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人格とは心理学的に観察可能な実体概念である?

A 回答 (3件)

24時間観察できねえ 観察不可能


観察する基準がないと 観察不可能
人格がわかんねえアホに観察は無理
結果を関数概念で見る方が正しい
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他者と比較した場合の違いを、性格といいます。


キャラです。

先天的なモノは気質と呼ばれます。

人格というのは、性格も気質も含み、更に
身体的なモノも含む、その人の総てを意味する
概念です。

だから理念上は観察可能、ということになりますが、
現実には不可能でしょう。
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現在の心理学では、パーソナリティー(人格)は、構成概念の中の傾性概念と判断される場合が多いようです。


したがって、実体概念ではありません。
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Q死後は無と考えている人に質問です ひとに死後 魂 心は存在しないと証明できますか?

死後は無と考えている人に質問です
ひとに死後 魂 心は存在しないと証明できますか?

Aベストアンサー

(No13,16の誤字訂正です)

No.13です。

お礼ありがとうございます。

脳神経学者が輝かしい業績といっているのは、意識の性質と脳神経の関係であって、
意識の存在に関しててではありません。特に、脳神経の状態が、どう意識に影響するかという方向だけ取り上げて言っているだけでしょう。

近年の研究成果を見ると、逆に、意識のありかたが、脳の形まで変形せさるという、めざましい研究もありますけどね、、。こういう逆方向の研究業績は、無視するんでしょうね、そういう脳神経学者は。

世界観という反証不能なものに、科学でいどめるというのは、そのような認知の歪みのもとでしか行なわれないでしょう。

(削除機能か編集機能がなく、タイプの苦手な自分にはお手上げ状態です、、どうもすみません)

Qあの世とか輪廻転生とかあるのでしょうか?

私は全然あると思いませんが あの世とか地獄とか輪廻転生とかあるのでしょうか?

あると思ってる人が巷には案外多いので慄きます。

みなさんはどう思いますか?

在るとしたら現実の精神界性質の世界はあると思いますが。

当方病人にて短文でお願いします。

Aベストアンサー

あの世も地獄も神も仏も、「実在」を確認することはできません。
しかし、実在が確認できないことが、不在の証明にはなりません。

あると信じることが必要な人が、あると信じるのです。

あなたは、あるとは思わないのなら、それはあなたには「信じる必要」がないからです。
だから、あなたは信じなくていいいです。

だからといって、信じている人に、「信じてはいけない」とあなたが言うこともできません。
なぜならあなたは、その人たちに向かって、「あの世はない」と証明することができないからです。

Q哲学では、何が正解なのですか? どうやって、正解を求めるのですか? そもそも、正解はないのですか?

自然科学では、言い分が対立した場合、“実験をやろう”、“予測をしよう”、“論理の精密な積み上げをやろう”ということになり、正解が独りでに決まってしまいます。
哲学では、何が正解なのか分りません。各人が、勝手に言っていうだけ、と感じます。
百家繚乱とは言えず、百家争鳴のような気がします。

以下質問です。
哲学では、何が正解なのですか?
どうやって、正解を求めるのですか?
声が大きい(多い)方が正解なのですか?
そもそも、正解はないのですか?

Aベストアンサー

科学哲学が参考になります。https://oshiete.goo.ne.jp/qa/53553.html左記質問のno.2による科学と哲学の違いが良い説明。
 no.2
 「科学哲学」をどういう意味で仰ってるのか、ちと見当が付き
 ませんが、科学が哲学の一分野であるという認識を持っていら
 っしゃるのなら、さほど難しい話ではないと思います。

