・あそこは××をするような△△だからだめ』というレベル貼りで敵や問題企業、問題組織、問題学校、問題部活、問題教師、問題生徒を排斥しようとすることにあるのだと、私は思います。 その排斥を受けないようにと恐々としていれば、親も教師も顧問も、子供も、《どういう事情や希望があろうがそれはさておいて、集団に求められると考えられる成果を上げるため、全員が漏れなく同調して邁進する》ことになるのは必至だと思います。
『吐いたんですよ。やっぱり私もきついし、フラフラしたりとか、とてもしんどいです。健康を脅かすほどの練習量に、いつまで耐えられるのか不安はあります。疲れてるから、早く寝たいし、でも勉強もしないといけないし。もう寝ないと、疲れってとれないから、ひたすら寝たいです、本当に』 このような状態を作ってしまうのは、『ブラック部活』というものの所為ではなくて、生徒の未来を憂い危惧するあまり、行動を規制して、集団の方針や社会的に求められていると思う方向に強制しようとする人々の態度だと思います。
質問者のあほなさんは、”特にブラック部活については、私が学生だった二十年前の部活動と比べても、悪い所が全然変わってなくて、未来を憂う気持ちになりました”と書かれていますが、特定の部活にブラックとラベル貼りして問題視しみんなで非難攻撃しようというような態度は、結果として、もっとひどい状態の社会を作るのではないかと私は危惧します。 個人や組織、ある特徴を持つ集団や宗教信者、日本でもトップ級の成績を獲得するためにすべてを捧げているようにさえ見えるほど必至に練習する選手やコーチ、親の期待やプレッシャと学校の管理者からのプレッシャーと自分の知識能力で逃げ道を失っている顧問などを、自分ではないという気楽さで、非難し叩き、仲間を集って攻撃しようとする態度は、結果として、社会を息詰まるものにもすると思います。
では、気楽にサボるのを容認するヒトが増加したら、困難には逃げ出すのをよしとするヒトが増加したら、それで社会は良くなるのか。 そんなことはないです。 
”こうすれば良い”というようなものはないと思います。 
だから、難しい問題です。 やっかいな認識問題だと私は思っています。
しかし、社会問題がどこかで起きたときに、その当事者であったもののどれかに悪さを押しつけ、非難し、あまつさえ、ブラック○○のような名前を付して、《問題意識をもって、じゃんじゃん非難・攻撃しよう》というのは、とにかくすべきではないと私は強く思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

今回はよりわかりやすく書いてくださり助かりました。読んだ結果思ったことは、結局元高校生さんも、社会に必要な○○ではなく、自らが社会を構成する○○であるという当事者たらんとする意識によって、今回のご回答をしてくださったのかなということです。質問を立てた私と同じだったのかなと。今回、別の見方、とおっしゃっていますが、まさに私と元高校生さんは別の見方をしていたのだということが分かりました。

見方やそれによる方法論の違いで対立した議論もいくつか為しましたが、同時に、(ここでは私は問題意識といいますが)似たような意識を共有することで有益な事柄も論じられたと思います。

そこで、この御礼ではいくつか反論と同意を並べて語ろうと思います。
一つは、ブラック部活に参加する生徒の未来を憂うことは、新たな同調圧力を生じたとしても、それはブラック部活の進行とは反対方向の力となってそれを抑制するのではないかということ。
一つは、特定の学校、特定の部活、特定の教員を吊るしあげることで末端の解決を図るのではなく、社会全体が問題意識を共有することで社会全体の自浄能力を高め、ブラック○○、モンスターペアレンツ、生徒同士のしがらみやいじめなど全体的な解決を図れる方向に行けるのではないかということ。それは監視の目ではなく、他人事ではないという気持ちによるということ。
一つは、ラベル貼りも、問題を暗に沈めるのではなく世に浮上させるという意味では一定の役割を持っているのではないかということ。

