質問です。
明智光秀は岐阜の可児市にある明智城(長山城)で出生されたらしいですが、同じく岐阜の明智市の辺りに明知城という城址があるらしいです。地名も明智ですし、昔、岐阜は明智の先祖である土岐一族がおさめてた時代もあっ
たと聞きました。そういう事からそのお城も
明智光秀に何かゆかりがあるのでしょうか?

A 回答 (2件)

>同じく岐阜の明智市の辺りに明知城という城址があるらしいです



岐阜県に「明智市」という市はないですよ、、、。
現在は恵那市に編入されている「明智町」では昔から明智光秀の誕生地と云われています。
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この回答へのお礼

明智町も光秀の誕生地と言われてるのですね。明智城と明智町。様々な言い伝えがあるのですね。
あと明智町なのですね。色々教えて頂きありがとうございます。

お礼日時:2017/06/19 08:56

明智氏の明智も、明知城の明知も、恵那郡明智(明知)という地名から来ている、ってくらいのようです。

明智光秀個人としては、あまり縁はなかったのかも。
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この回答へのお礼

地名から来ているのですね。同じ明智だったので何かゆかりがあるのかと思ってました。ありがとうございます。

お礼日時:2017/06/16 23:20

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治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑は、つまり、高所にある水源から、低地にある畑にむけて水路を作れば、勝手に流れていくわけですが、
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いずれにせよ、排水は灌漑に比べて大変です。

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治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

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平城京や平安京(京都)、大宰府などは大和朝廷の力が最高潮に達した平和な時代で「都市」を作ることを念頭においた造りになっているので、平地にあります。平城京と平安京は当時の唐の首都である長安を模倣したのですが、長安と違って城壁を作りませんでした。なぜなら、すでに日本は朝廷によって統一国家になっていて九州から関東まででは異民族の侵入がありえなかったからです。

多賀城は平城京と同じ時期の城ですが、ここから先はまだアイヌなどの異民族がいて「ヤマト」を守る前線基地でありました。そのため、防衛と攻撃を同時に考えた、出城でもあったのです。

この地図(グーグルマップの地形図)を見てください。
https://goo.gl/maps/3jQZEYFPvLz

地形を見てもらうとわかるのですが、鉄道線と道路が通っているところは、北や西に向かって山間の通りやすい地形になっており、多賀城跡から南は仙台平野がひろがっています。
つまり、奈良時代、稲作を主とする倭人が仙台平野を開拓するにあたって、東夷とされた狩猟民族であるアイヌ人などが侵入してこないように、平地を望む山側に城を作ったのです。

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以下蛇足、地形と城について
長篠城 戦国時代、長篠の戦いと呼ばれる、この城を舞台にした戦いがありました。織田・徳川の軍勢と武田軍との戦いです。織田・徳川は尾張から甲斐に向けて軍勢を送るのですが、甲斐に向かっては木曽の深い山があるので、ルートは事実上2本しかありませんでした。その1本を守るのが長篠城です。

現在でいえば、JRの飯田線が走っている場所で、鉄道は急な勾配を登れないので、鉄道線が走っているということは、昔なら軍隊が隊列を組んで移動できたルートになります。そして長篠城は尾張ー甲斐のルート上「絶対に通る」場所で、しかも川が合流するT字の場所にあったのです。
地図 https://goo.gl/maps/YfcXjjyUA8C2

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上田城 昨年の大河でも上田城は良く出てきましたが、この城も良くできています。ルート的には関東・東海・関西と真田家が戦ったほぼすべて(特に徳川)が攻めてくるルートが合流する場所に城があり、この上田城を超えないと真田家の領地には入れなかったわけです。

上田城は盆地の平地部分にあるのですが、なぜここかというと、千曲川だけでなく、安曇野方面からくる道(現在の143号など)が千曲川流域に出てくる谷を見渡せるからです。またドラマにもでてきますが、神川に堰をあらかじめ作っておくことで、大軍勢がやってこれる、千曲川の下流域を分断することも可能になります。

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ということで、ブラタモリじゃないですが「地形」を見ればどのように考えて城を置いたのか、が良く分かる、ということです。