 テーマが何であれ科学のプロセスを簡単に並べてみると、
 (0)観察をする。
 (1)仮説を立てる。
 (2)仮説から演繹される予想を立てる。
 (3)予想が既知の事実と矛盾しないか先ずチェックする。
 (4)予想を実験で検証する。繰り返し実験を行って再現性を確か
   める。
 (5a) 実験が予想に反するなら仮説を棄却する。あるいは
 (5b) 実験が予想に良く合うなら、ひょっとしたら仮説は正しい
   のかもしれない。
 ということですが、(0)(1)(2)(3)までで終わればまだ「科学」の
 体をなしていない。
 (0)(1)(2)(3)(4)まででもまだ中途半端。
 (0)(1)(2)(4)(5b)というのは、しばしば勘違いの誤謬を含む。
 (0)(1)(2)(3)(4)(5a)となれば、これは立派な「科学」で、失敗報
 告という論文が書けます。既にある理論に対立する理論を構築
 し、検証したが否定された。これは重要な価値を持っている。
 (0)(1)(2)(3)(4)(5b)の場合、形而上学的に(1)を認めちゃうという
 短絡をやらかすと「科学」ではなくなるし、哲学としてもお遊
 びレベル。この場合(1)は「一応の仮説」として提言されるべき
 で、何度も(2)~(5b)のサイクルを回った上でようやく「一応最
 もらしい学説」に昇格する。でも反例が一つ出たら瓦解します
 。だから、哲学としては(0)を追加するなり、(1)を精密化するな
 り、(2)のバリエーションを作るなりして一層深い研究を進める
 べきです。
 かくて、(0)(1)(2)(3)ぐらいのレベルをいろいろ検討して(手間と
 コストを掛けて実験してみる価値のある)良い仮説を構築すると
 ころまでは間違いなく哲学で、ことに(5a)(5b)の次のサイクルを
 方向付ける、(0)(1)(2)(3)こそ哲学の仕事です。その指針として(
 検証不可能であるところの)形而上学があったって、それは構わ
 ない。どの仮説から手を付けようかサイコロ振って決めるというの
 よりも、人間の洞察力を信じたいですね。(しかし何度か旨く行
 った形而上学が、だからといって信仰に化けてしまうのは感心いた
 しません。)

まとめ。科学は哲学の一分野である。テーマが何であれ科学のプロセスを簡単に並べる。
(0)観察をする。
(1)仮説を立てる。
(2)仮説から演繹される予想を立てる。
(3)予想が既知の事実と矛盾しないか先ずチェックする。
(4)予想を実験で検証する。繰り返し実験を行って再現性を確か
  める。
(5a) 実験が予想に反するなら仮説を棄却する。あるいは
(5b) 実験が予想に良く合うなら、ひょっとしたら仮説は正しい
  のかもしれない。
科学は(0)(1)(2)(3)(4)(5a)と(0)(1)(2)(3)(4)(5b)をたくさん集める。(5a)のとき失敗報告という論文が書ける。既にある理論に対立する理論を構築し検証したが否定された。これは重要な価値を持っている。(5b)のとき、類似したたくさんの(5a)とあわせて科学。でも反例が一つ出たら瓦解する。
哲学は(0)(1)(2)(3)ぐらいのレベルをいろいろ検討して(手間とコストを掛けて実験してみる価値のある)良い仮説を構築するところまで。次のサイクルを方向付ける。指針として検証不可能である部分を持つ。

リンク先の質問とno.1~no.83を読んでみると、哲学で意見が対立する場合、範囲の設定、現象の特定、現象の呼び名、現象から推測される予測が異なってくるのだと思う。予測が否定されると、自身の信条が否定されたと強く感じてしまうと、自身の予測に矛盾があるのが自身で認められなかったり、自身の予測の反例となる現象が認められなかったりする。範囲の設定、現象の特定、現象の呼び名が同意できなくなる。論争になる。正解が見つからない感じになる。

声が大きい(多い)方が正解というのは誤り。リンク先のno.2の説明が良い説明だというのはno.20の直感。どうして良いのかは説明できない。✕百家繚乱〇百花繚乱。

科学哲学が参考になります。https://oshiete.goo.ne.jp/qa/53553.html左記質問のno.2による科学と哲学の違いが良い説明。
 no.2
 「科学哲学」をどういう意味で仰ってるのか、ちと見当が付き
 ませんが、科学が哲学の一分野であるという認識を持っていら
 っしゃるのなら、さほど難しい話ではないと思います。

 テーマが何であれ科学のプロセスを簡単に並べてみると、
 (0)観察をする。
 (1)仮説を立てる。
 (2)仮説から演繹される予想を立てる。
 (3)予想が既知の事実と矛盾しないか先ずチェックする。...続きを読む

Q人間は、失敗作だと思いますか。

人間は、失敗作だと思いますか。

Aベストアンサー

人間は70億人を突破して世界で一番強い動物になりました。生態系の頂点です

万物の霊長かどうかは分かりませんが 問題は未来に理想的な存在状態を作り上げる事ができるかどうかです。

それが出来れば成功作です 人間はよくやって来ました。その営為は大変なものです。

しかし未来に廃墟を作ってしまったら失敗作です。何の為に繁栄したのか分からなくなります。

Q愛は地球を救うか?人間を救うか?それとも人間は自滅するか?