次に
排斥の問題について。このカテでも話題に上がることがあるマイノリティの問題にも似たところがあるかなと。あれこれは〇〇の問題があるから駄目だと言って排斥、忌避するのではなく、問題があるからそれを解決しようという方向に気持ちが行かなければ何時までも良くはならないだろうと思いました。つまり、問題意識とは問題を解決せんとする能動的な姿勢であり、決して問題を忌避する姿勢のことではありません。私の反論は全てこのような捉え方によるものです。ここにおいて、元高校生さんの仰るようなある種科学的な見方がはじめて有益となるのでしょう。問題意識を持つ方が問題であるという指摘は、上述のような捉え方においては、よい注意書きとなると思います。こういう問題意識そのものに対する捉え方の違いが、意見の相違になっていたと今質問を振り返って思います。

お礼日時:2016/08/10 14:42

NO.6の回答の続きです。



> 子供達にとっての死活問題を、偶然の関係で色々起こるものだ、と片付けられるのでしょうか?
☆ (実は、死活問題でも偶然の関係で起きることが多いとは思ってますが) 私の回答文はそのようには書いていません。回答文はつぎのように書きました。
{「生徒同士の絆や親の要望、内申書、根性論などの文化、先生に付けられる評価などなど、色々の事が複雑に絡み合って生じている問題だ」というような逃げ口上は、「三番目の何とも中途半端に特定当事者に責任を転嫁する視点」になってしまうのを恥ずかしいと感じるコメンテイターのようなヒトや専門研究家、あるいは放送局のような立場にあるヒトが言い出すのだと思います。それを突き詰めれば、「偶然の関係でいろんなことが起きるもんだよ」ということになるだと思うのですが、そうは詰めないで、三面記事・井戸端/居酒屋世間話のスタンスで「ブラックな話題を出している」のではと思います。}
この回答文では、《「生徒同士の絆や親の要望、内申書、根性論などの文化、先生に付けられる評価などなど、色々の事が複雑に絡み合って生じている問題だ」⇒それを突き詰めれば、「偶然の関係でいろんなことが起きるもんだよ」ということになる》と書いているのです。 そしてそういう意味にしかならないことをそのようには結論づけもしないで(=そうは詰めないで)、《三面記事・井戸端/居酒屋世間話のスタンスで「ブラックな話題を出している」》態度には非難すべき点があると問題視しているのです。

> ブラック部活はいろいろな事が複雑に絡み合った問題だと言う指摘が何故逃げ口上と捉えられるのかもよく分かりません。何故ですか?
☆ 私の回答文はつぎのように書いてあります。《❶本人の側に問題を見つける視点をとるか、❷社会や環境問題一般に目を向ける視点をとるか、❸その個別の場での教え方ややり方などにばかり目を向けてしまうかなどで、捉え方は別れちゃうでしょう。 「ブラック○○」という視点は、その三番目(❸)の何とも中途半端に特定当事者に責任を転嫁する視点でしかないように、私は思います。》(❶❷❸は今回挿入の記号)、《「生徒同士の絆や親の要望、内申書、根性論などの文化、先生に付けられる評価などなど、色々の事が複雑に絡み合って生じている問題だ」というような逃げ口上は、「三番目の何とも中途半端に特定当事者に責任を転嫁する視点」になってしまうのを恥ずかしいと感じるコメンテイターのようなヒトや専門研究家、あるいは放送局のような立場にあるヒトが言い出す》 

