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この「哲学」のカテゴリーでは、当然ながら、過去にいくつもの「美」についての問いかけがなされてきました。

もちろん「美」といい「うつくしさ」といっても、それはわれわれ個々の主観の裡に秘密を明かすものです。
「美」や「うつくしさ」に、普遍的・客観的な基準というようなものは存在しない。
それは人間が「生きる」ということの普遍的な意味が存在しないということに似ています。

けれども憂き世に生きる人間は、時に「この世の美とは何か?」と自問せずにいられなくなります。
そして「美とは何か?」と問うことの裏側には、自分の存在が、数知れぬ「醜さ」に取り囲まれているという疲弊とやりきれなさに依るのかもしれません。

今回の質問では、敢えて、「美」ではなく「醜」についてお聞きします。

あなたにとっての「醜さ」、「美」の対極にあるものとしての「醜」とはなにか?

「美」を問うことは、同時に「醜」を問うことであり、「醜さ」を問うことは同じ耳で「美について」訊くことでもあります。
「醜」を問われて、わたしは時に「人間」、自分自身を含めた人間存在を、たまらなく「醜いもの」だと定義したい衝動に駆られます。

さて、前置きはこのくらいしにして、以下の質問です。

1)あなたにとっての「醜さ」を定義すると? (視覚的な美醜に限定せず、五感にとって不愉快なもの、また、あなたの心を滅入らせ、苛立たせ、悲しませるものなど)

2)その定義に従った醜さ、醜いものの実例は?
 (美術・文学・映像などの作品、さまざまなモノ、場(空間)、振る舞い、心の在り方...etc)

3)そこから逆に、自分にとって心地良い(美)と感じることができるもの、人、場所、感覚とはどのようなものか?

質問者からの補足コメント

  • 質問文の訂正です。

    「「美とは何か?」と問うことの裏側には、自分の存在が、数知れぬ「醜さ」に取り囲まれているという疲弊とやりきれなさに依るのかもしれません。」



    「「美とは何か?」と問うことの裏側には、自分の存在が、数知れぬ「醜さ」に取り囲まれているという疲弊とやりきれなさが在るのかも知れません。」

    端正でない、晦渋でぎこちない文章は醜いもののひとつです。

      補足日時:2016/08/15 23:28
  • みなさん、ご回答をありがとうございます。

    みなさんの「醜さ」についてのご意見を伺いながら、悪い癖で、どうしてもお礼が反論のような形になってしまってると感じられるかもしれません。何分、世を拗ね者のこととて、大目に見ていただければ幸いです。その点について改めてお詫びいたします。

    これまでにいただいたすべてのご回答、とても興味深く参考にさせていただいています。
    また寄せられた回答に反応することで、改めて自分の美学というものを再確認しています。

      補足日時:2016/08/16 02:16
  • 醜さとは・・・相手に通じぬ独り善がり。

    No.15の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/17 00:01
  • https://artdocents.files.wordpress.com/2013/11/b …

    日本のグラフィック・デザイナー福田繁雄の作品です。M.C.エッシャーでもいいんだけど、
    美と醜が表裏一体とはこういうことを言わんとしています。

    またルビンの壺

    http://66.media.tumblr.com/a065f81c8f06afd576887 …

    これが顔に見えるか壺に見えるか。

    https://foxdreamblog.files.wordpress.com/2015/05 …

    若いか老女か?

      補足日時:2016/08/18 04:07
  • この質問も、今日・明日中に締め切ろうと思います。
    出来ればもう少し具体的な事柄や作品についての「美・醜」について広く議論が出来ればと思っていましたが、質問者の知識不足およびホストとしての器量不足のためあまり話題が広がりませんでした。

    貴重なお時間を割いてご回答いただいたみなさま、改めてどうもありがとうございました。

      補足日時:2016/08/19 23:34
  • 自分の「無知」振りを痛感した質問でした。まあ、毎度のことですが。
    お付き合いありがとうございます。

      補足日時:2016/08/20 00:20


  • DNAテストを行った世界中の国々の人(人種)が、現在の「国家」「国境」を超えて繋がり合っていたというビデオです。こういう科学的知見ももっと教育に取り入れるべきだと思います。No.24のニャンポコさんの回答への補足です。
    You Tubeの反応を見ても否定的な意見も少なくないようです。目立った意見は、DNAレベルでの親族と、文化レベルでの「身内」とは違うんだという意見です。これを「平和へのプロパガンダ」であると見る人も少なくはないでしょう。いずれにしても氾濫する様々な情報を鵜呑みにするのではなく、ひとつの「視点」として、批判的に、或いは好意的に取り入れることは悪いことではないでしょう。

