第二次大戦中の軍用機の本を読んでいると、「夜間戦闘機」なるカテゴリの一群の飛行機についての説明に目が止まりました。

艦上戦闘機・水上戦闘機・局地戦闘機 などは名前からして大体の用途は想像がつきます。でも、夜間戦闘機なるものの定義がわかりません。これらの機体はナニヲモッテ「夜間」戦闘機なのでしょうか?

1)「何らかの夜間でも戦闘ができる装備」を持っている?
 強力なサーチライトやレーダー等?
 とてもそんな風には見えないけれど..
2)夜間でも離着陸できる工夫がある?
 飛行場の管制官と会話ができたり、グライドパスを確認できたりできる?
 戦争中にそんなのんきな事が許されるか?
3)夜目が効く乗員専用シートがあった
 そんなバカな... 

よろしくおねがいします。

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A 回答 (8件)

>斜め銃と夜間戦闘と何の関係があるんでしょうか?



(B-29は爆弾搭載時でも1万m以上で飛行可能なので、例外ですが、)「B-17のような重防御の大型爆撃機相手の空戦の際には、前方に向けた機銃を装備した通常の戦闘機では、射撃チャンスが短く、昼間でも撃墜が困難であり、視界の悪い夜間は尚更である」と主張した、第251航空隊司令の小園安名中佐が、胴体に斜銃を装備した機体で、敵爆撃機の後ろ下方にぴったり張り付いて、敵機と(上下方向に)平行に飛行しながら、敵機を打ち捲くるために考案したものです。

昭和18年春、第251航空隊が『二式陸上偵察機』2機を現地改造して、後部胴体に斜め上方30度に向けて20mm機銃2丁を装備した機体で、同年6月、ブーゲンビルにおいて、B-17の夜間空襲を迎撃して戦果を上げたことから、『二式陸上偵察機』を三座から複座に改造した上で、斜銃を装備した機体に対し、丙戦(夜間戦闘機)『月光』と名付けて制式採用したのが日本における斜銃装備機の始まりです。
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この回答へのお礼

ふむ..
であれば「夜間戦闘機」とは「夜間でも安全で効果的な攻撃を行える戦闘機」ということになりますか。

私は「夜間戦闘機と言う位だから、お天道様の下ではてんでダメだけれど、夜間は滅法強い」戦闘機だと思っていましたが、そうでもなさそうですね。
別に夜間専用機なわけではないようですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2004/08/19 00:13

第二次大戦の戦闘機は昼間戦闘機です。


パイロットのレベルにもよりますが、夜になると計器飛行になり、戦闘所か、航法も出来ないパイロットもいました。

夜間戦闘機の定義ですが、計器飛行及び夜間戦闘が可能な機体です。
もちろんレーダー装備が定義になります。

もちろん、皆さんの言う月光にはレーダーが搭載されていました。
しかし小型化に無理があり、使い物にはならなかったようです。(何も写らないのは当たり前でした)

当時の日本のレーダーは周波数が低く、誤差が極めて大きく、
敵の方位は測定値から+-15度前後、距離は+-500メートル前後。
など精度は曖昧でした。

周波数を高め、改良に改良を重ね、ようやく使い物になる精度を得た時点で終戦となります。
それでも最後までレーダー射撃の出来る精度は得られませんでした。
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この回答へのお礼

そうですよね。レーダーが基本といっても、当時のレーダー(国産)が役に立つとはとても思えないですから...
あ、だから専用(?)のオペレータが必要だったのか...
ありがとうございます。

お礼日時:2004/08/16 00:29

空戦の実態と当時の技術水準を考えれば想像がつくと思います。



当時の空戦はパイロットの視界の範囲内で行われました。つまり、敵機を肉眼で発見し、有利な位置(普通は敵機の後・上方、又は太陽を背にする位置)に占位し、機関砲を照準して撃墜するという戦い方です。戦闘機のパイロットは、索敵・操縦・照準を一人でこなしていました。しかし夜間は、上記3つのいずれもが昼間とは比較にならないほど難しくなります。いくらベテランのパイロットでも、夜間にこれらを一人で行うのは至難の技です。

もうおわかりですね。夜間戦闘機の最大の特色は複座であるということです。搭乗員が二人いれば、索敵能力は2倍になり、敵機発見の後は、パイロットは操縦に専念し、後席は操縦にわずらわされることなく照準・射撃に専念することができるのです。
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この回答へのお礼