コメントを出さないと職責を果たしてないと批判されるので、何かを言わないといけないという状況下で、❶をきっちり言えるような検討もしてないし、そのような検討を出来るだけの情報入手の手間もしたくない、時間もない、仮にそうしたことが出来たとしてもその検討内容を視聴者に伝えようとしても視聴者はついてこないと考え、❷をきっちり内容を客観的に詰めて検討検証する力がないか、そうしたことをしたら視聴者は逃げてしまうのでやらない方がイイと感じ、❸で個別問題としてしまい一般論を展開しないとら専門能力を欠いているとみなされるだろうと感じた場合、結果としての逃げ道は、❶に深く言及しないまま略歴などのプロフィールの簡単な紹介と、❷のような視点もだいじだということを言いつつ、具体的なことには全く触れず、❸当該施設以前あったエピソードを紹介し、【解説終わり】にする。(客観的で理性的な検討の具体的内容は全くないのですから)そのコメントや解説の結果でだけ残るのは、あいつらが悪い、あの活動はブラック部活という、何とも劣性なレッテル貼りで非難攻撃の対象を共有促進効果です。
このような態度や発言内容を称して、逃げ口上と表現しました。 当人としては他に道がなかったということかもしれませんが、{諍いがあって、その結果喧嘩で暴力沙汰になるのを避けて、「覚えておけ」と言い残して去っていく}のと似たようなものだと思います。

> その飛行機エンジンの整備士さんはレジェンド級で、随分と自信に満ちておられましたが、それを悲しいと思う心境がどう言うものなのかよく分かりません。
☆ ごく普通の暮らしをし普通に仕事をしているヒトでも、自分の仕事に誇りと生きがいを感じて自分なりの人生に満足している方は少なくないです。ただ世の中は動き変わっていき、産業の形態や構造が変わってしまうと、有用性や価値付けや意義が社会的には失われ、取り残され、誰も評価してくれなくなり、仕事の依頼もなくなって来たります。おそらく100年前なら鍛冶屋さんにも、屋根葺き職人にも、経師屋さん、街の洋服の仕立て屋さん、時計屋にも仕事があり、プライドを持ってやっていられたと思います。 2010年以降ではどうでしょうか。商売をたたんでしまったところが多いでしょう。 ある職種でレジェンド級であれば誇りがあるだけでなくさらなる高みに向けての努力もしているのでしょう。 それは当人の心情を考えれば羨ましいような気もするのですが、その職種、業種の先行きを考えてしまうと、職種内容によっては、当人の心情やこれまでの精進努力、現在の生き甲斐を想像してしまうと、見ている側には悲しさの感情が湧いてしまうことはあると思うのです。 
悲しい・哀しいは、切ない、胸に迫ってくる、痛ましく感じてしまうというようなときにしばしば使う語です。 幼児や子供が友達と楽しそうに遊んでいるのを見たとき、その児の親が半年前、1年前に早逝(早世)していたのを思い出したら、見ていた私が「あの子を見てると哀しいね」というような表現です。 その心情がどういうものなのか分からないといわれても、説明が難しいです。
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この回答へのお礼

うーむ。。このご回答の前半は、この回のクロ現の放送を元高校生さんが視聴していない事による憶測が勝ってしまっているかなと思います。コメンテーターに元陸上選手の為末さんが来られて、複合的な観点からのブラック部活に陥らないための対策、例えばライセンス認証されたコーチを外部から雇うとか言った事を提案されていました。しかし、質問の性質上、番組を視聴されて無い方々からもご回答をいただく流れになるのは当然予想の範疇であり、様々なご意見を聞かせてもらうという事を優先すれば、多少の憶測も許容せねばならないでしょう。

後半の悲しさについてのご発言ですが、職人が時代遅れになる事の悲しさと、親を早くに亡くした子供が遊ぶのを見た時の悲しさや励ましの視線と、同じ悲しさという言葉を使ってもその中身が同じかと言うと私は違うと思いました。この点については、これ以上話しを進めると質問趣旨から離れてしまいますので、特にこれ以上私の方から指摘をするという事は避けたいと思いますが、決して無意味な話でも無いので、元高校生さんがご希望であれば、この悲しみについてを受けて、そのお話を続けようと思います。