      補足日時:2016/08/20 02:59

A 回答 (27件中1~10件)

お礼ありがとうございます。


以前、デッサンをするのに幾何形体の石膏モデルを見た時、完全な球体よりも少し壊れたとか、欠けた所のある球体の石膏モデルの方が美しいのでは無いかと感じた事があります。
音楽におけるコード進行も、少しセオリーを外した箇所のある曲の方が良かったりします。

絵画ではヴァニタスというモチーフがありますが、精緻な技術で描かれたヴァニタスは、何というか、、、普通の静物画に比べて一層静かな印象を受けます。

欠けたるところのあるものは、他の箇所が全て完璧である故に、欠けや傷を補完するための完璧なもののイメージをネガティヴな形で喚起せしめ、その空いた箇所に代え難い美と個性を見出させるのではないか。
イマジネーションにより欠けたる所に自由がある事を知って、現存する壊れるものたる世界の有様の続きを描けるような、そんな志向を人間の精神は持てているのかも知れません。

醜いところに自由が存在するとしたら、それはとても大きな発見であると思いました。
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この回答へのお礼

再度のご回答をありがとうございます。

>絵画ではヴァニタスというモチーフがありますが、精緻な技術で描かれたヴァニタスは、何というか、、、普通の静物画に比べて一層静かな印象を受けます。

ああ、そうですね。「ヴァニタス」は所謂「メメント・モリ」ですから当然「死」「滅び」を予感させます。
そこには今を盛りと咲き誇る花の横にスカル「髑髏」が置かれています。「生」と「死」の対比であり「美」と「醜」の対比ですね。「ヴァニタス」はとてもいい例ですね。一枚の画布の上で、生と死、美と醜が調和し共存して作品として完成されている。これはひとつの理想的な美の在り方のようです。「静謐」という印象もよくわかります。

例えばプラトンの「イデア」というのは「完璧」なものです。けれども現実の世界に完璧なものなど存在しない。ですから一歩でも「Ideal」=「理想」を目指そうというわけですが、そうではなく、不完全をこそ愛おしむことが人間の生き易さにつながるのだと思うのです。「理想像」とうものがあるからこそ、多様性が認められなくなる。アイデアルなものがなければ、健常も障害も同列です。均整もいびつも同列になります。

欠けや傷は「損なわれたイデア」ではなく、それこそが個々人の持つかけがえのない個性であると思います。
「理想像を持つ」「理想形を思い描く」ということの危うさを感じるのです。「三本脚の椅子」を愛することができるか?ということではないかと考えています。

「ヴァニタス」という素敵なキーワードをいただきました。

お礼日時:2016/08/16 02:43

興味深い動画を紹介いただきありがとうございます。


G.Rさんの適切な解説があったので、私の英語力でも何とか理解できました。

結局、少なくとも地球上のあらゆるものが繋がっていて、排斥すべきものはな
い、ということを理解するための「おもしろい」視点の一つですね。

ゲーテ、そしてナポレオンはこれから学んでゆきたいと思っている人物です。

>ゲーテに言わせれば「生命力の衰退」から生じる排斥、偏狭ではないでしょうか?

そうなのでしょう。そして、その原因が私は現代文明そのものであると考えています。
しかし、それは人々が容易に受け入れることのできる考え方ではないと思いますので、
順を追ってキチンと思索していかねばならないと思っています。

生命力が溢れていれば、個性が花開き、そこに本当の「美」があるということになるの
でしょうか?
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この回答へのお礼

こんばんは。

このビデオはフェイスブックのヨーロッパの友達から紹介してもらったものですが、自分はなになに人であるとみんなは思っていて、自国を誇りに思っていたり、あの国は嫌いだといろいろ言っていますが、唾液からDNAテストを受けた2週間後、自分の祖先がどこから来たのか知ってみなびっくり。嫌いな国のDNAが5%も自分の血に混じっていたということも。

まあそうはいっても、仮に自分の血にユダヤ人の血が混じっていたとしても、やっぱりユダヤ人は嫌いだという人もいるでしょう。それが自分の出自を否定することにつながるのかは難しいところですね。

東京の人が大阪は嫌いだとか関西はいやだと言っていても、実は関西系の血が60%以上混じってたらどうでしょう?(笑)

>生命力が溢れていれば、個性が花開き、そこに本当の「美」があるということになるのでしょうか?

