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古文において、引き歌は引用されている部分よりもむしろ、歌の引用されていない部分の方に言いたいことがあると言うことを聞きました。その際、筆者が引用して言いたいことというのはその歌全体ではなく、歌の中でも限られた一部にあり、その部分以外は全く関係がない、ということなのでしょうか?
例えば、『とはずがたり』の「問ふにつらさ」という引用で、「忘れてもあるべきものをなかなかに問ふにつらさを思い出つる」の歌において、「忘れてもあるべきものを」と「思い出つる」は本文とは関係がなさそうなのでカット、「なかなかに問ふにつらさを」の部分が引用して言いたいところではないかと解釈しましたが、このような解釈の仕方は正しいのでしょうか?それとも引き歌全体で解釈しなくてはならないのでしょうか?
教えてくださいm(_ _)m

A 回答 (2件)

この時代は、新しい詩想も生みえず、ただ教養をひけらかす、いわば教養の腐敗が始まる時代でした。

とは言え単純に過去の歌を知識としてそのまま引用することにはまだ抵抗があり、個性を主張する自尊心も消えてはいなかったのです。つまり引用部分は引き金に過ぎず真意は、読者の教養(つまりは直接本文に出ない部分)を強要する、その試練に耐えた者しか読者として許さない、そこに作者の自尊心を保持するという倒錯した形を取ったのです。

さて「とはずがたり」ですが、以下の中段付近にあるように、
http://www.geocities.jp/kiyamakazuo/53kugatu.html

質問者の解釈はそれで正しいと思います。少なくとも引き歌全体ではありません。
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とわずかたりについては、詳しく無いのですが、引き歌について


引き歌に使用される部分は、有名な歌の有名な部分となります。
源氏物語には、多数引き歌が有りますが、
後れ先立つ隔てなくとこそ契りきこえしか。いみじうもあるかな。(柏木)
末の露もとの雫や世の中の後れ先立つためしなるらむ(和漢朗詠集遍照歌)
と直接的な意味を引き歌にしているのも有ります。
かと思うと
十三日の月のはなやかにさし出でたるに、ただ「あたら夜の」と聞こえたり。(明石)
あたら夜の月と花とを同じくは心知れらむ人に見せばや」(後撰集源信明歌)
と元歌まで知った上で、十三夜の月にかこつけて娘(明石の上)を引き合わせたいと言う意味を理解しなければならないものも有ります。

昔、「問うもうるさし武藏鐙」と言ったら「何それ?」と聞き返され「武蔵鐙さすがにかけて頼むには問はぬもつらし問ふもうるさし」(伊勢物語)の説明までさせられ、会話が成り立たなかった事が有りました。

共通の認識に立てるフレーズかどうかが、引き歌のルールですね。
古典を端っから理解しようとしない方には無理ですね。
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