no.6のお礼はもう少々お待ちください^_^

お礼日時:2016/08/06 16:21

☆ 「あの場では厳しく叱ったが、私の真意は、、、」のような意味で、私の回答とは別の真意があるのではないです。

私の回答文が悪くて、質問者"あほな”さんは、回答の文意を誤解しているように感じます。
長文なので、二回にわけて回答します。


> 私は、是非問題意識を持って欲しいものだと、今回のご回答を受けて思いました。
☆ "問題意識をもつ"には、分類の仕方にもよるでしょうが大きく三つの用法があるようです。
①”問題意識を以て"と表記した方が適切な感じがするもので、{何かの具体的な特定の人物や組織、あるいは行動や思考、進め方などを"問題視して"、排斥、排除、攻撃、非難、否定の対象にすること}を意味していることです。例としては、原発やある政権、ある施策、ある無策、ある民族や国家、ある人種、ある地域からの移民やある種の組織運営のスタイルや教育の方法を問題視して否定し非難し攻撃し撲滅を呼び掛けるような場合に使うフレーズです。単純な嫌悪情動と親和性が強いものです。非正規雇用や障害者、事業成功者、金持ち、生活保護受給者でパチンコ通い、テロリスト、暴力団、右翼、左翼、中国北朝鮮、IS、道徳教育を強く説くもの、企業収益の確保を強く指示するもの、コスト削減・時間短縮を重要評価にするもの、何が何でも延命治療を優先実行する行動スタイル、大会で高位入賞する力量や精神力耐久力を身につけることを最優先する訓練スタイル、組織行動でのロスを最小に抑えるための組織内の異見や連携不完全を排除ための集団訓練などを、"問題視して"というものです。日本でも、キリスト教を禁制し摘発する、世襲武士層を否定し四民を徴兵対象として軍を強化する、鬼畜英米を撃ちてし止まんと宣伝する、省庁主導の企業誘導を止めさせる、反社会勢力を排除する、北朝鮮でも日米韓の緊密な連携を牽制するためにミサイル発射するなどを、"問題意識をもつこと"と考えるのは、この①の用法です。この用法の特徴は、攻撃対象を特定していること、しばしば"~~の敵""悪"を付した名前で対象を呼ぶなどレッテル貼りをすることとセットでで使われます。
②"目標のよりよき達成に意識を傾注して"と表記した方が適切な感じがするもので、{漫然と業務をこなすのではなく、対象、代替、手法、進め方などをきっちり見直し、全力・精力を尽くして}を意味していることです。例としては、企業内でトップや上司が、部下に「問題意識を持っていなければ良い仕事はできない」「仕事がルーティンワークになっては業績は上がらない」「緊張感のない職場では問題意識は生まれない」「問題意識を持っていれば何をすれば良いのかが分かる、後手に回ることも、トラブル発生も減る」というような表現で使うことがあります。また、学生が勉強するときなどにも、「漫然と教科書や問題集に向かうのではなく、問題意識をもってやれ」などのように使います。
③"当然視するのではなくて、さらに詳細に解析探究して、懐疑心を高め、今までは一つのこととしか認識してなかったことに、いくつかの要因やメカニズムの複合であることを見つけ出し、多様な展開になり得る法則を探そうとする心的知的なあり方"と表記した方が適切な感じがするもので、研究者、チャレンジャー、起業者、発明者、哲学者など一風変わった生き方をしているヒトの行動の傾向を「彼は問題意識の塊だから」「あいつは問題意識を離すことができない」「問題意識を持っている」と評することがあります。例としては、「何故鳥は飛べるのか」「なぜ白鳥は水面を浮かんでいるのか」「何故人間は潜水できるのか」「何故磁石同士は引き寄せたり反発し合うのか」「なぜトランプ候補はこうも支持者を集めるのか」などを、一つの二つの理由を見出しただけでなく、その見出した理由に関してもさらに「なぜ、何故、どうして、、」を何層にも繰り返すヒトの特徴を言い表すのに「問題意識を持ち続けている」のように使います。