だんだんわかってきました!
夜間戦闘機とは
・夜間の操縦・索敵・戦闘が安全かつ効果的にできること 
・夜間に敵に見つかりにくい工夫があること       
ってところでしょうか?
ありがとうございます。

お礼日時:2004/08/16 00:29

通常の戦闘機、夜間飛ばすとエンジンの排気から炎が見えたりするそうです。


第二次大戦中の飛行機、ほとんどがピストンエンジンですが、自動車と違ってマフラーなどで音を静かにする必要はほとんどないので、排気管が短く、炎が見えてしまうことがあるそうです。
夜間の迎撃では、この炎で発見されてしまいますから、見えにくくすることも行っていたようです。

既に出ていますが、斜銃、意外と効果的だったそうですね。
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この回答へのお礼

おっと、排気炎にまで気を使いますか...
「敵に見つからない」というのもポイントだったんですねー。
ありがとうございます。

お礼日時:2004/08/16 00:28

月光なんかの話ですが・・


外装が暗い色になってます。
例えば下面が濃い緑色だったりします。
また、日の丸の○の周りに白いラインがあるのが通常ですが、月光はこの白いラインがありません。

夜間ということでやはり見づらい色になってるのでしょう。
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この回答へのお礼

ああ、塗装も違うのですか...
モノクロの映像しか見ないもので、気がつきませんでした。
なるほど、夜ならおなかを白く塗る必要もありませんね。
ありがとうございます。

お礼日時:2004/08/16 00:28

第二次世界大戦中に限ると、



1.アメリカ軍機の場合には、AN/APS-4/6等の対空レーダーを装備し、夜間でも目標を捕捉・攻撃可能な機体を『夜間戦闘機』と分類していました。(例:F6F-3N、-5N)

 日本軍機の場合には、戦争後半になると対空レーダーを装備する機体が登場しますが、実用には遠く、もっぱら、胴体に斜め上向きに機銃を取り付けて、夜間の対爆撃機戦闘用に改造された機体を『夜間戦闘機』と分類していました。(例:『月光』)
 
2.当時の地上/艦上設置型対空レーダーには、『着陸/着艦管制』するほどの性能はありませんから、夜間の着陸は、着陸/着艦誘導灯等を使用しての目視着陸です。

3.そんなバカな...ですが、日本軍の場合には、『夜間戦闘機』には、特別夜目の利く搭乗員が乗っていた可能性はありますね。
帝国海軍の戦艦等の夜間見張り員の夜目は、条件がよければ、20000メートル先まで目標を視認出来たそうで、初期のアメリカ海軍の水上捜索用レーダー(探知距離9000メートル)より高性能な人間兵器だったようですから。
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この回答へのお礼

そうですね、日本の夜間戦闘機にはなぜか決まって斜め銃がついていますね。
まるでトレードマークのようになっていますが..でも、斜め銃と夜間戦闘と何の関係があるんでしょうか?
暗い中を敵機に近づくのは危険だからでしょうか?
ありがとうございます。

お礼日時:2004/08/16 00:27

http://www99.big.or.jp/~seiten/komnata_seitena/e …

夜間の迎撃が可能なレーダー搭載の戦闘機のようですね。

参考URL:http://www99.big.or.jp/~seiten/komnata_seitena/e …
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この回答へのお礼

やはり、レーダーがポイントですか。
夜間飛行というのは、素人が思っているより危険なのでしょうか?
教えてもらったページ、面白いですね。こういうサイトは大好きです。
ありがとうございます。

お礼日時:2004/08/16 00:27

夜間戦闘機は、転用型がほとんどですね。


日本では月光、とか彩雲とか
ドイツならJu88、イギリスならモスキート。
専用は、He219、USのブラックウィドウなんかがありました。
ほとんどは双発エンジンで乗員2名以上。
航法やレーダー操作に人員が必要なためです。
Fw190のように単発1名でも夜戦として使われた例もありますが。
レーダーは装備していました。
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この回答へのお礼

夜間航行のための、乗員2名以上が基本ですか...
意外とレーダーって普及していたのですね-。
ありがとうございます。

お礼日時:2004/08/16 00:27

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うまく飛ぶことはできるのでしょうか?
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Aベストアンサー

