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この「哲学」のカテゴリーでは、当然ながら、過去にいくつもの「美」についての問いかけがなされてきました。
もちろん「美」といい「うつくしさ」といっても、それはわれわれ個々の主観の裡に秘密を明かすものです。
「美」や「うつくしさ」に、普遍的・客観的な基準というようなものは存在しない。
それは人間が「生きる」ということの普遍的な意味が存在しないということに似ています。
けれども憂き世に生きる人間は、時に「この世の美とは何か?」と自問せずにいられなくなります。
そして「美とは何か?」と問うことの裏側には、自分の存在が、数知れぬ「醜さ」に取り囲まれているという疲弊とやりきれなさに依るのかもしれません。
今回の質問では、敢えて、「美」ではなく「醜」についてお聞きします。
あなたにとっての「醜さ」、「美」の対極にあるものとしての「醜」とはなにか?
「美」を問うことは、同時に「醜」を問うことであり、「醜さ」を問うことは同じ耳で「美について」訊くことでもあります。
「醜」を問われて、わたしは時に「人間」、自分自身を含めた人間存在を、たまらなく「醜いもの」だと定義したい衝動に駆られます。
さて、前置きはこのくらいしにして、以下の質問です。
1)あなたにとっての「醜さ」を定義すると? (視覚的な美醜に限定せず、五感にとって不愉快なもの、また、あなたの心を滅入らせ、苛立たせ、悲しませるものなど)
2)その定義に従った醜さ、醜いものの実例は?
(美術・文学・映像などの作品、さまざまなモノ、場(空間)、振る舞い、心の在り方...etc)
3)そこから逆に、自分にとって心地良い(美)と感じることができるもの、人、場所、感覚とはどのようなものか?
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No.7
- 回答日時:
子供の頃、少し皮膚が擦れただけでミミズ腫れの様になる敏感肌でした。
腫れると痒くなり、引っ掻いた傷がまた腫れるという悪循環で難儀しました。その時、その腫れた皮膚を見て気持ち悪いと感じたのは、病気に対して抱かれる恐怖と同じものでしょう。醜さを感じる事は、恐怖と密接に繋がっているのかなとまず思いました。そして、恐怖が過ぎると絶望を感じ、そこに人間は陶酔してしまうことがあるのではと。
ところで、さっき私はシン・ゴジラを観てきたのですが、このゴジラのデザインがなかなか気持ち悪く、恐怖を演出するものでした。怪物というヤツですね。この怪物が夜闇の中、街を蹂躙する姿は絶望的で、しかし同時に神々しい、破壊神と呼べそうな中々の描写がなされていました。
これに対置される美しさというのは、つまりは平和な日常とか、道端の花とか、歌に歌われそうな君のちょっとした仕草とか、そこら辺にある人間的で目立たないものになるのかな。
追伸
哀しみを知ることは気高さを纏うことになるのかも知れませんが、哀しみに暮れる者が美しいと思うのは、一種の陶酔ではないかなと、私などは思いました。
また、恐怖を制するのは勇気ですが、勇気ある振る舞いを為すのは簡単ではないですね。慣れとは違う、高度な事だと思います。この勇気は、美しきものに入るのではないかな。
こんばんは。
みなさんの「醜さ」についての意見をお聞きするつもりが、(いつものことながら)反論めいたお礼コメントになってしまい我ながら閉口です(苦笑)
前にもお話ししたかもしれませんが、ヒトラーはギリシャ的な均整のとれた、いわゆる「健康的」=アポロン的な美を称揚し、一方で、ドイツ表現主義者たちの作品を「退廃芸術」として排斥、弾圧しました。
その100年ほど前のロマン主義は「死」「夜」「廃墟」などをモチーフに、美しい一群の作品を生み出しましたが、表現主義者たちの作品は、ロマン派同様に頽廃を描きながらも、更に人間の醜さを前面に押し出しました。
物乞いをする足を失った乞食の横を通りすぎる成金のカップル、酒色に溺れる人々、いびつに歪み屈曲した家、
醜い相貌をもつ男女。爆撃を受け破壊される街・・・。
表現主義に強い影響を与えたのは、自ら精神を病んでいたヴァン・ゴッホでした。ドイツではありませんが、ムンクなどは代表的な表現主義の画家のひとりです。
わたしは彼らが人間の本来の姿を描いていると思われる点で、表現主義絵画を好みます。その背景にある思想を抜きにしても、均整のとれたとか、健康的なとか、明朗快活といった退屈極まりない美学よりも、頽廃の美を好みます。
>つまりは平和な日常とか、道端の花とか、歌に歌われそうな君のちょっとした仕草とか、そこら辺にある人間的で目立たないものになるのかな。
これらが「うつくしい」のはそれが永続的なものではない、はかないものだからだと思います。おそらく人間にとって、「平和」とは例外的な状況なのでしょう。「戦後」や「戦前」ではなく、平和とは「戦間」であるという表現こそふさわしいと思います。
>哀しみを知ることは気高さを纏うことになるのかも知れませんが、哀しみに暮れる者が美しいと思うのは、一種の陶酔ではないか
「悲しき者こそ美しき者である」というのは、オスカー・ワイルドの言葉ですが、わたしは強いものよりも弱いものを、富めるものよりも貧しき者を、熟睡するものよりも眠れぬ夜を過ごす者を美しいと思います。
仮にわたしのこのような審美観が、わたしという病める者自身の正当化であるとすれば、健康や明るさ、均整を好む人たちの美意識もまた、彼ら自身の似姿、投影なのだろうか?と考えています。
ご回答をありがとうございます。
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No.6
- 回答日時:
また、お前か!