「ブラック○○」のようなレッテル貼りで非難攻撃の対象を共有しようとすることは、①の使用例の好例でしょう。
一般に、ヒトは安全に不安を感じたり、不満や閉塞をため込んでしまうと、積極行動による紛らわし、活発状態がもたらす爽快感が得られる、敵や悪役を作り出す①のような問題意識を持つ傾向から離れるのは難しいです。誰かを悪い奴、ダメなヤツ、碌でもないと見下したりする心情からフリーになるのは、どなたでも難しいでしょう。不満が高かったり、高齢化したり、孤独を感じている、無力感が長く続くと、そうした心情が高くなり、あげくは「けしからん」「何とかしろ」「たたき直せ」「罰を下せ」「懲らしめてやれ」のような劣情に近づいていくのが分かります。それって、誰でも起きがちですが、出来るだけそれを自制することが自身の矜恃でしょう。 ①のような「問題意識」を持たないだけでなく、出来るだけ遠ざけるようにすべきだと、私は思います。 

> 未来を憂う気持ちはいつでもあるんだ、という諦め?を勧める元高校生さんです
☆ 私はあきらめを勧めたつもりはないです。 質問者"あほな”さんの誤読です。 
{60年前に「二十年前の部活動と比べても、悪い所が全然変わってない」と感じたとしたら、そして、そのとき未来を憂う気持ちになる」のだとしたら、そうした「未来を憂う気持ちもいつでもあるんだ」と理解してはいかがでしょうか。}は次のような意味が伝わればと思って書いています。
《「いつでも未来を憂い」&「それがいつのときでも変わらない」ことが当人もわかる》のであれば、《当人は過去現状を判断して憂いているのではない》でしょう。合理的論理的な推論の結果ではなくて、一種の心の病か性癖、心的傾向でしかないです。【憂い・憂う】の言葉の辞書的意味の通りうつうつとなったり心を痛めたりしているだけということが分かるはずです。ニュースや記事を読んで、そうした気分に陥るマイナーな感情に捕らわれる傾向をいつも強く持っているのだなと、事実関係が見えて来るだろうと考えて書いた文章が当初の回答です。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

一理あると思いました。
社会問題を解決するにあたり、科学的見方は必要でしょう。しかし、科学的見方が出来ればそれだけで解決までこぎつけられるかと言うと、そうでは無いだろうと思いました。社会問題を解決するには、ムーブメントや世論の高まりと言ったものが必要であり、それを大きく構成する感情と言うものを、良識やコモンセンスと言ったものによってまとめ上げなくてはなりません。
嫌悪や悪者作りに人は流れやすいと言うのは確かにあるにせよ、それと世間の良識を混ぜこぜにする事はできません。
想像してみてください。我が子が皆の前で、顧問の言いつけによって何時間もの間、土下座をさせられているのを見たとき、親にはどの様な気持ちが起こるでしょう?
嫌悪とか悪者とか以前に、許せないのでは無いですか?こう言った気持ちは、否定されるべきでは無いし、むしろ世間に広く訴えて共感を得るべき心情のように思うのです。社会問題を解決しようという気にさせるのは、こう言った人としての当然の心の動きを起点にして為されるものだと私は考えます。

次に、未来を憂う事についてですが、これはですね、私が心を痛めたとか、鬱々とした気分になったとかいう事を問題にしているのではなくて、ブラック部活のような問題の当事者になった生徒達の今と未来を憂いている、共感している、つまり、問題意識を持っている、という風に受け取って欲しい所です。こんな部活動では生徒達にとって教育どころかその可能性を摘む事にしかならない、その様に思った事を、未来を憂うと表現したのです。
二十年も前から変わってないなら、ブラック部活はこの先も長く続く悪習であるのでは無いか、その様に思って憂うのです。私が鬱々とした気持ちになる事についてご助言いただけた事は嬉しいです。同時に、ブラック部活の当事者になっている生徒達の事を想っていただけているのなら、一層私も癒されるというものです。

お礼日時:2016/08/06 20:58

皆さんの考える、感じる意味のある闘いと、


意味の無い闘いはそれぞれどんなものを想起されます
でしょうか。
また、これらについての所感などお寄せ下さい。
    ↑
ブラック部活は、そもそも闘いなんですか。
何と何が闘っているというのでしょう。