夏になると24時間テレビとかありますが 愛は地球を救う という意味は

愛が人間の住む地球を救い人間を救うという意味でしょうけど

人間は色んな問題を抱えています。楽観的な人や悲観的な人もいらっしゃるとは思いますが

人口爆発による資源の消滅、温暖化による熱地獄、核兵器の拡散による戦争の危機など

人間を破滅に向かわせる要素はあります。

愛があれば大丈夫でしょうか? それとも人間の未来は自滅でしょうか?

新しい時代が始まるのでしょうか?それともエントロピーが増大し切って終わりでしょうか?

Aベストアンサー

のっていただきありがとうございます。
思いのほか哲学さんについては随分厳しいようで。
愛を少しずつ出し合う、これは良いですね。皆が少しずつ持ち寄れば、大きくなりますね。それを大切にまとめて活かすことができれば、ずっと平和になるでしょう。

Q結局哲学って役に立つの? 巷の人に何を知ってほしいか?

私は大学を選ぶとき「哲学科」に行きたいと思い 父に言ったら却下されました。

そんなお金にならない所に行かせられないということでした。

哲学をすると死にたくなる とか 難しいばかりで訳が分からないとか

巷では不人気です。

巷の人に知って欲しい哲学の言葉というか知恵とはどんなことでしょう?

これだけはみんなに知ってほしいという哲学の智慧の言葉はなんでしょうか?

あなたは何を知ってほしいですか?書いて教えてください どうか短文で。

Aベストアンサー

科学だけでは解決しないもっと根源的な問はないでしょうか?
  ↑
科学で解明出来ていない部分に、存在価値が
あると思います。
それも時間の問題だと思いますが。




例えば「性質」とは何かを科学は考えません。
科学は測って仮説を立てて実験して証明するだけです
   ↑
性質ってなんですか?
言葉の問題じゃないですか。



人間とは何か?という問いはあまり問いません。
  ↑
そんなことはありません。
脳科学は、魂の問題にまで入り込んでいます。
人間が他の動物とどこが違うのか、という点なども
科学は答えてくれます。



人生の意味は存在することにあります。
   ↑
それは科学と一致します。
生命体はまず存在することを第一義としており
人間もその例外ではありません。
遺伝子研究などもそれを示しています。

何のために存在するのか、という部分に
哲学の意義があるのではないですか。
つまり、人生の指針です。

Q文化

文化とはなんでしょう?

また、私たちが今生きている文化を、できるだけ客観的に見ようとした場合、どんなもの
と言えるでしょうか?

Aベストアンサー

カルチャーと言うのなら 《あたまを耕すこと》なのでしょうね。

耕すのは 田返しだと言います。思いやおこないを内に還り見て
なお考え 考え直すといったことを捉えて名づけているのかも。

文化と言うのなら 世界認識を《文にする つまり 言葉によっ
て表現すること》なのでしょうね。

言葉をとおしてあたまの中でおこなうのは 思考ですから 同じ
ような発想で名づけているかも。

このときの《文》は 文字を介さない時代つまり無文字社会にあ
っても 成り立つと言うべきでしょうね。

おそらく この文化は なおまだひとりの人間のその主観として
の思考であり思想であるとは見られます。

ということは 文明ともなると この《明》はおそらく一個の主
観内容が互いに分かり合えたその相互理解のことを言っているよ
うに思われます。

広く普及すること。主観の共同化。

とすれば シヴィリゼーションというのも そのようにして世界
知の一部分についてだとしても 共同主観(コモンセンス)が成
り立ったときの《同時代人であることといった意味での共通の市
民性》を言っているのでしょう。

あるいは別様に解釈すれば 《互いにその存在をとうとび 自由
に話し合って行けるというような意味で大人になること》 これ
が文明であるかも分かりません。

《自由に話し合える》からと言って そこで互いに合意したこと
について あとで理由もなしに一方的に(つまり 話し合いをこ
ばんで)破棄するというのは 文明でもなければ人間の文化でも
ないはずです。このように たとえばとして:
★ 私たちが今生きている文化を、できるだけ客観的に見ようと
した場合
☆ には考えられます。