生産力がどうこうという前提条件を全て無視しても難しかったでしょう。まずエンジンの基礎性能が違います。B29のエンジンも問題アリアリの代物でした(稼働率が60%程度)が、そこはアメリカの生産力&マネーパワーでなんとかしました。当時の日本では、あそこまでパワー溢れるターボエンジンは作れません。
また、戦略爆撃に対する迎撃戦闘では戦術が大きくモノをいいます。特に夜間戦闘では、レーダーで敵機を捕らえ味方迎撃隊を誘導し効率よく迎撃しなければなりません。日本軍はレーダー網はほとんど全くなく、おまけに信頼できる通信機がなかったので戦闘機隊を誘導することもできませんでした。千葉の先っちょに監視部署を作っても、日没後に上空を通過すればどの方面に向っているかも分からないし、昼間でも雲が出ていれば「音はすれども姿は見えず」には変わりません。

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こんな状態でどんだけまともに戦えるかってことを考えればお分かりいただけるかと思います。

生産力がどうこうという前提条件を全て無視しても難しかったでしょう。まずエンジンの基礎性能が違います。B29のエンジンも問題アリアリの代物でした(稼働率が60%程度)が、そこはアメリカの生産力&マネーパワーでなんとかしました。当時の日本では、あそこまでパワー溢れるターボエンジンは作れません。
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Qオレンジ色の局地戦闘機・「雷電」には誰が乗っていた?

機体がオレンジ色に塗られた雷電のイラストを見ました。
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伝統的に、試作機や訓練機で敵地を飛ばないし、敵機の迎撃もしない機体はオレンジ色に塗っていましたが。
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もちろん目立つ塗色の目的は、だれにでもすぐに発見してもらうためです。
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Q九○式艦上戦闘機

旧日本海軍の九○式艦上戦闘機は、昭和7年の正式採用なのになぜ九○式なのですか?九二式のように思えますが…。

Aベストアンサー

 日本海軍の制式機名称については基本的に、大正の輸入機時代では、たとえば一〇年式(大正10年制式)というように採用した時点の大正年号をつけ、やがて昭和初期に国産機が採用となってからは、試作機の完成時あるいは採用時などによって制式名称がつけられていました。

 例えば、八九式艦上攻撃機(B2M1~2)のばあい、昭和3年(皇紀2588年)設計開始、翌2589年末試作機完成。昭和7年(皇紀2592年)制式採用という経過になっています。

 海軍機が制式採用時の紀元年号をつけることに統一したのは九八式以降からで、さらに二式からは固有名称(一般通称)を併用または専用する、とされました。

 したがって、九〇式艦上戦闘機の名称が制式時と一致していないことは、不思議ではないこととなります。

 なお、九〇式艦上戦闘機は、三式艦上戦闘機の後継として昭和4年(皇紀2589年)12月に三式艦上戦闘機性能向上型と称する飛行機一機を製作し、翌年(皇紀2590年)その第2号機(社内呼称NY)を製作、これを社内で九〇式艦上戦闘機あるいは主任技師の名にちなんで吉田ブルドックと呼んでいたのを更に改良を加えた機体が昭和7年4月にA2N1として制式採用されたものです。

 資料:『航空ファン別冊 日本海軍機写真集』文林堂 79年  

    『写真集 日本の爆撃機』雑誌丸編集部編 73年


 
 

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Q局地戦闘機 紫電改について

太平洋戦争末期に登場して、本土に来襲するアメリカの艦載機と互角に戦った紫電改。零戦では歯が立たなくなっていたF6Fをバタバタと撃ち落したと聞きましたが、特に優れていた性能は何でしょうか?性能はF6Fを上回っていたのでしょうか?また紫電改といえば343空ですが、他の部隊への配備はありましたか?