闘い、というのは対等の立場でお互いの技を
競うものです。
ブラックは一方的ないじめがあるだけです。

原始以来、人は常に競い合い、凌ぎ合い、
いのちを賭けて戦った。
その闘争本能と生存本能のせめぎあいの中で、
人は知能を磨き力を養い、心と体を鍛え、
一面で道徳律を築き上げた。

その結果、文明が築かれ文化が創られた。
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この回答へのお礼

イヤイヤ闘わされているという感じですかね、ブラック部活は。自主性の無い鍛錬みたいな。

私は、人類は戦いによって進歩したのではなく、優しさによって人らしくなったのだと考えます。

お礼日時:2016/08/02 21:42

なんとも、やっかいな認識問題だなと思います。


1)意味のある闘いと、意味の無い闘いという区分は、客観的にはないでしょう。意味や意義の付与をある目的達成のような視点で検討するのであれば、目的観が異なれば、噛み合うテーマではなくなります。社会的意義とか、人類の普遍的な価値とか、時代が………と言い出しても、それは視点が様々であり、一致するものではないと自身が言い出しているのと同じだと、私は思います。
2)意味のある闘いと、ただ自分をスポイルするだけの闘いというのも、なにやら結果からする後付けでしかないと思います。 サッカーや柔道、野球、ピアノ演奏の初心者練習、数学や英語のなど勉強でも、禅やヨガでも、チームを組んで行う仕事でも、当人や周囲のヒトからみて、あいつにとってはただの試練苦行の経験でしかないということは多いです。決して珍しいことではないです。本人が持つ身体的資質、知的資質、あるいは当人の他の環境(家庭問題や経済問題、差し迫った困窮や障害)では、どうにもならないことは多いです。 本人の側に問題を見つける視点をとるか、社会や環境問題一般に目を向ける視点をとるか、その個別の場での教え方ややり方などにばかり目を向けてしまうかなどで、捉え方は別れちゃうでしょう。 「ブラック○○」という視点は、その三番目の何とも中途半端に特定当事者に責任を転嫁する視点でしかないように、私は思います。
3)「生徒同士の絆や親の要望、内申書、根性論などの文化、先生に付けられる評価などなど、色々の事が複雑に絡み合って生じている問題だ」というような逃げ口上は、「三番目の何とも中途半端に特定当事者に責任を転嫁する視点」になってしまうのを恥ずかしいと感じるコメンテイターのようなヒトや専門研究家、あるいは放送局のような立場にあるヒトが言い出すのだと思います。それを突き詰めれば、「偶然の関係でいろんなことが起きるもんだよ」ということになるだと思うのですが、そうは詰めないで、三面記事・井戸端/居酒屋世間話のスタンスで「ブラックな話題を出している」のではと思います。
http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3847/index. …
4)100%が求められる飛行機エンジンの整備士さんって、悲しいねと私は思っちゃいました。町工場の職人さんの中には必死にそうした生き方をしてきたヒトも少なくはなかったと思います。会社の事務でもそうしたヒトが少数はいます。残念ながら傍流で仕事は減り、高い評価を周囲から受けることはなく、逆に後輩や周囲から時代遅れのヒトという目で見られていることが多いです。その少数になる個人がそこそこ後輩に指導すると「状況が見えず、偏執を他人にも強要する頑迷な困ったヤツ」と言われたりします。テレビの画面に出てきた後輩の若者のような見方はマズしてくれないものです。
5)「私が学生だった二十年前の部活動と比べても、悪い所が全然変わってなくて、未来を憂う気持ちになりました」  質問者あほなさんは、あなたの先輩がさらに20年前に経験したこととあなたが経験したことで大きく変わった部分があるとお思いですか。今から40年前は1976年頃、さらに20年前は1956年頃、それよりも20年前の1936年は226事件後に統制派(東条英機など)の勢力が拡大した時期です。たぶん、その時期も、どの時期でも、体育会系は似たような部分が多かったと思います。 もしも質問者あほなさんが今から60年前に「二十年前の部活動と比べても、悪い所が全然変わってない」と感じたとしたら、そして、そのとき未来を憂う気持ちになる」のだとしたら、そうした「未来を憂う気持ちもいつでもあるんだ」と理解してはいかがでしょうか。