生命力ー個性ー美・醜の関係は「定式」のようなものはないのでしょうね。そもそもこの質問でも分かったように、「美・醜」にしても一様に定義することはできないし、個性や生命力の問題も同じのような気がします。

ニャンポコさんに紹介してもらった「どろろ」を読んでいます。全4巻で3巻目まで読みました。わたしは百鬼丸が「どろろ」だと思っていました。なかなかおもしろいですね。(お粥のシーンもありましたよ)
手塚作品では『アドルフに告ぐ』も結構好きです。
はつげ義春の時代物もなかなか読み応えありますよ。

暑いのであまりまとまりのないお礼になりました。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/21 17:21

もうすぐ締め切られるという事で、雑感のようなものを少し。


暇をみては美醜に連なる事を色々考えたところ、次の様なフレーズが思い浮かびました。
「上手いけど、つまらない。」
音楽でも絵画でも、上手いんだけどつまらない、という作品があると思います。私は、これらに足りないのは才能ではないかと思ってるのですが、これをもっと広く人間の性格まで話を広げると、良い人だけど、良い人どまり、みたいな事になるのかなと。グラスルーツさんは、明朗快活をつまらないと言っておられましたか、私もその気持ちはこういう事かなと思い至りました。
善良とか、健康とか、そう言うものは素晴らしいんだけど、ただそれだけで、それ以上ではないと。醜さや不良の価値というものを考える時、そう言う善きものに足らない事とは何かについてのヒントがあるように思えました。アクセントに醜さを取り入れるというのでは無く、醜さの背後にあるもの、人間心理における醜さとの葛藤や美醜の超克について思いをやるという事がそうなのかなと。

終わりに、悲しい名曲ということで、The BandのOut of the blueをあげようと思います。全然醜くない美しい曲ですが、悲しい感じです。またお気が向けばYouTubeなどで聴いてみてください。悲しさと美しさが近しい所にあるものというのも、分からないではないです。この度の質問では、美しさとは何か、改めて考える機会にもなりました。ありがとうございます。
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この回答へのお礼

こんばんは。昔の質問を見ていると、回答数50以上なんて結構あるんですね。自殺についての質問では200以上の回答が寄せられていました。もっとも10年以上前の話ですが。

>「上手いけど、つまらない。」
これはよく聞きますね。「上手い」って結局「型どおり」というイメージがつきまといます。いかに型を破りながら自分の個性を発揮できるかがポイントではないでしょうか?

健康であること、善良であることはいいことですが、仰るように、葛藤や内面の相克がない人間て、どうしても一面的で面白くない。(苦笑)

悲しい名曲ですか。バンドの『アウト・オブ・ザ・ブルー』、You Tube で聴きました。いい曲ですね。こういう感じ好きです。あまりロック(?)は詳しくないんです(汗)

あほなさんは自然体でいいですね。わたしは自分が好きな曲でも、他人が好きかどうか?ということをうじうじと考えてしまってこういう風に自然に紹介するのが苦手です。
敢えて、リンクを貼らないところも気が利いていると思います。

...美しさとは、「自然体」であること。

特に回答が増えなければ明日の夜に〆ようと思っています。

素敵な曲のプレゼントをありがとうございました。

お礼日時:2016/08/21 00:02

モーツァルトの協奏曲、教えていただいて、ありがとうございます。

二人の真剣さに好感を持ちました。クラシック・ピアノの先生についていた時の、幼い二人の顔が透けて見えました。ジャズ風に、タッチが強くなりますね。もっと、軽く、風の中の羽のように弾くか、あるいは、原曲ぎりぎりに崩して弾くか、しても面白かったでしょうが、連弾だったので、融通が利かなかった感もあります。

アポロとディオニソス、聖母マリアとアフロディテ、美の二面性は、古くから問われてきたことと思います。

成長期には、横浜に住んでいましたので、中学のころから、休みの日には、京浜東北線に乗って、鎌倉か上野に出るのが好きでした。こちら、上野の国立博物館所有の青磁の茶碗です。

http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php …

暖かい中に無限の冷たさがあって、美の二面性を両方有しているように感じました。普段は展示されていないので、余計貴重に思われます。やむない理由で金継が施されたといわれています。