カルチャーと言うのなら 《あたまを耕すこと》なのでしょうね。

耕すのは 田返しだと言います。思いやおこないを内に還り見て
なお考え 考え直すといったことを捉えて名づけているのかも。

文化と言うのなら 世界認識を《文にする つまり 言葉によっ
て表現すること》なのでしょうね。

言葉をとおしてあたまの中でおこなうのは 思考ですから 同じ
ような発想で名づけているかも。

このときの《文》は 文字を介さない時代つまり無文字社会にあ
っても 成り立つと言うべきでしょうね。

おそらく こ...続きを読む

Q女性のノーベル賞受賞者がほとんど居ないのは何故か?

素朴な質問なんですが、女性でノーベル賞受賞者が少ないのは何故なのでしょう。

単純に考えて、男性は生活力の能力があまり無いのに対して、女性は
生活力はありますよね。

熟年夫婦で、男性が死亡しても女性は一人になっても長生きします。
反対に男性は、妻が亡くなると寿命が短い様です。
この違いは生活力の違いからきてる様に思われて仕方ありません。

普段の私達夫婦を考えても、妻の生活に関する気遣いや考えは、私(男)の
考えは到底考え付かない事が、妻は出来ます。

上記の様な事が、ノーベル賞受賞の男女の違いであるかどうかは、定かでは
ありませんが、多少なりともあり得ると私は考えています。

つまり言いたい事は、男性は普段の生活に於ける事を妻がしてくれるから
専門分野に没頭出来るからというのが、私の持論です。

皆様の考えを是非とも聞きたいものです。
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

それは無理が有るでしょう
確かに受賞者の妻や家族が大きく貢献しているのは間違いないですが
そこまで解釈してしまうと受賞者が多くなりすぎるし
「この人は良くてあの人は何でダメなんだ」って意見が出ます
家族より共同研究者の方が先だろって意見もでます

女性受賞者が少ないのは現在の受賞者は女性の社会進出前の
功績を審査してるからでしょう
科学分野は審査期間が長期になるのがノーベル賞です

Qあやまつなら われあり。わたしは存在である。

われがあるだって? 
  そんなものはあるもんか。
  あんたは そういう言葉の遊びで騙されている。
  まぼろしを見ているだけだ。目を覚ませ。

と言われて反論するには:

  もし わたしは欺かれているとしよう。そうしたら
  その欺かれていると気づいたわたしは 存在している。
  われに還っている。
  なぜなら 存在していないなら 欺かれないのだから。

  また わたしは欺かれることを欲していない。
  このように宣言するわたしは
  たとえ誰かに具体的なものごとで欺かれていたとしても 
  けっきょく 存在としては何ものによっても欺かれない。
  欺かれ得ない。
    
  あやまつなら(欺かれるなら) われあり。
  ( Si fallor, sum. ≒ If I err,  I am. )

  わたしは わたしである。存在である。



思考と想像のつばさを思いっきり伸ばしてみて思い浮かぶあなたご自身の見解を
どうぞ。

Aベストアンサー

こんばんは。

この論法はデカルトじゃないですか。

省察
MEDITATIONES
神の存在、及び人間の霊魂と肉体との区別を論証する、第一哲学についての
DE PRIMA PHILOSOPHIA, IN QUIBUS DEI EXISTENTIA, ET ANIMAE HUMANAE A CORPORE DISTINCTIO, DEMONSTRANTUR.

省察2
(前略)
何か神というもの、あるいはそれをどのような名前で呼ぶにせよ、何か、まさにこのような思想を私に注ぎ込むものが存するのではあるまいか。しかし何故に私はこのようなことを考えるのであるか、たぶん私自身がかの思想の作者であり得るのであるのに。それゆえに少くとも私は或るものであるのではあるまいか。しかしながら既に私は、私が何らかの感官、または何らかの身体を有することを否定したのであった。とはいえ私は立ち止まらされる、というのは、このことから何が帰結するのであるか。いったい私は身体や感官に、これなしには存し得ないほど、結いつけられているのであろうか。しかしながら私は、世界のうちにまったく何物も、何らの天も、何らの地も、何らの精神も、何らの身体も、存しないと私を説得したのであった。従ってまた私は存しないと説得したのではなかろうか。否、実に、私が或ることについて私を説得したのならば、確かに私は存したのである。