はい、私です。
どうして醜が美となるのか、一生懸命質問や回答、そして返答を読んでみました。
私の結論は素っ気なく単純で、だから面白くも何ともないでしょうが次のようになりました。
“神”にとっての美は所謂「健康的な」世界観に措けるもので、多数派が持つ常識的なものになるかと思いますが、逆の“悪魔”にとっては一般の醜が美となる、と言うものです。
“神”にとっては悪の世界は居心地が悪いだろうし、“悪魔”は神の世界に居心地の悪さを感じる事でしょう。
☆ 誤解を恐れながら、、、。
こんばんは。yy8さん。
「また、お前か!」などとは言いませんよ(笑)
今回の質問は、これまで多く問われてきた「美について」ではなく、「醜さ」についてみなさんの意見をお聞きしたいと思いました。それは同時に「美」を問うことにもつながりますが、これまで「醜さとはなにか?」を問うた質問が見当たらないようでしたので、ひとがどのようなものを「醜い」「醜である」と感じるかに関心がありました。
>“神”にとっての美は所謂「健康的な」世界観に措けるもので、多数派が持つ常識的なものになるかと思います
わたしは「美」を「倫理」と結びつけて考えてはいません。一般に「健康」であるとか「生命力溢れる」「均整のとれた肉体」「バランスのいい精神」といったものは「美」と見做されているようですが、それは審美的判断というよりも、むしろ「倫理的な価値観」に基づく美学ではないのでしょうか?
健康であることと、健康的な明朗快活さを「美しい」とみるかは別のことだろうと思います。
健康な人が頽廃的精神に惹かれるということもあり得るのではないかと思います。
>逆の“悪魔”にとっては一般の醜が美となる、と言うものです。
つまり神と悪魔は対立するものだから、神にとっての「美・醜」は、そこでは逆転されるだろうと。
「美・醜」を考えるときに、何故そこに、神や悪魔との関係が生まれるのかがよくわかりません。
もし気が向かれたら、その辺りの解説をお願いします。併せて、1.2.3の質問にも、yy8さんの個人の感じる「醜さ」についてお答えをお聞かせいただければと思います。
ご回答をありがとうございます。
No.5
- 回答日時:
1:行き過ぎた私利私欲
2:立場の弱い人間を虐げてでもわがままを通そうとする感覚
3:利己と利他のバランスの良さ
それぞれの個性が発現されていて同時につぶしい合わない感覚
自然な個性の発現がかみ合ってひずみなく流れていくような全体
こんにちは。
1)あなたにとっての「醜さ」を定義すると?
>行き過ぎた私利私欲
そうですね。
2)醜いものの実例は?
>立場の弱い人間を虐げてでもわがままを通そうとする感覚
では、例えば、「盲導犬を連れた人」「耳の聞こえない人」を店内、会場内に入れないというような場合はどうでしょう?
3)自分にとって心地良い(美)と感じることができるもの、人、場所、感覚とはどのようなものか?