教えていただいた古田織部の金継のお茶碗は、私は、面白いと思います。少し技巧的にすぎる、作為的というか、もっと、生まれたままの美しさでよいのではないか、とも。あはれとおかし、おかしのほうですね。たぶん、質問者さんは知的な方で、”おかし人間”でいらっしゃるのではないか、そんな風に察しました。

そうですね。私もやはり小さい時から病弱で、現在でも、少し無理をすると熱を出しと寝込んでしまうので、健全なもの、全うなものに、強烈に憧れます。オリンピックでも、長距離を走りに走って、最後のラストスパートをかけるところや、中距離を、ジャマイカの女子選手が美しいフォームで完走するのを、うっとりして観ています。

あ、最後にもう一点、これは、ごく最近、本当に珍しく、”うちに持って帰りたい”と思った、お品です。コーヒー・テーブルの上部です。アレルギーで、家の中に花が飾れなくなった、侘しい私を慰めてくれそうです。

http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-o …

少女趣味ですね~。
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この回答へのお礼

こんにちは。

ビル・エヴァンスがバッハやモーツァルトを弾いてもいいでしょうし、グレン・グールドが「ワルツ・フォー・デビー」や「ポルカドッツ&ムーンビームス」を弾くもの楽しいかもしれません。
キース・ジャレットやグレン・グールドは弾きながら「唸る」のが難点ですが(苦笑)

青磁の茶碗は薄緑で、「静けさ」を感じました。それと磁器ゆえの冷たいテクスチャー。ちょっとクール過ぎませんか?わたしはどちらかというと陶器の方が好きなようです。あのボテっとした感じが。(笑)

知的ではないので、「おかしい」のです。ですからアール・ヌーヴォーのランプや花瓶など大好きです。以前デザインの質問で回答者のみなさんと話したのですが、わたしにはコルビジェの「コンクリートの箱」の良さがまるでわからず、ライトやコンドル、ウィーン分離派の「装飾的建築」に惹かれると、その田舎者ぶりをアピールしました。

頂いたオルセー美術館の写真、お皿かと思いました。テーブルですか。ロココ調ですね。刺繍のようにも見えます。
>少女趣味ですね~。 はは、確かに!

http://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/a …

これは確かサザビーズのオークションで見たモノだと思いますが、1912年のテーブルランプです。
高さは36センチ、ランプの傘の部分は幅26センチ。
スタンドの部分はともかくこのシェードが美しいと思いました。

Tumblrでアートブログを5年以上やっているので、世界のミュージアムのHPやサザビーズ、クリスティーズなどのオークションのページは定期的に覗いています。

http://farm5.static.flickr.com/4128/5027815419_a …

尾形乾山です。

琳派でも野々村仁清になるとちょっとケバイかなという感じ。

http://ecx.images-amazon.com/images/I/91akdY9nK4 …

アートのお話にお付き合いくださってありがとうございます。

お礼日時:2016/08/20 03:50

>感受性というものは一様なものでなく、人間の心、魂ひとつひとつが手造りのもの


である以上、規格の美というものとは相容れないものであると思います。

仰る通りで、これは「美的感覚」だけでなくあらゆるものについて言えるのではない
かと思います。

例えば「正義」について考えますと、様々な規格品が存在します。国家の正義、ある
宗教の正義、ある思想の正義、ある企業の正義、ある人の正義‥
これらは衝突し、反価値を生んでしまいます。

「美学」も同様に衝突をし、相容れない感覚を否定し、低めようとします。これが、
人間の「自己中心性」であり、それは「生命力」そのものであるようにも思います。

衝突を避け、「お互いに認め合う」ーー今の日本はこのような方向へ行っているように
感じますが、果たして内実は?
他人に対する「無関心」が拡がり、内心のドロドロした「怒り」が「恨み」になってい
はしないかと思います。

「怒り」を出さないと「恨み」に変わるーーある児童教育家の言です。


これらのことを考えて、現時点での結論を出せば、哲学にしても美学にしても、誰もが
納得できる(個性は捨ててはなりません)普遍的なものに辿り着くことが肝要ではないか
と思います。

普遍性に立脚した個性ーーそんなものがあるのか?多分あるのではないかと。
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この回答へのお礼