しかしながら何か知らぬが或る、計画的に私をつねに欺く、この上なく有力な、この上なく老獪な欺瞞者が存している。しからば、彼が私を欺くのならば、疑いなく私はまた存するのである。

そして、できる限り多く彼は私を欺くがよい、しかし、私は或るものであると私の考えるであろう間は、彼は決して私が何ものでもないようにすることはできないであろう。かようにして、一切のことを十分に考量した結果、最後にこの命題、すなわち、私は有る、私は存在する、という命題は、私がこれを言表するたびごとに、あるいはこれを精神によって把握するたびごとに、必然的に真である、として立てられねばならぬ。
(後略)

https://goo.gl/si9WQ4


そして、デカルトのこの論法の淵源はアウグスティヌスにまで遡れるのでしたね、確か。
デカルトは「知らなかった。読んだことがない」と強く否定していたようですが、古典に精通しているデカルトが知らなかったとは思えない。

ところで、
「存在としては何ものによっても欺かれない」は、
「他者に騙されうる私がいる、そして、騙されたと気づく、または、気づきうる私がいることは否定できない。このことは何人によっても欺かれない、この事実は否定されえない」
という意味ですか。

このことが気にかかりましたので質問いたします。

こんばんは。

この論法はデカルトじゃないですか。

省察
MEDITATIONES
神の存在、及び人間の霊魂と肉体との区別を論証する、第一哲学についての
DE PRIMA PHILOSOPHIA, IN QUIBUS DEI EXISTENTIA, ET ANIMAE HUMANAE A CORPORE DISTINCTIO, DEMONSTRANTUR.

省察2
(前略)
何か神というもの、あるいはそれをどのような名前で呼ぶにせよ、何か、まさにこのような思想を私に注ぎ込むものが存するのではあるまいか。しかし何故に私はこのようなことを考えるのであるか、たぶん私自身がかの思想の作者であり得るの...続きを読む

Q過保護に育ち、甘ったれた自分勝手な論理も自由?

国際交流が盛んになって久しい日本ですね。
諸外国の様々な文化が入り混じり、民主化が進みました。
もちろん、いいことでしょうね。

しかし、子育ても自由になった中で、過保護に育った人間の自分勝手な論理も目につきます。
自由を振りかざし、自分勝手な自己弁護の論理も堂々と表現します。

例えば、心身共に虚弱なためにニート生活を余儀なくされてる人は別として、”ニートのどこが悪い”と豪語する若者もいます。

過保護が生み出した自分勝手な若者の論理、それも自由でしょうか?

Aベストアンサー

>過保護が生み出した自分勝手な若者の論理、それも自由でしょうか?

要はお前の考えは間違っていると、そういう若者に対して叱ってよいのかということを問いたいのですよね?
もしもその若者の論理も自由であるならば間違ってるなんて言っちゃいけないと考えてしまいがちですもんね

結論から言うと否定できます
その根拠は自由であることと、それが正しいかどうかということは全く別問題だからです
”ニートのどこが悪い”と豪語するのは自由ですが、自由はその考えを肯定も否定もしません
つまり何を考えても自由ですが、それは自由であることを理由に正しいとは言えないわけです
だから若者に対してお前の考えは間違っていると言うことができます

また我々がこの社会で自由という言葉を発する際の共通の理解があるはずです
それは法に反しない限り、他人の権利を脅かさない限り、人の迷惑にならない限り
など常識的な括弧がつくはずです
なので自由の内容が反社会的であったりするならそれは我々が認める自由の範疇を超えるため
この場合は自由そのものを明確に否定できますし
それらの括弧を守る限りは他人の意見を否定するのも自由であるはずです

>過保護が生み出した自分勝手な若者の論理、それも自由でしょうか?

要はお前の考えは間違っていると、そういう若者に対して叱ってよいのかということを問いたいのですよね?
もしもその若者の論理も自由であるならば間違ってるなんて言っちゃいけないと考えてしまいがちですもんね

結論から言うと否定できます
その根拠は自由であることと、それが正しいかどうかということは全く別問題だからです
”ニートのどこが悪い”と豪語するのは自由ですが、自由はその考えを肯定も否定もしません
つまり何を考えても自由...続きを読む


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