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老荘思想においては、私たちが頭の中で思い付くアイディアは、「万物」と「道」のどちらに当たるのでしょうか。
老荘思想においては、万物とは「目に見えて、そして名(ただし仮の名前と老荘思想では考えられている)が付いているもの」と定義されています。つまり、道路や交通機関など、私たちが現実で目にしている全てのものを意味しています。

一方、道とは「万物を生み出している根源で、実体がなく、名前がないもの」と定義されています。この点ですが、万物を生み出しているのは、私たちの知識・知恵、つまりアイディアではないかと思います。アイディア自体は想像の世界のものであり、当然実体がなく、名づけることも出来ません。

ということは、私たちが考え出すアイディアは「道」として捉えられると思います。

ただ、考えようによっては、そのアイディアを生み出しているものが「道」に当てはまるのではないかと言える気もします。なので、私たちが生み出すアイディアは「道」ではなく、それすらも「万物」に該当するのではないかとも思えるのです。

老荘思想に詳しい方、私たちが考え出すアイディアは「道」と「万物」のどちらに該当するのでしょうか。回答をお願いいたします。

A 回答 (4件)

昔、道徳経を読んだことがあります。

思い出すために少し調べました。

個々のアイデアには形があり、つけようと思えばそれぞれに名付けることができます。そもそも全般についても、アイデアはアイデアと名称されていますし、アイデアは万物のうちの一つであるといえるでしょう。道から湧出した道の側面である万物の母(有)は、果たしてアイデアと同等かというと、どうしてもアイデアは、そこまで大きな枠組みで捉えるものでもないように思います。アイデアは万物の一つであり、それが生まれるもとのところ、発想の源(アイデアを生み出しているもの)もまた万物の一つとするのが、サイズ感としてはいいように思います。

無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。

人造の世界だけでなく自然界や万物を範疇に入れた場合、我々の生み出すアイデアというのは万物を生み出しているというほど強力なものではないでしょう。まして老荘の言う無と有というのは、例えば万物をクリエイトした神、という発想よりも遥かに大きな作用(無為)を示そうとしているのであり、道に至っては、その無と有を合わせたさらに元のものを指しています。玄の玄は見通せないほど深遠であるとある通りですね。

もし、アイデアをもっとプリミティブな枠組みで捉え、言葉とか、言語作用とかいうものと同等のものと定義した場合には、アイデアも、玄の玄へと漕ぎ出す舟になれるかもしれません。言葉は形無きに形を与えるものですから、有が無に輪郭を与えるように、道を進む舟となり得るのではないかということです。
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こんにちは。



趣旨説明で触れておられるように つぎの区別があるのではないですか。

○ 道: 超経験の場(チカラ)
○ 万物: 経験事物・人間

☆ 《アイディア》は 人間の《思考》としては 万物でしょうし もしプラトン
の《イデア》のことだとしたら 道のほうでしょうね。




ちなみに 老子は タオ(道)を言ってそこに神としての信仰を説くかに思える一
面と そして 政治・統治の議論として きわめてうたがわしい・おかしな内容の
一面とがあります。

☆ 梵我一如なる信仰の類型があります。これにちなめば 《道人一如》と呼べる
ような信仰形式です。

○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~~~~~~~~

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  G. タオイズム:道人一如(有神論?) / 無為人為一如(無神論?)
   道:無限性:無為自然
   人:有限性:人為不自然

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空・シューニャター・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:如来蔵・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. プラトン:霊霊一如
   霊:イデア / 宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(超自然(神)および自然(神の分身))
   霊:われ(自然本性)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 道人一如ないし無為人為一如は 《〈無い神〉と〈人間たるわれ〉とのカカハリ》
つまり 無神論という信仰であり得ます。



☆ おかしな内容の一例です。:

▲ (老子 第五章 天地は仁ならず) ~~~~
http://blog.mage8.com/roushi-05

天地不仁、以萬物爲芻狗。
聖人不仁、以百姓爲芻狗。
天地之間、其猶槖籥乎。
虚而不屈、動而愈出。
多言數窮。不如守中。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
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老荘思想はややこしいので、質問者さんが書かれている「道」や「万物」の定義についても、それが正解と言えるかどうか、ちょっと判断が付かないところもありますが。



いずれにせよ「道」は、「無」と共に、老荘思想における最上位の概念であり、「道」も「無」に近い概念と捉えることができます。
そう言う観点から申せば、「アイデア」が「ある」と言うのは、「万物」に属すかと思います。

あるいは世俗的などを嫌うので、特に俗物的なアイデアは、老荘が説く「道」であろうはずばないと言いますか。
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老荘思想には興味が無いので私の考えを


「万物」を人体とすると「道」はこころです。
自分の身体能力を健康状態に鍛え保ち、勉学、対人関係で他人に親切に優しく
助け合う心に成長することが人間の生きる目的です。
物だけでもだめ、心だけでもだめ、健康な肉体に健康なこころが理想です。
人間が考え出すアイデアは金儲けにつながる物は「万物」になり、
人の幸せにつながるものは「道」になる。
私個人の考えですけど。
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