こんばんは。

>哲学にしても美学にしても、誰もが納得できる(個性は捨ててはなりません)普遍的なものに辿り着くことが肝要ではないかと思います。

>普遍性に立脚した個性ーーそんなものがあるのか?多分あるのではないかと。

このように言われると、思い出すのはゲーテですね。ゲーテは、「個性こそが全てである」と言いながら、狭い個性にとどまらず、そこから常に普遍性を目指していたように思います。そして「生命力」そのものであるようなゲーテは、「生命そのもの」であるがゆえに広く包み込もうとし、排斥しようとはしなかったのではないかと想像します。

>相容れない感覚を否定し、低めようとします。これが、人間の「自己中心性」であり、それは「生命力」そのものであるようにも思います。

これはゲーテに言わせれば、「生命力の衰退」から生じる排斥、偏狭ではないでしょうか?

「寛容」か「不寛容」か、どちらが人間の本性に根ざしているのかはわかりませんが、今は不寛容が世界を覆っているように見えます。007「死ぬのは奴らだ」(原題 " Live and Let Die ")もともとは " Live and Let Live" = 生きそして「生かす」なんですよね。

補足に興味深いビデオを。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/20 02:44

一般、を正の世界とし特殊、を負の世界と表現してみれば負の世界に住む人は、その世界を、好むようになる場合も有るかと思います。

そうした人達にとっては好む世界なので、居心地が良い筈です。

Grass さんは醜その物に美を認めているのではないでしょうか。
醜の裏に隠された美、を見ているようには思えないのです。

醜の美、に“気付く”には美が隠す醜について時間を費やしたように思います。

美と醜が表裏一体、ということにすると特殊的美醜も一般と違わなくなってしまいませんか?
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この回答へのお礼

こんにちは。

yy8さんは、「一般の世界」「一般の感覚」と「特殊な世界」「特殊な感覚」という風に二項対立の形にしているようです。でも太平洋を挟んで、こちら側に日本があって、向こう側にアメリカがあり、自分はアメリカの方が住みやすい。といったようなものではないように思います。

>Grass さんは醜その物に美を認めているのではないでしょうか。

あるものを「うつくしい」と感じるとき、その対象への感覚は、まだまっさらな状態=「タブラ・ラサ」であるはずです。つまり「所与(予め)の美・醜」があり、それを正と見做すか、それとも反転させるかではなく、
「美・醜」はその時々の「眼差し」によってはじめて決められるものなのではないでしょうか?

「美そのもの」というものも「醜そものも」も存在せず、ただそこに向ける「まなざし」が美を生み醜を感じる。

もちろん、「いや、人間の心がタブラ・ラサ=「白紙」であるはずはなく、既に生まれた時から潜在的な好悪の感覚は備わっているのだ」という主張も成り立ちますし、わたしもそう思います。しかしそれはやはり個別に感取されるものであって、「美そのもの」「醜そのもの」という「絶対的」「客観的」なものではない筈です。

言葉を変えれば、わたしの「外側」に「美」も「醜」もない。という立場です。

お礼日時:2016/08/18 13:19

陰翳礼讃をネットで調べていると、また別に、不道徳教育講座なる本がある事を知りました。

これは面白そうだなーと、簡単な紹介ページを読んで思いました。
そのあとに自分の投稿などを読み返すと、笑えるものがありますね。表面的な事を避けて本質を唱えるのは難しいです。自分は、そのつもりはなくても、表面的なことをいつも入り口にしてたかもなと、思いました。

理想について。
理想の危うさについて私は楽観していましたが、理想もまた表面化しやすく本質から離れやすいものかも知れません。その点、醜さというのは忌避されがちである故にそこには表面的でない本質が潜んでおるのかも知れないと思いました。
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この回答へのお礼

『不道徳教育講座』持ってますよ(笑)三島由紀夫ですね。「先公と呼ぶべし」「喧嘩をするべし」「人を待たせるべし」「人のふり見てわがふり直すな」「人に迷惑をかけて死ぬべし」今パラパラとページをめくっていると、所々に赤線が引いてあって、ああ昔っから「不道徳」なるものに惹かれていたんだなあと今更ながら苦笑しています。あほなさんはこの本を読んでどういう感想を持たれるのか興味のあるところです。これも言ってみれば「反転の美学書」でしょう。

