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悪いことをしたら自ら責任をとらなければ なりません。
悪いことをして責任をとらなければ、人間社会のモラルハザードです。
そして、責任をとるということには 理屈で考えることと、感性で考えることの二つがあります。
そして感性は生まれ育った環境の中で育まれるものです。

例えば、飲酒運転で相手に怪我を負わせて 車椅子の生活を余儀なくさせた場合です。この場合の責任とは ただ刑事罰を受けるだけではなく、相手への損害賠償もあるかと思います。

今度は飲酒運転で死亡事故を起こした場合です。この場合、相手に車椅子の生活を余儀なくさせるよりも、刑事罰は重くなります。しかし、死刑にはなりません。それでは、警察に自首する前に 首を吊って自殺したら 責任をとったことになるでしょうか?

残念ながら、それは理屈で考えた責任の取り方だと思います。

しかしながら、私の”感性”で捉えると、人を殺してはいけないという点に帰結しません。
何故ならば、死刑が嫌なら最初から犯罪を犯すな、ということです。
つまり、日常生活においても他人に迷惑をかけてはいけないという原点です。
これが、生まれ育った環境で出来てきた考えです。
何事においても、他人に迷惑をかければ、その報いは当然受けなければいけません。
そうでなければ、健全で安全な人間社会は維持できませんね。

そこで質問ですが、みなさんは 責任と感性についてどう思いますか?

A 回答 (6件)

「責任」は被害の程度に比例して大きくなり


「感性」は悪意の程度に比例して大きな罰を求める
のだろうと思います。

完璧な存在ではない人間は悪意を伴った‘悪いこと‘だけではなく
その不完全さゆえの不可抗力や過失による‘悪いこと‘もしてしまう生き物です。

まずは被害の程度として揺らぎで済むか。
済まなければ悪意の程度で罰が決まる。
そんな感覚が妥当なように思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2016/09/04 06:45

いいと思います。

それが最上です。
その下が感性がなくても責任を負う。
その下が感性はあるが責任は負わない。
その下が感性もなく責任も負わない。

この最上の考え方だと、死刑制度は残るが誰も死刑を宣告されず、執行もされない。理想です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2016/08/27 07:01

おじさんです。


「悪いことをしたら自ら責任をとらなければ なりません」
→その通りです。
「そして感性は生まれ育った環境の中で育まれるものです」
→まったく、その通りです。
「何故ならば、死刑が嫌なら最初から犯罪を犯すな、ということです。つまり、日常生活においても他人に迷惑をかけてはいけないという原点です」
→その通りなのです。
今まで、このサイトで死刑賛否の質問では、私は同じことを回答してきました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

johnfruさんによると、責任を取ることと罰を受けることは違うようですね。
そして、どのような感性であれ、取らなければならない責任は変わらないようです。
それに、「死刑が嫌なら最初から犯罪を犯すな」という前提にも語弊があるようですし。

お礼日時:2016/08/27 06:43

まず、自殺をしても責任を取った事には"理屈的にも"ならないと思います。

自殺は社会から与えられた罰ではなく、自分で選択した行為だからです。感情を抜きにして考えれば、それは水を飲む事となんら変わりありません。例えば物を盗んだ犯人が一週間断食したとして、「食べるの我慢したから許して」と言ったとして、一体それが被害者にとってのどんな償いになっているでしょう。なっていません。

感性というのは主観です。上記のように、科される罰は客観的な社会からの罰です。自分で決められる事ではありません。

以上の事から、恐らく前提に不備があるので、そこから導かれた質問には答えられません。こんな言い方になってしまってごめんなさい。
質問があれば聞いて下さい。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2016/08/26 15:23

道徳やモラル(正義感・責任感・感覚)は、法律(理性)に先立って存在する、という意味ですか?



それはそうです。

正義感を分析整理し文章化したのが法律です。

クラゲみたいに曖昧模糊とした感覚ですが、これを文章化して始めてきちんとした規範となり、

人々の行動を正す事ができます。

感覚に骨格を与え、感覚自体の流動性を縛るのも、法律の役目です。

しかし、法律が整備された今日では、法律という骨格に合う形で、「感覚」という肉が作られる、

という逆転も起こっています。

親から生まれた子が、生みの親を規制束縛する、親は抵抗する、そういうダイナミックな時代か

も知れません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2016/08/26 13:13

どう思う?と、訊ねられたのならば、きちとばは自分こそ正しいとかたくなにそれから離れない。


凡人もきちとばも妄想は楽しい。
これが答えである。
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