平城京や平安京(京都)、大宰府などは大和朝廷の力が最高潮に達した平和な時代で「都市」を作ることを念頭においた造りになっているので、平地にあります。平城京と平安京は当時の唐の首都である長安を模倣したのですが、長安と違って城壁を作りませんでした。なぜなら、すでに日本は朝廷によって統一国家になっていて九州から関東まででは異民族の侵入がありえなかったからです。

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Q坂本龍馬、暗殺ですが結局坂本龍馬暗殺して誰が得して誰が損しましたか? 結局徳川入り新政府ご破算でした

坂本龍馬、暗殺ですが結局坂本龍馬暗殺して誰が得して誰が損しましたか?
結局徳川入り新政府ご破算でしたが黒幕松平容保なら松平容保の器と力量はしれてますか?
結局公務ではなくただの皆殺し暗殺で現代のテロリストとなんら変わりないですか?
てか正規政権ないから公務もくそもないですか?

Aベストアンサー

竜馬は内戦回避と、徳川の政権への参加を考えていました。
薩長はこの逆でした(徳川を倒し政権を奪取する)。

結果は後者になりました。
なお、勝と西郷の話合いで、薩長と徳川の戦は回避されました。
(内戦はその後、東北、北海道と北上しました。函館で終結。)

明治維新とは政権が、徳川から薩摩・長州に変えただけのもの
でした(内向政権から外攻政権への転換)。

Q将軍と軍の強さ

三国志等で強くて有名な将軍はたくさんいますが、その将軍が有名なのは、単純にその人自身だけが強いのでしょうか?それとも、軍そのものが強いのでしょうか?軍そのものが強いとすれば、どのような過程で強くなるのでしょうか。

兵卒などは突然招集したり、相手の軍から再編入したりするから、みんながみんな強いわけでもなさそうだなあとか、兵卒全体でまとまって動くこともできなさそうだなあと思います。それに、最初は少ない人数の軍でスタートしているところもあるなあと考えました。

しかし、呂布が曹操に「貴殿が歩兵を率い、私が騎兵を率いれば天下の平定はたやすいことです。」といっているように、個人の能力だけでなく、指揮の仕方の能力、もともともっている軍の力などあるのでしょうか?

よかったらご教授下さい。

Aベストアンサー

三国時代で、中華の戦い方が、転機を迎えた様に感じますよ。

軍,武将の強さに関して言いますと、主に3つくらの要素かと。
① 武将の能力 
  1. 一騎打ち的な剛勇
2. 用兵や統率力
② 軍略,策略
③ 兵士の練度
特に①-2.と②,③を重視したのが、「孫氏の兵法」などに精通している曹操と言えそうです。

「官渡の戦い」が転機の前と後の戦いで、袁紹軍が前時代的であるのに対し、兵力,国力に劣る曹操軍が新たな戦を試み勝利したと言えそうです。

袁紹軍は緒戦から、二枚看板の顔良,文醜をぶつけてきましたが、それまでの中華の戦いでは極めて正攻法。
楽毅,伍子胥,白起に廉頗,王翦,項羽に韓信など、中国史に残る名立たる剛将,智将や王までもが、①~③までを一手に担って先頭に立ち、軍を率いていたのだから。
二枚看板が先頭でも、何の不思議もありません。
当時、中華最強であった袁紹軍の二枚看板が、凡庸な武将であろうはずも無く、練度なども最高水準だったでしょうし、軍師の陣容も曹操軍に勝るとも劣りません。

一方の曹操陣営は、軍師を前面に立てて、顔良は策略+関羽の武勇、文醜は策略で、あっさり討ち取っています。
呉や劉備陣営も、この後に軍師や智将の重用に転じ、赤壁の戦いで曹操に勝利しています。

実際、曹操陣営って、張遼を除くと、①-1.的な武将って、余り居ないんですよね・・。
許褚とか典偉なども居るんですが、これらは曹操の身近に置いてます。
軍の指揮官は、機動力がズバ抜けてる夏侯淵とか、事態の収拾能力が高い徐晃,張郃、技術者肌の李典など、文武両道の武将と・・軍師です。

呉は、孫策,孫権と若手がリーダーでしたから、割と柔軟に曹操型にシフトして、周瑜,魯粛,呂蒙,陸遜と、智将タイプを軍のトップに据えています。

蜀がやや遅れ気味で、劉備が死去するまでは、①-1.タイプが目立ちます。
従い、蜀のビッグネームが、一騎打ちで勝つことはあっても、敗れた事例はほとんどありません。
また諸葛孔明や法正のもと、馬超や晩年の張飛までも、かなり優れた用兵や統率もしているものの・・。

蜀から離れ、猛将 関羽が率いた荊州のみが、最後の前時代的。
一時はかなり魏を脅かしましたが、最終的に呉の策略に敗れてます。

三国時代の関羽を最後に、武将の勇猛と言う戦いは、終ったと言えるんじゃないでしょうか?