>理想の危うさについて私は楽観していましたが、理想もまた表面化しやすく本質から離れやすいものかも知れません。

「理想」は結局、個々の具体的事例に即して、それらを丹念に掘り下げ、分析・検証することから浮かび上がってくるのもであるはずです。そうでない理想論は「机上の空論」「絵に描いた餅」でなければ、それは多くの人の理想ではなく、それを思いついた人の理想でしかないのでしょう。
理想が生まれるには、まず「現場検証」が不可欠のはずです。

理想って、ひょっとすると本質的な醜さから目を背けるために用いられるトリックのようなものなのかもしれないですね。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/18 13:50

陰鬱礼賛ではなく、陰翳礼賛ですね。

無学を晒してしまった様です。
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この回答へのお礼

あ、気が付きませんでした。

「陰鬱礼賛」はこれで充分ひとつのテーゼではないでしょうか?

グラス・ルーツは陰鬱礼賛者のようです(苦笑)

訂正、というか新たな発想をありがとうございます。(笑)

お礼日時:2016/08/18 03:25

毎朝起きてトイレ掃除を念いりにやりピカピカに磨きあげる。


これは美しい。

うんこがしたくなっても限界まで我慢して、うんこした瞬間は至高の快感。

うんこし終わった後、自分のうんこをじーっと観察する。
何故、自分の体からこんな醜悪な物がでてくるんだろうと考える。

これを毎日繰り返せば、悟りは開かれるよ。
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この回答へのお礼

>毎朝起きてトイレ掃除を念いりにやりピカピカに磨きあげる。
これは美しい。

行為としても、また便器としても美しいですね。

>うんこがしたくなっても限界まで我慢して、うんこした瞬間は至高の快感。

正に!緊張と緩和です。

>うんこし終わった後、自分のうんこをじーっと観察する。
何故、自分の体からこんな醜悪な物がでてくるんだろうと考える。

そういえばバタイユだったかな?「われわれが憧れる(異性・同性)の「性器」とは他ならぬ排泄器官でもある」んですよね。美と醜の他に「猥褻」とはなにか?という問題があるようです。というよりも、「性器」は美?それとも醜?

クレヨンしんちゃん畢生の傑作「ウンコの苦悩」は「頽廃芸術」か?わたしの好きなエルンスト・バルラハの作品がナチスによって弾劾されたからには「ウンコの苦悩も」受難を免れそうにない。

どうも「悟り」には程遠いようです。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/18 03:22

また、お前か!


はい、たびたびすみません。

あれから、反省しつつ考えていました。
なぜだ、なぜだ、と。

これは一般対特殊という形の対決だね、とか人の好みという幹から生える枝葉のやり取りだ!とか。

そうしているうちに、成る程これは「純粋」を取り上げているのかも知れないと気付いたのです。

美は醜を隠す。でも醜には隠す美がないと。
そうすれば、一般の捉える美は不純と言えるし、だから醜は純粋であると。

今はこの「純粋」に美を感じてそう表現しているのかも知れないと思っています。

☆ 前回のもそして今回のも御詫び文なので、ご返事不要です。

独り言(これで何度目だろうか。怒らせたり、謝ったり)
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この回答へのお礼

いえいえ、別に対決しているつもりはないんですけれどね。

確かに傍から見れば、わたしは世間一般で、「美」とされるものにケチをつけているとみられても仕方がないとおもうけれど。しかし仮初にも「哲学」の看板の下で話している「美学」ですから、満場一致じゃつまらなかろうという思いもあります。

>美は醜を隠す。でも醜には隠す美がないと。
そうすれば、一般の捉える美は不純と言えるし、だから醜は純粋であると。

質問にも書いたように、美と醜は、表裏一体のものであると考えています。どのような「美」も「醜」を孕み、「醜」は美を包含しうる。つまり「騙し絵」のようなもので、観る人、観る角度によって醜にもなるし美にもなる。

「美が醜を隠す」のは、醜の中に美を見出すからです。或いは醜を美と見做すからです。であればその時点で、「醜には隠す美がない」という命題は成り立たなくなります。何故なら「美は醜を隠す」ということが美醜は表裏一体であるという命題を含んでいるのですから。

ご意見には出来るだけお答え=感想を述べたいと思います。

ご回答をありがとうございます。

PS. (独り言がネックなんじゃないかな?)

お礼日時:2016/08/18 01:57

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