視点もテーマも違うのですが、下記のニュースがありました。
http://mainichi.jp/articles/20160802/dde/041/040 …
高次機能障害に限らず、身体障害でも、知的発達障害でも、何かの事故や疾病、不幸、災害などを経験した結果でも、高齢化の結果でも、ある個人が現実的対応能力で著しく劣りどうにも何も出来なくなるということはあります。 そうした現実的対応能力で著しく劣ってしまったり、物事の関連や事象の前後の因果関係を関連付けられない、あるいは無関係と思ってしまう、忘れてしまうことになれば、その人にとっても、そのヒトを見守り世話をしようとするヒトにとっても、訓練やルール、マナー、繰り返し行動の強制は、苦痛と苦役以外の何者にも感じられないでしょう。

ブラック○○を声高に非難攻撃するという行為が現実社会で果たす機能をどう評価するのかでも、視点の違いはでます。 社会の風潮に乗らないのがイイとは言えませんが、そうした風潮に相乗りして「ブラック○○をみとめ」「嫌悪を示す」のもイイとは言えない、と私は思います。
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この回答へのお礼

いらっしゃいませ^ - ^
随分、陰のある見方をするのだなあという印象でした。部活のハラスメントの話題を振れば、世間ではよくある事と返ってくる。それで良いのかな?と私などは思います。

それに、その飛行機エンジンの整備士さんはレジェンド級で、随分と自信に満ちておられましたが、それを悲しいと思う心境がどう言うものなのかよく分かりません。

また、ブラック部活はいろいろな事が複雑に絡み合った問題だと言う指摘が何故逃げ口上と捉えられるのかもよく分かりません。何故ですか?
子供達にとっての死活問題を、偶然の関係で色々起こるものだ、と片付けられるのでしょうか?

そして、未来を憂う気持ちはいつでもあるんだ、という諦め?を勧める元高校生さんですが、私は、我々は今に生きているのだという当事者の視点で今回の問題を見ていました。その視点から見れば、そんな気持ちはいつでもあるんだという諦めの境地にはとても立つ事はできません。

ブラック〇〇に対する問題意識と、嫌悪は異なります。私は、是非問題意識を持って欲しいものだと、今回のご回答を受けて思いました。

元高校生さんの回答の真意を私は受け損ねておるのでしょうか?

お礼日時:2016/08/02 22:04

早い話がプロフェッショナルの整備士の闘いは目的のある社会的にも価値ある闘い



ブラック部活などで強要される闘いは 逃げ場のない生き残りのための闘い 敗れれば死もありうる。

社会を運営していく上で仕事は必要なことですが、今の日本のような いつリストラされるか分からない

サバイバルのような闘いでは、人権や労働基準法も守らない人を使い潰すような労働環境があります。

それでブラック部活とか出てきたのでしょう。

しかし現実には失業者もいる、過剰競争もある、お金持ちは沢山いるのに格差が大きすぎる

必要以上の競争が為されている訳です。

人間の目的を知って、ヨーロッパ人のような合理的な考えを持って必要な競争に止めれば

あんな心ない言葉や仕打ちが横行する事はないと思います。

昔、巨人の星とかアタックNo.1とかスポコンものが流行りましたが あの頃は心があった

勝つために必死だったがライバルにも心通う場面も多かった。それが今はない。

全日本女子バレーも根性論の監督からデータ主義の監督になって強くなった。

軍隊式でやればいいと言うものではない。鬼軍曹は後ろから味方に撃たれたという話も多い。
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この回答へのお礼