三国時代で、中華の戦い方が、転機を迎えた様に感じますよ。

軍,武将の強さに関して言いますと、主に3つくらの要素かと。
① 武将の能力 
  1. 一騎打ち的な剛勇
2. 用兵や統率力
② 軍略,策略
③ 兵士の練度
特に①-2.と②,③を重視したのが、「孫氏の兵法」などに精通している曹操と言えそうです。

「官渡の戦い」が転機の前と後の戦いで、袁紹軍が前時代的であるのに対し、兵力,国力に劣る曹操軍が新たな戦を試み勝利したと言えそうです。

袁紹軍は緒戦から、二枚看板の顔良,文醜をぶつけてきま...続きを読む

Qナポレオンは160cmのチビ。羽柴秀吉は150cm以下のドチビ。 なぜこの二人が活躍出来たのですか?

ナポレオンは160cmのチビ。羽柴秀吉は150cm以下のドチビ。
なぜこの二人が活躍出来たのですか?

Aベストアンサー

16世紀や17世紀の男性の平均身長は160cmもなかったらしいから、
ドチビ・・・・というほどではなかったかもしれませんよ。

ただ、小柄だから見返してやりたい!という気持ちは確かに強かったでしょうね。

Q浅井長政って信長さえ裏切らなければ大大名確実だったのではないですか?

北近江の戦国大名である浅井長政は信長の妹であるお市の方を嫁とし、信長と同盟関係・縁戚関係を結んでいましたが、信長に反抗したために姉川の戦いで敗れ、自害します。
上洛を果たすほどの大勢力を築いた信長との武力の差は明らかであり、力の差を冷静に見極めて反抗さえしなければ、いくら信長でも義弟を攻めるようなことはしないでしょうし、信長に協力を続けていれば北陸地方の覇者の座は堅いでしょう。

また、史実の通り秀吉が長政の娘(淀殿)を妻とすれば、すなわち天下人の義父であり、信長の弟・秀吉の父というだけでほとんどの大名がひれ伏すような存在になったはずです。五大老の一員くらいは堅いでしょう。
関ヶ原の戦いでどちらにつくかで大きく変わってきますが(領地が近いので、争いに巻き込まれる可能性が高い)、それさえ乗り切れば江戸時代まで続く、伊達家・島津家・毛利家と並ぶ大大名になれたのではないでしょうか。
姉川の戦いに入る前に長政は相当悩んだでしょうが(昔の繋がりに味方するか妻の実家に味方するか)、その判断の過ちが大大名になるか自害するかの分かれ道になってしまったのではないでしょうか。

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Aベストアンサー

そうだと思います。ただ、政治は合理的判断だけで下されるわけではありません。

信長も、兵站が絶たれるリスクは承知していましたが、合理的に考えていくら浅井が朝倉の属国で通知なしに朝倉攻めをしても、浅井が裏切るとはありえないと考えたのです。合理的に考えればその判断は正しいです。

しかし、浅井家では、朝倉の属国であり続けたいと言う意見が勝利しました。
長政本人の心のうちは永遠に分かりません。




>信長に反抗したために姉川の戦いで敗れ、自害します。

「姉川の戦いで敗れ、自害」とは、長政の事ですか。
姉川の戦いで敗れてからも、長政も浅井軍も健在です。

姉川の戦いは、実はただの局地戦です。
姉川の戦いは教科書では強調されて載っていますがそれほど戦況には影響していません。おそらく、徳川家が大活躍した戦いなので江戸時代にプロパガンダのように強調されて今にもその影響が続いているのでしょう。

姉川の戦い以降も、朝倉・浅井軍は健在です。それに加えて石山本願寺や三好三人衆などの第一次織田包囲網まで発展して、信長軍は東を守れば西が攻められ、西を守るために軍を動かせば東が攻められ、見たいな状態でどうにもならなくなります。