Aベストアンサー

 343空の活躍は紛れも無い事実ですが、その活躍の源になったものはといえば、当時の全ての前線からかき集めたベテランパイロットの力によるものだとよく言われています。

 たしかに撃墜記録が一人で100機を数える(共同も含めてですが)小高登貴上飛曹や上杉庄一、坂井三郎のような、名人クラスのパイロットがごろごろしていました。これに加えてやはり「紫電改」という、新鋭機の存在も大きな要素です。しかしその他にも当時の陸海の飛行隊には発想しえなかった二つの要素が絡んでいます。そして実はこの二つの要素が非常に大きなファクターを占めていたのです。

 それは343空「剣」司令・源田実大佐の存在が大きな役割を果たしていました。優秀なパイロットと戦闘機だけでは現状の戦いには十分ではないことを冷静に分析していた源田司令は「通信」と「偵察(情報)」の二つに、部隊編制以上の労力を注ぎ込んだのです。

 通信は地上のレーダーと見張り所を含めての、トータル的な通信網として整備されました。空中の戦闘機部隊と地上との連絡はもちろん、各飛行隊同士、さらには飛行隊内の各僚機同士の連絡を可能な限りスムーズにしたのです。これは背後に目の届かない航空機にとっては非常に大きなメリットとなり、撃墜率はもちろんのこと生存率の大幅な向上にも繋がりました。

 当時の日本の航空機無線は非常に性能が悪く、空中でも50キロも届かない(それさえも酷い雑音混じりですが)状態だったものを、当時では最高クラスの通信のスペシャリスト・塚本祐造大尉(横空所属)を獲得して、その10倍は通信可能な無線機に(機体側のシールドも含めて)仕上げたのです。
 当時はあまりの性能の悪さに、腕に覚えのあるパイロットたちは、デッドウェイトになるだけだと、機体から降ろしていたことを考えると画期的でさえあります。

 さらに源田司令は「偵察(情報)」にも力を入れています。当時日本へ航空機攻撃を仕掛ける米軍機は艦載機が主力を占めていたことを見た源田司令は、地上からの能力の低いレーダーが敵機を発見して飛び上がっても優位な位置を取ることは難しいことを考え、敵機動部隊の直前まで偵察機を飛ばすことによって敵の動きを監視し、日本本土への攻撃の徴候を発見次第連絡をすることによって、343空の戦闘機を余裕を持って迎撃態勢に付かせるようにしたのです。

 このために源田司令は当時最高レベルの偵察部隊であった偵4部隊(偵察第4飛行隊)をフィリピンから、当時の最新鋭偵察機「彩雲」と共に引き抜いています。

 これで今までにない一大通信・情報ネットワークが構築されたというわけです。今の軍事常識では当たり前のことを普通にやっただけなのですが、それだけで過去にない大きな戦果を挙げることが出来たのですから、源田司令の存在の大きさが分かります。

 紫電改は343空が唯一の配備部隊と言われていますが、それ以前に実戦部隊への配備として(実際には試験的な意味合いがありました)、横空(横須賀海軍航空隊)と空技廠(海軍航空技術飛行実験部)に零戦・雷電との混成部隊として若干数ですが配備されていた時期がありました。
 実際に昭和20年2月17日には厚木上空で始まった空戦で零戦・雷電と共に多くの撃墜記録を残しています。

 またF6Fとの性能的な差ということですが、これには多少の身びいきや主観的な物が入りますのでスペックを並べていろいろ比較する以前に、正直五分五分であったとしか言いようがないですね。現実的にはF6Fとの戦闘だけを考えて「紫電」「紫電改」が登場したというわけではなく、それ以外にもF4U・P51・P47などの優秀機がすでに登場していたことを考えると、紫電改VSF6Fという図式はあまり意味のないものだと思います。

 やはり紫電改は敵の高性能爆撃機の邀撃を第一に考えた局地戦闘機と考えたほうがいいかと思うのですが、その高性能のゆえに思わぬ活躍の場が用意されていたというわけですね。

 343空の活躍は紛れも無い事実ですが、その活躍の源になったものはといえば、当時の全ての前線からかき集めたベテランパイロットの力によるものだとよく言われています。

 たしかに撃墜記録が一人で100機を数える(共同も含めてですが)小高登貴上飛曹や上杉庄一、坂井三郎のような、名人クラスのパイロットがごろごろしていました。これに加えてやはり「紫電改」という、新鋭機の存在も大きな要素です。しかしその他にも当時の陸海の飛行隊には発想しえなかった二つの要素が絡んでいます。そして実は...続きを読む

Q局地戦闘機 雷電について

雷電はなぜあんなにズングリしているのでしょうか?
(まああのズングリした機体を見ると親しみを感じてしまいますが・・・)
エンジンの関係でしょうか?

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B24、B29といった爆撃機の迎撃に活躍したのでしょうか?