>利己と利他のバランスの良さ
それぞれの個性が発現されていて同時につぶしい合わない感覚
自然な個性の発現がかみ合ってひずみなく流れていくような全体
理想的な社会像ですね。では2、での質問の答えは既に出ているようですね。
ご回答をありがとうございます。
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No.4
- 回答日時:
1、消極的で活動が停止していること。
2、怠惰、横着、退屈、無関心、無感動とかいうこと。
3、エネルギッシュで活動的。イチロー、オリンピック、躍動感。
こんにちは。
1)あなたにとっての「醜さ」を定義すると?
>消極的で活動が停止していること。
なるほど。では悩んでいる人間は醜い(見苦しい)ですか?
2)醜いものの実例は?
>怠惰、横着、退屈、無関心、無感動とかいうこと。
活発であったり、好奇心、向上心旺盛で、精力的というものの反対ですね。
では例えば政治家などはどちらに属しますか?
3)そこから逆に、自分にとって心地良い(美)と感じることができるもの、人、場所、感覚とはどのようなものか?
>エネルギッシュで活動的。イチロー、オリンピック、躍動感。
以前ハコブルさんの「おかしい人、変わった人は悪ですか?」という質問で、「変わり者が好きだ」というようなことを仰っていたように思いますが、変わり者が好き、ということと、自分が変わり者であるというのは違うのですね。眩しいほどに健康的な美意識をお持ちですね。と、感じるのはわたしが病んでいるせいなのですが。
ご回答をありがとうございます。
No.3
- 回答日時:
興味深い質問ですね。
質問の意図としては、「醜」を定義する事により、「美」を理解すると言う事でしょう。一種の否定神学に近い考え方です。
実際問題、中世のキリスト教では、そのような考え方があったようで、ドイツの宗教画はそのように表現されていたようです。
「神」の理解する、真の「美」は、人間は理解する事が不可能なので、宗教画は真の「美」を表す事は不可能であるという考え、倒置して、より醜悪な表現により、「美」に近づこうとする意識を持たせる意図があったようです。(人間という不完全な存在をより不完全に描く事によって、「神」の絶対性を導き出す意図もあったと思います)
この為に、ローマ・イタリア的な美的表現との乖離から、アルブレヒトデューラー(ドイツの画家です)は、「美とは何であるかを私は知らない」と言っています。
中世ドイツ美術は、このような経緯から「醜」を追求した、不快感を与える表現を追求したわけです。
日本の場合は、「醜」は、より強大な力を持つとの考えが古代よりありました。
「美」は儚く、「醜」は永遠を意味するのは、天孫降臨神話の木花之佐久夜毘売と石長比売で示されています。(木花之佐久夜毘売を選んだので、天孫は寿命を持つようになります)
「醜」自体は、死につながる疫病は、死体など、又、バランスの崩れたものなどですね。
行為としての、「醜」は、一般的な「善」・「悪」の基準につながります。
ここら辺、個人によって違ってくるのは確かでしょう。
私は、特に「美」・「醜」と一般的な「善」・「悪」は関連付ける事はしないです。
無目的な犯罪行為などは、「悪」で「醜」とは思いますけどね。
「醜」な空間というのは難しいですが、そのようにデザインされた建築は確かに存在しますし、一般的には「廃屋」や「墓地」などは、通常は忌み嫌われる空間とは言えると思います。
元々、醜悪な物を見てみたいと言う欲求が人間にあるのも確かです。(過去には、見世物小屋や衛生博覧会などの名目で、そのようなものは開示されていたわけです)
ホラー映画や、スプラッター映画などは、その名残でしょう。
それが、人間の本能的なものなのか、社会構造が生んだものなのかはわかりません。(ある意味、宗教と同じで、不条理なものに何らかの理由を見出すための行為なのかもしれません)
マルキド・サドなどは、それらの民衆の欲求を満たすために自らの創作活動の意欲を持って行動しました。
人間が不完全なものと認識している人は、完全なものを欲求する場合と、反対に不完全なものを欲求する場合があると言う事でしょう。
絶対的な、「善」・「悪」や、「美」・「醜」を対比するのは、基本的に2元論で、グノーシス主義などは代表的です。(キリスト教もその内にはグノーシス的な思想は残っています)