最終的には信長の巧みな外交力で講和に持ち込みますが、「講和に持ち込まなければヤバイ」と言うほどピンチだったと言う事です。
そうでないなら、圧倒的な軍勢で踏み潰せばよいだけなので。



長政や浅井一族が自害するのは、第二次織田包囲網で武田信玄が急死して戦況が一気にひっくり返って織田勢力が一気に優勢になり、小谷城を囲み本丸を落とした後です。

もしも武田信玄が後一年寿命が長ければ、織田家は滅んでいたでしょう。
勿論、その場合は浅井家は「朝倉についていて良かった」となります。



>上洛を果たすほどの大勢力を築いた信長との武力の差は明らかであり

信長が「天下は時間の問題」となったのは第三次織田包囲網で上杉謙信が死んでから信長が死ぬまでの三年三ヶ月だけです。
それまでは、薄氷の勝利を重ねています。全く余裕のない戦いを続けています。





>その判断の過ちが大大名になるか自害するかの分かれ道になってしまったのではないでしょうか。

分かれ道は、織田信長を裏切るかどうかです。
浅井にとっては、その後はターニングポイントはありません。

そうだと思います。ただ、政治は合理的判断だけで下されるわけではありません。

信長も、兵站が絶たれるリスクは承知していましたが、合理的に考えていくら浅井が朝倉の属国で通知なしに朝倉攻めをしても、浅井が裏切るとはありえないと考えたのです。合理的に考えればその判断は正しいです。

しかし、浅井家では、朝倉の属国であり続けたいと言う意見が勝利しました。
長政本人の心のうちは永遠に分かりません。




>信長に反抗したために姉川の戦いで敗れ、自害します。

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Aベストアンサー

家康は天下を取れなかったのでは。
単純に両者の領国の規模を比較すれば断然家康の方が上です。

領国の規模は兵力に直結します。
利家の最大動員兵数を2万5千とすると家康は8万余りで勝負にならないように見えます。
でもそれは単独ならの話で、合戦になればそれぞれに味方が付きます。

利家は諸大名との姻戚関係が豊富で、利家派は毛利(一枚岩ではないが輝元の本音はアンチ家康)、宇喜多、上杉の大老、三成、浅野らの奉行、加藤清正らの一部武断派、と引けを取らぬものであること、利家に万の軍勢を指揮する器量と人望があること、北政所の信任が厚いこと、家康の本領が畿内から遠いこと、さらには傅役として秀頼を擁する「公儀」の正当性を有することから、いかに家康といえども兵力の少ない伏見城にいては大坂城の利家に合戦を仕掛けるのは難しいでしょう。

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そのままにらみ合いが数年続いた後、利家が下手に出る外交を行い家康が形の上で帰順する…
そんな展開を想像します。

実際には緊張が最高に高まったところで利家が家康に会いに行くのですが、すでに余命幾ばくもなく、自分がいるうちに何とかしなければ、という使命感だったのではと思います。

利家健在中に合戦にならなければ、利家死去のとき秀頼は15歳前後に成長している。
それから「関ヶ原」になるかどうか…

家康は天下を取れなかったのでは。
単純に両者の領国の規模を比較すれば断然家康の方が上です。

領国の規模は兵力に直結します。
利家の最大動員兵数を2万5千とすると家康は8万余りで勝負にならないように見えます。
でもそれは単独ならの話で、合戦になればそれぞれに味方が付きます。

利家は諸大名との姻戚関係が豊富で、利家派は毛利(一枚岩ではないが輝元の本音はアンチ家康)、宇喜多、上杉の大老、三成、浅野らの奉行、加藤清正らの一部武断派、と引けを取らぬものであること、利家に万の軍勢を指...続きを読む

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高校の時に日本史の先生が、明智光秀は信長を生け捕りにすることも考えたと思うと発言していました。光秀は信長を生け捕りにするつもりはなかったのでしょうか?
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Aベストアンサー

最初から討ち取るつもり
じゃないですかね?


プライドの高い信長は、敵に生け捕られる
くらいなら絶対に自害を選ぶ。


光秀はそのことを良く知ってるはず
なので、生け捕りが成功するとは
考えてないと思います。


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