同じ局地戦闘機 紫電改と比べると地味な感じを受けますね。
紫電改は対戦闘機用で、雷電は対爆撃機で用途が違ったからでしょうか?

Aベストアンサー

漫談です。

実は昭和14年ごろから、中国で爆撃機が戦闘機の迎撃でひどい目に遭った海軍は、迎撃機をデザインしたらいいんじゃないか、と、三菱ご指名で十四試局地戦闘機の要求書を交付しています。そして、零戦を終えた堀越氏が主査となってデザインがスタートしたわけですが、エンジンの選定と振動問題で手こずったのは、みなさんご指摘のとおりです。この振動問題、殉職者はでるわ、一年以上つぶれるわ。中島がおなじような元は爆撃機向けエンジンつけたキ44(鍾馗)が上手くいっているのと対照的です。なら、陸海軍とも同じ飛行機装備したらいい、というのがスジですが、そうはいかないのが恐ろしい現実でした。

あげく海軍はJ2(雷電)に過剰な期待をして「零戦をやめてJ2を主力にする。空母にものせる」と言い出すわ、しかしJ2の主査である堀越氏に零戦の改造もさせるわ、「零戦後継機」デザインしてと言って技術者として使いつぶしてしまい、いいことなしでした。さらに、「胴体太いからターボ・チャージャーつくんじゃないか?」と研究始める始末です。

しかもそのあいだに、海軍はN1水上戦闘機を川西に発注するというムダをしました。できたときには使う予定だった南方の島嶼地帯が危険になりすぎ、琵琶湖などを基地にして使っていたという。
結果として雷電が昭和十八年になってもパッとしない。で、この水上戦闘機を陸上戦闘気にしよう、と海軍はいいだし、結果、紫電、紫電改となります。結局、生産現場は零戦、雷電、紫電、紫電改つくるというわからんことになり、あげく昭和19年に三菱の主力工場がある名古屋を東南海地震が直撃して大惨事になります。
海軍だけでこれだけのサワギしていますが、貧乏な日本はこのうえ、陸軍の飛行機も作っていました。雷電が作られた背景が、いかにムチャクチャだったかを理解してください。

それで、乗員からは評判がよくありませんでした。これは操縦のしやすかった零戦あがりのパイロットが、操縦特性がまったくちがう雷電を嫌がったからです。また、実際離着陸が難しい飛行機で、特に着陸時に前が見えないという欠陥がありました。現場では、横の窓を見ながら着陸するという工夫をしています。また、操縦席がムダに広い、というヘンな悪評もありました(ガラスから顔が離れるので、見張りがしにくい。かつ、装備していた防弾ガラスの質も悪く透明度が低い。J2の操縦席は宴会ができる、と言われました)。

ただ、南方で油田地帯を防空した部隊は、油田地帯からえられる高品質な油脂を使っていたので、期待値に近い性能を発揮させることができてB17/24/29をよく撃墜しています。

戦後、アメリカがテストしたのですが、この時は好評でした。コクピット広いのはF4/F6/P40/P51も同じですし、振動もアメリカ人の感覚なら、許容範囲だったのです。多少のことは気にしないで、必要なときに戦場にいた飛行機のほうが、勝利に貢献したわけです。

日本の戦闘機は、基本的に繊細なデザインをされており、調子がいい機体に上手が乗って、タイマンだったら、同じ腕のパイロットが乗ったアメリカの戦闘機などこわくはないのです。ただアメリカ側はそれを知っていたので「みんなで殴ればこわくない」を実践し、万が一おとされてもすぐにレスキューがくる、という手際のよさでした。
また、高速の実験ができる風洞が日本には少なく、厳しく見ると、高速域性能を引き出すデザインは、全て失敗しています。

漫談です。

実は昭和14年ごろから、中国で爆撃機が戦闘機の迎撃でひどい目に遭った海軍は、迎撃機をデザインしたらいいんじゃないか、と、三菱ご指名で十四試局地戦闘機の要求書を交付しています。そして、零戦を終えた堀越氏が主査となってデザインがスタートしたわけですが、エンジンの選定と振動問題で手こずったのは、みなさんご指摘のとおりです。この振動問題、殉職者はでるわ、一年以上つぶれるわ。中島がおなじような元は爆撃機向けエンジンつけたキ44(鍾馗)が上手くいっているのと対照的です。...続きを読む


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