逆に、ヒューマニズムなどは、それらの区別を明確にしません。(それは人間が、考える事だと捉えます)
こんばんは。
わたしの好きなデューラーの作品に「メランコリア」という銅版画があります。
彼のドローイングなどは「敬虔」という形容が当て嵌まるような気がします。同じような、どちらかというと「マイナー」(短調)なイメージを持つ画家でも、バロック時代のレンブラントやカラバッジョに比べると、更に北方の陰鬱さが感じられます。イタリアのルネサンス期のボッティチェリやラファエロの、モーツァルト的な陽気さとは対極にあるようですね。
絵画では、ボシュやブリューゲルなども、「グロテスク」といえると思いますが、この二人はひょっとすると、他の並み居るルネサンス期の画家たちよりも、現在でも高い人気を誇っているように思えます。
ボシュやブリューゲルがほんとうに「グロテスク」かどうか?アルチンボルド同様に奇怪な画家ではありますが、どことなくユーモラスですね。彼らの絵を決して「美しい」とはいえませんし「醜怪」と言った方が近いのかもしれませんが、何故かその「醜さ」に惹かれます。「醜の美」というものもあるようです。
>「美」は儚く、「醜」は永遠を意味する
というのは、優れた定義のようです。「弱き者」「はかなき存在」こそ美であるとわたしは思っています。
ですから、ドイツロマン派的な「死への憧憬」「滅びの美」のような美学に惹かれます。日本でいえば「平家物語」や「方丈記」といった中世の文学でしょうか。
じゃあ「ペスト」が美かと言われればそうではありませんが、ヴィスコンティの『ベニスに死す』のアッシェンバッハは一見グロテスクではありますが、「美に殉じる」という点に於いて、「美しい」といえるのかもしれません。
わたしはどこか「ピカレスク」に惹かれるところが合って、善=美 悪=醜という図式とは反りが合いません。
シェイクスピアの「オセロ」「マクベス」「リチャード三世」など、悪漢と言われながらも非常に魅力的です。
ルパンさんも、やはり、不健康なもの、死や滅びを暗示するもの、均整を欠いたものを「醜」であると思われますか?わたしは「健康なもの」「力強いもの」「明るさ」などに不快なものを感じます。
よかったら上記質問の1・2・3にお答えいただければ嬉しく思います。(もうおこたえになられてますか?)(苦笑)
ご回答をありがとうございます。
No.2
- 回答日時:
「美」や「うつくしさ」に、普遍的・客観的な
基準というようなものは存在しない。
↑
これは不正確だと思います。
美、というのは情動神経系の作用で説明されます。
そして脳は、大きく三つに分類できます。
性欲、食欲を司る生存脳。
喜怒哀楽を司る感情脳。
理性を司る思考脳。
生存脳に基づく美は、人類共通で普遍的
なものになります。
感情脳になると、属する集団に影響される
度合いが強くなり、
思考脳になると、更に個性的になります。
だから美には、普遍的なモノもあるし
個性的なモノもある、というべきです。
1)あなたにとっての「醜さ」を定義すると?
↑
情動神経系においてマイナスに作用する
モノです。
2)その定義に従った醜さ、醜いものの実例は?
↑
有害なモノ、死を連想させるモノが
醜いモノになるでしょう。
ウンコとか腐敗した死体などはその例です。
個性的な醜さとしては、潔くないとか
弱いモノいじめなどは醜いと感じます。
3)そこから逆に、自分にとって心地良い(美)
と感じることができるもの、人、場所、感覚
とはどのようなものか?
↑
生存において快適であれば、美になります。
個性的な美としては、大切な人のために
犠牲になるとかです。
こんばんは。
例えばユングの「集合的無意識」に基づくような、ある種の普遍性を持った「美」というものが想定されうるとしても、それは普遍的であるがゆえに「わたしの美」でも「あなたの美」でもないということになります。
この質問では「美・醜」はあくまでも個々人の主観に属するものとして考えています。
2)
>有害なモノ、死を連想させるモノが
醜いモノになるでしょう。
ウンコとか腐敗した死体などはその例です。
子供って「ウンコ」が好きですよね。クレヨンしんちゃんは幼稚園で「ウンコの苦悩」という彫刻(?)を作りました。これはなぜなんでしょう?
「死を連想させるもの」「腐敗した死体」・・・ではそういうものを描いた美術作品やゴシック小説(ドラキュラ、フランケンシュタイン、E.A.ポーの小説など)はいかがでしょう?