ヨーロッパの様な、、のくだり以外はうなづけるものがあります。
果たしてヨーロッパ諸国はそれ程羨望に値する国々なのか、もうちょっと私には勉強が要りそうです。フォルクスワーゲンの事件もありますし、ヨーロッパでも過ぎた競争の問題はある様に思います。

ただ、星飛雄馬もアタックナンバーワンも知りませんが、教育現場が時代に追いついていないという指摘は、コメンテーターである為末さんがしていました。教育界には変わってもらいたいと思っています。よく、学校は社会の縮図と言われますが、私には逆に、教育界が変われば社会の方も変わるのでは無いかと思えます。

お礼日時:2016/08/02 22:18

こんばんは。

あほなさん。

わたしはテレビを見ないので、質問を通してしか事情はわかりませんが、先日、アンケートの質問で気になったものがあり、それとの関連で考えてみたいと思います。

『駅前で自己紹介、人前でゴリラのモノマネ… 「自分を捨てる」研修に出たくない!』

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9358043.html

この記事にあるような大企業の研修は、わたしにはまったくナンセンス、馬鹿げたモノとしか写りませんが、こういう研修を「嫌だ!」という質問者に多くの「甘えである」という批判・非難が集中したとあります。(okweb)

リンクにあるブログを見ると、単に「嫌なら辞めればいい」という意見ではなく、
「駅前で大声で自己紹介をしたり歌を歌ったり、そんなことができないような者に、勤まる仕事はない」といった意見も多いようです。これは言い換えれば、少なからぬ人が「そういうことを嫌がるということ自体が(そういう人間は)社会に通用しない」という価値観を共有しているということです。

詳しくはわかりませんが、上記の部活の底流にも同様のメンタリティが流れているように思えます。

仮にこのような学校での課外活動に否定的な意見を持つ人でも、では就職した企業の研修で、「自分を棄てさせる」研修にどれだけ否定的な意見を持てるか、その辺りが疑問です。

最後に個人的な意見を述べるなら、このような部活にせよ、企業研修にせよ、「自分を棄てる」という発想の下では、いかなる幸福も得られないということです。何故なら幸せや生命を感じるのは自己の魂であって、「滅私」スピリットの下にあるのは最早人間の抜け殻でしかないから。
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この回答へのお礼

こんにちは^ - ^
いやー、企業研修でこんな事があるのですね。皆の前で自己紹介したり歌を歌ったり、モノマネをしたりする事が何故自分を捨てる事になるのか、そして、自分を捨てる事が何故良いのか、全くナンセンスだと私は思います。こんな研修は屁でもありませんが、あまりにアホらしくて私なら会社に見切りをつけて辞めているかもしれません。
一体何が起きているのでしょう。この企業研修にしても、ブラック部活にしても、自分をスポイルする事ばかり推奨して、一体何を目指しているのでしょう。人はすべからく幸せを求めそれに向かう意志と自由を持っています。それを否定する様なこれらの問題について、真剣に捉え解決の意志のあることを表明し、閉鎖的になりがちな教育の現場に光を当てることが求められている様に思いました。

ブラック部活のインパクトが強すぎて、意味のある闘いについての皆様からの意見が少々乏しいことが残念ではありますが、質問はしばらく開けておきますので、そういう回答にも期待したいと思います。

お礼日時:2016/08/02 22:34

同じテレビ番組を見て私も質問してしまった処なので、いの一番を目指しての回答?です。



"プロフェッショナル"の方の視聴はパスしてます。

私の気持ちとしては、結果がすべてという価値観は【悪】でしかない、と大声で言いたいです。
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この回答へのお礼

出来たか、出来なかったか、結果が全てである局面もあるでしょう。仕事では珍しくもありません。しかし、結果が全てである局面が、人生の全てにおいて配置されているわけではありません。人はもっと、自分を信頼して生きて行けるものだと私は思います。

お礼日時:2016/08/02 22:38

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