3)
>生存において快適であれば、美になります。
個性的な美としては、大切な人のために犠牲になるとかです。
なるほど、tanzou2さんはわたしのように病んでいらっしゃらないですね。わたしはtanzou2さんとは逆に「傷んだもの」「手負いの者」「ダメージド」(Damaged)「夜」「廃墟」「墓地」といったモチーフに強く惹かれます。
とても興味深い回答をありがとうございます。
No.1
- 回答日時:
人間の脳には、五感の相関した経験の蓄積において、
新たな先行感覚(光や音などの情報性の高い感覚)に
対して、より生理的な感覚を励起させます(そこへ
行けば何が起きるかの予測=空間的広がり)。
そこにおいて、人生の充足体験の視覚的要素を総和
した、“快的視覚パターン(=好ましさを感じる刺激)”
が、「美」を生むのです。
美にとって決定的な要因である色彩そのものが、
そうした脳の総和機能に基づいているのです。
色彩は、可視光線の波長の連続的な変化であり、
「赤の反対は青」などというものは、客観的根拠が
ありません。
たとえば赤という色は、火(地上の酸素濃度による
燃焼温度)や血(酸化した鉄=ヘモグロビンの色)、
果実や花(緑の葉の中で目立つため)といった異なる
原因の“赤と相関した経験”を総和して、新たな長い
波長の感受に対して直感的印象を励起したものです。
その脳の“根拠なき経験的総和機能”の最大のもの
(人生の経験を二分(快・不快)した)が「美・醜」
なのです。
こんばんは。
人間(わたし)の刺激への反応の経験から快・不快の気持ちが導き出されるということでしょうか。
とは言え、快・不快、美・醜は、人生のいついかなる時でも同じではありませんよね。
まったく同じ物理的な信号(波長)を感受しても、「この曲」「この絵」はもう好みじゃない。飽きてしまった。というような変化があります。特定の作品ではなくて、「この種の」「この手の」作品はもう好きではなくなった。という「趣味の変化」
お答えでは、「人のこころのうつろい」という点について触れられていないように感じました。しかし理解不足でしたら申し訳ありません。
ご回答をありがとうございます。
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質問文の訂正です。
「「美とは何か?」と問うことの裏側には、自分の存在が、数知れぬ「醜さ」に取り囲まれているという疲弊とやりきれなさに依るのかもしれません。」
↓
「「美とは何か?」と問うことの裏側には、自分の存在が、数知れぬ「醜さ」に取り囲まれているという疲弊とやりきれなさが在るのかも知れません。」
端正でない、晦渋でぎこちない文章は醜いもののひとつです。
みなさん、ご回答をありがとうございます。
みなさんの「醜さ」についてのご意見を伺いながら、悪い癖で、どうしてもお礼が反論のような形になってしまってると感じられるかもしれません。何分、世を拗ね者のこととて、大目に見ていただければ幸いです。その点について改めてお詫びいたします。
これまでにいただいたすべてのご回答、とても興味深く参考にさせていただいています。
また寄せられた回答に反応することで、改めて自分の美学というものを再確認しています。
醜さとは・・・相手に通じぬ独り善がり。
https://artdocents.files.wordpress.com/2013/11/b …
日本のグラフィック・デザイナー福田繁雄の作品です。M.C.エッシャーでもいいんだけど、
美と醜が表裏一体とはこういうことを言わんとしています。
またルビンの壺
http://66.media.tumblr.com/a065f81c8f06afd576887 …
これが顔に見えるか壺に見えるか。
https://foxdreamblog.files.wordpress.com/2015/05 …
若いか老女か?
この質問も、今日・明日中に締め切ろうと思います。
出来ればもう少し具体的な事柄や作品についての「美・醜」について広く議論が出来ればと思っていましたが、質問者の知識不足およびホストとしての器量不足のためあまり話題が広がりませんでした。
貴重なお時間を割いてご回答いただいたみなさま、改めてどうもありがとうございました。
自分の「無知」振りを痛感した質問でした。まあ、毎度のことですが。
お付き合いありがとうございます。
DNAテストを行った世界中の国々の人(人種)が、現在の「国家」「国境」を超えて繋がり合っていたというビデオです。こういう科学的知見ももっと教育に取り入れるべきだと思います。No.24のニャンポコさんの回答への補足です。
You Tubeの反応を見ても否定的な意見も少なくないようです。目立った意見は、DNAレベルでの親族と、文化レベルでの「身内」とは違うんだという意見です。これを「平和へのプロパガンダ」であると見る人も少なくはないでしょう。いずれにしても氾濫する様々な情報を鵜呑みにするのではなく、ひとつの「視点」として、批判的に、或いは好意的に取り入れることは悪いことではないでしょう。